Criticism series by Sayawaka;Far away from the“Genba”
連載「現場から遠く離れて」
第四章 事件は現場で起こっているのか 【3】ネット時代の技術を前に我々が現実を認識する手段は変わり続け、現実は仮想世界との差異を狭めていく。日々拡散し続ける状況に対して、人々は特権的な受容体験を希求する――「現場」。だが、それはそもそも何なのか。「現場」は、同じ場所、同じ体験、同じ経験を持つということについて、我々に本質的な問いを突きつける。昨今のポップカルチャーが求めてきたリアリティの変遷を、時代とジャンルを横断しながら検証する、さやわか氏の批評シリーズ連載。
ここには、ゼロ年代の中盤にかけて主に若年層向けのフィクションにおいてブームとなる「セカイ系」と呼ばれる物語ジャンルの萌芽が見られるようだ。セカイ系とは何だろうか。このジャンルについての典型的な解説は以下のようなものになる(※38)。
それは、ひとことで言えば、主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(「きみとぼく」)を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な問題に直結させる想像力を意味している。典型的な作品としては高橋しんの2000年から2001年にかけてのマンガ『最終兵器彼女』、新海誠の2002年のアニメ『ほしのこえ』、秋山瑞人の2001年から2003年にかけての小説『イリヤの空、UFOの夏』が挙げられることが多い。
もちろん「きみとぼく」も「この世の終わり」も描かれない『踊る大捜査線』は、セカイ系とは全く違った物語であり、全くそのジャンルの枠内にあるとは言えない。しかしここで「社会や国家のような中間項の描写を挟むこと」をしないセカイ系の物語がのちに盛況を迎えるまでの過程として、我々は『踊る大捜査線』を位置づけることができるというわけである。ことに、『パトレイバー』までのアニメが「国家」や「戦争」といった中間項を描こうとしていたのに対して、『エヴァンゲリオン』からはそれが完全に捨象されているのを見る時、両者を折衷する形で後から登場した『踊る大捜査線』によって、むしろそこに失われた連続を見出すことができるのである。人が組織の中にあって、その活動が「日本」や「戦争」といった単位につながっていることを意識しなくなる。90年代後半から大ヒットを飛ばしたアニメと日本映画の両方に、我々はそのような意識を見ることができるのである。
いずれにしても、『踊る大捜査線』は『パトレイバー』から「日本」や「戦争」を捨象しながら、上層部と末端の対立構造だけは作品のテーマとして維持する。その象徴として『THE MOVIE』に登場するのが「事件は現場で起こっている」という有名な台詞なのである。連続ドラマ版の『踊る大捜査線』の監督であり劇場版も手がけた本広克行は、文庫化された漫画版『パトレイバー』の巻末に寄せたエッセイで「『パトレイバー』は『踊る大捜査線』の教科書です」と題して次のように書いている(※39)。
これは、雑誌などのインタビューで何度か口にしてきたんですが、『踊る大捜査線』は、かなり『パトレイバー』に影響を受けています。たとえば、「事件は会議室で起こっているんじゃない! 現場で起こってるんだ!」という青島刑事の台詞に集約されているのです。
「集約されている」という言葉から、『踊る大捜査線』スタッフが『パトレイバー』に何を見ているのかは明らかだろう。ここにあるのは強固な官僚主義によって硬直化した現体制に対する憤りという、『パトレイバー』をいくぶん単純化した、もしくはその一面を取り出した「現場」からの上層部批判のアジテーションのように見える。
ただし、青島がこの台詞を叫ぶまで、すなわち連続ドラマ版の『踊る大捜査線』までは、必ずしも「現場」と上層部がこのように明確に対立していたわけではなかった。たしかに、「本店」と「支店」は権力関係にあったが、物語としては組織論、つまり事件を円滑に処理するために組織をいかに運用するべきかという論点が重視されていた。というのも、連続ドラマは捜査一課の強行犯捜査担当管理官である室井慎次を青島以外の主役級の人物として扱い、彼が青島と対立しながらも次第に「現場」のことを理解してうち解け合い、お互いに組織を変えていこうと志すまでを描くからである。室井はついには第10話で「警察を支えているのは現場の刑事です」と上層部に楯突き、最終話で「私も足で捜査する。特捜本部なんて糞食らえだ」とまで息巻くが、しかし最後に青島から次のように言われる。
「あんたは上に行け。あんたにはあんたの仕事がある。俺には俺の仕事がある。俺、がんばれます。自分と同じ気持ちの人が上にいるんですから。室井さん、現場の刑事はあなたに期待してます」
つまり連続ドラマ版の物語は権力関係を打破するのではなく、上下それぞれの立場は崩さずに、互いを認めて組織をよりよく変えていこうという結末を迎えるのだ。ここで第一話にあった「個人がヒーローになれない」というテーマ性が別の形で回収されていることに気づくだろう。主人公がたった一人で正義を執行し世界を救ってしまうようなヒーローになることは不可能だが、主人公もまた組織の一員として生き、組織をよりよくすることで、正義を為すことは可能である。少なくとも連続ドラマとしての『踊る大捜査線』はそのように結論づけるのだ。連続ドラマ版以後、この言葉通りに室井は警視庁内で昇進していくし、青島は一介の刑事としてのみキャリアアップしていくことになる。
