Monthly Column "Green is located next to us".
日本は雨量に恵まれた国である。気候も概して温暖だ。ゆえに、私たちの身の回りは緑、ミドリ、みどりで溢れかえっている。
思い浮かべて欲しい。あなたが今日、自宅を出て駅に辿り着くまでのわずかの間にも、実に多様な植物を見かけているはずだ。
お隣の庭木、街路樹、路傍の雑草......名前は分からなくとも、きっと両手両足の指で足りない種類のみどりを目にしているはずだ。
この連載では、それらのごく身近な植物に少しだけスポットを当ててみようと考えている。明日からの生活の中で、あなたがとなりのみどりに少し興味を持つようになれば、本稿のささやかなもくろみは成就する。
第七回となる今回は、春の味覚として親しまれるワラビを取り上げる。我々が普段意識するのはその若芽だが、根茎のデンプンは実に長い時間に亘って人類を助けてくれた存在でもあるのだ。
それでは、となりのみどりを巡る旅に、しばしお付き合い頂ければ幸いである。
一辺が30メートルほどの方墳である。
築造は5世紀前半とみられ、墳丘は開墾によって破壊されていたが、網干善教氏(あぼしよしのり)の報告によって調査が行なわれ、遺物が救い出された。
その際に、竪穴式石室からは珍しい形の鉄冑が出土しているという。
とはいえ、そのようなことはあまり関係がなかった。
3月の下旬になると、墳丘一面にワラビが芽を出すのである。
幼い時分、家族で何度かこの古墳にワラビ採りに訪れた。
何せ子供のことであるから、古代人の墓と聞くとそれだけで少しばかり薄気味悪く思えたものである。
──このワラビは、古代人の死体を栄養にして育ったものなのか?
恐る恐るそう聞くと、父はからからと笑って、1500年も栄養が続くわけがあるか、と言った。
その父の言葉と、採集の面白さに当初感じていた怖さも忘れ、私はありったけワラビを採った。
人類のワラビ利用の歴史が、1500年よりもずっとずっと古いことを知るのは、それから10年以上後のことである。
■芽を食べる文化としてのワラビ
人類の歴史はヒト属のそれに限っても約200万年に及ぶが、農耕の歴史はそのごく一部を構成するのみである。
しかし、農耕と共に文明が始まり、我々が急激な進歩を遂げてきたのは周知の通りである。
農耕以降の社会においても、狩猟・採集は連綿と継続していった。一般的な漁業を思い浮かべていただければよい。農耕・栽培や畜産・養殖は、人類が自然の一部、それもごく限られた範囲をコントロールしているに過ぎないのである。
私のワラビ採りも、農耕に先立つ採集文化に属する営為であった。そして、我々が普段食しているワラビは、栽培されたものではなく、採集されたものである(ワラビが生育しやすい環境を作ることはできるが)。
一般的にワラビと聞いて思い浮かべるのは、その若芽の部分であろう。
ワラビは、植物としてはシダ類の一種である。晩春に芽吹く若芽を採集して、あく抜きを施した上で食用とする習慣が東アジア一帯に見られ、日本でも古くから食用に用いている。
メジャーな食べ方はおひたし、味噌汁の実、卵とじ、漬け物、蕎麦などの具、天ぷらなどがあり、保存技術の発達で通年食べられるようになったものの、ほかの山菜と同じく季節の食材であり、明確な旬の存在する食品である。
なお、若芽以外のものとしてはワラビ餅があるが、これは若芽よりもよほど重要なので、後ほど述べることにする。
■若芽のあく抜き
前項で述べた調理法のうち、天ぷらや卵とじはごく新しい部類に属するものである。
味噌汁はそれらよりもよほど古いけれども、若芽利用の方途としておそらく一番古いと思われるのが、おひたしや漬け物である。
何故これらが古いかというと、それはワラビの特性に由来する。
食用に供される山菜や若芽の類は数多いが、ワラビはそれらの中でも特にあくが多く、あく抜き技術なしには食べられないほどえぐい。
この手の植物をあく抜きしないで食べると、それはひどい結果を招く。私はかつて、同じくあくを多く含むズイキ(サトイモの茎)を、あく抜きが完全でない状態で食べたのだが、半日ほど口内や喉がちくちくいがいがして、たまったものではなかった。
ワラビの場合も同様の結果を招くであろう。ひどい場合は中毒を起こすので、試みないほうがよい。
あく抜きの方法としては、容器に入れた若芽に木灰をふりかけ、熱湯をかけて寝かせるという方法、或いは塩漬けが伝統的である。おひたしや漬け物というのは、あく抜きを施したあとの状態に近く、よってこれらが調理法としても古いと考えられるわけである。
なお、木灰や熱湯を用いる技術は、あく抜き技術としては幾分進化したもので、塩漬けや、さらにもっと原始的な方法がほかにある。
それについては後ほど紹介することにして、その前に有名なあの和歌に見える若芽について見ていくことにしよう。
■万葉の「さわらび」はゼンマイなのか?
