special issue for the summer vacation 2011
2011夏休み特別企画/特集「大人の学究へ向けて」
ライトノベルのどくしょかんそうぶん 文=村上裕一今年の夏の特別企画はWEBスナイパーの豪華著者陣による、大人の研鑽に必要な名作・傑作のプレゼン祭り! 夏休みのまとまった時間に改めて、あるいはもう一度触れておきたい作品群をジャンル不問で紹介していただきます。第一弾は、批評家・村上裕一さんが若き日に鮮烈な印象を受け、深く読み込んだライトノベル四作を挙げてその魅力をたっぷりと紹介。今も氏を魅了してやまないという、思い出の作品たちに愛を込めて――。
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小学生の頃、夏休みと冬休みには読書感想文が課されていて、たかだか二枚の原稿用紙を埋めるために、夏休みの終わりの8月20日前後は毎年四苦八苦していたものだった。文筆業をするようになった今となっては不思議な話だが、当時僕は読書感想文というやつが嫌いだった。というか今でも嫌いである。何を書けばいいのか分からなかったからだ。実際何を書いていたのだろうか。そもそも何を読んだのか全く覚えていないので、結局「読む」ということをしていなかったのだと思う。『新世紀エヴァンゲリオン』の洗礼を受け快調に早くも厨二病に罹患した僕は、リアル中学校に入るととりあえず郷土的な儀礼に則って宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を題材に「心の宇宙」というタイトルで、今から考えるとジェバンニを碇シンジに、銀河鉄道の旅を人類補完計画に見立てた背伸び気味の評論染みた感想文を提出し、校内の懸賞で次席を受賞したのだが、主席が「○○を読んで」という舐めたタイトルの付け方だったという内容以前の問題のためにブチ切れていた。それ以降、大人は惜しいところで教育方針に沿った「健全な」感想を評価するのだという微妙な偏向に気づいた僕は読書感想文というものを多分憎悪し始め、ならば好きなものを読み好きなものを書くだけだと開き直った。そんな僕の前にあったのがライトノベルだった。
大人になって出会った人々の中には小学生でアガサ・クリスティを全巻読破したとか中学生で世界文学全集を網羅したとかとにかく鼻持ちならないインテリぶりを発揮する人がちらほら見受けられたのだが、僕にとってそんな役割を果たしたのは間違いなくいまライトノベルと呼ばれている一群の小説である。そこで今回はそのうち重要だったいくつかの作品との出会いを振り返ってみたい。
もっとも古いのはそれこそ「エヴァ」より更に前に出会った『スレイヤーズ!』の記憶だろう。新城カズマが『ライトノベル「超」入門』(ソフトバンク新書、2006)で評したように、いわゆる現代ライトノベルの起源とも言うべき作品であるにもかかわらず、その外伝は2011年現在なお継続しているというまさに生きる伝説である。洗練された魔法体系や詠唱呪文、独特の世界設定にモンスター観、それに加えて最強かつ暴力的な美少女魔道士リナ=インバースのキャラ立ちぶりがあいまって、小説というジャンルに新しい流れを打ち立てるに至った。大人気シリーズの記念すべき一冊目が『スレイヤーズ!』である。
膨大な人々が読んできただろうこの一冊目は、まったくもって「力の小説」である。お宝に目がないリナ=インバースが盗賊荒らしをしながら諸国漫遊していたある日、偶然「賢者の石」らしきものを手に入れてしまいそれを争う抗争に巻き込まれる。しかし「巻き込まれ」といっても、消極的な主人公が受動的に、という風からはほど遠い。盗賊に対する略奪を繰り返していた彼女にとって、これは必然的に訪れた事件だからだ。ところがこの事件の顛末は、魔王シャブラニグドゥ復活という予期せぬ飛躍に結実する。この飛躍は本作の見どころでもある。というのもそれは作品内に走る複論理の展開だからだ。例えば哲学者のカントはユーモアを「Aに対する期待が高まりきったところでBを与えること」だと定義しているが、本作もそれに準じた構造がある。例えば宝探しがいつしか魔王討伐にすり替わる点。盗賊との敵対関係がいつしか共闘関係になっている点などがそれである。不必要に錯綜した構造ではないが、しかしドラスティックな転換と言ってよいだろうこの複層性が、物語のカタルシスに貢献している。
本作最大のカタルシスは何と言っても「金色の魔王(ロード・オブ・ナイトメア)」の設定だろう。というのも、リナ=インバースの代名詞と言えば黒魔術最強の「竜破斬(ドラグ・スレイブ)」であるが、これは「隻眼の魔王(ルビー・アイ)」シャブラニグドゥの力を使役した魔法ということで、当然、本人そのものの復活という局面においては無効化してしまう。それに加えて伝説の武器や最強の精霊魔術などが無効であると判明し、絶体絶命の危機にリナが取った行動は、もっと強いやつの力を召喚すればいーじゃん、ということであった。それが魔王の中の魔王「金色の魔王」の力を借りた禁呪「重破斬(ギガ・スレイブ)」である。この規模の大きさは圧倒的で、盗賊いびりをしていただけのはずがいつの間にか諸世界の上位に当たる魔王の力の召喚という極限状態に至ってしまったというわけだ。この奇妙に自然な勢いは、まさしくライトノベルの誕生を決定づける圧倒的なエネルギーの発露だった。