しかし、劇場版が公開されるまでにこの結末は形を崩されていく。プロデューサーの亀山千広は次のように語っている(※40)。
夏SPは番外編で、調子に乗って作ってみた(笑)。逆に秋SPは映画を意識した作りにしました。それで、このドラマの基本は何かと振り返ってみると“警視庁対所轄"。とすると、室井さんと青島くんの信頼関係を、もう一度決裂させていかないと、となった
「夏SP」とは1998年の6月19日に放送された『踊る大捜査線 番外編 湾岸署婦警物語 初夏の交通安全スペシャル』であり(※41)、「秋SP」とは同年10月6日に放送された『踊る大捜査線 秋の犯罪撲滅スペシャル』のことである。この「秋SP」は10月31日の劇場版公開を目前に控えたもので、亀山の言うとおりに室井と青島の関係を決裂させる内容になっている。亀山の発言で重要なのは劇場版の最大のテーマが『パトレイバー』から引き継がれた上層部と「現場」の対立関係にあるということを明示している点だが、同時にそれはテレビシリーズが描いた結末の意味合いを「秋SP」がすべて書き換えていることを意味している。たとえば「秋SP」の中で青島は、同僚である老刑事の和久と次のように会話する。
「室井さんに上行ってもらって、俺たち現場の刑事がいつも正しいことをできるようにしてもらうんです」
「正しいことをねえ」
「和久さん、前に言ったじゃないですか」
「ん?」
「前に俺に言ったじゃないですか。正しいことをしたきゃ、偉くなれって」
ここで青島が和久に示唆しているのは、連続ドラマ版の第7話で和久が「正義を貫きたければ偉くなれ」と青島に言ったことについてである。それがここで反復されて、「室井が偉くなる」ことが「正しいこと」に直結されているのだが、実はこれは物語を連続ドラマ版とは異なった展開へと導くものなのである。なぜなら連続ドラマ版では、最終的に青島は和久の言ったことを理解しないままに、第10話で「和久さんの言ったことはよくわからないけど、別に偉くならなくたって正しいことはできる」と述べるのだ。つまり青島が職務として行なうべき「正しいこと」は室井の出世とは別にあり、彼は個人の問題としてそれについて考えていかねばならない。つまり組織の中で、それぞれに「正しいこと」を執行することを(少なくとも青島は個人的に)重視しているのだ。ところが「秋SP」で青島が言っているのは、室井が出世してくれなければ「現場」の刑事は正しいことをできない、ということである。「現場」には既に執行すべき正義があって、あとは上層部がそれに理解を示すことだけが焦点になっているのである。このような連続ドラマ版からの変化を前段として迎えられた『THE MOVIE』において、青島はクライマックスで犯人の居場所を突き止め、無線で踏み込む許可を求める。しかし捜査本部よりさらに上層部である警視庁の幹部たちが、青島が所轄の刑事であるという理由で許可を出さないよう室井に指示する。そこで青島が叫ぶのが件の台詞「事件は会議室で起こっているんじゃない! 現場で起こってるんだ!」である。ここでは既に、連続ドラマの最終話の結論であった、各々の立場から組織全体をよりよくしようという意志は失われている。そこにあるのは傲慢で悪質な上層部に対立する下層部という、素朴な体制批判の構図なのだ。「現場」には半ばアプリオリなものとして正義が準備され、その妥当性は眼前で事件が起こっているという身体性への信頼に支えられる。さらに、素朴な上層部批判はやがて、遠隔地から事態をコントロールしようとする姿勢それ自体への批判へとつながっていく。ゼロ年代を目前にして、今や「現場」はこのような形で特権化されたのである。
文=さやわか
【註釈】
※38 『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』
著=東浩紀(講談社現代新書、2007)96-97頁より ※39 『機動警察パトレイバー 1』著=ゆうきまさみ(小学館文庫、2000)367頁より
※40 「ザ・テレビジョン」1998年12月17日号(角川書店)より引用
※41 内田有紀演じる「篠原夏美」という婦警が青島の代わりに主役として登場するコメディ色の強いエピソード。「篠原」は『パトレイバー』の篠原遊馬から、「夏美」は『パトレイバー』と同じく警察を舞台にした漫画作品である藤島康介『逮捕しちゃうぞ』の登場人物から名付けたと思われ、劇中でも「逮捕しちゃうぞ」という台詞が重要なシーンで使われる。亀山が「調子に乗って」と言うのはこのような内容に関してのことと思われる。
第一章 ゼロ年代は「現場」の時代だった
第二章 ネット環境を黙殺するゼロ年代史
第三章 旧オタク的リアリズムと「状況」
第四章 事件は現場で起こっているのか
さやわか ライター、編集者。漫画・アニメ・音楽・文学・ゲームなどジャンルに限らず批評活動を行なっている。2010年に西島大介との共著『西島大介のひらめき☆マンガ 学校』(講談社)を刊行。『ユリイカ』(青土社)、『ニュータイプ』(角川書店)、『BARFOUT!』(ブラウンズブックス)などで執筆。『クイック・ジャパン』(太田出版)ほかで連載中。
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11.07.10更新 |
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