special issue for Golden Week in 2012
2012ゴールデンウィーク特別企画/特集:セックス表現の現在形2012
激変するメディアとエロチック・ワンダー1946-2012 文=永山薫かつては秘匿されてきた性の営みがメディアと技術の発展で白日の下に晒されている現在、様々なジャンル・作品においてセックスはどのように表現されていくのでしょうか。これまでの描かれ方も含めて改めて検証していく連休特集企画――。最後を飾っていただくのは漫画研究家・永山薫さんの私的な感慨と体験に引き付けて語られる、アダルトメディア全体を俯瞰した論考です。定点から見る、「激変」の様子とは......。
死(タナトス)の恐怖の裏側には常に生(エロス=性)が張り付いている。
1946年。ビキニ環礁で第二次大戦後初の核実験が行なわれた。
水着のビキニが登場したのはその直後だった。原爆実験の衝撃にインスパイアされたフランスのルイ・レアールの命名だとされているが、ほぼ同時期にジャック・エイムが同様のデザインの水着「アトム」を発表している。アトムは「原子」であり、大元は古代ギリシアの「これ以上分割できない最小の単位」だ。デザイナーの意図とは無関係に、原爆/タナトスをビキニ/エロスが一気に転倒させる痛快さがそこにはある。男根的な国家指導者たちへ放たれたオンナコドモの痛烈な皮肉と誤読したってかまわない。
だが、その後も冷戦は続き、核実験も野放しのままであり、筆者が生まれた1954年には第五福竜丸がビキニ環礁での水爆実験に巻き込まれて被曝し、この事件の影響下にゴジラが誕生した。ビキニ環礁海底に眠るゴジラが水爆実験によって覚醒したという設定である。
1957年。SF作家ネビル・シュートが発表した『渚にて』は第三次大戦の放射能汚染で北半球が全滅し、かろうじて生き残った南半球も徐々に汚染され、被曝による苦しい死を逃れるための自殺用薬物が配布されるという救いもなにもない絶望小説である。1958年には邦訳も出ているが、さすがにリアルタイムでは読んでいない。ただ1959年に公開された映画化作品が後にテレビ放映され、まだ小学生だった筆者に大きなトラウマを刻みつけた。その後、何度も悪夢にうなされた記憶がある。映画のテーマ曲として使われた『ワルチング・マチルダ』は主な舞台となったオーストラリアの第二の国歌と呼ばれる愛唱歌で、シドニーオリンピック2000年には何回も放送で流されたが、筆者はこの旋律を聴くたびになんとも言えない無常感に襲われる。この映画を観なかったとしても50〜60年代には、太平洋のマグロが放射能で汚染されているだの、雨の日は傘をささないと放射能雨を浴びて頭が禿げるなど子供をびびらせるに充分なニュースが日常的に降り注いでいた。第三次大戦が勃発するかもしれない時代に幼年期を過ごすということはそういうことだ。
■60年代、隠蔽と探索
男の子が自分のおちんちんをいじるのはごくありふれた行為である。いじってるうちにそこが快楽の器官であることに気づく。やるせない快楽電流が鼠蹊部を走り、ドライ・オーガズムに達する。小学校低学年の男子が鉄棒の支柱や登り棒にしがみついている景色は春の風物詩であろうか? 我が身を振り返ってみても、筆者の「ヰタ・セクスアリス第1章」もそんなものだった。そこにエロチックなイメージやテキストは介在しない。記憶に残っているのは絶頂寸前に嗅いだ鉄の匂いだ。
性的なイメージと身体的な快楽が接続されるのはもう少し後になる。
とはいえ、半世紀前の話である。情報量が現在とは全く違う。もちろんネットはない。衛星放送もない。DVDもない。60年代にも性的な興奮につながるエロチックな表現物は流通していたが、子供の手が届かない世界である。性に関する社会規範が違う。60年代末期でさえ、中学生男子が「平凡パンチ」を立ち読みしていただけで「いやらしい」と教育的指導の対象になった。通俗的な性科学書の変態性欲の章には「窃視症」「切片淫楽症」「鶏姦」などのおどろおどろしい熟語が並び、フェラチオも変態の一種とされ、オナニーには「自慰」どころか「自涜」という文字を当てる本もあった。性の多様化なんて概念自体がなかったのである。
