新連載 異端のAV監督・ゴールドマンが放つ衝撃の告白小説 毎週日曜日更新!
Autobiographical novel by Goldman [SEX・MOVIE・BLUES]
数々の伝説に彩られた異端のAV監督・ゴールドマンが書き下ろした衝撃の自伝的小説。セックス、ハメ撮り、結婚、逃避、勃起不全……余りにも赤裸々に語られ尽くす、ゴールドマン史における事実、裏話、そして苦悩は、読む者を人生の迷宮に拉致監禁せずにはおかない文学的事件だ。しかし、それを、職業として生きていくと、やがて、鉛のリュックを背負ったまま、ぬかるみの海に沈んでいくような、苦悩を味わうことになる。
7 初体験とエロすぎる女
高校を卒業するまでは、俺は間違いなく、完璧に童貞だった。それだけは、覚えてる。
俺が通っていた学校は、男女共学の平均的な公立高校で、校門のすぐ目の前に火葬場がある、辺りになにもない砂埃の舞うような静かな場所にあった。
高校二年の時から卒業するまでつきあったガールフレンドはいた。
学校の帰り道を、一緒に並んで帰ったりするのが、当時はつきあってるということだった。
今思うと、ものすごく純愛的だ。
彼女は、茶道部に入っていて、誰もいない放課後、俺のほうから茶道室の前で告白した。
背のちっちゃい、チャーミングな女の子だった。今でいうと、aikoに似てるかな?
とにかく、俺は、はじめて女の子とつきあったので、ドキドキしてたし、うれしかった。
デートを重ね、夜の公園でくちづけもした。
キスをするごとに、お互いがもっと好きになったような気がして、べロをからませたりもした。そのうち、お互いの家に遊びに行ったりするようにもなった。
だいたい、この辺でHなことをするようになるのが一般的だし、映画やドラマでも絶対そういう展開になっている。
しかし、彼女は拒んだ。
Hなことは、絶対ダメ!
触れることすら許さない。
なぜ? なぜなんだ? なにかのトラウマか?
それとも貧乳だからか?
その理由は、今となってはわからない。
でも俺は、彼女が大好きだったから、強引にしたり、別れたりはしなかった。
切ない気持ちで、夜な夜な彼女のやらわかい唇の感触を思い出しながらオナニーにふける毎日だった。
男にとって、一番性欲旺盛な時期。
たぶん、きっと、今の俺の中の強烈なエロスの妄想は、この時代に蓄えられたのだろう。
そんなこともあってか、卒業してからは、彼女とは会わなくなった。
自然消滅というやつだ。
俺は、大学受験に失敗して、近所のレンタルレコード店でアルバイトを始めた。
そのバイト先で出会ったガールズ・ロックバンドのヴォーカルをやっていた同じ19歳の娘と、俺は、はじめてセックスというものを経験した。
もちろん、俺は童貞だったが、その彼女は同い年のくせに、経験豊富だった。
東京の私立の女子高に通っていた時に、すでに担任の教師とセックスしまくっていたらしい。おまけに、通学電車で、カラダが早熟だったため、よくチカンに遭ってイタズラされたのを、自慢気にうれしそうによく話してくれていた。
要するに、H好きの娘だったのだ。
とにかく、俺は、その彼女とはセックスをした。セックスをしまくった。セックスに明け暮れた。
溜まっていたウミを吐き出すかのように。
サカリのついた獣のように。
昼となく、夜となく、カラダを求めあった。
生理の日でも、彼女はおかまいなしだった。
檻に閉じ込められていた、俺の性欲が、一気に爆発した。
汗だくで、いやんなるほどヤッた。
愛もあったが、それ以上に俺は、セックスというものに、のめりこんでいった。
気がつくと、朝になっていた夜も少なくなかった。
言うまでもなく、若いペニスは永遠にボッキしつづけるんじゃないかというほどのタフさで、今の俺からは、まるで想像もつかない素晴らしさだ。
そのエロスの女神様のような彼女とは、一年ちょっとで別れた。
まあ、あれだけヤレば飽きるだろう。
さして未練は、生まれなかった。
そして、俺はそれから、無数の女とセックスをすることになる。
次から次へと、エロ雑誌でも買うように。
その中でも、特に印象に残っている女が、一人いる。
俺が22歳の時、長野県のある温泉宿で、住み込みバイトをしてる時に知り合った、26歳の年上の女だ。