石走る垂水の上のさわらびの 萌え出づる春になりにけるかも
志貴皇子は天智天皇の第七皇子にあたる。壬申の乱で天智系の皇子たちは不遇の生涯を送るようになったが、風流人としての資質を備えていた志貴皇子にとっては、それはあまり苦にならなかったようである(後に皇統は彼の後裔に嗣がれる)。
志貴皇子(『万葉集』所収)
上の歌は、『万葉集』に入った皇子御製6首の中でももっとも著名なものであろう。
大意は「岩の上を流れる滝の上に蕨が芽を出した。春の訪れを感じることだなぁ」といったところで、春の訪れを喜ぶ歌である。
近年、ここで歌われる「さわらび(左和良妣)」が、ワラビではない可能性が提出されている。
詳細は省略するが、木下武司氏は中世までの和歌等に見える「わらび」はゼンマイであり、「蕨」「薇」の文字もゼンマイに宛てるべきであるとする。木下氏の説に従うと、江戸期に貝原益軒の『大和本草』が出るまではワラビはゼンマイで、ゼンマイはワラビであったことになってしまうし、次項以降で述べるデンプン採取は江戸期に始まり、若芽の利用はそれ以降に「ついで」として開始されることになってしまう。
木下説は示唆に富むが、果たしてワラビとゼンマイははっきりと区別され、相互に取り違えられることが近世以前にまったくなかったと言えるかどうか。私は、ワラビやゼンマイのように、先端の葉となる部分が渦巻き状を呈している山菜全般を区別せずに「蕨」「薇」と言っていた時期があるのではないかと考える。
また、それらの利用は文字資料の現われる遙か以前に遡るし、若芽の利用よりも、根茎の利用が古層に属するのではないかとも考えている。
次項以降で、順を追って説明していこう。
■最古層デンプンとしてのワラビ
1969年に出版された『照葉樹林文化―日本文化の深層』(中公新書)という本がある。
本書で提唱された「照葉樹林文化論」は、日本から中国中南部を経てヒマラヤにいたる照葉樹林帯(潜在的なものも含む)の稲作以前の文化を、国際的な視野で研究していこうという学際的姿勢を持ち、戦後の文化人類学界に巨大な影響を与え続けている大仮説である。
提唱者は中尾佐助(栽培植物学)、その他の賛同者に上山春平(哲学)、佐々木高明(文化人類学)ら錚々たる顔ぶれが並び、この"照葉樹林文化論第一世代"は、2013年に佐々木高明が没するまで、常に自説に修正を加えながら旺盛な活動を続けた。
さて、照葉樹林文化の稲作以前となると、縄文時代の後期あたりまでをカバーすることになる。
稲作以前、栽培や半栽培以前のもっとも初期段階における利用は、採集という形態を取っていたであろう。その時期にデンプンを取るために利用されたと考えられているのが、堅果類と根茎類である。
堅果類として想定されるものにトチ、シイ、ドングリ、クリ、クルミ。
根茎類ではクズ、ワラビ、テンナンショウの名が挙がる。
そう、ワラビは、我々の直接の祖先が最も早い時期に利用し始めたデンプン質の植物のひとつだったのである。
ここには、ワラビ以外にもドングリやテンナンショウ(サトイモ科に属する)など、あく抜きを必要とする植物が含まれている。鉄器がなく、桶も土器も作れなかった時代におけるあく抜きは、恐らく木灰や塩を使うよりも原始的な方法で行なわれたと考えられている。
それが、「水さらし」と言われている方法である。
ワラビの根でもドングリでも、まずは砕いてしまう。そして、それを大量の水で洗い流し、底にたまったデンプンだけを取り出すのである。桶のかわりには丸木舟の要領で作った、丸太をくりぬいたものがあればよい。ドングリを砕くのも丸木舟を作るのも、石器があれば事足りる。土器時代以前でも可能な技術なのである。