国語辞書で「セックス」や「月経」を調べたなんてのは酒の席でもよく聞く定番の笑い話だろう。個人的な記憶によれば、親の留守に『家庭医学宝典』(1955年、社会保険法規研究会)を盗み読んだり、母親が持っていた「それいゆ」の中原淳一の美少女イラストを眺めたり、清水昆の河童漫画にドキドキしたり、「暮らしの手帖」から「使えそうなネタ」を拾ったりした。残念ながら両親ともに旧弊で固い人たちだったので、戦後に花開いた風俗雑誌どころか週刊誌すら家にはなかった。ゾーニングどころの話ではない。皆無に等しかったのである。それでも性的な欲動と好奇心は止まらない。子供の手と目の届く範囲で探索し、発見し、強引に連想の連環を作り、脳内にエロスの回路を開いて行く。それは筆者に限ったことではないだろう。性表現と性情報から遮断された環境下でプレ思春期を送った者ならば多かれ少なかれ身に覚えがあるはずだ。
そうした経験を重ねれば、必然的に性とエロティシズムに対する間口は拡大される。多様な性の信号を「理解できる」以上に「性的に受信できる」マルチプルなアダプターが脳内に形成される。それがいいことなのかどうかは別の話としても。
■漫画のエロティシズム
ありとあらゆるところから性の信号を受信していた子供にとって、漫画は信号の宝庫だった。
イメージとテキストをシーケンシャルな枠組みの中で混在させる漫画という表現形式自体、性的な表現にも向いている。絵は作者の体感と直結しており、身体感覚が反映されやすい。もちろん、ことは簡単ではない。しかし、描くこと、表現する行為の中に「仕事」以上の喜びを見出している漫画家は、自分にとって気持ちのいい絵を描く。描かれる対象が作者にとって性的であれば、性的な表現になる。それは人間の身体やそのパーツだけではなく、衣服、靴、機械、鉱物、料理などフェティッシュにも同様のことがいえる。あまり好きな言葉ではないが「こだわり」は常に表出し、そこに籠められた「快楽の信号」は、その信号に対応した受容体を持っている読者にはストレートにエロチックな描写物として了解される。当然ながらそこに誤配も誤読もあるわけだが、「作品」は常に作者/メディア/読者(視聴者・観客)による共犯関係の上に成り立っている。
現在でこそタガが緩んできているとはいえ、半世紀近く前ともなれば幼年誌から少年誌、少女誌に掲載される漫画では性的な表象はタブーだった。必然的に作者の表現したいエロスは抑圧され、隠蔽されてしまう。しかし、エロスの羽根はどこかしらに覗いてしまう。筆者の場合は自著『エロマンガ・スタディーズ』(2006年、イーストプレス)でも触れたように手塚治虫作品(『リボンの騎士』『白いパイロット』『バンパイヤ』)や石森章太郎(後に石ノ森)の初期作品に「萌えて」興奮して、実用したわけだし、同世代の漫画家・中田雅喜は『伊賀の影丸』(横山光輝)の緊縛シーンに初めて性的な興奮を覚えたという。
当時、筆者は少女漫画を全否定していたが、その頑なな拒否は、半世紀前のマッチョな気風によるものだけではなく、少女漫画特有のフリルやレースやリボンが自分にとってあまりにも危険だからだったからである。
漫画以外では中学時代からSFとファンタジーにはまりこんでいた。当時のセックス・シンボルは武部本一郎が描くデジャー・ソリスだったわけだが、武部画伯は少年や男もセクシーに描いていて、バイセクシュアルというよりはマルチな筆者としてはそれも嬉しかったのである。
この性的表象が抑圧された時代は、60年代末期に終わりを告げる。
1968年、永井豪の『ハレンチ学園』が登場し、パンドラの箱が開かれた。このあたりの歴史は拙著なり米澤嘉博の『戦後エロマンガ史』(2010年、青林工藝舎)を参照して欲しいが、永井の凄いところは、少年誌を舞台にセックスそのもの以外のあらゆる危険球を投げ続けたことだ。パンチラ、ヌード、サドマゾヒズム、異性装、アンピュティ等々枚挙にいとまがない。思春期のトラウマを量産し、少年たちの抑圧された欲望を掘り起こし、あっけらかんと承認してしまったのでる。
この漫画におけるエロ解禁の流れは青年誌においても同様だったし、70年代に入ると三流劇画誌(自販機雑誌を含む)の百花斉放の時代へと突入する。少女漫画でも、やはり70年代初期から竹宮惠子、萩尾望都を中心とする「花の24年組」が「性」に踏み込んだ作品を発表し、これが後のやおい・BL、同人誌文化の隆盛へとつながっていく。
75年に三流劇画はピークを迎え、一説では増刊を含め月100誌以上が市場に流れた。同年に第1回コミケットが開催されたことも象徴的だろう。コミケットと当時はファン活動のメッカだったSFファンダムがポスト三流劇画としてロリコン漫画ブームを用意する。かくして80年代初期には男性向けエロジャンルのメインストリームはロリコン漫画へと転換する。これが90年代の「萌え」ブームに直結していく。
