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「エネマレイプ 手芸店の女」
エネマレイプの実体験記『太陽と赤いハイヒール』『隣室の受浣者』を寄稿をした逸木登志夫氏が、尚も秘蔵していた禁断の記憶について書く背徳告白第3弾。手芸店で働く肉感ボディの未亡人は、いかにしてエネマレイパーの餌食となったのか……。『S&Mスナイパー』1982年5月号に掲載された読者投稿を再編集の上で全四回に分けて掲載します。
旧友達の招きに応じ十何年ぶりかで京都の地を訪れた私は、古都の変貌に驚きの目を見はり、一週間の滞在期間中、なつかしい思い出の地を歩き廻ったのであった。私が学生時代下宿していた北区の舟岡山近くのお寺は既に息子さんの代となっていたし、またあちこちで私を覚えていてくれた人達とめぐり逢えることが出来て皆非常に懐かしがってくれたものであった。
貴誌上で過去の女性達の告白をした私は友人達から彼女らの詳細をそれとなく知らされたのであるが、私とかつてプレイした彼女達の内二人は運命の悪戯か、すでにこの世の人ではなかった。先ごろ紹介した伏見に去った木口佐代子もその一人であったが、その時の啓ちゃんという子供が、今は立派な青年になっていることを知って、それがせめてもの慰めとなったのである。
その他の女性達に電話をかけてみたところ、彼女達の誰もが「いやあ!(まあ!の意)あんたか! 今、どうしてるんえ?」などと大いに話に身が入ったが、私としては彼女達の現在の幸福を願って逢ってみたりはしなかったのである。
さて、以前右京区のアパートで前述の木口佐代子の隣室にいた私は、そこから七条通り京都駅近くの某手芸品問屋に通勤していたということを書いたが、今回は、その店で私の十人目の施浣対象となった邑田恵美子という三十代の美しい未亡人について述べてみたいと思う。
その高田商店という店に私がいたのは、昭和38年から39年にかけての短い期間であったが、何ぶんにも手芸問屋という特殊性から、いろんな女性の知り合いなども出来たのであって、私の人生史上では非常に思い出深いところであった。
京都駅の付近を歩きまわった折、七条近くのその店の前も通ったのであるが、ほとんど人も変っていることと思って敢えて寄らなかった。近くには七条通り油小路というところがあり、ここは、読者の中には幕末の新選組の実話など好きな方もいられると思うが、新選組から分派した伊藤甲子太郎が暗殺され死体を放置されていたところである。収容にきた伊東派と新選組とが大乱闘を演じた場所であり、その角に何百年も前から続いているという縄や荒物を商う店があって、当時の人が月光の中でその乱闘を見たという実話が残っている。
私が手芸問屋に働いていた時も、その店が残っていて、往時に乱闘を見た人の子孫が経営しているそうであった。
さて、手芸店の店員構成は外交が五人。内働きの事務員(女)が四人、荷造りの係が私のほかに、どこかの工場の守衛で停年退職してきた人の十一人であった。外交といっても市内を廻るのでなく、彼らは北海道から九州まで受持範囲が定まっていて、月の半分はトランクに見本を入れて得意先に出張していくのである。
私は何をやっていたかというと、何分にも新入りであったから、各地から送られてくる注文書によって二階の倉庫から店員下ろしてくる品物をダンボール箱に詰めて荷造りし、トラックで受け取りにくる運送店に渡すのであった。
主人は五十五、六才の人で二年前に脳溢血で倒れ、どうやら回復したという人で、身体が不自由なために三階に家族が住んでいるのであったが、本人はほとんど店にも下りてこなかった。何事につけ犬番頭みたいな人が報告に行くのである。
述べ遅れたが建物の構造は一階が店、二階が倉庫、三階が家族の部屋というものであった。
(続く)
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