Special issue for Silver Week in 2009.
2009シルバーウィーク特別企画/
WEBスナイパー総力特集!
『サザエさん (1)』 著者=長谷川町子 出版社=朝日新聞社 発売=1994年
特集『四コマ漫画とその周辺』
よくよく考えてみたら膨大な数を読んでいた四コマ漫画についてざっくりと語っておこう
気づけば日常の片隅にいつもあった四コマ漫画。その長い歴史に目を向けたら一体何が見えてくる!? 漫画評論家・永山薫氏が自身の読書体験をもとに掘り起こしてゆく四コマ漫画の系譜 。 今回の特集で皆さんが旅することになる大・四コマ漫画大陸、その地図として、またユニークな四コマ漫画文化をより深く知るためのガイドとしてお楽しみ下さい!!
2009シルバーウィーク特別企画/
WEBスナイパー総力特集!
『サザエさん (1)』 著者=長谷川町子 出版社=朝日新聞社 発売=1994年
特集『四コマ漫画とその周辺』
よくよく考えてみたら膨大な数を読んでいた四コマ漫画についてざっくりと語っておこう
気づけば日常の片隅にいつもあった四コマ漫画。その長い歴史に目を向けたら一体何が見えてくる!? 漫画評論家・永山薫氏が自身の読書体験をもとに掘り起こしてゆく四コマ漫画の系譜 。 今回の特集で皆さんが旅することになる大・四コマ漫画大陸、その地図として、またユニークな四コマ漫画文化をより深く知るためのガイドとしてお楽しみ下さい!!
思えば、そんなに好きというわけでもなく、新聞に掲載されているからという惰性的な理由で読み続けたり、雑誌の片隅に掲載されているのを箸休めとして楽しんだり、息子の部屋に積み上げられていたゲームパロディ四コマ本を読破したり、ごく一部の大好きな四コマ漫画家の作品を集中して読んだり、様々な出会いと別れがあって、よくよく考えてみたら膨大な数の四コマ漫画を読んできた。
俺は四コマ漫画の研究者ではないし、特にファンでもなく、描き手としても、ほんの数えるほどしか描いたことがない。故に、俺の立ち位置からどう見えたのか?以上のことは書けないわけだが、それでもこの広大無辺な四コマ漫画大陸の一端を囓り取ることはできるはずだ(註1)。
■偉大なる長谷川町子の『サザエさん』
かつて新聞四コマ漫画は、四コマ漫画の頂点であり、四コマ作家の「上がり」だった。実際にはそうでなかったりもするのだが、少なくとも朝刊の最終見開き左肩に毎日掲載される四コマ漫画に関しては、そんなイメージが強い。
ある程度以上のキャリアと才能のある先生方の指定席であり、そこに描くということは、大きなステイタスだったのである。
俺が最初に出会ったのは『朝日新聞』連載の『サザエさん』だった。もはや説明の必要もない国民的四コマ漫画である。終戦直後の1946年から地方紙『夕刊フクニチ』で最初の連載が始まり、51年に朝日に移籍している。54年生まれの俺が読み始めたのは50年代末期頃だったはずだ。その頃、読んだ記憶は全くないが、連載終了の74年まで、日曜を除くほぼ毎日、目を通していた。
戦後新聞漫画の歴史を語るならば49〜51年、『サザエさん』連載開始直前まで同紙に掲載された四コマ漫画ではないアメリカのコミックストリップ『ブロンディ』(チック・ヤング)(註2)について触れるべきなのだろうが、さすがにこれは生まれる前の話なので、知識として知っているだけだ。お袋に「ダグウッドみたいな髪型やなあ(笑)」と寝癖を笑われても「ゆーてる意味がわからへん(怒)」だったのである。
終戦直後の新聞四コマには他に秋好馨『轟先生』(49〜73年・読売朝刊。初出は戦中の40年)、横山隆一『デンスケ』(49〜55年・毎日朝刊)などがあった。横山は戦前戦中に朝日朝刊連載だった『フクちゃん』(40〜43年)を『デンスケ』に代えて56〜71年に毎日朝刊に連載する。家が朝日党だった俺としては根本進『クリちゃん』(51〜65年・朝日夕刊)には懐かしい思い出がある。
それらは、いずれも漫画史的に価値のある作品であり、今読むと確かに隔世の感は否めないものの、それぞれに味わいがある。その中で『サザエさん』だけが、アニメ化というアドバンテージがあるにせよ、「日本人なら知らない人がいないほどのキャラ」として現在も生き残っているのだから、日本四コマ漫画界の頂点を極めた作品とも言えるだろう。
『サザエさん』は後のファミリー四コマ・ブームとは直接関係ないとはいえ、その原型の一つである。一本の四コマ作品として完結しつつ、毎日の連載で紡ぎ出されるのは磯野家とその周辺の、モデル化された都会型中産階級の姿であった。
現在でもこうした一昔、二昔前の新聞四コマ漫画は全部は無理でも古書や図書館で読むことができる。今読んで面白いかと言えば、そう面白いものではない。それなりに面白かったり、味があったりするものの、今の作品に比べれば相当に劣る。
これは無理もない話だ。新聞の読者層である老若男女全般に向けて、長谷川やサトウは過不足のなく面白い四コマ漫画を提供し続けていた。これがどれほど大変なことか。
現在でも大手新聞社の記者に聞くと、イラストを掲載する際には「エロ、グロ、残酷、暴力」が含まれていないか必ずチェックするという。
当然、新聞四コマ漫画には様々な「禁じ手」がある。
最大公約数的な読者に不快感を与える表現を避け、なおかつ、適度な諷刺を入れて、中学生から80代にまで通用する知的な笑いを提供しなければならない。あるいは、子供という「弱者」を中心に、ほのぼのとした雰囲気を醸し出す作品が要求される。必要なのは「笑い」だが、それは爆笑でも哄笑でもなく、愛らしさに対する微笑であり、諷刺に反応する苦笑なのである。
