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『les grandes vacances』: Mises en scenes photographiques, 1976-1980 (French Edition)

著者:ベルナール・フォコン
発売:1980年
出版社:Herscher
special issue for the summer vacation 2011
2011夏休み特別企画/特集「大人の学究へ向けて」 
人形と欲望とワタシ 文=永山薫
今年の夏の特別企画はWEBスナイパーの豪華著者陣による、大人の研鑽に必要な名作・傑作のプレゼン祭り! 夏休みのまとまった時間に改めて、あるいはもう一度触れておきたい作品群をジャンル不問で紹介していただきます。第八弾、最後を飾っていただくのは、漫画研究家・永山薫さんによる人形をテーマとした作品たちです。身近な存在である人形、そして私たちの秘められた欲望へと迫ります。
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カーリング・アイロンの熱と蛋白質の焦げる匂い。
人形だった頃のワタシの写真は両親の古いアルバムの中で褪色し続ける。

■蔓延する人形熱

一度、人形というキーワードに拘泥し始めると、いかに現在の日本で人形熱が蔓延しているかがわかってくる。
自分の少年時代、人形は雛人形、五月人形、ガラスケースに入ったフランス人形といった置物系か、デパートのマネキン人形といった展示物、あるいは「リカちゃん」や「バービー」といった女子向けの着せ替え人形や、幼児向けの「ママー人形」であって、そのいずれもが、健全な男子が興味を持つべきものではなかった。

禁忌があれば、欲望が目覚める。
人形を玩具にしたいという秘密の欲望は私の中で抑圧され、潜在化していく。

人形への欲望を秘めながらも勤勉なマニアでなかった私にとっての「不毛時代」に変化が訪れるのは70年代に入ってからだ。
ビスクドールの存在を知り、現代アートの文脈を追ううちにハンス・ベルメールの球体関節人形に出会い、状況劇場の現代女形だと思っていた四谷シモンが人形師であることに気づいた。
女子の領域以外にも人形は存在する。ただ、それはコレクターや美術愛好家の世界であって貧乏学生→貧乏ライターの私には縁がなかった。
とはいえ、その間も「G.I.ジョー」や「バービー」を使ったエロチックなコメディ写真漫画(撮影:平沼正弘など)を『熱烈投稿』(少年出版社)誌に連載し、玩具メーカーから「子供の夢を壊す」と内容証明郵便を貰ったり、ロリコンブームの頃には女性カメラマン彩文洋実による美少女と美少女から型取りして作成された蝋人形(人形師:よねやまりゅう)との不思議な写真集『不思議の国の少女』(英知出版、1984)を取材して、『ヘイ!バディー』(白夜書房)に「おにんぎょう物語」と題する記事を書いたりしていた。ちなみに、その蝋人形を買わないかという話があって、大いに心動かされた記憶がある。
そう、美少女ブーム、ロリコンブームの頃からジワジワと人形熱は男子の領域にも浸透した。

「これは人形ではなくフィギュアです」というエクスキューズとともに橋頭堡を築いた。プラモデラーのフルスクラッチ、それを型取りしたガレージキットが、いつの間にかロリコン誌などでも採り上げられるようになった。そこまではまだ「マニア」の世界であり、「人形」とは一線を画していた。しかし、モデラーの技術不要の塗装済みのフィギュア、食玩、ソフビ、関節可動(なんと球体関節だ)フィギュアと、どんどん男女の境界は曖昧化していく。「スーパードルフィー」はまだ女子領にあるようだが、男子が「スーパードルフィー」に様々なコスチュームやウイッグを買い与えようが、「ブライス」をコレクションしようが、後ろ指を指されることは少ないといっていいだろう。

枠が壊れはじめたら、欲望は欲望を生み、自走を始める。
男女の欲望を分け隔てる壁などは最初から存在しない。
では、人は何故、人形に惹かれるのだろうか? 生命なきヒトガタに対する執着は、恐らく有史以前からのカルマであり傷口なのだろう。
呪術的に言えば、形態が一致すれば、それは等価である。形態の完全一致は必要ではない。そう見なされればいい。丑の刻参りに使われる藁人形、ブードゥーの人形。ただし、そう見なされるためには呪詛する相手の髪の毛か爪を入れておく必要がある。「魂」を持つ人形としての人間と、毛髪または爪を持つ呪詛人形はこれで完全に相似形となる。人間/人形というのはたかだか魂と毛髪が相似する、それだけのものにすぎない。

