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「お絵描き文化」の特異な発達を遂げた国、日本。「人は何のために絵を描くのか」、「人はなぜ描くことが好きに/嫌いになるのか」、「絵を描くとはどういうことなのか」――。さまざまな形で「絵を描く人々」と関わってきた著者が改めて見つめ直す、私たちと「お絵描き」の原点。絵という絵の中で一番面白いモチーフは、「顔」だと思う。それも、モデルが実在の人の場合。
顔には、善かれ悪しかれその人自身の歴史が滲み出るという。彼/彼女を描いている絵描きとの関係、描かれたシチュエーションなど、周辺情報も掘り出すと興味深いものだ。
顔を描いた中でもポピュラーなのが、自画像と似顔絵だ。前者は学校の美術の課題によく出るし、後者は多くの人がわりと気軽に描いている。ただこの二つ、同じ顔とは言え、かなり種類の違うものだ。
たとえば、自画像はある程度時間をかけ克明に描く場合が多く、似顔絵は比較的短時間でモデルの特徴や雰囲気を掴んで描く。
自画像は鏡を見ないと描けないが、似顔絵は目の前の本人、時には写真を元に描ける。
自画像は多くの画家が修練の一貫として描いてきたもの、似顔絵は雑誌の挿絵として使われたり、イラストとして販売されたりするもの。
しかし絵を描く人にとって、両者の一番大きな違いは、描いている時の心持ちの違いである。
中二の夏休みに学校の課題で初めて自画像を描いて以降、美術を志した私は、10代のうちに何枚も自画像を描いた。
自分の顔は鏡を通してしか見ることができないので、描いていてどこかもどかしさがある。それだけでなく、鏡を覗き込むたびに「もっと鼻がしゅっと高かったらな」「もっと目がパッチリだったらな」「どこまで上手く描けても元が元だし」というコンプレックスに苛まれがちになる。
ありのままの自分の顔を平常心で直視し、そのまま再現するという作業は、案外難しい。リアルに描きたいという欲求と、ちょっとだけ美人/イケメンっぽく描きたいという煩悩。自画像とは、自意識の葛藤の産物だ。
高校の美術科に入って描いた油絵の自画像は、病気のように真っ青だった。ブルー系とジンクホワイト以外の色を使わないという極端さだ。アトリエで上級生が私の絵を見て「ピカソの青の時代?」「まあ一度はやりたくなるもんだよな」と、少し笑いながら言っているのを聞いて、その通りだったので恥ずかしくなった。しかも17歳の私の顔はテカテカと健康そのもので、ブルーでアンニュイな雰囲気など微塵もなかった。
自画像って油断すると自意識がダダ漏れになるんだということに、その時やっと私は気付いた。
私は画家ではなかったので、自画像は学生時代で終わったが、デザイン専門学校のマンガコースで自画像デッサンの指導したことがある。これがなかなか面白かった。
もともと上手い生徒は、放っておいても大丈夫だ。彼らは自分の顔だろうがリンゴだろうが立方体だろうが、ひたすら観察者の立場でどんどん描き進めていく。「葛藤」はあるのかもしれないけど、あまり見せない。毛穴まで描く勢いで描写している学生もいる。
もともと下手な生徒の指導も楽だ。下手で絵になってないという自覚があるので、何を言われてもあまりへこたれない。
難しいのは、ある程度描けて、ある程度自分のスタイルもできている学生。
それなりには形になっているのだが、ちょっと幼女っぽい丸顔になっていたりする。しかも目が実物よりかなり大きめ。鼻はちょこんと小さめ。なんとなく、アニメ絵的に理想化した自分を描いているような感じ。
これが静物デッサンなら「このリンゴはもっと小さいし、立方体はもっと大きい。これではバランスが狂ってる」とはっきり言える。が、自画像に対して「あなたの目はもっと小さいし、鼻はもっと大きい。これではバランスが狂ってる」と直裁に言うのは結構勇気がいる。その画面に、ナルシシズムとコンプレックスの戦いがなまなましく刻まれているのが、よくわかるだけに。
結局、「もっと大人っぽい骨格だよ。頬骨はこの位置でしょ......鼻ももっと高くてしっかりした形しているし......この間に眼球が入るからこんな感じで......」とか言いながら少し手直しする。
学生の自画像を観察していると、どうしても10代の頃の自分を思い出す。
自分が自分の顔に見つけたいものはなかなか見えない。発見したくないものばかりが目につく。ちょっと美化のスクリーンを被せてみたくなる。ああでも私ってこんな美人じゃない。
