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「お絵描き文化」の特異な発達を遂げた国、日本。「人は何のために絵を描くのか」、「人はなぜ描くことが好きに/嫌いになるのか」、「絵を描くとはどういうことなのか」――。さまざまな形で「絵を描く人々」と関わってきた著者が改めて見つめ直す、私たちと「お絵描き」の原点。
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絵を描く人々 第6回 演出と詐術の世界にようこそ

「だまし絵」というジャンルがある。一見人の横顔、しかしよく見ると、各部位は全部リアルな野菜。17世紀のイタリアの画家、アルチンボルドの絵だ。浮世絵にも同様の、さまざまなポーズをとった人体で顔が構成されているユーモラスな騙し絵がある。
エッシャーの精密なイリュージョンの世界に魅了された人は多いだろう。ダリ、マグリットといった画家たちもだまし絵的な手法をよく使っている。トリックアートと言って、建物の壁面に本物そっくりの窓や扉を描く画家もいる。「本物みたいだけど全部嘘っぱちだよ」という見せかけ系、「見る角度や照明の当て方で見え方が全然変わるよ」という限定状況系などいろいろだ。

現実を二次元上にそっくりに描いて、人を欺く絵。だます、欺くというと言い方は悪いが、写真が登場する前、絵画はおしなべてそういう要素、役割をもっていた。「あたかもそこにあるかのように」ということに、多くの画家はエネルギーを傾注した。
そして現在、だまし絵やトリックアートの展覧会は大人気。観客は、わざわざお金を払ってだまされに来ている。みんな、絵の中で駆使されているさまざまな「だましのテクニック」、つまり「演出と詐術」を楽しみに来ているのだ。そこで絵とは、被害者のいない詐欺行為と言えるかもしれない。

「だましのテクニック」の最たる物語映画を例にとってみよう。スクリーンに映し出された風景や物。喋り、動き回る人々。それはもちろん現実そのままの姿ではなく、原案がありシナリオがあり、事物や人は周到に配置され、カメラで切り取られ編集され時にはCG処理された、現実とは異なる虚構=嘘の世界だ。映画ほど「演出と詐術」が高度に結晶化した表現形態はない。それを重々知っていて私たちは物語に没入し、感動したり、「世界はこんなふうにも捉えられるのか」という新しい視点を得たりする。そういう物語映画が傑作と呼ばれる。
同じように、世界をある視点から切り取って見せようとしてきた絵画の最前線は、そのお株を写真に奪われた後、絵は絵にしかできないことをするのだと抽象に向かって行ったが、一方で「あたかもそこにあるかのように」リアルに描く技術が完全に手放されることはなかった。むしろ多くの人々にとって、絵の技術とは「高度な再現技術」であり続けた。
それで現在でも、自由自在に絵が描けるようになりたい人々は、三次元の対象を二次元上にリアルに再現するためのデッサン訓練から始めることが多いのだ。

以前、デザイン専門学校で受け持っていた基礎デッサンのカリキュラムの中に、幾何形態があった。立方体、円柱、円錐、四角錐、三角柱、球......。誰でも大抵一度は描かされるモノだ。
「自然界にあるのは円柱と円錐と球だ」というセザンヌの有名な言葉があるが、デザイン方面ではまず立方体が描けないことには話にならないようで、「とにかく全員、立方体をちゃんと描けるようにしてほしい」と、私が担当していた1年生の専任の先生に言われている。
立方体? そんなの簡単だよ誰でも描けるよと最初のうちは思っていた。ところが甘かった。

何の前知識もない状態で立方体を描かせてみると、半分くらいの学生が、まず正方形を描き、その三つの角から斜めの平行線を延ばして奥行きを作り輪郭を閉じる。「これはありえない世界。空間が歪んでる」と言うと、とても不思議そうな顔をする。
立方体の一面が完全に正方形に見えるのは、立方体が自分の目の高さにあり、一面以外はまったく見えないポジションだけであること、二面以上見える状態では必ず遠近感が生まれることを説明して、やっと納得してくれる。