あとは、水の豊富に使える場所に集落がありさえすればよいわけである。この方法は、アジアの熱帯地域で、今でもサゴヤシの幹からデンプンを取るのに使われている。原始的だが、非常に簡単で便利な方法でもあるのである。
さらに、この手法で獲得したデンプンは、乾燥させれば貯蔵して保存することも可能である。
また、根茎の獲得もさほどの困難はない。
先述の木下氏は、上物が枯れてしまえば、古代人に根茎のありかなど分からないというようなことを書いているが、場所を覚えておけばいいだけである。食い扶持がかかっているのだから、現代人よりも確実に記憶するだろう。
もしも確実を期すならば、目印でもつけておけばよい。つい先日も『鉄腕DASH』においてTOKIOが、DASH島で夏の間に目印をつけてユリネを掘っていた。
もう少し段階が発展すれば、あぜ道にヒガンバナ(この球根もあくを抜けば食べられる)を植えるように、半栽培状態に移行する。クズなどは、人類が人為的に広めた痕跡があり、原産地以外の場所でも史前帰化植物となっている。
要するに、根茎からデンプンを獲得するという営為は、農耕の前段階からかなりの長期間に亘って営まれてきたのである。
さて、ここまでで、ワラビの根茎が、「最古層デンプン」とでもいうべき歴史を持っていることを確認した。
次は、あの有名なエピソードについて、ここまでで得た知見を元に考えてみよう。
■伯夷叔斉はワラビの芽を食べたか
前漢の武帝期に、司馬遷によって編まれた『史記』は、その列伝の冒頭に、「伯夷・叔斉」の兄弟を置く(伯夷伝)。
概要は以下の通りである。
伯夷と叔斉は孤竹国の王子であった(伯夷が長男で叔斉が三男)。父王は叔斉に王位を譲ろうとした。王が死ぬと叔斉は伯夷に王位を譲ろうとしたが、「父の命である」と伯夷は国を出奔した。叔斉もまた、王位を継ぐのをよしとせずに出奔したため、国の者たちは次男を王とした。
出奔した伯夷と叔斉は、西伯昌(周の文王)が老人をよく養うと聞いて、周の地に行こうとしたが、文王はすでに亡くなっており、息子の武王が文王の木主を車に安置し、東のかた殷の紂王を討とうとしていた。伯夷と叔斉はその馬の手綱に取り付いて「亡くなられた父親を葬りもせず、しかも干戈をおこすとは、孝といえましょうか。臣として君を弑せんとすること、仁といえましょうか」と諌めたが、側のものは刃を向けようとした。そこで太公望は「これぞ義人である」と言い、押し抱えて連れてゆかせた。武王は殷を討ち、天下は周のものとなった。
ところが伯夷と叔斉はそれを恥とし、義を守って周の粟を食べることをよしとせず、首陽山に隠れ住んで、薇を採って食べた。餓えて死がせまったとき歌を作った。その辞にいう、「彼の西山に登り、その薇を採る 暴を以て暴に易うも、その非を知らず 神農・虞・夏は忽焉として没す 我は安にか適帰らん 嗚呼徂せん 命の衰えたるかな」。かくて二人は首陽山において餓死した。
もとより、殷末周初に舞台を設定した説話である。歴史的事実ではなかろう。
とはいえ、そこにはなにがしかの同時代的状況(司馬遷の)が投影されていると考えるべきであろう。
そのなかでも本稿が問題としたいのは、「薇」である。
本邦では、ワラビ、ゼンマイ、ノエンドウ、あるいは「山菜」(曖昧な訳でごまかしているわけだ)などと訳される。先述の木下氏もこれをゼンマイと解している。果たして、司馬遷が想定していたものは何だったのか?
