The decision to fight against the world which cannot be finished.
"終われない世界"に、立ち向かう決意を。 |
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なんか話がねじれてる気がするなーと思ったのは、途中から作るひとたちがねじ切れてたからなんですね! いろいろ検索してみたり、本を読んで、「『フラクタル』にはゴタゴタした裏事情がいろいろあった!」というのが伝わってきました。でもそれは置いといて、『フラクタル』だけを観るとどうでしょう。これは結構、意外なオチでよかったと思うんですよね。少年が冒険に巻き込まれ、世界を打倒する軍団と一緒に戦い、色々あったけど結局変わらないままの世界で、でも女の子と家族になって暮らしていくという。
大体、何か毎回答えを出す必要なんてないですから。山本監督が敬愛する小津安二郎も「テーマはつまらない。『恐怖の報酬』のテーマは一口でいえば『ニトログリセリンは危ない』ってことでしょう」って言ってましたけど。っていうか小津安二郎botが言ってたんで、ほんとかどうかしらないですけど。いや、違いますよ! botじゃない! 小津安二郎ドッペルが言ってたんです(『フラクタル』っぽい論拠の示し方だよね!?)。
他にもたとえば、スティーヴ・ハンフトってBECKのPVとか撮ってた監督の『キル・ザ・ムーンライト』って映画があって、これなんか主人公がレース出たいから自分の車の修理代を稼ぐぞ!って映画中ずっと色々下らない仕事をして、結局修理できませんでした。で終わる映画ですからね。もう最初と最後でまったく何も変わらない。でもこれも良い映画で、ふしぎと何度も観たくなる。それは、やっぱり質感が良いからでしょう。主人公が落ちば掃きとか、仕事をしてるのを観ているだけでおもしろい。
そう考えると、やっぱり『フラクタル』は途中までは良かったんですよ! 1話の両親ドッペルなんか、主人公と並んで会話してるだけで衝撃的だし、第3話の食事の味を踊りで表わすのもいい。第7話のソドムっぽい虚飾の都市(劇中ではザナドゥ)もよかったし、そこを女装で歩き回るのもよかった。ああこの画面をずっと眺めてたいなっていう、快感がありました。
でもだんだん、こうストーリーや設定を説明しなきゃいけなくなってきて、テーマのための展開になってきちゃって、じゃあ目の前の映像じゃなくて、テーマでも観るかなってなってシフトしちゃうのは残念でしたね。
今回本を読んで解決した疑問は2つです。
なんでそもそもあの神様は父親から虐待を受けた、現代の女子高生じゃないといけなかったのか。そして、それが、高度にサービスが発展したことが、逆に人間をおとしめているフラクタルシステムとなんか関係してるのか。
調べてみると、どうやら原案の東浩紀としては、この神が、なぜ現代の虐待された少女だったのかという理由は最初から考慮されてなかったんですね(ust放送『コンテクチュアズ放送β vol.1 「はじめました!!!」 take5』)。ないのかよ!って感じですけど。そこに意味はなくて、それよりそのことによって、ナウシカ少女の身に降り掛かる、変態神父の罪。それが世界に肯定されてしまう、そのジレンマをみてくれと(『フラクタル オフィシャルログブック』P46)。そうなると、ナウシカ少女のプライドを守るか、全世界の人間の利便性(とか、これ以上の大量生産ガールズの犠牲を止める)のをとるかっていう、マイケル・サンデル先生の白熱! 正義教室みたいな話になったかと思いますけど。
実際の『フラクタル』では、その決断はナウシカ少女自身が、しかも半ば無意識な中で下してました。
さらに変更点ついでにいうと、天真らんまんドッペル少女と、ナウシカ少女は「主人公が、どちらかを選ぶ」という予定だったらしいんですが(前掲書P118)、これも合体して1人になるというふうに変わった。これは考えてみれば『モテキ』よりもさらに都合がいい話です。「みんなが好意を持ってくれるのはいいけど、本命の娘がいるのに、別の娘とやっちゃって気まずい! 対処しきれない!」という悩みすらなくて、もう女の娘の方で合体してくれちゃうという。「みんな込み込みオールインワン子」と結婚すればオールOKという悩みのなさですよね。
