THE ABLIFE April 2011
「あぶらいふ」厳選連載! アブノーマルな性を生きるすべての人へ
縄を通して人を知り、快楽を与えることで喜びを得る緊縛人生。その遊行と思索の記録がゆるやかに伝える、人の性の奥深さと持つべき畏怖。男と女の様々な相を見続けてきた証人が、最期に語ろうとする「猥褻」の妙とは――
考えてみると、ふしぎだ。
私の場合、SM・緊縛という現象に心をひかれたのは、
印刷物などによる具体的な画や写真よりも、
そして映像などよりも、
「縛」という、たった一つの活字からなのである。
私の場合、SM・緊縛という現象に心をひかれたのは、
印刷物などによる具体的な画や写真よりも、
そして映像などよりも、
「縛」という、たった一つの活字からなのである。
女性の肉体などを思い浮かべたりせず、たとえば、新聞活字の「縛」という一字を見ただけで、ペニスが硬直してしまうのは、どういうことなのか。
縛るとか、縛られるとかいう、あまりにも非日常的な行為を幼いこの時の私には、具体的なイメージとして思い浮かべることはできない。
その種のイメージといえば、六、七歳のころから親しんでいた少年雑誌の小説の挿絵の中に、ときおり出てくるシーンだけであった。
もちろんそれは「責め画」などという大それたものではない。
子供向きの読み物の中に添えられている、さりげない、単純な挿絵にすぎない。
それらの少年少女向き出版物のほとんどは大日本雄弁会講談社発行のものであったが、ときどき『譚海(たんかい)』という小型の雑誌もまじっていた。
この『譚海』には、冒険活劇小説が多く載っており、縛られた少年少女の挿絵が比較的多かった。
7、8歳のころ、私は夜店の古本屋で、この『譚海』を何冊か買った記憶がある。
もちろん「縛り」のある画をもとめて買ったわけではなく、雑誌全体にただよう、どこか下品で破天荒な雰囲気にひかれたのである。
三上という顔じゅうニキビだらけの上級生が、私の耳もとに口を寄せ、暗い声でささやく。
「ぼく、どうしても自涜がやめられない。便所へ入って、あのにおいをかぐと、がまんできなくなる。ズボンを下ろして、便器の上にかがんでしまうんだ。そして、いけない、いけない、と思いながら、悪い癖に溺れていってしまう。さっきもやってしまったんだよ、どうしたらいいんだろう」
どうしたらいいんだろう、と言われても、13歳になったぱかりの私には、なんと返事をしたらいいものか、わからない。
三上はまじめに悩んでいて、そんな恥ずかしい秘密の性癖を、他にうちあける人間もいないために、下級生である私を相手にしているように思えた。
あるとき、休み時間の校庭の片隅にいつものようにすわって、私も彼に、こんなことを言った。
「あのね、三上さん、ぼくはね、こういう字を見ると、なんだか変に感じてしまって、股の間が固くなるんだけど、どうしてだろうか?」
私は腰を下ろしている地面に、棒切れの端で「縛」という字を書いた。
「字だけ? 字だけで興奮するの?」
彼はふしぎそうな顔で、私を見た。
私はうなずいた。
そのことは当時の私の悩み、いや悩みというよりも、疑問であった。
私はまだ性的に成熟していなかった。
だから、悩むというほどではなかったのだ。
三上は私の質問に、わずかに首をひねり、黙っていた。
わからない、という表情で眉をひそめ、何かを考えているふうだった。
そのときも、その後も、三上の口から、私の疑問に対する返答はなかった。
「縛」という一字を見ると、なぜペニスが硬直するか、その後、私は一度も人にきいたことがない。
自分には、他人とはすこしちがう、なにか変わった感覚があり、それゆえに、うっかり人にきくと、恥ずかしいことになる、とすこしずつわかってきたからである。
この感覚を他人に知られると、軽蔑されたり、嫌悪されたり、異端視されたりすることがある、という本能が働くようになったからである。
そのときから60余年間、「縛」の字に対する私の反応は、大体、同じである。
「縛」の字だけを目の前にしても、いまはもうさすがに勃起はしないが、ドキンとする。
一瞬だけだが、平常心を失う。いまでもそうである。「縛」の字に動揺するこの反応は新鮮である。
反応しなくなったら、私の死ぬときであろう。私にとっては「神」と同じ一字である。
ただし、SM・緊縛を商品化した印刷物などで、「縛」の字をどんなに並べられたところで、何も感じない。
SM・緊縛を商品として扱う業者たちは、「縛」という字を、あまりにも無感動に、意味もなく、粗末に陳列している。
なんの祈りもなく、思い込みもなく「縛」という字を使っている。
私のたいせつな一つの文字を、恥知らずに、乱雑に、無残にさらけだしている。
SM商品郡の中に氾濫しているうす汚れた「縛」という字に対して、いまの私は嫌悪感さえ抱いている。「神」は冒涜されている。
きわめて惰性的に、習慣的に使っているSM業者たちの「縛」の字に対し、悲しいことに、私のようなマニアは、彼らが期待する反応はもはやかけらほどもないし、関心も失せている。
ただ、ただ、むなしいだけである。
長いあいだ心の奥底に、たいせつに秘めてきた聖地が、泥の靴で踏みにじられているように思うだけである。
考えてみると、ふしぎだ。
私の場合、SM・緊縛という現象に心をひかれたのは、印刷物などによる具体的な画や写真よりも、そして映像などよりも、「縛」という、たった一つの活字からなのである。
「縛」という一字からSMの世界は無限にひろがり、妖しく豊かに、ロマンティックに華やかに、生きる力さえ与えられて、私は今日に至っているのだ。
そして、お知らせしよう。
いま私はふたたび「縛」の一字を胸に抱きしめて、新しい感動を得ようしている。
私同様「縛」の字に心ひかれる仲間たちと、私たちだけの緊縛写真集をつくろうと思い立ったのだ。新しく写真を撮り、それを一冊にまとめようと、すでに着手している。
「雀百まで踊り忘れず」
といおうか、それとも、
「川立ちは川で果てる」
といおうか。雀と言われようが、川立ちと呼ばれようが、私は死ぬまで私である。
(続く)
『濡木痴夢男の秘蔵緊縛コレクション1「悲願」(不二企画)』
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