読者にはもうおわかりであろうが、私はワラビの根茎からデンプンをとって食べていた(という設定)のではないか、と考える。
まずは「薇」字の解釈であるが、この文字は草冠と「微」に分割される。
「微」字は、「わずか」「かすか」との意で用いるが、後漢に成った『説文解字』によると「隱行するなり、彳に従ひ、攵を聲とす、春秋傳に曰ふ、白公其の徒、之れを微(かく)す、と」とある。
つまり、草の下、地中に隠されているものを指すのである。
これが、私が「薇」をワラビであると考え、また根茎のデンプンを指すと考える根拠である。この字義は、偶然か必然か、照葉樹林文化論の示すところと一致している。
また、伯夷叔斉が拒んだのは周の「粟」である。「粟」と「薇」を消極的に解釈すると、「穀物」を食べずに「山菜」を食べたということになる。飢え死にするのも当たり前で、これでは緩慢な自殺のようになってしまう。
しかし、アワ(華北・中原地域の常食)とワラビの根茎から取ったデンプンであれば、両方とも炭水化物であって、これは置換可能なものとなる。
悪しき権力と考える周の土地で栽培されたアワでなく、山に自然に生えるワラビを常食する。これならば筋も通るのではないか。
もうひとつ、注目しておきたい点がある。
伯夷叔斉の行動は、農耕から採集へと、人類史を逆行する形を取っていることである。現在でもクズ粉やワラビ粉が利用されているように、採集段階で獲得した技術は、補助的なものとして文明の中に保存された。
未だに農業は天候に左右される。古代にあってはなおさらであった。ひとたび飢饉が起これば、それは餓死者の続出と直結した。『万葉集』を見ると、当時の人々が実に様々な野草を補助的な食品として用いていることが分かる。しかし、米作が普及していくと、ビタミン不足から脚気が慢性化し、飢饉に対しても耐性が低くなっていったと思われる。
そのような社会では飢饉の際に、かつて使われていた技術が再利用された。すなわち、救荒食である。
サツマイモが救荒食として導入されたように(本連載の第六、七回参照)、救荒食は米作偏重の我が国にとっては重要なものであった。
昭和初年の東北の飢饉に際しても、ワラビ根を掘ったという新聞記事がある。あぜ道のヒガンバナについても述べた。伯夷叔斉についても、救荒食としてワラビデンプンを利用したのであろう。
しかし、首陽山に住んだ二人は、結局餓死してしまった。採集のみで生きながらえていくには、彼らは農耕社会の人間でありすぎたのであろうか。
■わらび餅と食感の謎
我々にとって最もなじみ深い、ワラビに関連のある食品といえばわらび餅であろう。
その歴史は、極端なことを言えば1万年できかないほど遡るわけだが、今現在、我々が食べているような菓子としてのわらび餅の歴史は、それほど古くないらしい。
醍醐天皇(9~10世紀)が好んだという話もあるが、これは現存最古の狂言台本である『大蔵虎明本』(おおくらとらあきらぼん,17世紀半ば)が出典であり、眉唾である。
詳細な資料はないが、明朝から喫茶の習慣が伝わって後、室町期におおよその形ができあがったようである。
戦国時代の半ば頃に活躍した連歌師・谷宗牧(たにそうぼく)の『東国紀行』に「年たけて又くふへしと思ひきや蕨もちゐも命成けり」とあることから、彼が幼少期を過ごした戦国の初め頃にはすでにあったものと思われる。
なお、宗牧がわらび餅を食したのは日坂宿(静岡県掛川市、クズの産地でもある)で、彼の生地は越前一乗谷である。少なくとも中世の後半には、これらの地域で菓子としてのわらび餅が作られていたのであろう(食べ方のバリエーションは存疑としたい)。なお、宗牧の号は孤竹斎という。