こうして、一点透視、二点透視などパースペクティヴ(線遠近法)の説明に入り、次に合理的な描き方、技法の説明。立方体はこの順序でこう組み立てれば間違いない。円柱の立体感のつけ方はこうやるのが一番シンプルできれいで早い。この型さえ覚えれば何でも応用できるし、どんなものでもササッと描けるようになるんだからねと。
「とにかくよく観察して形を合わせなさい」だとすごく遠回りになるし、描くほうはとてもしんどい。だから最初に理屈と描き方の型を徹底的に叩き込むのだ。
これはもう伝統芸のようなもので、大昔の人は直接絵から学んだり師の助手をしながら技術を盗んだりして、それをまた次の世代が見て覚えていくというサイクルがあったのだろうが、今では一律教室でプリント配って、ホワイトボードに図解説明。

一通り説明した後で、「わかったね?」と言うと、皆「大体わかった」という顔をしている。
そこで実際に幾何形態モチーフを幾つか渡し、テーブル上に配置させて描かせると、全然わかってない学生がいることが判明する。
たった10センチ角の立方体に異常にパースがついてマンガみたいになってしまったり、理屈が吹っ飛んで逆パース(奥に行けば行くほど大きくなる)で描いていたり。今覚えたばかりの頭の中にある理屈と、目の前の事物をうまく一致させることができないのだ。
指摘されて描き直すのが嫌なのか、「だってそう見えるんだもん」と口を尖らせて強弁する学生がいる。「へぇすごい。じゃあここだけ空間に歪みがあるんだ」。周りの学生が笑い出す。ヤなこと言う講師だな。
何度描き直してみても、蹴飛ばしたダンボール箱のような形の立方体になってしまう学生もいる。本人もおかしいのは自覚しているが、何をどうしていいかわからない。「もうダメだ、立方体がゲシュタルト崩壊してきた」。そのために理屈学んだんでしょ?とは思うが、すぐには使いこなせないのだから仕方ないか。

もちろん線遠近法は、ものの見方の一つに過ぎない。外界が常にその法則にぴったり合った形で見えているとは限らない。
たとえば小さい子どもには好きなものが大きく目立って見えるだろうし、精神状態によってはモノが歪んで見えることもある。ちょっと目玉を動かすだけで輪郭がブレて見えることがある。そんなに明暗がはっきりしなくて遠近感がわかりづらい場合もある。
目の前のリアルは、常に混沌としている。そして時々ゲシュタルト崩壊する。線遠近法は、それに立ち向かうための戦略であり、型であり、技法だ。それを身につけ使いこなした後で、別の見方、型、技法を学ぶことができる。

さて、立方体をなんとかクリアすると、今度はいろいろな形、素材の物を複数組み合わせて描く。一個の物の形の正確さ、立体感だけでなく、複数の物が同一空間にあるように、空間全体を統合しつつ奥行きを出さねばならない。
見ているものすべてを克明に描写すれば立体感や奥行きが出るかと言うと、もちろんそうではない。初心者の場合に顕著だが、対象の細部の一つ一つを思い切り凝視して、思い切りきちんと描こうとした結果、手前も奥もすべてのところにピントが合ってしまった平板な絵になる。どこもかしこも克明に描写しきろうという情熱が、かえって足かせなのだ。

「これだけ見て描いているのに、なんか物がバラバラになってしまう」と言う学生に、「見るだけでなく感じて描け」などと言っても無理。対象を凝視し過ぎた彼は「いろんなものが見えてきて、奥行きがあるのかどうかもよくわからなくなった」と呟く。
そこに奥行きがあり、物は一つの空間の中で統合されていると信じられるのは、経験的にそのことを「知っている」からだ。知っているのは脳。脳には「空間は統合されている」「世界はバラバラではない」というお約束=信頼がインプットされている。それは、改めて意識化できるようなものではないくらい、深いところにインプットされている。「知っている」とはそういうことなのだ。
自分が「知っている」ことを知ることができず、どう描いたら「今、自分が見えているように」なるのかと悩んで、学生の手は止まってしまう。

これが、三次元の物を三次元に再現する場合なら、まだ話は簡単だ。そこに存在している対象の質量とバランスを、とりあえずそのまま忠実に粘土の塊に置き換えればいい。「彫刻」として良いかどうかは別として、一応物としての形状は近くなる。
興味深いことに、写真を元に絵を描くという課題では、学生達は案外楽そうだった。目の前の人や風景を見て描く(三次元→二次元)より、人や風景の写真を見て描く(二次元→二次元)方が難しくないのだ。三次元を、一つ次元を落として二次元に再現する時に、大変になる。