つまり、主人公はどんどん葛藤から自由になる方向に、変更されていった。
じゃあその変更後の『フラクタル』の世界で、この2つの設定がどう繋がるのかと言えば、それは『誰も悪意のある人間がいなくても、世界は最悪の場所になる』ってことでしょう。
監督が、「変態神父でさえ問題はあるけどがんばっている(前掲書P42)」って言ってましたけど、「うちの人も、娘を強姦さえしなければいい人なんだけどねえ」という、結構すごい話ですが、まあSFだし、社会常識が変わればそれもあるのかもしれない。それに仕事については、フラクタル世界を続けるための歯車として、変態神父はまじめに自分の役割をこなしている。さらにこの発見された儀式が固定化されれば、将来的には本当に善意から、世界のために、この虐待が繰り返されるようになるかもしれない。
サービス・デストピアの「フラクタルシステム」の世界だって、やっぱりそもそもは、みんなが幸せになればいいと思って作られたものです。Internetでみなさん廃人になりますが、それだって「ネトゲ廃人を量産してやろう!」と思って、internetが作られたわけじゃない。
世界は進歩すればするほど、巧妙に最悪の場所になっていくし、そこにエラーが入り込んで、最悪のことが繰り返されることもある。で結論は、もともとが善意をもって、みんなのために始まったこの社会なんだから、人が死ぬわけでもなし、魂の堕落くらいならそのままにしておいて、続けましょう。とそういうアニメですよね。やっぱり革命やめようという、結構すごいですよこれは、ゲバラ途中で帰宅みたいな。
東浩紀は「フラクタルがダウンして、すべてのバルーンが流星のように落下する」(前掲書P58)って最終回のイメージをなんとなくもっていたらしいんですが、確かにそれが観たかったですよ。そしてその次はこれだーみたいな。でもそれじゃあダメなんですよ! 「悪い奴を倒して、世界がぶっ壊れて、めでたしめでたしってね、そういう映画はもう作りたくないんです。」って宮崎駿が言ってますから。それを山本監督が選ぶわけにはいかないでしょう! だからあの、結局変わっていないというね。まあ『もののけ姫』と一緒ですけど、そういうエンディングはおもしろかった。
でもそのとき、やるべきことというか、仕事をしたのは全部ナウシカ少女でしたね。じゃあこの世界は続けましょうと決断したのは、ナウシカ少女。でも変態神父は個人的にほんとゆるせないからって殺しちゃったのも、ナウシカ少女。
主人公の男の子はナウシカ少女に会いたいとか、「君が好きだ!」とかそれだけです。そして、結婚しよう!とか言って、家に帰って料理作ってる。大事な仕事は全部ナウシカ少女がやって、男は家で家事。これぞ、現代男性の鏡なわけですよ! ペット系男子です! ナウシカ少女は将来キャリアウーマンとしてバリバリやっていけるし、主人公は主夫として完璧。子供が生まれたらこれは間違いなくイクメンになりますね。主人公は、ポスト・アシタカだった、それはペット系男子だった。そして『フラクタル』はポスト・ナウシカとポスト・アシタカの恋愛物語だったわけです。
ジブリを観て育った人間にとって、ジブリは世界より手前にある、世界がこうあるべき姿です。古い民家をみたら「うわートトロの家みたい!」と喜ぶし、屋久島に行ったら「ウオー、この森! もののけ姫だ!」ってなる。
宮崎駿はいつも、火に触れる、土に触れる、高いところから落ちそうになるとか、子供には一時的な世界に触れて欲しい、自分たちが作った二次的なコピーされた世界には閉じこもらないで欲しいということを言ってます。フラクタルを作りながら、テロリスト軍団の「新しき村」に住んでくれと主張してるのが宮崎駿なんですね。でもゲームボーイに夢中だった僕が、「森もおもしろいのかも」って思ったのは、やっぱりジブリがきっかけですよ。
フラクタルシステムというのは、主人公とか、フラクタル世界の人間たちにとってほとんど自分を囲む存在として自明のもの、自然環境の一部なわけです。それは物心ついたときからトトロや、ナウシカがあった世代にとって、その後も金曜ロードショーで定期的に放映されて、しかもまだ宮崎駿が生きてて、「引退する!」とか言いながら、新作も作ってくれているジブリも一緒なんだと。