江戸期に入ると、林羅山もわらび餅に関する記録を残しており、それによると、日坂のわらび餅はクズ粉を混ぜたものであるという。
クズとワラビの産地は一致することも多く、これは今で言うような食品偽装とは少々事情が異なる。
現在のわらび餅は、タピオカデンプン(キャッサバ由来)、馬鈴薯デンプンなども利用しているものだが、そもそも戦国期からワラビ粉だけで作っていたわけではないので、そこは胸を張ってよかろう。
ただし、そもそもの名称が「わらび餅」であることは、この食品の発祥を示していると考えるべきであろう。タピオカデンプンがよく利用される理由は、その食感がもっともワラビ粉に似ている......すなわち、「もちもちしている」からである。
我々は一般的に、食感をポジティブに評価する際に「もちもちしている」という表現を利用する。つまり、「もちもち=おいしい」という評価が成り立っている。
しかし、これは全世界的な価値観ではない。穀物において、モチ種は品種化しやすい、頻繁に起こる突然変異なのだが、地中海発祥のムギ類はヨーロッパにおいてモチ種が品種化された例はない。
しかし、日本を含む東アジアの照葉樹林帯は、モチ米をはじめ、モチキビやモチアワ、ハトムギ(野生種はジユズダマ)さらには後に流入してきたトウモロコシまでモチ種を品種化してしまった。
どうにも、相当に根っこの部分に「もちもちした」ものを好む遺伝子が書き込まれているらしい。
このもちもち好きについて、先述の中尾佐助氏は、根茎類や堅果類を利用していた名残ではないかと指摘する。つまり、ワラビデンプンやドングリ類の粉に少量の水を加えながら練っていくと、ねちっとした感触が得られる。それに火を通すと、もちもちした食感になるというのである。
現在でも東北や九州に残る、「シトギ」(粉状のデンプン、多くはモチ米を利用したものをベースにする)的な利用をしていた過去が、我々にわざわざコメのモチを作らせ、それを文化的に上位に置かせるのだとすれば、我々の味覚は、1万年前からある意味で変化していないとも言える。
■縄文人はいかにしてシトギを食したか
過日、ワラビ粉を取り寄せた。
少々値が張ったが、せっかくなのでタピオカデンプンや馬鈴薯デンプンの混じっていない純粋なものを求めた。もちろん、シトギにして食してみようという心づもりである。
では、具体的にはどのようにして食べるか? デンプンが最古層であるのだから、食べ方もなるたけ最古層でなくてはいけないであろう。
奈良県と三重県の県境近く、山辺郡山添村の名張川沿いに大川(おおこ)遺跡という縄文時代早期に属する遺跡がある。
大川遺跡は網干善教氏によって最初に発掘調査が行なわれたもので、大川式と名付けられた特徴的な土器、早期には比較的少ない竪穴式住居跡、多数の石器などが出土している。
その中でも注目すべきは「礫群(れきぐん)」である。ここでいう礫は川原石であり、多数の焼けた川原石の間に、炭化物が検出されている。つまり、火食の痕跡と考えるべきであろう。
縄文人は果たして、この施設でどういったものを加熱して食したであろうか。
そこで、先述のシトギと結びつけて考えたい。
つまり、現在南洋諸島で見られるイモ類の食しかた同様に、固めに練ったシトギを植物の葉で包み、石で以て蒸し焼きにしたと考えるのはどうだろうか。大川遺跡はB.C12,000~B.C7,000頃とされる縄文早期の遺跡であるから、シトギの原料はもちろんコメではない。ドングリなどの堅果類、或いは根茎類であったろう。