その結果が、万人向けのヌルイ作品になっちゃうんだから、カネと名誉はともかく、作家として割のいい仕事とはとても思えない。長谷川が『サザエさん』と並行して『サンデー毎日』に、毒を増量した『いじわるばあさん』(66〜71)の連載を始めたのも当然すぎる流れだろう。
まあ、今の読者が『いじわるばあさん』に込められた諷刺、悪意、サディズムを見ても苦笑するしかないだろうが、当時はちょっとした漫画界における「事件」だったのである。もちろん長谷川が批判されることはほとんどなかった。なぜなら「諷刺」は明治時代から漫画のテーゼであり、諷刺漫画という王道を行く長谷川には誰も文句を付けられなかった。
そうなると、もはや立派な「権威」である。
木崎しょうへい(画)とテディ片岡(後の片岡義男・原案)のコンビが長谷川町子そっくりの絵で、セックスするフグ田夫妻の姿や、ワカメに髪を抜かれてしまう波平を描いた痛烈なパロディ『サザエさま』(67年『東京25時』掲載)を描いたり(註3)、寺山修司が『サザエさんの性生活』(72年)と題するエッセイで揶揄したのも、旧時代の「諷刺と笑い」が権威化し、新世代によって諷刺の対象となり、笑いものにされるという皮肉なサイクルである。
とはいえ、60年代前半にはまだまだ長谷川に代表される戦前戦中派の四コマ作家はそれなりに面白がられていたし、俺みたいな背伸びしたガキが「大人が認める『面白い』をオレは認められる」みたいな、そんなに面白くはないんだけど、面白がれることが自分の知性の証明であるかのように錯覚していた(一種の体制順応的な反応ともいえる)のも事実である。
そんな保守的なガキでも、さすがに70年代を目前にすると、着実に反体制的な生意気さを身につけてくる。旧世代四コマはヌルくて、古くて、体制的で、プチブル的な代物に見えてくる。サザエさん一家は恐らくは都内の一戸建てに住む中産階級だし、フジ三太郎は一流企業のサラリーマンだ。そこで描かれるのは認可された諷刺であり、許可された笑いでしかない。当時の俺にとっては唾棄すべき代物だった。
60年代末には次世代である東海林さだお(67年デビュー)が登場しているが、たまに読んだとしても、しょぼくれた自虐的な笑いと味わいはガキには通用しない。
「ああ、新手の品のない『フジ三太郎』だな」
程度の認識しか持てなかった。ある程度歳をとってからは東海林さだおも面白く読めるのだが、東海林の場合、圧倒的に自作イラスト付きグルメエッセイの持つ魅力が全体を底上げしている。東海林と比べるのもどうかとは思うが、以前のはらたいらや、最近のやくみつるが、漫画そのものよりも、本人のキャラクター、タレント性でブランド化してしまうのと似た構図ではある。
■植田まさしといしいひさいちの時代
どうもリーマン系は時代が進むにつれて品がなくなっていくような気がするが、サトウの下品さは、マゾヒスティックな自虐の匂いがし、東海林の下品さは無邪気であり、植田の下品さは計算づくだ(さらにその後の世代になると、単なる下品のための下品に堕ちてしまった気がしてならない)。
植田は職人芸的に起承転結を計算したアベレージヒッターだった。
誰に聞いたのか忘れてしまったが、植田は四コマのフォーマットを脳内で作り上げいて、全自動的に無尽蔵に四コマ漫画を作り出すことができるそうだ。半ばは伝説だろうが、頷けない話ではない。そのフォーマットの中にはオッサン雑誌用のエログロもファミリー用のほのぼもあるのだろう。
植田まさしを決して舐めてはいけない。
過日、京都国際マンガミュージアムで開催された特別展「冒険と奇想の漫画家 杉浦茂101年祭」に植田が出展した描き下ろしの「植田まさし風にアレンジされた杉浦茂キャラ」には驚かされた。めちゃくちゃイイのである!(註4)
植田がリーマン系の系譜を継ぎながら、読売新聞連載という天辺を取った時(82年〜)、そこに投入したのはリーマン系ではなく、ファミリー向けの『コボちゃん』だったのは、新聞の四コマ漫画コードという意味からも当然の判断だろう。基本的に新聞社が求めているのは「毒」ではないのだ(後にいしいひさいちもまた、朝日新聞というお座敷ではファミリー四コマ『ののちゃん』(初期は『となりの山田くん』)を描くことになる)。
植田といしいの成功は、四コマ誌というそれまでになかったジャンル誌の成立にまで至ってしまうわけだが、正直な話、俺は植田の作品には全く食指が動かなかった。当時の俺は植田の作品自体、アルチザン的な上手さを解りながらも、その旧弊な発想と絵柄が嫌いだったが(長谷川、サトウ、東海林の絵も好まない)、植田以降に登場した無数のエピゴーネンたちの凡庸さ、下品さには吐き気を催すほどだった(余談ながら初期の四コマ誌には素人の手すさびのような長谷川町子コピーも存在した)。
つまり、俺にとっての60〜70年代四コマ漫画は良くて箸休め、悪くて唾棄すべき代物だったのである(註5)。
そんなオレの目からウロコが落ちたのは、いしいひさいちの出現だった。
時は70年代末期。
大学は出たけれど、就職にあぶれてしまったオレは関西のアルバイト情報誌『日刊アルバイト情報』の片隅に、いしいの『oh!バイトくん』(72〜商業単行本は『バイトくん』)を「発見」した。
こんな四コマ漫画がアリなのか!?