■永遠の夏休み

ベルナール・フォコン『les grandes vacances』

『les grandes vacances』: Mises en scenes photographiques, 1976-1980 (French Edition)

著者:ベルナール・フォコン
発売:1980年
出版社:Herscher


ベルナール・フォコンの写真集『les grandes vacances』(Hersche、1980)は夏休みの課題図書として最適だろう。とはいうもののフランスと日本で出版された写真集はいずれも絶版で、びっくりするようなプレミア価格がついている。『Chambres d'amour』(William Blake & Co.)に至っては米アマゾンで365ドル52セントだ。円高の今の内に買える人は買った方がいいだろう。
私は『les grandes vacances』と『飛ぶ紙』(Parco出版、1986)の二冊を持っているが、偏愛の余りマンションの漏水騒動と過日の震災で「安全な場所」に退避させたのはいいが、安全すぎて持ち主ですら発見できずにいる。
しかし、ありがたいことにネットで「Bernard Faucon」を画像検索すれば約56,100件がヒットするし、本人の公式サイトには出版された写真集の内容のほとんど(?)が低解像度とはいえ公開されている(例えば『les grandes vacances』などは106点だ!)ので、是非とも参照していただきたい。

フォコンの作品は、古いマネキン人形(主に少年型)たちと生身の少年たちを配置して情景を作る演出写真である。インスタレーションの記録写真と言い換える方が適切かもしれない。作品の中にはマネキンを配さず、生身の少年(たち)だけを被写体とした例もあるが、やはりフォコンといえばマネキンと少年による構成だろう。その時こそマネキン少年たちは6×6の古典的構図の中で、生身の少年たちよりも生々しく艶めかしく映り、少年たちは無機質なマネキンめいた相貌を帯びる。人形が人間に、人間が人形に近接する瞬間。
これはいかなるスーパーリアリズム絵画でも描き出すことができない世界である。
だが、これは逆に言えば「写真にとってポーズを固定されたマネキンと、ポーズを固定された人間の間に差異はあるのか?」という問いかけでもある。
フォコンの作品は、見る人によっては不気味だろう。そこでは生命ある者と生命なき物が分け隔てなく交歓し、見つめ合い、抱き合い、微笑みを交わしている。言い換えれば死者と生者の宴である。根底にネクロフィリーの甘い腐敗臭が封じ込められている。その不吉さを良しとするか、忌避するかによって、フォコンの作品に対する評価は全く変わってくるだろう。

人は成長し、年老い、確実に死ぬ。人形は不老であり不死である。壊れることはあっても死にはしないし、「壊れる」という価値基準自体が人間的な眼差しにほかならない。ハンス・ベルメールの人形は、その頭部と首と上半身と下半身と四肢を球体関節によって繋げば人の形になるが、ベルメールが撮影したのは常にそれぞれの部位を自由に接合した異形のフォルムだ。人間的に言えば手足をもがれ、あるいは胴部の上下に下半身を接合した立体鏡像だったりする。だがその歪み、誇張された身体は切ないまでに美しく、エロチックだ。

ネクロフィリーの漸近線上にありながら人形と死体は決して交わろうとはしない、たとえそこに死臭が漂おうとも。
人形はどんなことをされても人形であって死んだりはしない。
その観点からいえば、フォコンのマネキンたちは、永遠性と永劫回帰願望の表象である。しかもそれがインスタレーションで終わらずに写真作品として「完成」された瞬間。被写体の生身の少年たちは永遠に刻を停められる。
1950年生まれのフォコンのセルフポートレイトは、少年たちを誘惑し、刻を停める、優しい眼をした吸血鬼めいている。
フォコンの公式サイトには、彼自身の幼年期からの写真が掲載されている。50年代の少年の服をまとったフォコンの姿はまるで、彼が後に撮影するマネキン少年の兄弟のようだ。
フォコンの写真集は郷愁と自己愛の延長としての少年愛という欲動が作り上げた架空の少年時代の想い出のアルバムであり、実は極めてプライベートな世界である。私は彼の写真集を眺めるたびに、撮影者=幻視者であるフォコンの眼に憑依して甘い幻想を堪能とすると同時、窃視者としての悦びをも味わっているのである。

■ゴーストとアバター

『イノセンス』

イノセンス [Blu-ray]

