『アニメック』17号
1981年4月1日発行/ラポート
<< 前回の記事を読む
ロリコンにおける青山正明(2)
1980年に創刊(7月号)した『Hey!Buddy』は、当初は外国人モデルのヌードグラビアや、ソープランド入門、街ネタ、釣り情報、競馬情報などを詰め込んだ、男性向け総合情報誌だった。そこに『突然変異』のロリコンネタに興味を持った編集部が青山正明らにコンタクトをとり、1981年12月号で初めて起用。青山は「HOW TO LOLITA」と題したロリータ/少女入門ネタを担当した。ただ即座にロリコン誌になったわけではなく、女子高生、ソープ、ピンサロ、海外……などエロのジャンルの中から今回はロリコンを選んだ、というわけで、ロリコンを標榜するのは少し先の1982年6月号からである。この雑誌の方向転換に、青山らの記事の反響が少しは影響したのかもしれない。実写に限らずマンガやアニメの話題も多く、82年からは完全にロリータ総合情報誌として生まれ変わった(編集部の好みのプロレスネタは読者に不評だったが最後まで続いた)。最盛期は8万部。
実は『Hey!Buddy』に先がけて、同じ白夜書房の『写真時代』でも1982年から荒木“アラーキー”経惟の「少女フレンド」という少女をモデルにした写真連載が行われている。この連載はあとで『少女世界』(1984年5月)と『少女物語』(1988年/改訂版・太田出版から1990年10月)の二冊の写真集にまとめられた。モデルに人気少女モデルが登場することも少なくなく、1982年3月号では元祖ロリータビデオ『あゆみ11歳・小さな誘惑』のモデル・あゆみがモデルに。また同年7月号に登場したピコ(武見あゆみ/当時小学生低学年)の人気は凄まじく、82年を代表するロリータモデルであり、彼女がモデルのムック『アデュー』『妖精少女』(共に竜書房)もヒットした。『Hey!Buddy』1982年11月号ではピコの緊縛写真が掲載されている。想像できるだろうか、小学生低学年の少女が縛られた写真が載った雑誌が、普通に書店で売られていたのだ。
さてロリコン史においては後追いである『Hey!Buddy』は何が特徴だったのか。それは、これまでのカメラマンの撮り下ろし作品から、読者投稿作品への形式の移行を促したことにある。読者が投稿してきた少女達の写真、映像のキャプチャ画面、犯罪の匂いすら漂う隠し撮りなどを、そのまま掲載してしまう姿勢が大反響だったようで、毎号掲載される人気コンテンツとなる。3年間で集まった写真は7万2千枚。
1981年4月に創刊したミニコミ『突然変異』では、同時期に起きたロリコンブームで一緒くたに扱われるのを嫌がって、3号でロリコンを扱うのはやめてしまうが、この70年代末から80年代前半にかけてのロリコンは、単に「陰毛がないヌードが見られる」という需要に答えたコンテンツであるだけでなく、サブカルチャーの最新流行の一つであった。その流行の先陣を切ったコミックマーケットの同人誌についておさらいしておこう。1978年12月「コミケット10」にて、日本で一番最初のロリコン同人誌といわれる、蛭児神健による『愛栗鼠』 (アリスマニア集団・キャロルハウス出版部/創刊号のみ) がひそやかに出版された。翌79年の4月にその増刊として『ロリータ』(7月に2号) が出ているが、内容が全て小説であったため大きな話題にはならなかった。むしろ翌1979年4月の「コミケット11」で登場したロリコン漫画同人誌『シベール』(シベール出版部)で描かれた少女の裸身のインパクトこそが、ロリコンブームの全ての始まりだと見るのが妥当だろう。
シベール出版部が漫画家・吾妻ひでおとそのアシスタントの集まりだったことは有名だが(内山亜紀も参加)、吾妻は同時期にのちにSFファン、つまり元祖おたく族から絶大な支持を集める作品「不条理日記」の連載を『劇画アリス』(アリス出版。吾妻の連載は1979年6月発行の17号から)で開始したことから察するに、メジャー誌での活動とは別に、マイナー誌等を舞台にある種実験的な試みを考えていたのではないだろうか。その一つが同人活動だったのだと思う。なにはともあれ氏が描く少女は可愛くてエッチだった。その吾妻がロリコン漫画を出したのだから、売れる。80年5月の「コミケット14」までは、この『シベール』と先の『ロリータ』、そして機動戦士ガンダムのエロパロ同人誌『AMA』(東京アニメニア・アーミー/79年12月創刊、81年12月の4号で終刊)がエロを求める男性ファンの需要に応えていた。