恐ろしくヘタクソな絵、可読性の低いネーム、ぐちゃぐちゃしたデフォルメ。
正統的な漫画の描き方では全部「やっちゃイカン」ことでできあがっていたのである。ほとんど漫画のことを知らない素人が見よう見まねで殴り描いた作品にしか見えなかった。
しかし、これが面白かったのである。登場人物たちが世代的にも境遇的にも自分と共通していたからということもある。毒を吐くが、自分もその毒を浴びて悶え苦しむという、関西芸人感覚が、大阪人としてグッときたという点も見逃せない。
やがていしいひさいちはプレイガイドジャーナル社からバイトくんの単行本を上梓する。俺は古本屋で買って、何度も読み返した。噴き出し、身につまされ、鬱になり、開き直り、もう一度笑う。とんでもない四コマ漫画である。
でもまあ、関西ローカルな人気で終わるだろうと思っていたら、これが、『がんばれタブチくん』でドッカンドッカンと大当たりしてしまった。
このタブチくんによって、スポーツ四コマという新ジャンルが勃興した。当然、植田の場合と同じように、エピゴーネンが輩出したわけだが、残念ながら、一人としていしいを超える作家は登場していない。はた山ハッチ(やくみつる)の成功は無視できないが、表現者としての革新性ではいしいには到底及ばない。
植田、いしいは共に四コマ漫画ブームの立役者だが、植田が保守本流とすれば、いしいは革命家だった。
いしいは、起承転結を破壊し、キャラクターのスターシステムを、あらゆるジャンルの四コマでやってのけたり、大量のネームを投入したり、シュールあるいは不条理な表現をも試行してみせた。総てをいしいが最初にやったわけではないにせよ、いしいがやったことによって四コマ漫画の歴史は新たな時代に入っていく。
70年代末にはいがらしみきおが、80年代にはいがらしの影響を受けた相原コージが登場し、80年代後半には不条理四コマの吉田戦車が登場する。この文脈とは外れるかもしれないが、森雅之の四コマ詩とでもいうべき作品群、少女漫画誌における猫十字社の活躍もあり、四コマ漫画界にとって80年代は百花繚乱の時代だった。
ここで、重要なのはエロ漫画誌の存在だろう。いがらしがエロ漫画誌デビューであったことはよく知られているが、植田もエロ漫画誌経験があるらしい。また、やまぐちみゆき(飛鳥弓樹)が愛らしい絵柄で変態を描き尽くすロリコン四コマを多数描いていたことも忘れてはならない。ちなみにやまぐちはストーリー四コマを毎号一本掲載し、四コマで長編という野心的な実験をも行なっていた。
俺が四コマ漫画を追いかけたのはせいぜいその頃、80年代までだ。
90年代以降は、気が向けばいしいやいがらしの新刊を買い、朝日新聞掲載の秋月りすのOL四コマを拾い読みし、新人の熱気が渦巻くゲームパロディ四コマをだらだらと読んでいた。俺にとっての四コマ漫画は再び箸休めの位置に戻ってしまったのである。
四コマ漫画誌の出現と定着は、箸休め的存在だったコンテンツだけで一冊の商品ができてしまうという画期的な出来事だった。とはいえ、それが個々の作家、作品が画期的だったことを意味するわけではない。重要なのは、「四コマ漫画だけをまとめて読みたい」という、それまではほとんど想定されていなかったニーズを掘り起こし、あるいは開拓したという商品論的な意味の方である。敢えて言えば、マニアでもオタクでもない、いやそれどころか通常の漫画読者とは違う市場としての「ライト漫画ユーザー」の出現である。
■ライトな漫画としての四コマ
勘違いしている人も多いが、漫画を読むにはスキルが必要である。漫画には文法があり、漫画読者は無意識的にその文法に則って漫画を読解し、快楽する。漫画には一定の幅を持ったプロトコルがあり、読み解くためには 脳内にデコーダーがなければならない。この漫画デコーダーは、幼時から漫画を読むことによって生成される。
その意味では、融通無碍であり、逆に表現する余地も大きいのだが、大半の現代四コマは、むしろ自他共にハードルを低くしてしまう。
この稿を書くにあたって、ネットの立ち読みなどで100タイトル弱の四コマ漫画に目を通した。ほとんどの「現代四コマ漫画」は、シチュエーション・コメディ、即ち、舞台を会社、病院、コンビニなどにおいた作品である。あるいはペットとの生活の哀歓を描くサブジャンルとしてのペット四コマもある。 もちろん中には元々その職業の経験のある作家が描いたとしか思えないような、その職業ならではの意外性が楽しいこともあるが、多くは書き割りのようなシチュエーションに、それらしき、しかもありがちなキャラを配置しているだけにしか見えない。
スポーツ四コマの多くは、実在のプロ選手の容貌・性格・生活をデフォルメしたキャラに対する「ツッコミ芸」に終始しており、見た目ほどは毒がない。かつて、いしいひさいちが田淵選手や朝汐関に不快感を与えたような、危険球を見ることは少ない。