まったく恣意的な話だが、僕にとって次なる画期は『フルメタル・パニック!』(フルメタ)である。「ドラゴンマガジン」(ドラマガ)誌上で出会った「南から来た男」、即ちアフガンからやってきた少年傭兵・相良宗介との出会いは端的に衝撃だった。当時中学二年生だった僕はその面白さに突き動かされ、翌日には学年の友達にいかに『フルメタ』がポップかつ意表に富んだ圧倒的に笑える小説であるかをプレゼンし、二カ月後にはこれが人気になりすぎてしまって「俺だけのものにしておけばよかった......」と後悔したものだった。そして、ミスマッチを精緻に鍛え上げた当代最強のコメディと思っていたものがある月のドラマガの告知によってシリアスな本編が存在することを示唆され、その第一巻となる『戦うボーイ・ミーツ・ガール』は書店で存在を確認するまでもなく売り切れた。重版がかかって地元の書店に降りてくる頃には第二巻『疾るワン・ナイト・スタンド』が出版され、こともあろうに最後の一冊を親友と争うことになり、奪い取る羽目になってしまった。かような品薄は単なるハッタリなどではない。この頃には既にドラマガはおろかライトノベル界の次なる覇者として本作は威風を示し始めていた。
一年前の今頃にようやく完結を迎えた本シリーズは僕にとっては少年時代のまま現代に生き続ける思い出のようなもので、その鮮やかさは未だに色あせていない。そのような本作の魅力を局所的に一言で述べねばならぬとすれば、さしあたりシリアスな本編の物語はさておいて、打率十割を疑うほどに洗練された短篇集の魅力を語ることになるだろう。戦争ボケの相良宗介が平和な学園生活に紛れ込むや否や、昨日までの平穏は音もなく、いや轟音とともに消え去り、日常なるものは崩壊する。どういうことか。この愛すべき朴念仁は、自分宛のラブレターを脅迫状と勘違いして爆破するような男である。僕が未だに忘れられないのはあるバスケットボール部員が屋上から飛び降りようとしたエピソードだ。私的な事情から体育祭がイヤで自殺を仄めかす脅迫状を書いた彼女は、自分が犯人であることを突き止められ宣言通りに自殺を試みる。ところがそこに居合わせた宗介の態度はこうだ。
「(略)もしその場から飛び降りたら、俺は最低で四発の特殊弾頭を、君の頭部に叩き込むことができる。そう、君が地面に激突する前にな......」
「え、あ......その? ちょっと、意味が......」
「わからないか? つまり君は、絶対に自殺できない」
「自殺される前に射殺する」というなるほどと思わず膝を叩いて直後に何の解決にもなっていないと気付くも、とにかく何かがスカっとするようなこの的外れのソリューション。これこそがフルメタ短篇集を貫くユーモアの感覚であり、シリアスな長編の物語において命をかけて守られようとしている「日常」なのである。単に笑えるもの、同様に単純にシリアスな作品は巷に無数に存在するが、同一作品世界観において二つのラインを高い水準で成立させ、しかも相互補完的に機能させるこの手並みは、そうそう比較しうるもののない、まさにライトノベルの一つの達成であるだろう。
「え、あ......その? ちょっと、意味が......」
「わからないか? つまり君は、絶対に自殺できない」
フルメタと同時期に生まれライトノベルの新時代を切り開く契機となったのが『ブギーポップは笑わない』である。自動的に立ち上がる「不気味な泡(ブギーポップ)」、それが排除しようとする「世界の敵」、そしてそんな世界の意志と全く無関係に小競り合いをする超能力者や組織、そして人間たち。奇妙に重層的で関係がありそうながら関係なく、それでも同じ世界を共有していることの不思議な冷たさと暖かさが、徹底した群像劇を通じて描き出されている本シリーズは、まさにゼロ年代を代表するライトノベルとして君臨するとともに、後にセカイ系と呼ばれることになるある種の物語潮流の用意に一役買った。フルメタやブギーポップの凄さは単純に売上げによって証明されている部分も多く、出版されるとだいたい流通のランキングで一位を取っていた印象が当時はある。そして、かようなヒットに牽引されて、ゼロ年代中盤にライトノベル・ブームが訪れ、様々なレーベルが勃興し、このタイプの書物が一気に2倍増3倍増した。
それはそうとブギーポップの魅力はザッピングである。スターシステムとかシェアード・ワールドとかと言い換えても意味が通じるかもしれない。この作品はいわゆる主人公が存在せず、ブギーポップは約束事として毎回登場するが、第一巻を見れば明らかなようにその出番は全体の1/3にも満たないような極めて細やかなものだ。もちろん半分くらい出ているときもあろうが、とにかく言いたいのはブギーポップもまた普通に考えられているような主人公ほどの出番と固定的な視点を担っていないということだ。その結果、異なった文脈で知っている人物が現われ、しかもその人が新しい作品においては僕たちがかつて知らなかった驚くべき役割を担っている、などということがままあるのである。とりわけ重要な役割を果たすのはすでに死んでしまった人たちだ。彼らは、何巻もあとに現われて、こんなに重要な人物だったのかという驚きを読者に与えていく。それは単に黒幕的な立場で現われるだけでなく、しばしば含蓄深い教訓や思わせぶりなアフォリズムとともに現われる。『空の境界』や『とある魔術の禁書目録』に先立つ能力バトルものの古典となった本作は、そういう性質と相まってまさに「厨二病」的レッテルを張られることにもなるのだが、しかし、その病気を極めて強力に読者を捉えて離さなかった。
