The ABLIFE june 2012
「あぶらいふ」厳選連載! アブノーマルな性を生きるすべての人へ
縄を通して人を知り、快楽を与えることで喜びを得る緊縛人生。その遊行と思索の記録がゆるやかに伝える、人の性の奥深さと持つべき畏怖。男と女の様々な相を見続けてきた証人が、最期に語ろうとする「猥褻」の妙とは――
SMの方向がしだいに露骨になり、
エスカレートしていく時代になってからは、
さらに女性性器の内部の不気味さ、
醜怪さを実感するようになる。
実感しなければ生活費がかせげないから仕方がない。
エスカレートしていく時代になってからは、
さらに女性性器の内部の不気味さ、
醜怪さを実感するようになる。
実感しなければ生活費がかせげないから仕方がない。
じつはきのうも或る集まりがあって、一日じゅう語り合い、笑い合い、演じ合ってきました。演じ合って、というところでおわかりでしょうが、そこは私がもう十なん年間も所属している芸能好きの人間ばかりが集まる会です。わかりやすくいってしまえば、まあ、劇団みたいな集まりです。
そこで、なにかの拍子で、私が、
「おれってさ、みんなはどう思ってるか知らないけど、本当は女嫌いなんだよ」
と言うと、みんながみんな、あきれた顔になり、
「ええッ! うッそォォォ!」
異口同音、声をそろえて言うのです。その会は女性が多いのです。
どうやら私は、女好きで通っているらしい。考えてみればその会に限らず、どこへ行っても私は「女好き」と思われている。
「女好きだから女を縛ってばかりいるのだな」
というような顔で私を見る人もいる。
「女好き」とは、いわゆる「好色人間」のことであろう。私としては、かなり意識的にそのようにふるまってきたから、そう思われることは決してイヤではない。むしろ本望といっていい。
だが、前回に書いたように、私は女性の性器そのものには、嫌悪感を持っている男性です。いまになって嫌いになったわけではなく、若いころからあまり好きではなかった(私が買春行為というものをほとんどしたことがなく、興味を抱かなかったのも、こういう性癖からきているせいだと思う)。
いや、好きとか嫌いとかいう前に、若いときには、どんなに性欲が旺盛でも、女性の性器について具体的なイメージとか、綿密な科学的な知識を持っていなかった(産婦人科や性病科の医学生ではないのだから、若いときから女性器の構造や、こまかい知識があるはずもないのだが)。
そのころはエロ雑誌などによく掲載されていた線描による性器断面図から得る知識がせいぜいである。
SM雑誌の編集にたずさわり、撮影の現場に立ち会うことが仕事となると、これはもう知識も具体性もへったくれもない、なまなましく動き呼吸する実物そのものとの対決となる。
SMの方向がしだいに露骨になり、エスカレートしていく時代になってからは、さらに女性性器の内部の不気味さ、醜怪さを実感するようになる。実感しなければ生活費がかせげないから仕方がない。
とくに赤い色のぬめぬめした肉の壁面から白濁した粘着物(透明なものももちろんあったが)が湧き出してくる動物的な生理そのもののぐちゃぐちゃ、ぶよぶよした不潔な臭気と感触には参った。
まあ、世の「健全」で、「正常」な男性たちは、そういう眺めをのぞきこんで興奮し、欲情するのだろうが、私は逆なのである。
多くの男性が欣喜雀躍し、興奮していきり立ち、欲情の極点に達するであろう、そういう性器内部のぐちゃぐちゃぬれぬれ状態の女性に対して、私はじつは不潔感を抱き、嫌悪して心を閉ざしてしまうのだ。
私が自分のことを、おそろしいイヤな男だなあ、このウソつき野郎め、と思うのは、こんなとき、撮影現場の私は、ひときわうれしそうな声を上げて、
「わあ、ぬれてるぬれてる、いいなあ、エロティックだなあ、凄いなあ、たまらないなあ!」
わめいて、スタッフ一同のムードを盛り上げることである(そうなのだ、私は生来の演技者なのですよ)。
こんな私が、自分の大切な性器を、そのぐちゃぐちゃした不潔な場所へ挿入しようと思うはずがない。そういう欲望は、あろうはずがない。
女性器の中へ挿入しようという欲望はないのだが、女性の全肉体に対する性的な欲望、すなわち、性欲はあるのです。
それは、このときの女性が縄で縛られているからです。
このへんの変態人種の欲情心理となると、いささか微妙陰微となり、健全な精神と肉体だけを持たれる正常男性の方々には理解不能になってくると思うのだが、わかってもわからなくても、とにかく書きすすめます。
つまり、女性器そのものに対しての執着はないのだけれども、性欲はある。その性欲は縛られている女性の性器以外の各部に向けられているのです。たとえば太腿だとか、お尻だとか。
乳房だとか、細くくびれたウエストだとか。足首の細さだとか、襟首の優雅さだとか。足の一本一本にも、性器に匹敵する悩ましいエロティシズムが存在するのです。
つまり、フェティシズムということになりましょうか。
縄で女体を縛るという行為も、私の場合はフェティシズムの欲望に、かなり密着してつながっているような気がする(無機物であるはずの縄そのものにも強いフェティシズムを感じるが、それは女体に関連してのイメージによるものだと思う)。
私の緊縛技術は評判がいい。
日本一、いや世界一だという人がいる。
とくに「縛り」の好きな女性たちの間で評判がいい。
女体緊縛だけを見世物にして、ヨーロッパを一周しようという計画を立てた興行師もいた。
自分でこんなことをいうのは妙なものだが、「私は縛るのがうまい」と自分で言っても、これは決して自慢にならない。むしろ、マイナスになると私は思っている。縛りがうまいというのは、社会人としては「負」の部分となる。くり返すが自慢にはならない。
なので私は、自分が職業で「縛り」をやる人間だということを、これまで必死になって隠してきた(あまりにも長い年月やってきているので、近頃では隠し切れなくなっているが)。
べつの表現をします。女性器に自分の性器を挿入したい欲望を抱く男、つまり正常の欲望を持つ男が、いくら女性緊縛の技術を身につけたとしても、縄には結局、二次的な欲情の力しかこもらない、ということです。
したがって、そういう男が女体を縛る縄には、形だけの縄、表面だけの縛りの味わいしか感じられないのです。
性器以外の女体に思慕を寄せるフェチシストの、せつない願望、せっぱつまった欲情が縄に感じられないのです。
もっとわかりやすく言ってしまえば、女と正常なセックスができない、あるいは挿入セックスを嫌う男にしか、魅力ある縛りはできないのです。
(続く)
『濡木痴夢男の秘蔵緊縛コレクション2「熱祷」(不二企画)』
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濡木痴夢男のおしゃべり芝居
風俗資料館
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