残念ながら箸休め以上の快楽を与えてくれる、極端にいえばいがらしみきおのように、コチラの頭のタガを外してくれるような、突き抜けたものはない。
ファミリー向けだから、新聞四コマ漫画同様の制約はあるのだろうが、少なくとも、 俺の興味からは外れている。
とはいえ四コマ漫画全体が面白くないわけではない。
90年代末期に登場したあずまきよひこの『あずまんが大王』から始まる「萌え四コマ」の流れは、あくまでも「笑い」をベースにしながらも、「笑い」以上に「萌え」「愛嬌」「愛らしさ」の持つ「力」を再認識させてくれたし、21世紀に入ってからのネット四コマ、小島アジコの『となりの801ちゃん』(宙出版)やCOCOの『今日の早川さん』(早川書房)からは、間口は狭いが奥行きの広い、良い意味でのアマチュアリズムやマニアックさを感じる。
■むすび:俳句としての四コマ漫画
四コマ漫画は俳句に似ている。
俳句は五七五=十七文字という限定された短詩形の中に、日常スケッチから天地の風景や壮大な時空の拡がりまでを詠み込む。
箱庭宇宙と言ってもいいし、壺中天と呼んでもいい。日本人はそういう拵えが好きなのだ。だが、それを善しとしない反逆者もいる。五七調を奴隷的韻律として否定する詩論もあれば、山頭火や放哉のように定型を破壊する自由律俳句も登場する。
四コマ漫画の事情もまた同様だ。
起承転結の韻律を否定し、破壊し、四コマ漫画は読者を笑わせなければならないという最低限の規範すら否定する四コマ作品もまた存在する。
しかし、放哉が「咳をしても一人」と詠んでも、それがやはり俳句として扱われるように、自由律が評価されても、俳句全体の枠組みが変わらないように、不条理四コマが登場しようが、萌え四コマが人気を得ようが、四コマ漫画の大きな枠組みは、そんなに変わりはしないのだ。
もちろん、変革や前衛ばかりが素晴らしいわけではない。
箸休めとしての四コマにも意義はあるし、それに徹することもまたアリだろう。
しかし、まだまだ、漫画としての可能性が四コマ漫画にも残されていると思いたいし、そのためには、極端なコトが大好きな俺としては、破壊的な暴れん坊にも出てきて欲しいのである。
【注釈】
註1 : 体系的に四コマ漫画の歴史に触れたいのなら、俺もまだ買ったばかりで全部読み切っていないのが恐縮だが、漫画研究家・清水勲の最新刊『四コマ漫画――北斎から「萌え」まで』(岩波新書)をひもとくのが一番早いだろう。なにしろ『北斎漫画』から四コマ漫画の原型を発掘し、明治・大正・昭和・平成の四コマ漫画史を新書一冊で語ってしまうのだから脱帽ものだ。巻頭カラー口絵に長谷川町子『サザエさん』を再録し、その次のページが、なんと美水かがみ『らき☆すた』である。すばらしすぎる。
註2 : 詳しくは漫棚通信ブログ版「ブロンディの成功と失敗」を参照されたい。
註3 : 長谷川サイドから訴えられ、編集長の奥成達は罰金50 万円を支払った。
註4 : 自慢だが俺も元漫画描きとして20 年ぶりに描いたイラストを出展した。隣が永野のりこだった。
註5 : 今ほど大人でなかった頃、俺はエピゴーネンどもを罵倒して「植田まさしのような糞みたいな漫画」と書いてしまい、植田の熱烈なファンから「お前の存在を抹殺してやる」という脅迫状を頂いたことがある。植田を否定したつもりはなかったが、そう受け取られても仕方がない表現だった。
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短期集中連載 永山薫×安田理央 対談『アダルトメディアの現在・過去・未来』
【1】>>>【2】>>>【3】>>>【4】>>>【5】>>>【6】>>>【7】
永山薫 1954年大阪生まれ。近畿大学卒。80年代初期からライター、評論家、作家、編集者として活動。エロ系出版とのかかわりは、ビニ本のコピーや自販機雑誌の怪しい記事を書いたのが始まり。主な著書に長編評論『エロマンガスタディーズ』(イーストプレス)、昼間たかしとの共編著『マンガ論争勃発』『マンガ論争勃発2』(マイクロマガジン社)がある。
俺は四コマ漫画の研究者ではないし、特にファンでもなく、描き手としても、ほんの数えるほどしか描いたことがない。故に、俺の立ち位置からどう見えたのか?以上のことは書けないわけだが、それでもこの広大無辺な四コマ漫画大陸の一端を囓り取ることはできるはずだ(註1)。
■偉大なる長谷川町子の『サザエさん』
かつて新聞四コマ漫画は、四コマ漫画の頂点であり、四コマ作家の「上がり」だった。実際にはそうでなかったりもするのだが、少なくとも朝刊の最終見開き左肩に毎日掲載される四コマ漫画に関しては、そんなイメージが強い。
ある程度以上のキャリアと才能のある先生方の指定席であり、そこに描くということは、大きなステイタスだったのである。