モチーフ台の上に、壜や立方体やリンゴなどいくつかの物が置かれている。見ている分には別に複雑怪奇な情景ではない。それを、尖った鉛筆で白い紙に、あたかもそこに空間や奥行きがあるかのように描けと言われる。
真っ白な画用紙の平らさ、すべらかさ。無表情で徹底的に均質な二次元平面が、目の前に広がっている。視線が弾かれどこにも焦点が絞れない。それはほとんど「壁」だ。鉛筆5、6本で、そのとりつくしまもない白い「壁」と闘わねばならないのだ。奥行きのある空間に見せかけるために。
輪郭を描いてちょっと陰影をつけたくらいでは、「壁」はびくともしない。頑張って描き込んでも、少し離れて見るとぺったんこだ。描いたところより、空間であるべき余白の地のほうが、よほど「強く」見える。描いても描いても紙の二次元性に負ける。だんだん画用紙に嘲笑されているような気分になってくる。

真っ白な四角い紙が、デッサン初心者の学生にどれだけ心理的なプレッシャーを与えるものか、最初想像がつかなかった。
ある時学生が「描き出す前の画用紙って、なんかこわい」と言っているのを聞いて、人間にとって二次元は三次元より手強いのだと改めて思った。私たちは二次元ではなく三次元に生きているのだから、当然かもしれない。
そう言えば、「二次元に生息している虫がいたとして、その虫に三次元とは何かを教えようとしても無駄」という小咄を読んだことがあったが、どこでだっただろうか。

結局、学校では手っ取り早く「だましのテクニック」を教える。
手前を克明に書いたら背後はその7割の描写で押さえるとか、物の側面や回り込み部分の彩度を落とすとか。こうした技法は、いかにもそこに奥行きがあるかのように見せ、紙の二次元性を忘れさせるのに必要な詐術だ。
三次元世界を二次元上に再現するとは、「世界を再現的に演出する」ということ。違和感なく自然に見える絵とは、すべてをバカ正直に写し取ったものではなく、そうした作為の塊だということを知って、学生はだんだん画用紙に向かうのを怖れなくなる。

ルネサンス期に発明されたパースペクティブは、中世までの美術に見られた「神の視点」を、科学的な「人間の視点」へと移行させたものだった。それ以降、キリスト教の神様の目を代理して構築された世界は、絵画表現からなくなった。
でも、神様は依然としている。それは「人間の視点」の中に遍在し、世界を統合している。統合されていることを信じて私達は普通に物を見、生活していける。
「見えている物を知っているように(信じているように)」描くために考案されたさまざまなリアリズムの詐術は、「物は空間の中に統合されている」「世界はバラバラではない」というお約束=信頼と共犯的に手を結び、それを補強しているのだ。

細部がバラバラだった画面に何とかまとまりをつけ、統一的な奥行き感が出せるようになった学生の後ろに立って、「神が降臨したね」と私は言った。「うまいこと騙せるようになったね」と。鉛筆をサクサク動かしながら、「騙すコツがわかった」と彼は答えた。


スニーカーは、小学校中学年~高学年の図画でよく出てくるモチーフではないでしょうか。履き慣れたスニーカーを改めて観察して描く。少しくらい絵が下手でも、それがくたびれた感になって良い味が出るものです。それはそうと、前回書いたように、デッサンの方法を知っている者の描く左手の絵は、本質的に右手と変わりません。せいぜい「手がちょっと震えるようになった絵描きの絵」でしかない。なぜなら絵とは脳で描くものだから。「上手く描けるか描けないか」というのは、技術以上に、脳=認識の問題なんですね。

絵・文=大野左紀子

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絵を描く人々
第1回 人は物心つく前に描き始める
第2回 「カッコいい」と「かわいい」、そしてエロいvs
第3回 絵が苦手になる子ども
第4回 美大受験狂想曲
第5回 人体デッサンのハードル

『あなたたちはあちら、わたしはこちら』公式サイト

大野左紀子 1959年、名古屋市生まれ。1982年、東京藝術大学美術学部彫刻科卒業。2003年まで美術作家活動を行った後、文筆活動に入る。
著書は『アーティスト症候群』、『「女」が邪魔をする』、『アート・ヒステリー』など
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16.10.01更新 | WEBスナイパー  >  絵を描く人々
大野左紀子 |