監督:押井守
発売:2006年12月
販売元:ウォルト・ディズニー・スタジオ・ホーム・エンターテイメント


『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』 監督=押井守 発売=2002年9月 販売元=東宝ビデオ
フォコンの永遠の夏休みを鑑賞しつつ想起するのは、押井守の終わりなき学園祭前夜『うる星やつら2〜ビューティフル・ドリーマー』(1984)だ。ここではマネキン人形は登場しないものの、友引町の面々は学園祭の前夜を無限ループし、やがて姿を消しては町の基礎を支える巨大な彫像と化してしまう。
こんな作品を撮ってしまった押井は後に士郎政宗の『攻殻機動隊』(1995)をアニメ化する。
同作の英語版タイトルが『Ghost in the sell』であることを知れば、それが『機械の中の幽霊(the ghost in the machine)』を典拠としていることに気づくだろう。そして、その発展形が『イノセンス』(2004)である。ここで作中の「ゴースト」という概念を説明するのは省くが、「魂」と、「ほぼ」同義だと捉えておけばいい。物語は義体(これに脳を容れるとサイボーグになる)工場のラインが暴走し、脳なき(つまりゴーストもなき)アンドロイドが脱走する。それを捕獲したところ補助電脳からゴーストらしきものが発見され……という展開。
ここでの注目点は魂なき義体(=アンドロイド=自動人形)に魂が宿る謎という本筋ではなく、人間と人形の境界問題である。古典的な命題だが、答は簡単に出ない。「義体」は義肢の発展形であり、少なくともそこに「生体脳」の存在が担保されている。では脳=魂なのか(霊肉一元論)、それとも脳=魂の容器(霊肉二元論)なのか? もし前者の立ち場を取るならば、脳の一部を電脳に置換した場合、置換された部位とその量によってどう判断できるのか? 身体機能の大部分は電脳が司ることができる。感覚においてもそれは同じだ。残るのは記憶だけということになる。では、記憶=魂なのか? 逆に記憶を失った脳の一部を義体に移植した場合、それは人間と呼べるのか? 脳細胞の一欠片があればよいのか? 霊肉二元論でも同じく悩ましい問題が残る。魂を持った人形を人間と呼ぶべきなのだろうか? サイバーパンク以降のSF作品は記憶と魂を同一化する傾向がある。他人の脳に自分の記憶を「上書き」したり、データ化された人間の記憶が電脳ネットワークの中で自律的に「生きて」活躍する。二進法で記述されたデータにはコピーとオリジナルの差異はありえない。しかし、リアルと写真が別物であるのと同じように、人の記憶のコピーはあくまでもコピーでしかない。これを無視し、電脳と脳を無邪気に同一化するSFには違和感を覚える。人間の記憶を電脳に移し替えたアンドロイドを仮定し、そこに「魂」らしきものが生まれたとしても、それはオリジナルの「魂」とは別物と考えるべきだろう。

『20世紀SF〈4〉1970年代―接続された女』 著者=ジェイムズ・ジュニア ティプトリー他 発売=2001年5月 出版社=河出書房新社
『アバター ブルーレイ&DVDセット [初回生産限定] 』 監督=ジェームズ・キャメロン 発売=2010年4月 販売元=20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
『サイボーグ009 (1) 』 著者=石ノ森章太郎 発売=1994年7月 出版社=秋田書店
SF的な文脈における「人形=アンドロイド=ロボット」の存在は常に「人間とは何か?」という命題へのアプローチであり、様々なバリエーションを生み出し続ける。
例えば、ティプトリー・ジュニアの短編『接続された女(The Girl Who Was Plugged in)』(『20世紀SF〈4〉』所収、河出文庫、2004)は、美女アンドロイドに接続された女性の物語であり、後に頻出する代理身体物(映画でいえばジェームズ・キャメロン『アバター』)の先駆である。ここでも、それぞれの作品の「本筋」から離れ、変身願望及び超人願望という点に着目したい。『接続された女』のヒロインは醜女であり、『アバター』(2009)の主人公は下半身麻痺だ。それがアンドロイドと接続することによって、全く別の存在として注目され、愛され、活躍する。単純な変身ではなく、遠隔操作による人形への投影という形を取るあたりが興味深い。『アバター』の場合は、アバターに危険を代行させるというあたりに、イラクでニンテンドー・ウォーを実施した多国籍軍と、匿名でヘイトスピーチを繰り返すネット大衆への諷刺が含まれているわけだが、それはむしろ枝葉であって、映画の序盤で描かれる、無邪気なまでの全能感とその暴走にこそ注目すべきだろう。
人形に憑依し、「生身のワタシ」にとっての不可能がやすやすと達成できる。人形は傷つかないし、死なない。壊れれば離脱するだけの話だ。しかし、憑依を解いた瞬間、リアルなワタシによってワタシは復讐される。ワタシは人形ほど美しくもなければ、強くもない。ワタシは老化し、いずれは死んで滅んでしまう。