俺が最初に出会ったのは『朝日新聞』連載の『サザエさん』だった。もはや説明の必要もない国民的四コマ漫画である。終戦直後の1946年から地方紙『夕刊フクニチ』で最初の連載が始まり、51年に朝日に移籍している。54年生まれの俺が読み始めたのは50年代末期頃だったはずだ。その頃、読んだ記憶は全くないが、連載終了の74年まで、日曜を除くほぼ毎日、目を通していた。
戦後新聞漫画の歴史を語るならば49〜51年、『サザエさん』連載開始直前まで同紙に掲載された四コマ漫画ではないアメリカのコミックストリップ『ブロンディ』(チック・ヤング)(註2)について触れるべきなのだろうが、さすがにこれは生まれる前の話なので、知識として知っているだけだ。お袋に「ダグウッドみたいな髪型やなあ(笑)」と寝癖を笑われても「ゆーてる意味がわからへん(怒)」だったのである。
終戦直後の新聞四コマには他に秋好馨『轟先生』(49〜73年・読売朝刊。初出は戦中の40年)、横山隆一『デンスケ』(49〜55年・毎日朝刊)などがあった。横山は戦前戦中に朝日朝刊連載だった『フクちゃん』(40〜43年)を『デンスケ』に代えて56〜71年に毎日朝刊に連載する。家が朝日党だった俺としては根本進『クリちゃん』(51〜65年・朝日夕刊)には懐かしい思い出がある。
それらは、いずれも漫画史的に価値のある作品であり、今読むと確かに隔世の感は否めないものの、それぞれに味わいがある。その中で『サザエさん』だけが、アニメ化というアドバンテージがあるにせよ、「日本人なら知らない人がいないほどのキャラ」として現在も生き残っているのだから、日本四コマ漫画界の頂点を極めた作品とも言えるだろう。
『サザエさん』は後のファミリー四コマ・ブームとは直接関係ないとはいえ、その原型の一つである。一本の四コマ作品として完結しつつ、毎日の連載で紡ぎ出されるのは磯野家とその周辺の、モデル化された都会型中産階級の姿であった。
『クリちゃん 第二集』
著者=根本進 出版社=朝日新聞社 発売=1952年
『フジ三太郎名場面 (14)』 著者=サトウ サンペイ 出版社=朝日新聞社 発売=1986年
『いじわるばあさん(1)』 著者=長谷川町子 出版社=朝日新聞出版 発売=1995年
朝日の連載でいえば夕刊四コマ『クリちゃん』の連載終了後、65〜78年まで夕刊連載した(78〜91朝刊)サトウサンペイのサラリーマン四コマ『フジ三太郎』が、中流サラリーマン四コマの一つの基準となったということもできる。
『フジ三太郎名場面 (14)』 著者=サトウ サンペイ 出版社=朝日新聞社 発売=1986年
『いじわるばあさん(1)』 著者=長谷川町子 出版社=朝日新聞出版 発売=1995年
現在でもこうした一昔、二昔前の新聞四コマ漫画は全部は無理でも古書や図書館で読むことができる。今読んで面白いかと言えば、そう面白いものではない。それなりに面白かったり、味があったりするものの、今の作品に比べれば相当に劣る。
これは無理もない話だ。新聞の読者層である老若男女全般に向けて、長谷川やサトウは過不足のなく面白い四コマ漫画を提供し続けていた。これがどれほど大変なことか。
現在でも大手新聞社の記者に聞くと、イラストを掲載する際には「エロ、グロ、残酷、暴力」が含まれていないか必ずチェックするという。
当然、新聞四コマ漫画には様々な「禁じ手」がある。
最大公約数的な読者に不快感を与える表現を避け、なおかつ、適度な諷刺を入れて、中学生から80代にまで通用する知的な笑いを提供しなければならない。あるいは、子供という「弱者」を中心に、ほのぼのとした雰囲気を醸し出す作品が要求される。必要なのは「笑い」だが、それは爆笑でも哄笑でもなく、愛らしさに対する微笑であり、諷刺に反応する苦笑なのである。
その結果が、万人向けのヌルイ作品になっちゃうんだから、カネと名誉はともかく、作家として割のいい仕事とはとても思えない。長谷川が『サザエさん』と並行して『サンデー毎日』に、毒を増量した『いじわるばあさん』(66〜71)の連載を始めたのも当然すぎる流れだろう。
まあ、今の読者が『いじわるばあさん』に込められた諷刺、悪意、サディズムを見ても苦笑するしかないだろうが、当時はちょっとした漫画界における「事件」だったのである。もちろん長谷川が批判されることはほとんどなかった。なぜなら「諷刺」は明治時代から漫画のテーゼであり、諷刺漫画という王道を行く長谷川には誰も文句を付けられなかった。
そうなると、もはや立派な「権威」である。
