Criticism series by Sayawaka;Far away from the“Genba”
連載「現場から遠く離れて」
第四章 事件は現場で起こっているのか 【2】ネット時代の技術を前に我々が現実を認識する手段は変わり続け、現実は仮想世界との差異を狭めていく。日々拡散し続ける状況に対して、人々は特権的な受容体験を希求する――「現場」。だが、それはそもそも何なのか。「現場」は、同じ場所、同じ体験、同じ経験を持つということについて、我々に本質的な問いを突きつける。昨今のポップカルチャーが求めてきたリアリティの変遷を、時代とジャンルを横断しながら検証する、さやわか氏の批評シリーズ連載。
そうした中でロボットアニメはもちろんアニメ全体、さらには多くのフィクションを次代へと歩ませる形となったのが『エヴァンゲリオン』というテレビアニメだった。この作品は様々な形で過去のフィクションを更新することになったが、ここでは押井守の『パトレイバー』にあったようなリアリズムの過剰さが、このアニメでどのように転化されたかだけを指摘しよう。『エヴァンゲリオン』にはロボットに搭乗することになった碇シンジ少年と、それを管理する「ネルフ」という組織の責任者である父親が登場する。突如攻めてきた謎の敵に立ち向かうため、シンジは父から「エヴァンゲリオン」というロボットに搭乗するように命じられるのだ。この筋書きはロボットアニメとして実に定型的なもので、たとえば前章でロボットアニメの始祖としてわずかに紹介した『マジンガーZ』もやはり第一話で少年が肉親からロボットを与えられるし、最初にロボットを自由に操作できない点すら『エヴァンゲリオン』と同じである。
しかし全く異なるのは、主人公のシンジはそもそもなぜ自分がロボットに乗らねばならないのか全く理解できない、乗りたいとも思っていない、ということだ。ただの中学生であった者が、いきなり謎の組織に招かれてロボットに乗って戦えと言われても、そんなことができるわけがないというのである。
つまり、『エヴァンゲリオン』とは、荒唐無稽なロボットアニメが現実に存在すれば人はそれに適応できないというリアリズムを持った物語なのだ。それは押井守が『パトレイバー』で描いたものより一つ上のメタレベルにあるリアリズムだと言ってもいい。押井守は『ミニパト』の中で、「ロボットアニメの世界はリアリズムに反した荒唐無稽なもので、そんな世界は存在しない」という意味のことを後藤に言わせているが、『エヴァンゲリオン』は実際にそのような荒唐無稽な世界が存在してしまったら人間はどうなるのかを描いているというわけである。さらに『エヴァンゲリオン』において、父が所属する「ネルフ」には「ゼーレ」という上位組織が存在し、国防としての、あるいは世界規模での戦略としてエヴァンゲリオンの運用は決定されている。その中にあって一少年であるシンジの意志は頓着されない。カフカが『審判』(1927)において、何の理由もなく唐突に逮捕される人間を描くことでむしろ現代社会の不条理に肉薄したように、『エヴァンゲリオン』は構成員の意志決定能力が働かない巨大な組織として「ネルフ」を描くことで、主人公が理不尽に戦いに巻き込まれていくというリアリズムを構築しつつ、そこでシンジ少年が果たして荒唐無稽な物語の主人公になるのかを物語の大きなテーマとしたのである。
『踊る大捜査線』はしばしば、警察を徹底的な縦割りの組織として設定し、組織内部での対立を描いたことが特徴であると賞賛される。つまり実はその設定こそは『パトレイバー』と『エヴァンゲリオン』を発展させたものだと言っていいだろう。警察内部において主人公は一地方公務員であり、荒唐無稽なドラマを生きることができないというエピソードが、『踊る大捜査線』の第一話においてそのまま登場する。サブタイトル「サラリーマン刑事と最初の難事件」にある「サラリーマン刑事」とはむろん青島のことである。彼はIT企業の営業マンだったが、他人に感謝されず刺激もない仕事に嫌気が差して脱サラし、警察官になった。しかし交番勤務を経て刑事になってみると、そこに望んだ世界はない。彼はドラマ冒頭で取調中の犯人に対してカツ丼を勧めたりして、警視庁の指導教官から「刑事ドラマの見過ぎ」と言われてしまう。現実には殺人事件はほとんど起きないし、起きても警察署同士が縄張り争いをして事件の管轄を主張しあったり、警察署長が本庁からの来客に対して熱心に接待を行なったりする。