年上の女とつきあうのは、はじめてだった。
長い黒髪で、瞳も大きく、どこか南国風の美人。それでいて、かなりの巨乳の持ち主だった。そのくせ声だけは幼くて、男好きのするタイプの典型だった。
俺が先にバイトを辞めて、吉祥寺のアパートに戻った。その後、数カ月経って、彼女がわざわざ訪ねて来てくれた。
当時、俺のアパートには電話もなく、もちろんケータイなんかない時代で、おまけに住所も教えたわけではないのに、なんとなく吉祥寺に行けば、俺に会えるかなと思ってと、彼女はフラリとやって来た。
まるで、映画の主人公かなにかのようだった。そして、駅にむかうまっすぐな道の途中で、俺たちは運命のように出会った。
一瞬にして、俺たちは恋に落ちた。
そして、その日の夜にセックスをした。
そのセックスが、凄かったのだ。
少し照れ屋で恥ずかしがり屋の彼女だったが、あまり経験がないからと口で言うのとは裏腹に、いざ愛撫をはじめると異常なまでの感じ方、それまで聴いたこともないポルノ女優そこのけのあえぎ声、愛液の量もハンパじゃなく、びっくりするほどエロかった。
それは、まさにエロマンガの世界に出てくる現実離れしたエロすぎる女だった。
また、Hなことをしてない時の恥ずかしがり屋の彼女とのギャップが、俺の心をわしづかみにした。
30歳をすぎてからも、時々は彼女のことを思い出して、オナニーをしたことがある。
それだけ深く、魂に刻まれているのだ。
思えば、ハメ撮りをやらざるをえなくなった根源は、彼女のいやらしさにこそあるといえよう。
深く深く、彼女の存在に感謝してしまうのだ。
死ぬまで俺は、感謝しつづけるだろう。
その翌年、結婚することになった相手は、俺がつきあった女の中で、唯一、セックス嫌いの女だった。その不思議なキャラクターに魅かれたのだろう。
24歳の時に長男が誕生して、以来、完全にセックスレスの夫婦だったので、そのおかげで巨大な性的ストレスが溜まり、俺をAVへと向かわせた。
人生とは一面、皮肉なものだ。
その妻とは、11年後に離婚して、やはり今は、やさしくて、エロい女とつきあいたい。
エロすぎなくてもいいから……。
8 ぐんにゃりな夜
新宿駅西口の地上のロータリーの駅とは反対側にあるスバルビルの前で、俺は、この日、撮影するAV女優を待っていた。
2009年12月10日、午前10時。
最近は特に撮影のペースが減ってきて、月に2〜3回程度、ハメ撮りをするのが平均的になってきている。
ニューヨークから戻った2003年頃は、ハメ撮りなんてしたくないという気持ちが強かったにもかかわらず、最低月に10日から15日くらいのオファーがあって、けっこうイヤイヤハメ撮りしていたものだ。
それから、年々、不況もあり、ボッキ力の低下もあり、仕事は減る一方で、精神的にはラクになった気がするが、逆に収入が減ることによる不安は増大した。
別れた妻と暮らしている長男もすでに成人して、養育費を支払わなくてもよくなったのが、唯一の救いだろう。
離婚して一人暮らし、たまに仕事をして収入は少ないが時間はある。自転車に乗って、エロ本屋とギター屋をめぐる日々。時たま、映画を観たり、オナニーするのが趣味。女とつきあったりもするけど、それほど長くつづかない。
まるで結婚する前の、独身の頃に逆戻りしたみたいだ。
ただひとつ違うのは、ビデオカメラを手に、ハメ撮りを20年もつづけてきたことだ。
これが演歌歌手であったならば、20周年記念のリサイタルを開催して、お世話になった皆さんにお礼のひとつも涙ながらに語っていることだろう。そして、ファンの盛大な拍手に包まれながら、感動的に歌い終えるだろう。
しかし、俺は、まったく違う。
ハメ撮りは、いつでも、ひとりぼっちだ。
初めて会うAVに出る女は、もちろん俺の経歴なんて知らないし、まるで興味がない。
とにかく、一発ハメて、事務所に行って、ギャラをもらうことだけが、女の目的だ。
俺は、待ち合わせに来たエリカという女と、タクシーに乗って方南町へ向かった。
予算がないため、俺の自室のマンションで撮影するためだ。
エリカは28歳で、モデル風の美人。
銀座のホステスで、売れっコだったという。数々の男たちから金をひっぱって、それなりにゼイタクを味わってきたらしい。男は利用するものだと思い込んでる人種だ。