木崎しょうへい(画)とテディ片岡(後の片岡義男・原案)のコンビが長谷川町子そっくりの絵で、セックスするフグ田夫妻の姿や、ワカメに髪を抜かれてしまう波平を描いた痛烈なパロディ『サザエさま』(67年『東京25時』掲載)を描いたり(註3)、寺山修司が『サザエさんの性生活』(72年)と題するエッセイで揶揄したのも、旧時代の「諷刺と笑い」が権威化し、新世代によって諷刺の対象となり、笑いものにされるという皮肉なサイクルである。
とはいえ、60年代前半にはまだまだ長谷川に代表される戦前戦中派の四コマ作家はそれなりに面白がられていたし、俺みたいな背伸びしたガキが「大人が認める『面白い』をオレは認められる」みたいな、そんなに面白くはないんだけど、面白がれることが自分の知性の証明であるかのように錯覚していた(一種の体制順応的な反応ともいえる)のも事実である。
そんな保守的なガキでも、さすがに70年代を目前にすると、着実に反体制的な生意気さを身につけてくる。旧世代四コマはヌルくて、古くて、体制的で、プチブル的な代物に見えてくる。サザエさん一家は恐らくは都内の一戸建てに住む中産階級だし、フジ三太郎は一流企業のサラリーマンだ。そこで描かれるのは認可された諷刺であり、許可された笑いでしかない。当時の俺にとっては唾棄すべき代物だった。
60年代末には次世代である東海林さだお(67年デビュー)が登場しているが、たまに読んだとしても、しょぼくれた自虐的な笑いと味わいはガキには通用しない。
「ああ、新手の品のない『フジ三太郎』だな」
程度の認識しか持てなかった。ある程度歳をとってからは東海林さだおも面白く読めるのだが、東海林の場合、圧倒的に自作イラスト付きグルメエッセイの持つ魅力が全体を底上げしている。東海林と比べるのもどうかとは思うが、以前のはらたいらや、最近のやくみつるが、漫画そのものよりも、本人のキャラクター、タレント性でブランド化してしまうのと似た構図ではある。
■植田まさしといしいひさいちの時代
『コボちゃん (21)』 著者=植田まさし 出版社=蒼鷹社 発売=1989年11月
『フリテンくん(1)』
著者=植田まさし 出版社=竹書房 発売=1980年
『ののちゃん(全集1)』
著者=いしいひさいち 出版社=徳間書店スタジオジブリ事業本部 発売=2004年
サトウ→東海林と展開したリーマン系四コマは植田まさし(71年デビュー)へと連綿と続いていく。麻雀漫画誌を出自とする植田は、早稲田漫研出身で王道を行く東海林以上に品がなく、下世話で毒も強かった。
どうもリーマン系は時代が進むにつれて品がなくなっていくような気がするが、サトウの下品さは、マゾヒスティックな自虐の匂いがし、東海林の下品さは無邪気であり、植田の下品さは計算づくだ(さらにその後の世代になると、単なる下品のための下品に堕ちてしまった気がしてならない)。
植田は職人芸的に起承転結を計算したアベレージヒッターだった。
誰に聞いたのか忘れてしまったが、植田は四コマのフォーマットを脳内で作り上げいて、全自動的に無尽蔵に四コマ漫画を作り出すことができるそうだ。半ばは伝説だろうが、頷けない話ではない。そのフォーマットの中にはオッサン雑誌用のエログロもファミリー用のほのぼもあるのだろう。
植田まさしを決して舐めてはいけない。
過日、京都国際マンガミュージアムで開催された特別展「冒険と奇想の漫画家 杉浦茂101年祭」に植田が出展した描き下ろしの「植田まさし風にアレンジされた杉浦茂キャラ」には驚かされた。めちゃくちゃイイのである!(註4)
植田がリーマン系の系譜を継ぎながら、読売新聞連載という天辺を取った時(82年〜)、そこに投入したのはリーマン系ではなく、ファミリー向けの『コボちゃん』だったのは、新聞の四コマ漫画コードという意味からも当然の判断だろう。基本的に新聞社が求めているのは「毒」ではないのだ(後にいしいひさいちもまた、朝日新聞というお座敷ではファミリー四コマ『ののちゃん』(初期は『となりの山田くん』)を描くことになる)。
植田といしいの成功は、四コマ誌というそれまでになかったジャンル誌の成立にまで至ってしまうわけだが、正直な話、俺は植田の作品には全く食指が動かなかった。当時の俺は植田の作品自体、アルチザン的な上手さを解りながらも、その旧弊な発想と絵柄が嫌いだったが(長谷川、サトウ、東海林の絵も好まない)、植田以降に登場した無数のエピゴーネンたちの凡庸さ、下品さには吐き気を催すほどだった(余談ながら初期の四コマ誌には素人の手すさびのような長谷川町子コピーも存在した)。
つまり、俺にとっての60〜70年代四コマ漫画は良くて箸休め、悪くて唾棄すべき代物だったのである(註5)。
そんなオレの目からウロコが落ちたのは、いしいひさいちの出現だった。
時は70年代末期。
大学は出たけれど、就職にあぶれてしまったオレは関西のアルバイト情報誌『日刊アルバイト情報』の片隅に、いしいの『oh!バイトくん』(72〜商業単行本は『バイトくん』)を「発見」した。
こんな四コマ漫画がアリなのか!?