暴れ回る自意識をねじ伏せて、外形のリアルを見極めたいという欲求が勝った時に、やっと自分の顔が真っすぐ見られるようになる。そうやって描かれた自画像が教えてくれるのは、「なにもかもが外形に宿っている」という真実だ。
一方、他人の似顔絵の場合、描き手がそういう自意識に苛まれることはない。風刺画として描くなら少し残酷な誇張を施し、本人に頼まれて描くなら、基本そっくりで多少美人/イケメン風味を足してみる。ちょっと演出するだけで、老若男女誰でも「いい感じ」の顔になるものだ。
やはりデザイン専門学校で、学生同士が互いにモデルになり合ってクロッキーをする時間、私も学生たちに混じってモデルになっている子の顔を描いたことがある。
一枚描いたら「私も描いて」「私も」となって、みんなすごく喜んでくれるので、似顔絵描きになろうかと一瞬思った。人の顔を描くのは楽しい。でも、趣味で描くから楽しいのであって、これが毎日の仕事だったらしんどくなるかもしれない。
この数年の間に描いた顔で一番心に残っているのは、父の肖像画だ。肖像画と言っても油絵ではなく、鉛筆だけのモノクロ画。介護施設に入所して一年と数カ月の父の余命がもうあまりないことがわかり、元気な頃の写真を見て絵を描いてほしいと、前から母に頼まれていたものだった。
父が70歳を少し過ぎた頃の、手札サイズのカラー写真に映った縦横数センチくらいの顔を、F6サイズの画用紙にひたすら鉛筆で写し取りつつ、適宜抑揚を加味していった。
学生に指導する以外、絵など描くのは久しぶりだったが、やり始めたら結構楽しかった。ちょっとまだ似てないな、まだだなーと思いながらあれこれやっていって、ある時点から突然、嘘のように似てくるのが面白い。所要時間4時間ほど。
近くの画材店に持っていって、額装してもらった。白木のフレームと薄いグレーのマットで、やや地味なデッサンもそれなりな感じになった。
久々に集中したせいで、似方がちょっと気持ち悪いレベルになっちゃったかもと思いつつ、実家に絵を持っていった。母は一目見るなり口に手を当てて、「お父さんだ......お父さんだ......」と言いながら泣き出してしまった。
その一年余り、急速に衰えてかつての雰囲気をすっかり失った父を見続けてきた母には、突然20年近く前の元気な父が現われたように感じてショックだったようだ。
しばらくしてやっと興奮が収まった母は、「最近、家の中で話し相手がいないのがほんとに淋しくなってきて、あの仏像(父が昔買った怪しい骨董品)に「おはよう」とか「今日はいい天気よ、お父さん」って話しかけてたんだけど、これから毎日この絵に話しかけるわ。だってこれお父さんだし」と言った。
仏像も絵も、「お父さん」と思い込めば「お父さん」になるのである。
それからしばらくの間、私は家族の顔を描くのにはまって、義父と義母の顔、夫の顔などを写真を見ながら描いた。そっくり+ちょっといい感じに描いて喜んでもらえるのは、こっちも嬉しいものだ。
そして去年、母の顔を描いた。母は私と違い、美人である。「80近くなっても、美人だったということは顔に刻印されているものだなぁ」と思いながら、皺の一本髪の毛一本まで丁寧に描いた。自分でも出色の出来だった。
これは喜ぶだろうと思い、「どう?」と本人に見せると、「あら、私、こんな美人じゃないわ。こんなに若くない。目はもう少し小さいし、小鼻はもうちょっと張っているわよ」と冷静に批評するではないか。
言われてみれば確かに、少し若い頃の母の顔になっている。目が必要以上にキラキラと輝いて、「修正済みの写真」感が漂っていると言えないこともない。
(元)美人というのは凡人が思う以上に、自分の顔を平常心で観察し冷静に評価しているのだろうか。それとも母くらいの歳になると、顔を巡る煩悩とはもう無縁なのだろうか。
「描き直すね」と言ってからもう一年半。どんどん老いていく母の「人生の何もかもが外形に宿っている」顔。第一印象は違うものの、やはりどこか自分と共通点のある顔。それをとことんリアルに描きたいような、そこまで冷酷に描くのは避けたいような、複雑な心境でいる。
絵・文=大野左紀子
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16.11.05更新 |
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