『少女アリス』撮影=沢渡朔
1973年12月15日発行/河出書房新社
<< 前回の記事を読む
ロリコンにおける青山正明(1)
今回から青山正明の各論に移る。最初は青山正明の80年代の武器である「ロリコン」をテーマに見ていくが、まずはロリコンとは何かの前提知識と、80年代以前の簡単なロリコン史をおさらいしておきたい。その上で青山正明が何をしたのかを知るほうが理解が深まるだろう。
ロリコンとはロリータ・コンプレックス(lolita complex)の略で、少女偏愛趣味をいう。ロリータ・コンプレックスの語源は、ロシアの作家ウラジミール・ナボコフ(Nabokov,Vladimir Vladimirovich。1899年生/1977年没)の小説『ロリータ』(1955年)からである。『ロリータ』は主人公ハンバートが十代の頃に愛した初恋の相手と死別し、その面影を持つ少女ロリータに魅せられ、少女しか愛せなくなり、その誘惑に振り回される物語だ。「ロリータ・コンプレックス」は、この少女に翻弄されながらも偏愛するハンバートの行動を評して名づけられた。つまりロリコンは決して性衝動の対象としての少女ではなく、手に入らないものを追いかけるような幻想の愛であり、児童を性愛の対象と見るのは本来「ペドフィル(pedophile。幼児性愛症候群)」という別の言葉が用意されている。
しかしロリコンに対する世間の一方的な偏見と差別が蔓延した時代を超えて、現在ロリコンはペドフィルとほぼ同義として扱われていると思う。実際、青山正明が活躍した80年代前半のロリコン・ブーム期は、少女を性的対象として扱ったものがほとんどだったし、もはや原義にこだわるのは歴史認識の手助け以上のものではない。よってここでもロリコンをあえてペドフィルと同じ意味で扱う。蛇足だが、「ロリータ」という少女の名前は、喜劇王チャップリン(なぜかロリコンとして有名)の映画『黄金狂時代』(1925年)に出演していた女優リリータ・マクマレイ(Lillita McMurray。この映画でLita Grayに改名)から取られた。
少女を性愛の対象とする場合のロリコンにおいて、それはすなわち女性器の割れ目(スリット)への需要だった。ヘア(陰毛)がまだ規制対象だった時代、逆に割れ目は規制対象外だったのである(今はまったく逆である)。一部のヌード写真家はモデルの陰毛を剃ってギリギリまでの撮影を行なっていたが、もともと生えていないモデルを使った方が楽、ということだろうか。
それをふまえて、日本でのロリコンの起源は少女写真集にあり、1966年11月に出た剣持加津夫の『ニンフェット・12歳の神話』(ノーベル書房。のちにブロンズ社が『エウロペ・12歳の神話』として再発刊)が最初である。正確に記すならば1970年2月に出た『デラックス版・12歳の神話』ではじめて割れ目が世に出た。多絵という少女がモデルの、ほぼ全ページモノクロの写真集。撮影所が梅原龍三郎の別荘、監修は高峰秀子という、芸術作品としての立派なお膳立てもあってか、一躍センセーショナルな存在となった。当時『少年ジャンプ』誌上で人気を博していた永井豪の漫画『ハレンチ学園』にもこの写真集の話題が出てきたはずだ(なお『エウロペ』はパート2も出ている)。
続いて1973年12月に出た沢渡朔の『少女アリス』(河出書房新社)は、2003年に復刊されたこともあり、現在最も有名な少女写真集だろう(1991年にも復刊されている)。ヌード写真も数点あるが、大部分は物語「不思議な国のアリス」をモチーフにした幻想的な写真が占める。モデルのサマンサは撮影時8歳。その6年後(14歳)に、沢渡朔はもう一度彼女をモデルに『海からきた少女』という写真集を発表しているが、少女という時期の魔法には二度は出会えない。