恐ろしくヘタクソな絵、可読性の低いネーム、ぐちゃぐちゃしたデフォルメ。
正統的な漫画の描き方では全部「やっちゃイカン」ことでできあがっていたのである。ほとんど漫画のことを知らない素人が見よう見まねで殴り描いた作品にしか見えなかった。
しかし、これが面白かったのである。登場人物たちが世代的にも境遇的にも自分と共通していたからということもある。毒を吐くが、自分もその毒を浴びて悶え苦しむという、関西芸人感覚が、大阪人としてグッときたという点も見逃せない。
やがていしいひさいちはプレイガイドジャーナル社からバイトくんの単行本を上梓する。俺は古本屋で買って、何度も読み返した。噴き出し、身につまされ、鬱になり、開き直り、もう一度笑う。とんでもない四コマ漫画である。
でもまあ、関西ローカルな人気で終わるだろうと思っていたら、これが、『がんばれタブチくん』でドッカンドッカンと大当たりしてしまった。
このタブチくんによって、スポーツ四コマという新ジャンルが勃興した。当然、植田の場合と同じように、エピゴーネンが輩出したわけだが、残念ながら、一人としていしいを超える作家は登場していない。はた山ハッチ(やくみつる)の成功は無視できないが、表現者としての革新性ではいしいには到底及ばない。
植田、いしいは共に四コマ漫画ブームの立役者だが、植田が保守本流とすれば、いしいは革命家だった。
いしいは、起承転結を破壊し、キャラクターのスターシステムを、あらゆるジャンルの四コマでやってのけたり、大量のネームを投入したり、シュールあるいは不条理な表現をも試行してみせた。総てをいしいが最初にやったわけではないにせよ、いしいがやったことによって四コマ漫画の歴史は新たな時代に入っていく。
70年代末にはいがらしみきおが、80年代にはいがらしの影響を受けた相原コージが登場し、80年代後半には不条理四コマの吉田戦車が登場する。この文脈とは外れるかもしれないが、森雅之の四コマ詩とでもいうべき作品群、少女漫画誌における猫十字社の活躍もあり、四コマ漫画界にとって80年代は百花繚乱の時代だった。
ここで、重要なのはエロ漫画誌の存在だろう。いがらしがエロ漫画誌デビューであったことはよく知られているが、植田もエロ漫画誌経験があるらしい。また、やまぐちみゆき(飛鳥弓樹)が愛らしい絵柄で変態を描き尽くすロリコン四コマを多数描いていたことも忘れてはならない。ちなみにやまぐちはストーリー四コマを毎号一本掲載し、四コマで長編という野心的な実験をも行なっていた。
俺が四コマ漫画を追いかけたのはせいぜいその頃、80年代までだ。
90年代以降は、気が向けばいしいやいがらしの新刊を買い、朝日新聞掲載の秋月りすのOL四コマを拾い読みし、新人の熱気が渦巻くゲームパロディ四コマをだらだらと読んでいた。俺にとっての四コマ漫画は再び箸休めの位置に戻ってしまったのである。
四コマ漫画誌の出現と定着は、箸休め的存在だったコンテンツだけで一冊の商品ができてしまうという画期的な出来事だった。とはいえ、それが個々の作家、作品が画期的だったことを意味するわけではない。重要なのは、「四コマ漫画だけをまとめて読みたい」という、それまではほとんど想定されていなかったニーズを掘り起こし、あるいは開拓したという商品論的な意味の方である。敢えて言えば、マニアでもオタクでもない、いやそれどころか通常の漫画読者とは違う市場としての「ライト漫画ユーザー」の出現である。
■ライトな漫画としての四コマ
勘違いしている人も多いが、漫画を読むにはスキルが必要である。漫画には文法があり、漫画読者は無意識的にその文法に則って漫画を読解し、快楽する。漫画には一定の幅を持ったプロトコルがあり、読み解くためには 脳内にデコーダーがなければならない。この漫画デコーダーは、幼時から漫画を読むことによって生成される。
『あずまんが大王 (1) 』
著者=あずまきよひこ 出版社=メディアワークス 発売=2000年
『となりの801ちゃん 4 特別限定版』
著者=小島アジコ 出版社=宙出版 発売=2009年
『今日の早川さん』
著者=coco 出版社=早川書房 発売=2007年
その意味で、良い悪いではなく、四コマのハードルは低い。最低限のデコーダーさえ生成されていれば、子供でも、ほとんど漫画を読まない中高年でも、理解し、楽しむことができる。それは描く側にも言えることで、漫画表現論の分析の対象となるような高度な表現を知らなくても、四つのコマに収まるように描けば形にはなってしまうのだ。
その意味では、融通無碍であり、逆に表現する余地も大きいのだが、大半の現代四コマは、むしろ自他共にハードルを低くしてしまう。