アバターの次の段階は必然的に義体である。漫画で言えば桑田次郎(原作:平井和正)の『8マン』(講談社、1963)、石ノ森章太郎の『サイボーグ009』(秋田書店、1966)から、相田裕の『GUNSLINGER GIRL』(メディアワークス、2002)に至る魅惑はそこにある。東八郎も島村ジョウも、対テロ・サイボーグである少女たちも、強靱な身体と戦闘力を持つ不死にほど近い存在である。だが、機械の中の脳もいずれは寿命が来る。とすれば、ゴーストを義体に埋め込むしかないではないか。しかし、ゴーストという概念を持ちだした瞬間、SFからは少なくとも一歩か二歩、逸脱する。それはもはや「科学」ではなく思想であり哲学であり宗教でありファンタジーだ。それもまた虚構の醍醐味というのならば、『デッド・ガールズ』を読まざるを得ないだろう。

リチャード・コールダー『デッド・ガールズ』

『デッド・ガールズ』

著者:リチャード・コールダー
翻訳:増田 まもる
発売:1995年8月
出版社:トレヴィル


『アルーア』 著者=リチャード コールダー 翻訳=浅倉久志 発売=1991年12月 出版社=トレヴィル
リチャード・コールダーの三部作『デッド・ガールズ』、『デッド・ボーイズ』(いずれもトレヴィル、前1995、後1997)、『デッド・シング』(邦訳未刊行、St. Martin's Press; First Edition、1997)、さらに『蠱惑〜アルーア〜』(トレヴィル、1991)に含まれる短編は、乱暴に要約してしまえば「人形病の物語」である。残念ながら邦訳書はいずれも絶版だが、アマゾンのマーケットプレイスでは1円プラス送料で買うことができる。また『デッド・ガールズ』のコールダー自身による映画シナリオは先のコミケ二日目に初売りされた同人誌『SFファンジン 2011年8月号 No.55』(BAMU、イスカーチェリ、科学魔界40周年記念号)に収録されている。この脚本は小説版をコンパクトに圧縮したもので、長い物語を読む暇のない人には最適なコールダー入門編と呼べるだろう。
デッド・ガールズとはナノテク汚染によって突然変異体であるドール(リリム)となった少女たちのこと。同作では永遠の少女であり吸血鬼である12歳のプリマヴェーラと愛し合う少年イギーの逃避行が描かれる。登場するファッション、ガジェット、背景は常に耽美的で倒錯的で、ゴシックとパンクとビザールが渾然となった世界は、SFファンのみならず、SM者やフェティシスト、トランスを愛する人々を陶酔させる。翻訳書のカバーアートがラバー・ポルノめいた意匠となっていたり、昨年刊行されたコミック版『Dead Girls: Act 1 - The Last of England』(The House of Murky Depths、2010)の表紙もまた黒のラバードレスとロンググローブを身にまとい、ハイヒールを履いたプリマヴェーラと白のスーツを着込んだイギーの立ち姿が描かれている(とうてい12歳には見えないが)というあたりにその「趣味の傾向」が窺えよう。

『ねじまき少女 上』 著者=パオロ・バチガルピ 翻訳=田中一江 他 発売=2011年5月 出版社=早川書房
『COPPELION(1)』 著者=井上智徳 発売=2008年10月 出版社=講談社
同作を私は主にエロチックな衝動によって耽読したが、同書巻末の巽孝之の解説を読めばフェミニズムやジェンダー論の文脈から、ダナ・ファラウェイ他の『サイボーグ・フェミニズム』(増補版・水声社、2001)、小谷真理の『女性状無意識』(勁草書房、1994)へと接続していく。これは人形のほとんどが、ビスクドールから「スーパードルフィー」に至るまで、女性形であることを考える上でも重要だろう。また性器なき身体の性差とは何かを考える契機にもなる。