別の動きが出始めたのは80年9月「コミケット15」からである。後述する劇場アニメ『カリオストロの城』のヒロインを題材にした『クラリスマガジン』(クラリスマガジン編集室)や、早坂未紀が参加しているイラスト中心の『FRITHA』(トラブル・メーカー)の登場である。つまりロリコン同人誌の流れに、必ずしもエロを必要としないアニメヒロインのファンジンと、美少女イラスト集という新たなジャンルが加わった。エロより「少女」に注目したという意味ではむしろ正しいロリコン同人誌であると言える。他にも『愛栗鼠』と同じ蛭児神健によるロリコン文芸誌『幼女嗜好』(変質社)が出ている。
コミックマーケットは現在の姿を知っていると勘違いしやすいが、初期は訪れる客の8割が女性で、流行していたのはアニパロなどの“やおい”漫画である。ロリコン漫画はそうした女性向けエロが蔓延する場所へ向けた男性側からの反対勢力だったというのが後の米沢嘉博代表による弁だ。また当時の男性向けエロ漫画というのはリアルタッチの劇画がほとんどで、そこに対する「丸っこい記号的な漫画の絵でもセックスは描けるのだ」という発見・対抗でもあったという。ロリコンはマンガの世界ではカウンターカルチャーだったのだ。
とは言ってもまだまだこの時点では各々のサークルは独立したもので、一大ムーブメントとなったのはアニメ雑誌でロリコンの紹介・特集がされてからである。最初にロリコンを誌面で紹介したのは『out』80年12月号、米沢嘉博による「病気の人のためのマンガ考古学 第一回 ロリータ・コンプレックス」。ここで紹介されているのは江口寿史「すすめ!パイレーツ!!」・鴨川つばめ「マカロニほうれん荘」・金井たつおの「いずみちゃんグラフィティ」・柳沢きみお「翔んだカップル」といった商業マンガだが、その中で吾妻ひでおや三流劇画誌で活躍していた中島史雄・村祖俊一・内山亜紀(野口正之)の名前も並んでいる点に注目したい。そして「マンガ同人誌『シベール』はコミケットなぞで見かけたら買っておくこと」という一文。この直後の80年12月「コミケット16」では『人形姫』(サーカス・マッド・カプセル)が登場。『シベール』にあった美少女+ロボットアニメのパロディという方向性の亜流とも言える人形愛を前面に出したものであった。
本格的ブームの先駆けとなったのが『アニメック』17号(1981年3月発売)での25ページにも渡る大特集「“ろ”は、ロリータの“ろ”」だ。『カリオストロの城』のヒロイン・クラリスについて、名作アニメの少女評、安座上学によるSFとロリコンを関連づけた評論、ルイス・キャロル研究家高橋康也インタビュー、吾妻ひでお・村祖俊一・中島史雄らへのインタビュー、そして『シベール』など美少女同人誌の紹介だ。ほとんどオールスターである。この特集がもたらした影響を記しておく。
・ロリータ要素のない単なる少女キャラクターもロリコンとして扱われることとなる(「アニメファン=ロリコン」のイメージが潜伏)
・SFファンの潜在的ロリコンを表面化(“メカと美少女”の誕生・正統化)
・村祖俊一・中島史雄などエロ劇画誌で活躍していた人物の紹介で、同人誌の「青年から成年」への進行(それまでの同人誌・ファンジンは男性向けのエロ要素は皆無だった)
・『シベール』『クラマガ』紹介による同人誌への注目度の上昇(女子ばかりだったコミケットに男性の足を運ばせた)