また重要事件の捜査にあたるのは「本店」と呼ばれる警視庁から派遣された捜査一課であり、「支店」と呼ばれる所轄署は捜査本部の設営や資料のコピー、炊き出しなどの下働きしか求められない。「本店」の捜査官らは高圧的で「支店」の警察官が独自に調べた情報などに耳を貸さずに絶対服従を強いている。青島は、刑事ドラマの主人公として生きるために刑事になったのに、刑事ドラマに登場するような刑事など現実にはいないのである。青島のような人物がまさに刑事ドラマである『踊る大捜査線』の中に登場するというメタ視点に配慮した設定には、ロボットアニメの中でロボットアニメの主人公になることを拒否した『エヴァンゲリオン』のシンジと同じ問題が、逆の形で描かれていると言っていいだろう。
シンジとキャラクターの志向としては正反対だが、巨大な組織の中でがんじがらめになり「いわゆる刑事ドラマ」のようなヒーローとして働くことのできない青島は、ロボットアニメを生きることのできないシンジと重ねることができる。しかし青島は第一話の最後で、彼自身のぼやいた刺激のない毎日について、自首した犯人から囁かれる。
「あんたに言いたいことがあって自首した。俺も同じだった。刺激なかった。でもそっちも刺激ないんでしょ」
これに対して青島は「あるよ。毎日ドキドキしてる」と強がって見せる。さらに同僚に対して「俺があいつになってたかもしれない」「俺、ちょっとやる気出てきちゃいました」と言うのだ。つまり彼はヒーローになれない日々の中で、それでもヒーローになるという、シンジとは違った道を模索する決意を見せるのである。
ところが『踊る大捜査線』は必ずしも『エヴァンゲリオン』のように青島個人がヒーローとなるか否かというテーマを深めていったわけではなかった。どういうことだろうか。実はこのドラマには、開始当初から「ヒーローとして生きられない主人公」というテーマだけでなく、老刑事と青島の世代的対立と交流、女性署員とのほのかな恋愛、そして「本店」と「支店」の間にある軋轢など、比較的大きなテーマが複数ちりばめられていた。それがどのような意図で用意されていたかはわからないが、おそらくドラマの視聴率の推移に応じて物語のテーマを視聴者好みのものに絞っていこうという狙いがあったものと思われる。いずれにせよ、第一話で示された「ヒーローとして生きられない主人公」というテーマは次第に遠景化し、物語はそれと近い位置にありながらも微妙に異なる、「本店」と「支店」の軋轢をこそ作品のテーマとして選んでいくのである。そこで大きく参考にされたのが『パトレイバー』、とりわけ押井守が監督したアニメだった。例えば、劇場版『パトレイバー』の二本にはどちらにも警視庁の上官たちの会議に召喚されたパトレイバー隊の隊長たちが叱責され、すげなく意見を否定されるシーンがある。この構図はまさに『踊る大捜査線』で「本店」と「支店」の関係として描かれているもので、それは実は『パトレイバー』を完全に模倣していたというわけだ。しかし両者が決定的に異なるのは、前章で紹介したとおり『パトレイバー 2 the Movie』が改竄の可能性に晒されるメディアを前にして管理下へ理解を示さず、有効な指示を与えられない上層部が描かれたのに対して、『踊る大捜査線』では押井守がこだわっていた現実と虚構が混濁していくというモチーフが取り去られ、警察組織の官僚主義的な権力構造のせいで捜査が暗礁に乗り上げるという筋書きだけが強調されていったのである。
文=さやわか
第一章 ゼロ年代は「現場」の時代だった
第二章 ネット環境を黙殺するゼロ年代史
第三章 旧オタク的リアリズムと「状況」
第四章 事件は現場で起こっているのか
さやわか ライター、編集者。漫画・アニメ・音楽・文学・ゲームなどジャンルに限らず批評活動を行なっている。2010年に西島大介との共著『西島大介のひらめき☆マンガ 学校』(講談社)を刊行。『ユリイカ』(青土社)、『ニュータイプ』(角川書店)、『BARFOUT!』(ブラウンズブックス)などで執筆。『クイック・ジャパン』(太田出版)ほかで連載中。
「Hang Reviewers High」
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11.07.03更新 |
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