俺は、タクシーの中で、この女の話を聞かされてるうちに、イヤ〜な気持ちになってきた。基本的に、俺が最も嫌悪する人種だ。
俺は、この女が、心の底からキライになってしまうと絶対ボッキに悪影響なので、話題を変えることにした。
現在、カレ氏は3人いて、3人とも本命だという。その理由を聞くと、別れてしまった時の淋しさがこわくて、常に切れないように男をストックしておくのだという。
性悪女のくせに、依存的。いろんな男たちにチヤホヤされたいためだけに生きてる女。
ああ〜っ、俺のボッキは絶望的になってきた。そんな女のキャラクターなんて無視してしまえばいいのだが、ボッキ力の低迷がつづく俺は、やけに撮影前はナーバスになってしまう。これは、もう、どうしようもないことなのだ。ボッキしづらい負の連鎖。
俺は、心の中で、このエリカという最も苦手なタイプの女を、好きで好きでどうしようもなくなるように最大の努力をした。
今すぐに、ヤリたくてヤリたくてどうしようもない女なんだと、自分自身に言い聞かせていたのだ。
シャワーを浴びる時に彼女にはわからないように、こっそりバイアグラを飲む。
それも、いつもより多めに。
俺は、シャワーで下半身を念入りに洗いながら、もし俺がこの年までいまだに童貞だったなら、こんな美人とヤレるなんて夢のようだと、もはや架空の話を頭の中でデッチ上げてでも、絶対にボッキしなければと、祈るような気持ちで決意を固めていた。
しかし、結果は無残なもの。
あらゆる努力が打ち砕かれた。
一度萎えた心のペニスは、二度と立ち直ることはできなかったのだ。
撮影がはじまり、軽くインタビューを撮った後に、フェラチオをさせた時には少しボッキしたものの、いざ局部に挿入しようとするとやわらかくなってしまい、またフェラチオさせてボッキしたところを急いで入れようとして、またまた、やわらかくなってしまって、またまたフェラチオさせて……と、そのくり返しでもって時間が過ぎてゆき、最後にはやはり合体したまま射精なんてできるはずもなく、オナニーするよりも激しく自分でペニスをしごきあげ、とにかく搾り出すように精液を性悪女の顔にぶちまけた。
オナニーの百万倍も、しんどい射精だった。
プロのハメ撮りとしては、完全に失敗。
俺は、そのボッキしえない女を、タクシーの拾えるところまで送って、車に乗せて手を振った。
一秒でも早く、俺の前から消えてほしかったからだ。
俺は、しばらくガランとした部屋に横たわって、ボーッと天井を見つめていた。
スタッフがいたりすれば、女の悪口や文句を言って、少しは気持ちがスッキリするのだが、今日はADさえいない。
完全に、ひとりぼっちだ。
おまけに自分の住む部屋で撮影してしまったので、妙な後味の悪さが残る。
もうちょっと俺が、気弱な人間だったなら、荷物をまとめて田舎へ帰る決心をしていたところだろう。
とは言っても、帰るほどの田舎もないのだけれど……。
それから俺は、女が使ったバスタオルと、汗と体液のしみこんだシーツを、コインランドリーで洗った。
やり切れない気持ちを、洗い流すかのように……。
夜になって、コンビニで買ったエロ雑誌をながめていたら、まだバイアグラが残っていたらしく、なんとなくボッキした。
俺は、ちょっとだけ安心した。
心もカラダも、ひどく疲れてしまった。
セックス労働者の気分を、つくづく味わった。バイアグラの量が多すぎたのだろうか?
このぐんにゃりとした不愉快な気分は、翌日の夕方までつづいた。
これで、俺の、ハメ撮りという名の20周年リサイタルは幕をおろした。
(続く)
関連記事
ゴールドマン 87年にアートビデオより「電撃バイブマン」で監督デビュー。その後、実験的な作品をリリースするなどAV業界に対して常に挑戦的な姿勢を持ち続ける。中でも89年に発表された60分ワンカットの8ミリビデオ作品「なま」は伝説級。近年はハメ撮りでの言わせ系淫語で独自の世界を展開。20年間で約1500人の女とハメ撮りし、300本以上のハメ撮り作品を制作してきたAV業界の巨頭。
10.08.22更新 |
WEBスナイパー
>
セックス・ムーヴィー・ブルース
|
|