だから、最終回の1回限りで終わっちゃうフラクタルシステムというのは、宮崎駿が寿命で死ぬまでのジブリなんだー! ジブリ大好きだー! ジブリの中で生きていきたいー! という山本監督の絶叫。そして、『フラクタル』のオチにはジブリは死んだ! もうぶっつぶす! と思って始めたけど、そして僧院まで行きますが、そこで僧院の祭祀長に「こっちも大変なんだー! 終わらすわけにいかんのだー!」って、実はこの実家ナウシカ長女の声優が、ほんとに宮崎駿のナウシカの声優やってた人って本で知って驚いたんですけど、とにかくそんなモノホン・ジブリ長女に、山本・ポスト・ジブリ少女は首しめられて、やっぱりやめよう! と、宮崎駿のジブリみてー! やっぱりジブリに囲まれてー! ジブリがいつまでも続いてくれー! とジブリファンの世界は残すことにする。でも、結婚して家庭はもたないとね。って、そしてみんなで故郷に帰って色々やりつつ、ジブリが無くなった後の世界に備えるという。そんな監督の人生に対する態度が現われてるんだという気もしましたけど。
ただ、いまオフィシャルHPの各エピソードのカット一覧を眺めながら、小津式、テーマ抜きで振り返ると、一番印象的だったのは風が吹いていたシーンですね。シリーズ中の凪と言っていた第5話の、飛行艇で主人公とナウシカ少女が話しながら、洗濯物がはためいていたシーンとか。第9話、みんないなくなったあと、主人公がドッペル少女とナウシカ少女を前にして「いつまでも、みんなと一緒にいられますように」と言ってたシーンとか。グッとくるとこには風が吹いていた。
ジブリ作品で、感情とともに風が吹くというのは有名な話ですが、『フラクタル』では、主人公の思い出になる場面には常に風が吹いている。これはよかった。
『フラクタル』ではこの第9話が、去年の3月17日に放送されたという偶然もありました。この回の「いつまでも、みんなと一緒にいられますように」というセリフは、「いつも、みんなで一緒に居る必要はない」という第1話から始まった本作の世界で、監督の出した一つの答えでしょう。本当の幸せはそっちなんだと。そして、それは最終話を迎えてかなえられていた。
かなえられなくなっていたのは、それが放送された週の、現実の日本の方でした。『フラクタル』は、日本で失われたものを、偶然ですが、でもそのまさに失われた週に放送していたというのを第9話のレビューの時にも書きました。
今公開してる、『生きてるものはいないのか』(石井聰亙あらため石井岳龍監督)って素晴らしい映画があるんですけど、これに『フラクタル』の主人公みたいな、すごくナヨナヨした男が出てきます。メガネ男子で、女の子2人と「どっちと結婚するのよー」と絡まれ続けて、「えー」とか言ってる。この映画はしばらく観てるとそんな優柔不断男子を含め、登場人物が脈略も理由もなくどんどん死んでいくんですね。これこそ『フラクタル』の未来に待っている世界なんじゃないでしょうか。
『フラクタル』には、震災によって奪われてしまったもの、それが映っていました。『生きてるものはいないのか』には震災のあとの『禁じられた遊び』みたいな祈りがある。どちらも震災前に製作が始まった作品ですが、『フラクタル』見終わった人はぜひ、『生きてるものはいないのか』も観てみて欲しいですね。
山本監督の『君たちはどう生きるのか』。それは、ジブリは観ていいから結婚しろと。いつまでもいっしょにいたいと思う人と暮らせと。そう受け取りました。
文=ターHELL穴トミヤ
『フラクタル オフィシャルログブック』
関連リンク
フラクタル - FRACTALE - 公式サイト
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12.03.11更新 |
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『フラクタル』全話レビュー
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