今となってはそうではないが、しかし、ブギーポップの隆盛は僕にとって面白いことばかりではなかった。謎にスノビッシュな、なんか意味ありそげで頭よさげな言説をものすやつが増えたからだ。分かりやすく言えば、ブギーポップは持ちあげるがフルメタは見なかったことにするというような態度である。もしかしたら僕の周りだけだったのかもしれないし、ブギーポップそのものではなくむしろそれに続く潮流において、例えばそれこそ「ファウスト系」の作品においてそれはより顕著になるわけだが、とにかく、僕の私的な感覚でも、明らかにこの辺でどうもおかしな、あるいは奇形的な発達を小説は果たしてきたような印象があった。そして、『涼宮ハルヒの憂鬱』は、そんな時代で覇権を取っただけあって、まさに「単なる」ライトノベルではなく、奇妙に、しかし明らかな批評性が付与された小説として現われた。
2003年にスニーカー大賞という鳴り物入りの登場を果たした『涼宮ハルヒの憂鬱』への当初の僕の印象は「変な奴」だった。というのも有名な惹句、「ただの人間には興味がありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい」がキャッチコピーとなり、そのコピーの印象だけが遊離して伝わってきたからだ。もっと言えば、なんか恥ずかしいこと言っているな、という印象があった。しかし、今となってはこのコピーは完全に正しかったと確信している。『涼宮ハルヒの憂鬱』というのは、少なくともこの記事中においては言えると思うのだが、女性主人公(ないしヒロイン)の圧倒的なパワフルさにおいて『スレイヤーズ!』の先祖返り的なところがあるものの、この二者の比較において際立つのは差異だろう。モチーフがファンタジーから学園SFに変更されたことは単なる意匠の差異ではなく、明らかにライトノベルやキャラクター、そして二次創作についての世界の思考が深まったからである。しかもおそらくハルヒの覇権には、フルメタ的なスラップスティックさや、世界の秘密を巡るブギーポップ的な思考が裏付けされており、その意味でまさにある時期の最終兵器のような作品だったのではないかと、今となっては言えるかもしれない。
実際、『涼宮ハルヒの憂鬱』を読むことは否応なくそれについて考えさせられる。というのも、その世界は神なる涼宮ハルヒの無意識的独断によっていかようにも干渉され、人々は陰に陽にそれに対処せねばならず、実際に主要な人物たちというのはほとんどハルヒの勝手な願いによって生み出されたことがほとんど明白であり、与えられた役割を演じることは自らの存在理由だが、その役割とはある意味において無関係に涼宮ハルヒをメンテナンスしなくてはならないという条件下に置かれる。というのもハルヒが世界に不満を持つと、閉鎖空間と呼ばれるもう一つの世界が生まれ、現実の世界が失われ、そちらの空っぽの世界が「この世界」として再編されてしまうのだ。従ってハルヒに奉仕せねば世界は滅びてしまうのだが、しかし盲目的にハルヒに奉仕している自分とは何なのか。感づいているものもいれば感づいていないものもいる(作中の話である)が、第一巻から8年後に当たる今年2011年に出版された最新刊『涼宮ハルヒの驚愕(後)』を読んでいると、その問題にもそろそろ本格的なスポットが当たりそうである。もちろん小説は批評でも思想でもないから「問題」を取り扱う必要などないのだが、しかしもしハルヒがここに触れるとすれば、それはすでに第一巻から予告されていた正統な問題なのである。
......そんなことを、中学から高校にかけての僕が本当に考えていたのかどうかは全く分からないのだが、もしもそんな読書感想文とかつて中高生だった頃に巡り合っていたのなら面白かっただろうにな、とか、もうちょっと僕の生き方も変わったのかもしれないな、とか、思うのだった。しかし、いま振り返ってみて、むしろこれは幸せな時代だったのではないかとも思わずにはいられない。ライトノベルの継続的な読書は、メジャーにヒットしたたった四作だけを取り上げただけでも明らかに批評的な生成を見せており、単にこの順番で読んでいくだけで、何か一本のレールを追っているような、何かの進化――といっても『スレイヤーズ!』が劣っているとはいささかも思っていない――を描いているような、そんなことを感じさせるからだ。まあしかし、ぶっちゃけそんなことはどうでもよい。ライトノベルはかつて僕の友達で面白いメディアだった。そして、そんな感じで現在もなお前線で戦い続けているのである。そんな現在形の話は、別な機会に譲っておこう。
文=村上裕一
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