人によって作られし存在をなべて「人形」視するならば、井上智徳の『コッペリオン』(講談社、2008)の戦闘美少女たち、『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)の綾波などのクローンの物語も視野に入ってくる。その最も新しいところでは脚本版『デッド・ガールズ』の訳者・増田まもるの指摘するように、パオロ・バチガルビの『ねじまき少女』(早川書房、2011)だろう。さらには魂を宿してしまった手塚治虫のロボット『鉄腕アトム』(1951)から電脳世界にしか存在しない歌姫・『初音ミク』(クリプトン・フューチャー・メディア 2007)について語り、動く死体人形としてのブードゥーのゾンビや中国のキョンシーについても触れないわけにはいかない。そうなると本一冊は軽い分量になってしまうので、そのあたりは読者諸賢への宿題としておこう。

■世界システムの中の人形

他の多くの欲望と同じく人形愛にも二面性がある。まず、人形を眺め、愛撫し、犯し、破壊したいという「所有/支配」のベクトルで語られる「愛」があり、他方に人形に憑依し、人形に成り代わり、人形になりたいという「投影/同一化」のベクトルで語られる「愛」がある。この相異なるベクトルは時として個人の欲望の中で渾然一体となり、愛の対象たる人形を愛すると同時にその人形との同一化を、さらには自身の人形化を企てる。
人形化願望は死の願望と不死願望の両極を備えたナルシシズムの一例と言うこともできるだろう。
また、身動きの取れない、他者にすべてを委ねた人形はマゾヒズムの極致だとも言えよう。
人形となって、値札を付けて陳列されたり、トランクに詰められて船便で送られたり、癇癪持ちの美少女の手で壁に叩き付けられたりという事態を空想してみて欲しい。実際、海外の女装妄想投稿小説サイト『FICTIONMANIA』には「Mannequin or Doll」というカテゴリーが少数派とはいえ成立しているほどだから決して「あり得ない」類の妄想ではない。
しかし、我々自身が、造物主の似姿として作られた人形だということに思い至った時、人形愛が人間に対する愛情のバリエテにすぎないことに気づくだろう。人形に向けられる欲望はすべて人間に向けられる欲望と等質である。
その象徴的な例が、子を人形化する親の欲望であろう。リトル・ミス・ページェントはジョンベネ・ラムゼイ殺人事件で日本でも知られたが、現在でも米国各地で徹底的にデコレーションされた人形たちが訳のわからないまま、媚態を尽くし、芸を披露している。リトル・ミスは特殊なアメリカ人たちによる歪んだ見世物だろうか? いや彼らは無邪気で馬鹿正直なだけだ。子を人形のように飾り立て、オルゴール人形のように愛らしく踊らせたい。こうした親の欲望は日本でも七五三や稚児行列で炸裂する。あるいは渋谷や原宿のジュニアファッションの福袋争奪戦で爆発する。
我々はベビー人形として生まれ、着せ替え人形として成長する。
人間が神の人形だとすれば、これは親の神様ごっこであり、二重の人形化プロセスと言ってもいい。幼年期を脱した我々はようやく、親の人形であることをやめ、人形だったことを忘却する。しかし、我々の「自由意志」なんてものは虚妄にすぎず、社会の中で容認された踊りを踊るだけの存在だ。実は「社会の歯車」などという社会にとって重要なパーツにすらなれない。世界システムというジオラマの中で、かろうじて存在を許されている人形にすぎない。大量虐殺によってでも、英雄的献身によってでも世界システムは揺るぎもしない。そのことを思い知り、自分が人間と呼ばれた人形であることを知るのは、老衰によって身動きも困難になり、介護の手に自分の身体を委ねざるを得なくなった時である。
人間は人形として生まれ、人形であることを忘れ、人形に戻って死ぬ。
だからこそ、人間は人形に執着し、人形を作り、人形で遊び、人形を破壊する。
文=永山薫

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永山薫 1954年大阪生まれ。近畿大学卒。80年代初期からライター、評論家、作家、編集者として活動。エロ系出版とのかかわりは、ビニ本のコピーや自販機雑誌の怪しい記事を書いたのが始まり。主な著書に長編評論『エロマンガスタディーズ』(イーストプレス)、昼間たかしとの共編著『マンガ論争勃発』『マンガ論争勃発2』(マイクロマガジン社)がある。
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