この60年代末〜80年代の漫画における「性と文化の革命」は独立して勃発したわけではない。ヴィルヘルム・ライヒの『セクシャル・レヴォルーション』に影響を受けた、欧米圏の性解放の流れ、ヒッピームーブメントが極東の島国にも押し寄せてきたわけだし、日本国内におけるカウンターカルチャー、サブカルチャーを含む全体的な文化領域の動きとも無関係ではないし、60年安保、70年安保、ベトナム反戦運動、三里塚闘争などの反体制ムーヴメントとも関連し、さらには急激な経済成長、都市人口の肥大化なども考えに入れていかなければならない。
ロリコン漫画ブームだけを切り出しても、アニメ・ヒロインの流れも切り離せないし、それ以前から始まる少女ヌード写真集のブーム、昭和のディレッタントたちが仕掛けたアリス・ブームなどの歴史的背景抜きには語れないだろう。
■エロ・カルチャーの渦の中で
大学進学が73年。新刊のエロ雑誌では「SMマガジン」(コバルト社)をたまに買うくらいで、後は古書店で「奇譚クラブ」「風俗奇譚」「裏窓」「あまとりあ」などを漁っていた。それらはすでに過去の遺産になっていたが、そこで紹介されていたジョン・ウィリー、エネグ、アーヴィング・クロウ、ベティ・ペイジといったアメリカ40〜50年代のビザール文化を彩る人士のイラストや写真が後にエロ雑誌で仕事を始めた時にネタになったのだから無駄な投資ではなかった。
77年には大学卒業したものの、就活に失敗。写植専門学校で技術を学んで印刷屋で働くが、心底ウンザリして、当時サブカル野郎の必携雑誌だった松岡正剛編集の「遊」(工作舎)の編集者養成の「遊塾」の入塾審査に応募。合格を期に上京し、神保町の写植屋で働くが、遊塾の仲間から紹介されて自販機雑誌に書き始めた。で、半年もしないうちに写植屋も「遊塾」も辞めてしまう。高杉弾、山崎春美と知り合ったのもこの頃。彼らの「Jam」「ヘヴン」に激しく嫉妬しながらデタラメな自販機雑誌にデタラメな記事を書き、デタラメな漫画を描いていた。
そんなワケで80年以降は、エロ雑誌業界のインサイダーになってしまったワケだが、恐ろしいことにその頃はまだ童貞で、その後、某有名大学の女子大生にナンパされるまでずーっと童貞だった。
80年代のエロ漫画については先述したが、グラフ系エロ雑誌も裏本、ビニ本、自販機雑誌を含め百花繚乱。エロ漫画誌同様に独自性を売りにすると同時に実も蓋もない模倣を行ないながら覇を競っていた。筆者は自販機雑誌とビニ本のポエム書きで飯の種を稼ぎつつ、250円時代の「宝島」で街ネタやインディーズバンドの記事を書いていた。
その中で個人的にも思い出深いのが変態雑誌「Billy」(白夜書房)である。最初はマイナーなインタビュー雑誌だった同誌が、外部の編集プロダクションに委託されてリニューアル。その後、白夜書房の直接編集に戻るという経緯を辿る。筆者が誘われたのはリニューアル前夜だった。
同誌は「明るい変態マガジン」を目指し、リアルな変態さん(切腹マニア、獣姦マニア等々)のインタビュー、変態的なグラビアが売り物で、筆者は連載コラムをペンネームを使い分けつつ同時連載していた。新刊本レビュー、人生相談、ビザールアート、ギャグページ、二色の変態パフォーマンス、死体写真と殺人術の紹介などである。こうした仕事が後に「ホットミルク」の新刊エロ漫画全レビューや、最初の単著『殺人者の科学』へと繋がっていく。
当時のグラフ系エロ雑誌で記憶に残るのは、洋ピン系巨乳雑誌「バチェラー」、ロリコングラフ誌「Hey Buddy!」(白夜書房)だ。この2誌にかかわった故・青山正明は当時まで学生でキャンパスマガジンの編集をやっていたが、話すとメチャクチャ面白いヤツだったので仲良くなり、後には一緒に仕事をしたりもした。青山は大人しいくせにヤルことは大胆というインテリ不良だった。
■アダルトビデオがやってきた
白夜系エロ雑誌のライターをやっていた頃、エロ業界的にエポックメイキングだったのがアダルト・ビデオの出現である。エロビデオは民生用のビデオ機器が登場した60年代後半から存在したようだが、アダルトビデオ第一号は本特集でも安田理央さんが書かれているように1981年の『ビニ本の女/秘奥覗き』と『OLワレメ白書/熟した秘園』の2本だ。
当時のビデオライターの中にはパッケージだけ見て、提灯記事で稼ぐ輩もいたが、ビデオ・サーティズは「観た上で正直にレビューを書く」のがオヤクソク。今ならば「炎上」必至の酷評、罵詈雑言コンテストになってしまった。なにしろ少しでもヌルイ記事を書くと他の3人から「バカじゃないの」「提灯記事書きやがって」と突き上げられるのだが、真剣勝負である。半期に一度のベスト10選出会議で吊し上げられたくなければ、理論武装しておく必要があった。村西とおる監督はデビュー当時、「オカマ声のオッサンがうるさい」とか罵られ、とてつもなく低い点数を付けられ、相当のショックを受けたという。ただ、村西監督が独自のスタイルを確立するにつれ評価は急上昇したことを付け加えておこう。