その後少女写真集の出版はしばらく間が空いた。未だ市場と呼べるほど開拓はなされていなかったからだ。女性カメラマンによるものは、のちに『白薔薇園』『プチ・トマト』シリーズで有名になる、清岡純子の『聖少女』シリーズ(フジアート出版/1977年〜)があるが、「女性による写真は柔らかい」と語る彼女の写真は、ボヤかした表現によるものが多く、シリーズの知名度とは裏腹に人気はそれほどでもなかったという。購買層が芸術という建前の裏で欲していたものがうかがえる。
他にも外国人によるもので、映画『思春の森』(原題『Maladolescenza』/1977年)の主演女優エヴァ・イオネスコの母親、イリナ・イオネスコの『妖のエロス(世界のベストヌードシリーズ3)』(芳賀書店/1979年)がある。娘のエヴァをモノクロームで撮ったもので、のちに「保護を必要とする子供をヌードモデルに起用した」として裁判にかけられた(イオネスコが勝った)。この頃の作品を含む写真集には『バロックのエロス』(リブロポート/1988年)や『ELLE-MEME』(1996年/限定120部)がある。
だが70年代後半の、『12歳の神話』『少女アリス』の後に続くロリータ・ブームは、実は水面下で着実に育っていた。たとえば神保町に本店を置く芳賀書店は、現在も続くアダルト書店の老舗として有名だが、1976年頃には海外から輸入した多くのチャイルド・ポルノ雑誌が並び、ペドフィリアの拠点の一つであったという。スケパンや陰毛がどうしたと盛り上がっていた時代に堂々と掲載されいた割れ目写真に想いをはせた……というマニアの証言が残っている。海外雑誌名だけ挙げておくと、『Nudist Moppets』、『Children Love』、『Lollitots』、『Incest』、『Lolita』、『school girls & boys』、『Skoleborn』、『Loving Children』、『Bambina Sex』などがあり、そのほとんどはデンマークとオランダ産だった。特に過激だった児童との性交写真を主体としたグラフ誌『Nymph Lover』は、のちに日本でもそれを模した『にんふらばぁジャパン』(麻布書店/創刊1985年6月)が登場するに至った。
このように日本でロリータへの潜在的需要が着々と育っていた1979年、エポック・メーキングな存在となるロリータ・ムックが登場する。それまでの(外見だけでも)芸術性を高めた高価な少女写真集とは違う、ソフトカバーで1200円前後のムックが登場しはじめたのだ。初のロリータ・ムックは山本隆夫の『リトル・プリテンダー・小さなおすまし屋さんたち』(ミリオン出版/1979年1月)で、Hiromi・Yoko・Yukie・Yumiko・Mayumiの5人の少女(全員11歳)をモデルにしたもの。数万部売れたという。続いて出た石川洋司の『Les Petites Fees/ヨーロッパの小さな妖精たち』(世文社/1979年11月)は、すでにポスター・カレンダーなどで活躍していた当時11歳の少女モデル・ソフィをメインに、3歳から15歳までの外国人少女を起用したムックで、公称60万部の大ヒット作品となった。
これらのヒットによってロリータ・ムックという出版形態がメジャーなものとなり、一大ブームとなっていく。ただしこの時期はあくまで「カメラマンの作品集」という説明が隠れ蓑になっていた。送り手と受け手という区分けが守られていたのである。だがそれは受け手である読者が同時に送り手になれる、雑誌の投稿写真コーナーによって崩れた。その先陣を切ったのが、青山正明のメイン舞台である、白夜書房の雑誌『Hey!Buddy』である。
『ロリータ』著=ウラジーミル・ナボコフ,翻訳=若島正
2006年10月発行/新潮社
関連記事
新宿アンダーグラウンドの残影 〜モダンアートのある60年代〜
【プロローグ】 【1】 【2】 【3】 【4】 【5】 【6】 【7】 【8】 【本文註釈・参考文献】
1973年12月15日発行/河出書房新社
<< 前回の記事を読む
ロリコンにおける青山正明(1)