クラリスについて確認しておくと、物語中の役割は伯爵に幽閉され薬を使って無理やり結婚させられそうになった“清楚で可憐で純粋な”悲劇のヒロインである。1979年暮れに公開された監督・宮崎駿の映画『ルパン三世・カリオストロの城』 (1979年12月15日・東宝洋画系公開) はアニメファンにはその完成度から好意的に迎えられたが、興行的には前作を下回る結果となった。一般的に名作として扱われ始めたのは約1年後の、1980年12月17日に日本テレビ「水曜ロードショー」でテレビ放映がなされてからだ。このロリコン特集の『アニメック』の表紙が『カリオストロの城』なのは1年遅れのカリオストロ・ブームを受けてであり、表紙に使われたシーンが「妬かない、妬かない。ロリコン伯爵。や〜けどすっぞ〜!」というルパンの台詞の直後であることは非常に象徴的であり示唆的であろう。
ロリコンに急激に注目が集まる中、直後におこなわれた81年4月「コミケット17」で新しいロリコン同人誌がいくつか登場した。『ロータリー』(ロータリー/創刊は80年7月だがコミケ進出は初)、『プレザンス』(ハンバート)、『ヴィーナス』(ムーン・ラーン製作室/4月準備号、5月創刊号)などだ。しかし何より重要なのは『シベール』の終刊である。中心にいたシベールがなくなることで引き起こされた、まだ見ぬ「第二のシベール」を求める動き。そしてロリコンネタへの需要・供給の拡散だった。81年夏以降、おたく方面からもロリコンへの注目が高まっていく。だから『Hey!Buddy』で村祖俊一らがマンガを描き、内山亜紀へのインタビューが載っていたのは、ロリコン総合誌としては必然であった。
『ヘイ!バディー』1981年12月号
白夜書房
『ヘイ!バディー』1982年3月号
白夜書房
『ヘイ!バディー』1982年6月号
白夜書房
『ヘイ!バディー』1982年12月号P85
フレッシュ・ペーパー 肉新聞
関連記事
新宿アンダーグラウンドの残影 〜モダンアートのある60年代〜
【プロローグ】 【1】 【2】 【3】 【4】 【5】 【6】 【7】 【8】 【本文註釈・参考文献】
1981年4月1日発行/ラポート
<< 前回の記事を読む
ロリコンにおける青山正明(2)
1980年に創刊(7月号)した『Hey!Buddy』は、当初は外国人モデルのヌードグラビアや、ソープランド入門、街ネタ、釣り情報、競馬情報などを詰め込んだ、男性向け総合情報誌だった。そこに『突然変異』のロリコンネタに興味を持った編集部が青山正明らにコンタクトをとり、1981年12月号で初めて起用。青山は「HOW TO LOLITA」と題したロリータ/少女入門ネタを担当した。ただ即座にロリコン誌になったわけではなく、女子高生、ソープ、ピンサロ、海外……などエロのジャンルの中から今回はロリコンを選んだ、というわけで、ロリコンを標榜するのは少し先の1982年6月号からである。この雑誌の方向転換に、青山らの記事の反響が少しは影響したのかもしれない。実写に限らずマンガやアニメの話題も多く、82年からは完全にロリータ総合情報誌として生まれ変わった(編集部の好みのプロレスネタは読者に不評だったが最後まで続いた)。最盛期は8万部。
実は『Hey!Buddy』に先がけて、同じ白夜書房の『写真時代』でも1982年から荒木“アラーキー”経惟の「少女フレンド」という少女をモデルにした写真連載が行われている。この連載はあとで『少女世界』(1984年5月)と『少女物語』(1988年/改訂版・太田出版から1990年10月)の二冊の写真集にまとめられた。モデルに人気少女モデルが登場することも少なくなく、1982年3月号では元祖ロリータビデオ『あゆみ11歳・小さな誘惑』のモデル・あゆみがモデルに。また同年7月号に登場したピコ(武見あゆみ/当時小学生低学年)の人気は凄まじく、82年を代表するロリータモデルであり、彼女がモデルのムック『アデュー』『妖精少女』(共に竜書房)もヒットした。『Hey!Buddy』1982年11月号ではピコの緊縛写真が掲載されている。想像できるだろうか、小学生低学年の少女が縛られた写真が載った雑誌が、普通に書店で売られていたのだ。
さてロリコン史においては後追いである『Hey!Buddy』は何が特徴だったのか。それは、これまでのカメラマンの撮り下ろし作品から、読者投稿作品への形式の移行を促したことにある。読者が投稿してきた少女達の写真、映像のキャプチャ画面、犯罪の匂いすら漂う隠し撮りなどを、そのまま掲載してしまう姿勢が大反響だったようで、毎号掲載される人気コンテンツとなる。3年間で集まった写真は7万2千枚。