現・コマガジン社長の中澤慎一編集長のエライところは、ビデオ制作会社からの抗議、資料提供拒否などのトラブルを一切ライターに知らせなかったところだ。それがなければ筆者のような小心者が某AV監督の作品に「田舎へ帰って田圃でも耕していた方がよほどお国のためになる。とっとと田舎へ帰れ」と書けなかったかもしれない。ちなみに暴言を浴びた某監督は「俺は東京出身だから帰る田舎なんかねーよ」と語ったとか。
■グーテンベルグ以来の大革命
90年以降の歴史は、読者の多くが知るところなので、ざっくり書いてしまうが、エロ出版、エロメディアに大きな影響を与え、地図を大幅に塗り替えてしまったのがインターネットの出現と普及である。
それがどんな効果をもたらしたかは改めて書くまでもないことだろうが、セックスとエロスにかかわるビジュアルな情報はほぼ網羅され、良い悪いは別としてネットに接続できるものならば誰でも、無修正ハードコアだろうが、マニアックなスカトロSMの動画だろうがいくらでも観ることができる。出版不況の元凶はひとつやふたつではないが、雑誌メディアが担ってきたものの大きな部分が無料のネットによって代替されてしまったことは事実だろう。
正直な話、筆者も最初は軽く考えていた。エロ雑誌に無料のエロサイト情報を書き、パソコン誌では変なゲームやサイトの情報を書いて楽しんでいた。しかし、「ネットにある情報はネットで検索すればいい」という当たり前の事実にビギナーだったネットユーザーが気づき始めると後がなくなる。その手の仕事はどんどん減っていった。
グチをこぼしているわけではなく、そういう流れがあったし、今も進行中で、エロ系ライターはどんどん苦しくなる。カメラマンも漫画家も大変なことになっている。
ただ、技術革新によって、それまでの仕事が崩壊するなんてのはこれまでいくらでもあったことにすぎないし、そんなことは元写植屋だった自分が痛いほど見聞している。ここでグダグダ書いても何の解決にもならない。
筆者はわりと早くからネットに没入し、仕事以外でも気になるエロチックな、あるいは性的な情報を集めるのが楽しかった。
そこで気づいたのはアブノーマルとされる性向の持ち主たちと、彼や彼女たちに情報や商品を提供する業者たちが、一般的なエロサイトとはかなり遅く、少しずつ瀬踏みをするように表に出てきたことだった。最初は捕食動物を警戒する小動物のように巣穴から顔を覗かせて、交信できる仲間を捜すように。
比較的市民権を得ている同性愛ならばまだしも、異性装、スカトロ趣味、幼児プレイマニア、特殊すぎるフェティシストともなれば、発進した個人が特定されれば社会的生命の危機にさらされかねない。
しかし、同好の士と語らいたい、交際したい、情報を交換したい。そのために匿名性がある程度保証されるネット社会は安全である。
筆者が幼児プレイマニアのサイトの存在に気づいたのは十年以上前の話になる。その頃はまだ数えるほどしか存在しなかったサイトのトップには「You are not alone」という言葉が掲げられていた。「君はひとりぼっちじゃないよ」これには正直、目頭が熱くなった。
マイノリティにとってネットは自己救済のツールなのだ。
現在、幼児プレイマニア(マゾヒスト、幼女女装マニア、失禁マニアを含む)のサイトは膨大な数にのぼっている。
他の性的マイノリティもよほど特殊だったり、犯罪的だったりする「性向」を除けば似たような経緯を辿っている。
マイノリティでさえこうだから「一般的」な「性志向」に対応した性表現と性情報に関してはもはや天文学的なオーダーになるだろう。
これは間違いなくいいことだ。
しかし、膨大な選択肢が用意され、悩むことなく解消されるのはいいとして、逆に個人の欲望の間口は狭くなってしまう畏れもある。
余計な屈折や懊悩を省いて自分の性向に合った対象を見つけられることと、何もないところからマルチな欲望の回路を構築していくことの、どちらが幸せなのか?
簡単に答えが出せる問題ではないが、そのあたりを含め、今後もエロスの世界を見守って行きたいと思う。
文=永山薫
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