今回から青山正明の各論に移る。最初は青山正明の80年代の武器である「ロリコン」をテーマに見ていくが、まずはロリコンとは何かの前提知識と、80年代以前の簡単なロリコン史をおさらいしておきたい。その上で青山正明が何をしたのかを知るほうが理解が深まるだろう。
ロリコンとはロリータ・コンプレックス(lolita complex)の略で、少女偏愛趣味をいう。ロリータ・コンプレックスの語源は、ロシアの作家ウラジミール・ナボコフ(Nabokov,Vladimir Vladimirovich。1899年生/1977年没)の小説『ロリータ』(1955年)からである。『ロリータ』は主人公ハンバートが十代の頃に愛した初恋の相手と死別し、その面影を持つ少女ロリータに魅せられ、少女しか愛せなくなり、その誘惑に振り回される物語だ。「ロリータ・コンプレックス」は、この少女に翻弄されながらも偏愛するハンバートの行動を評して名づけられた。つまりロリコンは決して性衝動の対象としての少女ではなく、手に入らないものを追いかけるような幻想の愛であり、児童を性愛の対象と見るのは本来「ペドフィル(pedophile。幼児性愛症候群)」という別の言葉が用意されている。
しかしロリコンに対する世間の一方的な偏見と差別が蔓延した時代を超えて、現在ロリコンはペドフィルとほぼ同義として扱われていると思う。実際、青山正明が活躍した80年代前半のロリコン・ブーム期は、少女を性的対象として扱ったものがほとんどだったし、もはや原義にこだわるのは歴史認識の手助け以上のものではない。よってここでもロリコンをあえてペドフィルと同じ意味で扱う。蛇足だが、「ロリータ」という少女の名前は、喜劇王チャップリン(なぜかロリコンとして有名)の映画『黄金狂時代』(1925年)に出演していた女優リリータ・マクマレイ(Lillita McMurray。この映画でLita Grayに改名)から取られた。
少女を性愛の対象とする場合のロリコンにおいて、それはすなわち女性器の割れ目(スリット)への需要だった。ヘア(陰毛)がまだ規制対象だった時代、逆に割れ目は規制対象外だったのである(今はまったく逆である)。一部のヌード写真家はモデルの陰毛を剃ってギリギリまでの撮影を行なっていたが、もともと生えていないモデルを使った方が楽、ということだろうか。
それをふまえて、日本でのロリコンの起源は少女写真集にあり、1966年11月に出た剣持加津夫の『ニンフェット・12歳の神話』(ノーベル書房。のちにブロンズ社が『エウロペ・12歳の神話』として再発刊)が最初である。正確に記すならば1970年2月に出た『デラックス版・12歳の神話』ではじめて割れ目が世に出た。多絵という少女がモデルの、ほぼ全ページモノクロの写真集。撮影所が梅原龍三郎の別荘、監修は高峰秀子という、芸術作品としての立派なお膳立てもあってか、一躍センセーショナルな存在となった。当時『少年ジャンプ』誌上で人気を博していた永井豪の漫画『ハレンチ学園』にもこの写真集の話題が出てきたはずだ(なお『エウロペ』はパート2も出ている)。
続いて1973年12月に出た沢渡朔の『少女アリス』(河出書房新社)は、2003年に復刊されたこともあり、現在最も有名な少女写真集だろう(1991年にも復刊されている)。ヌード写真も数点あるが、大部分は物語「不思議な国のアリス」をモチーフにした幻想的な写真が占める。モデルのサマンサは撮影時8歳。その6年後(14歳)に、沢渡朔はもう一度彼女をモデルに『海からきた少女』という写真集を発表しているが、少女という時期の魔法には二度は出会えない。
その後少女写真集の出版はしばらく間が空いた。未だ市場と呼べるほど開拓はなされていなかったからだ。女性カメラマンによるものは、のちに『白薔薇園』『プチ・トマト』シリーズで有名になる、清岡純子の『聖少女』シリーズ(フジアート出版/1977年〜)があるが、「女性による写真は柔らかい」と語る彼女の写真は、ボヤかした表現によるものが多く、シリーズの知名度とは裏腹に人気はそれほどでもなかったという。購買層が芸術という建前の裏で欲していたものがうかがえる。