この稿を書くにあたって、ネットの立ち読みなどで100タイトル弱の四コマ漫画に目を通した。ほとんどの「現代四コマ漫画」は、シチュエーション・コメディ、即ち、舞台を会社、病院、コンビニなどにおいた作品である。あるいはペットとの生活の哀歓を描くサブジャンルとしてのペット四コマもある。 もちろん中には元々その職業の経験のある作家が描いたとしか思えないような、その職業ならではの意外性が楽しいこともあるが、多くは書き割りのようなシチュエーションに、それらしき、しかもありがちなキャラを配置しているだけにしか見えない。
スポーツ四コマの多くは、実在のプロ選手の容貌・性格・生活をデフォルメしたキャラに対する「ツッコミ芸」に終始しており、見た目ほどは毒がない。かつて、いしいひさいちが田淵選手や朝汐関に不快感を与えたような、危険球を見ることは少ない。
残念ながら箸休め以上の快楽を与えてくれる、極端にいえばいがらしみきおのように、コチラの頭のタガを外してくれるような、突き抜けたものはない。
ファミリー向けだから、新聞四コマ漫画同様の制約はあるのだろうが、少なくとも、 俺の興味からは外れている。
とはいえ四コマ漫画全体が面白くないわけではない。
90年代末期に登場したあずまきよひこの『あずまんが大王』から始まる「萌え四コマ」の流れは、あくまでも「笑い」をベースにしながらも、「笑い」以上に「萌え」「愛嬌」「愛らしさ」の持つ「力」を再認識させてくれたし、21世紀に入ってからのネット四コマ、小島アジコの『となりの801ちゃん』(宙出版)やCOCOの『今日の早川さん』(早川書房)からは、間口は狭いが奥行きの広い、良い意味でのアマチュアリズムやマニアックさを感じる。
■むすび:俳句としての四コマ漫画
四コマ漫画は俳句に似ている。
俳句は五七五=十七文字という限定された短詩形の中に、日常スケッチから天地の風景や壮大な時空の拡がりまでを詠み込む。
箱庭宇宙と言ってもいいし、壺中天と呼んでもいい。日本人はそういう拵えが好きなのだ。だが、それを善しとしない反逆者もいる。五七調を奴隷的韻律として否定する詩論もあれば、山頭火や放哉のように定型を破壊する自由律俳句も登場する。
四コマ漫画の事情もまた同様だ。
起承転結の韻律を否定し、破壊し、四コマ漫画は読者を笑わせなければならないという最低限の規範すら否定する四コマ作品もまた存在する。
しかし、放哉が「咳をしても一人」と詠んでも、それがやはり俳句として扱われるように、自由律が評価されても、俳句全体の枠組みが変わらないように、不条理四コマが登場しようが、萌え四コマが人気を得ようが、四コマ漫画の大きな枠組みは、そんなに変わりはしないのだ。
もちろん、変革や前衛ばかりが素晴らしいわけではない。
箸休めとしての四コマにも意義はあるし、それに徹することもまたアリだろう。
しかし、まだまだ、漫画としての可能性が四コマ漫画にも残されていると思いたいし、そのためには、極端なコトが大好きな俺としては、破壊的な暴れん坊にも出てきて欲しいのである。
文=永山薫
【注釈】
註1 : 体系的に四コマ漫画の歴史に触れたいのなら、俺もまだ買ったばかりで全部読み切っていないのが恐縮だが、漫画研究家・清水勲の最新刊『四コマ漫画――北斎から「萌え」まで』(岩波新書)をひもとくのが一番早いだろう。なにしろ『北斎漫画』から四コマ漫画の原型を発掘し、明治・大正・昭和・平成の四コマ漫画史を新書一冊で語ってしまうのだから脱帽ものだ。巻頭カラー口絵に長谷川町子『サザエさん』を再録し、その次のページが、なんと美水かがみ『らき☆すた』である。すばらしすぎる。
『四コマ漫画―北斎から「萌え」まで 』(岩波新書) 著者=清水勲 価格=777円(税込) ISBN-13=978-4004312031 発売=2009年8月 発行=岩波書店 |
註2 : 詳しくは漫棚通信ブログ版「ブロンディの成功と失敗」を参照されたい。
註3 : 長谷川サイドから訴えられ、編集長の奥成達は罰金50 万円を支払った。
註4 : 自慢だが俺も元漫画描きとして20 年ぶりに描いたイラストを出展した。隣が永野のりこだった。
註5 : 今ほど大人でなかった頃、俺はエピゴーネンどもを罵倒して「植田まさしのような糞みたいな漫画」と書いてしまい、植田の熱烈なファンから「お前の存在を抹殺してやる」という脅迫状を頂いたことがある。植田を否定したつもりはなかったが、そう受け取られても仕方がない表現だった。
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永山薫 1954年大阪生まれ。近畿大学卒。80年代初期からライター、評論家、作家、編集者として活動。エロ系出版とのかかわりは、ビニ本のコピーや自販機雑誌の怪しい記事を書いたのが始まり。主な著書に長編評論『エロマンガスタディーズ』(イーストプレス)、昼間たかしとの共編著『マンガ論争勃発』『マンガ論争勃発2』(マイクロマガジン社)がある。
永山薫ブログ=9月11日に生まれて