1981年4月に創刊したミニコミ『突然変異』では、同時期に起きたロリコンブームで一緒くたに扱われるのを嫌がって、3号でロリコンを扱うのはやめてしまうが、この70年代末から80年代前半にかけてのロリコンは、単に「陰毛がないヌードが見られる」という需要に答えたコンテンツであるだけでなく、サブカルチャーの最新流行の一つであった。その流行の先陣を切ったコミックマーケットの同人誌についておさらいしておこう。1978年12月「コミケット10」にて、日本で一番最初のロリコン同人誌といわれる、蛭児神健による『愛栗鼠』 (アリスマニア集団・キャロルハウス出版部/創刊号のみ) がひそやかに出版された。翌79年の4月にその増刊として『ロリータ』(7月に2号) が出ているが、内容が全て小説であったため大きな話題にはならなかった。むしろ翌1979年4月の「コミケット11」で登場したロリコン漫画同人誌『シベール』(シベール出版部)で描かれた少女の裸身のインパクトこそが、ロリコンブームの全ての始まりだと見るのが妥当だろう。
シベール出版部が漫画家・吾妻ひでおとそのアシスタントの集まりだったことは有名だが(内山亜紀も参加)、吾妻は同時期にのちにSFファン、つまり元祖おたく族から絶大な支持を集める作品「不条理日記」の連載を『劇画アリス』(アリス出版。吾妻の連載は1979年6月発行の17号から)で開始したことから察するに、メジャー誌での活動とは別に、マイナー誌等を舞台にある種実験的な試みを考えていたのではないだろうか。その一つが同人活動だったのだと思う。なにはともあれ氏が描く少女は可愛くてエッチだった。その吾妻がロリコン漫画を出したのだから、売れる。80年5月の「コミケット14」までは、この『シベール』と先の『ロリータ』、そして機動戦士ガンダムのエロパロ同人誌『AMA』(東京アニメニア・アーミー/79年12月創刊、81年12月の4号で終刊)がエロを求める男性ファンの需要に応えていた。
別の動きが出始めたのは80年9月「コミケット15」からである。後述する劇場アニメ『カリオストロの城』のヒロインを題材にした『クラリスマガジン』(クラリスマガジン編集室)や、早坂未紀が参加しているイラスト中心の『FRITHA』(トラブル・メーカー)の登場である。つまりロリコン同人誌の流れに、必ずしもエロを必要としないアニメヒロインのファンジンと、美少女イラスト集という新たなジャンルが加わった。エロより「少女」に注目したという意味ではむしろ正しいロリコン同人誌であると言える。他にも『愛栗鼠』と同じ蛭児神健によるロリコン文芸誌『幼女嗜好』(変質社)が出ている。
コミックマーケットは現在の姿を知っていると勘違いしやすいが、初期は訪れる客の8割が女性で、流行していたのはアニパロなどの“やおい”漫画である。ロリコン漫画はそうした女性向けエロが蔓延する場所へ向けた男性側からの反対勢力だったというのが後の米沢嘉博代表による弁だ。また当時の男性向けエロ漫画というのはリアルタッチの劇画がほとんどで、そこに対する「丸っこい記号的な漫画の絵でもセックスは描けるのだ」という発見・対抗でもあったという。ロリコンはマンガの世界ではカウンターカルチャーだったのだ。
とは言ってもまだまだこの時点では各々のサークルは独立したもので、一大ムーブメントとなったのはアニメ雑誌でロリコンの紹介・特集がされてからである。最初にロリコンを誌面で紹介したのは『out』80年12月号、米沢嘉博による「病気の人のためのマンガ考古学 第一回 ロリータ・コンプレックス」。ここで紹介されているのは江口寿史「すすめ!パイレーツ!!」・鴨川つばめ「マカロニほうれん荘」・金井たつおの「いずみちゃんグラフィティ」・柳沢きみお「翔んだカップル」といった商業マンガだが、その中で吾妻ひでおや三流劇画誌で活躍していた中島史雄・村祖俊一・内山亜紀(野口正之)の名前も並んでいる点に注目したい。そして「マンガ同人誌『シベール』はコミケットなぞで見かけたら買っておくこと」という一文。この直後の80年12月「コミケット16」では『人形姫』(サーカス・マッド・カプセル)が登場。『シベール』にあった美少女+ロボットアニメのパロディという方向性の亜流とも言える人形愛を前面に出したものであった。