他にも外国人によるもので、映画『思春の森』(原題『Maladolescenza』/1977年)の主演女優エヴァ・イオネスコの母親、イリナ・イオネスコの『妖のエロス(世界のベストヌードシリーズ3)』(芳賀書店/1979年)がある。娘のエヴァをモノクロームで撮ったもので、のちに「保護を必要とする子供をヌードモデルに起用した」として裁判にかけられた(イオネスコが勝った)。この頃の作品を含む写真集には『バロックのエロス』(リブロポート/1988年)や『ELLE-MEME』(1996年/限定120部)がある。
だが70年代後半の、『12歳の神話』『少女アリス』の後に続くロリータ・ブームは、実は水面下で着実に育っていた。たとえば神保町に本店を置く芳賀書店は、現在も続くアダルト書店の老舗として有名だが、1976年頃には海外から輸入した多くのチャイルド・ポルノ雑誌が並び、ペドフィリアの拠点の一つであったという。スケパンや陰毛がどうしたと盛り上がっていた時代に堂々と掲載されいた割れ目写真に想いをはせた……というマニアの証言が残っている。海外雑誌名だけ挙げておくと、『Nudist Moppets』、『Children Love』、『Lollitots』、『Incest』、『Lolita』、『school girls & boys』、『Skoleborn』、『Loving Children』、『Bambina Sex』などがあり、そのほとんどはデンマークとオランダ産だった。特に過激だった児童との性交写真を主体としたグラフ誌『Nymph Lover』は、のちに日本でもそれを模した『にんふらばぁジャパン』(麻布書店/創刊1985年6月)が登場するに至った。
このように日本でロリータへの潜在的需要が着々と育っていた1979年、エポック・メーキングな存在となるロリータ・ムックが登場する。それまでの(外見だけでも)芸術性を高めた高価な少女写真集とは違う、ソフトカバーで1200円前後のムックが登場しはじめたのだ。初のロリータ・ムックは山本隆夫の『リトル・プリテンダー・小さなおすまし屋さんたち』(ミリオン出版/1979年1月)で、Hiromi・Yoko・Yukie・Yumiko・Mayumiの5人の少女(全員11歳)をモデルにしたもの。数万部売れたという。続いて出た石川洋司の『Les Petites Fees/ヨーロッパの小さな妖精たち』(世文社/1979年11月)は、すでにポスター・カレンダーなどで活躍していた当時11歳の少女モデル・ソフィをメインに、3歳から15歳までの外国人少女を起用したムックで、公称60万部の大ヒット作品となった。
これらのヒットによってロリータ・ムックという出版形態がメジャーなものとなり、一大ブームとなっていく。ただしこの時期はあくまで「カメラマンの作品集」という説明が隠れ蓑になっていた。送り手と受け手という区分けが守られていたのである。だがそれは受け手である読者が同時に送り手になれる、雑誌の投稿写真コーナーによって崩れた。その先陣を切ったのが、青山正明のメイン舞台である、白夜書房の雑誌『Hey!Buddy』である。
(続く)
『ロリータ』著=ウラジーミル・ナボコフ,翻訳=若島正
2006年10月発行/新潮社
関連記事
新宿アンダーグラウンドの残影 〜モダンアートのある60年代〜
【プロローグ】 【1】 【2】 【3】 【4】 【5】 【6】 【7】 【8】 【本文註釈・参考文献】
ばるぼら ネットワーカー。周辺文化研究家&古雑誌収集家。著書に『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』『ウェブアニメーション大百科』など。なんともいえないミニコミを制作中。
「www.jarchive.org」 http://www.jarchive.org/ |
08.10.19更新 |
WEBスナイパー
>
天災編集者! 青山正明の世界