本格的ブームの先駆けとなったのが『アニメック』17号(1981年3月発売)での25ページにも渡る大特集「“ろ”は、ロリータの“ろ”」だ。『カリオストロの城』のヒロイン・クラリスについて、名作アニメの少女評、安座上学によるSFとロリコンを関連づけた評論、ルイス・キャロル研究家高橋康也インタビュー、吾妻ひでお・村祖俊一・中島史雄らへのインタビュー、そして『シベール』など美少女同人誌の紹介だ。ほとんどオールスターである。この特集がもたらした影響を記しておく。
・ロリータ要素のない単なる少女キャラクターもロリコンとして扱われることとなる(「アニメファン=ロリコン」のイメージが潜伏)
・SFファンの潜在的ロリコンを表面化(“メカと美少女”の誕生・正統化)
・村祖俊一・中島史雄などエロ劇画誌で活躍していた人物の紹介で、同人誌の「青年から成年」への進行(それまでの同人誌・ファンジンは男性向けのエロ要素は皆無だった)
・『シベール』『クラマガ』紹介による同人誌への注目度の上昇(女子ばかりだったコミケットに男性の足を運ばせた)
クラリスについて確認しておくと、物語中の役割は伯爵に幽閉され薬を使って無理やり結婚させられそうになった“清楚で可憐で純粋な”悲劇のヒロインである。1979年暮れに公開された監督・宮崎駿の映画『ルパン三世・カリオストロの城』 (1979年12月15日・東宝洋画系公開) はアニメファンにはその完成度から好意的に迎えられたが、興行的には前作を下回る結果となった。一般的に名作として扱われ始めたのは約1年後の、1980年12月17日に日本テレビ「水曜ロードショー」でテレビ放映がなされてからだ。このロリコン特集の『アニメック』の表紙が『カリオストロの城』なのは1年遅れのカリオストロ・ブームを受けてであり、表紙に使われたシーンが「妬かない、妬かない。ロリコン伯爵。や〜けどすっぞ〜!」というルパンの台詞の直後であることは非常に象徴的であり示唆的であろう。
ロリコンに急激に注目が集まる中、直後におこなわれた81年4月「コミケット17」で新しいロリコン同人誌がいくつか登場した。『ロータリー』(ロータリー/創刊は80年7月だがコミケ進出は初)、『プレザンス』(ハンバート)、『ヴィーナス』(ムーン・ラーン製作室/4月準備号、5月創刊号)などだ。しかし何より重要なのは『シベール』の終刊である。中心にいたシベールがなくなることで引き起こされた、まだ見ぬ「第二のシベール」を求める動き。そしてロリコンネタへの需要・供給の拡散だった。81年夏以降、おたく方面からもロリコンへの注目が高まっていく。だから『Hey!Buddy』で村祖俊一らがマンガを描き、内山亜紀へのインタビューが載っていたのは、ロリコン総合誌としては必然であった。
(続く)
『ヘイ!バディー』1981年12月号
白夜書房
『ヘイ!バディー』1982年3月号
白夜書房
『ヘイ!バディー』1982年6月号
白夜書房
『ヘイ!バディー』1982年12月号P85
フレッシュ・ペーパー 肉新聞
関連記事
新宿アンダーグラウンドの残影 〜モダンアートのある60年代〜
【プロローグ】 【1】 【2】 【3】 【4】 【5】 【6】 【7】 【8】 【本文註釈・参考文献】
ばるぼら ネットワーカー。周辺文化研究家&古雑誌収集家。著書に『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』『ウェブアニメーション大百科』など。なんともいえないミニコミを制作中。
「www.jarchive.org」 http://www.jarchive.org/ |
08.10.26更新 |
WEBスナイパー
>
天災編集者! 青山正明の世界