吉野山地だけでなく、山辺郡を含む大和高原でもクズ粉を名産とする。縄文人がワラビ粉も利用していたと考えて不都合はないだろう。名張川という豊富な水源が至近にあり、水さらし技術を利用するに不都合はない。
大川遺跡に住まった縄文人は、きっとシトギを利用していただろう。
また、土器も出土しているから、煮ることも可能である。湯を沸かして、その中で煮ることができたはずである。
これらを参考に、私もワラビ粉のシトギを食してみることにしたい。
■ワラビ粉のシトギを食す
まず、ワラビ粉をボウルに入れ、少しずつ水を加えて練っていく。
小麦粉などと比べると粒子が粗く、さらさらしていないので混ぜるのにかなりの力を要するし、ちょっと水を加えすぎると、すぐにどろどろになってしまう。勝手が分からず苦戦する。
そして、とにかく色が悪い。まるでセメントをこねているようで、この段階では全く食欲をそそらない。
それでもどうにか、モチ状の塊を作り上げることに成功した。
このベースを半分に分け、最初の半分はスイトンのようにして食することにする。
縄文人はかつおだしも昆布だしも使えなかったであろう。そんなわけで、ぎりぎりの妥協案としてあごだし(トビウオ)を使用し、醤油も使えないため、塩だけで味を調える(魚醤ににたものや獣の血などは調味料として使ったかもしれない)。
野草は利用できただろうから、ワラビ団子のほかには大根葉を散らした。
ゆでると、ワラビ団子がいっそう黒々として、どうにも見栄えが悪いものができあがった。
気を取り直して、もう半分も調理を進めることにする。
ベースに少しだけ白玉粉(モチ米粉、ドングリの粉ならなおよかったが仕方がない)を加え、少量の塩、塩漬けの大根葉と下ゆでした牛すじの細切れを混ぜ合わせる。牛すじは、内陸高地の縄文人が入手できたであろう野生の獣肉に少しでも近づけようという配慮である。
このシトギを蒸すわけだが、さすがに川原石を積むわけにいかないので、ここだけは近代的な蒸し器を使用させていただく(5世紀になると甑が伝来する)。
それにしても見栄えが悪い。乾いていないセメントを、そこいらの子供が勝手に触ってままごとの道具にしてしまったように見える。これまた食欲は湧かない。
しかし、ここまでやったからには、蒸して食すしかあるまい。
さて、結論から言うと、ワラビ粉料理は、全く以てまずくはなかった。
見た目から過剰に警戒していたが、あごだしのスイトンも、料亭などで出されたら「こういうものなのか」と思いつつ食べるであろう味だ。ワラビ粉の団子は、かなり歯ごたえがあり、もっちりしている。
そして、蒸し団子は、ごく普通に食が進むレベルの味だった。もっちりとしたワラビ粉はもちろん、大根葉や牛すじ肉の風味や食感がアクセントになっている。
こういったものを常食していたら、もちもちしたものを旨いものと認識するようになるのも当然だろうと思った次第である。
■ワラビと俳句
戦前までの教養人にとって、『史記』や『万葉集』は知っていて当然のものであった。つまり、そこそこの教養を備えた人間であれば、伯夷伝も志貴皇子の御製も、当然知っていたであろう。
さて、江戸期に完成する俳諧は、和歌などに比べるとずいぶんとユーモアをたたえた作品が多く、私などが見ても楽しいものは多い。
ワラビや伯夷叔斉に注目して、いくつか選んでみたので、本稿の締めくくりとしたい。
時は春伯夷叔斉出刃もちて
伯夷伝を踏まえつつ、ワラビを若芽と解し、出刃包丁を持たせて滑稽味を出している。仙庵は京都の人。
仙庵
山吹や無言禅師の捨衣
藤匂
腕を薪の飢の早蕨
其角
子路が廟夕方や秋とかすむらむ
こちらの連句の二句目は蕉門十哲(しょうもんじってつ)の一人、宝井其角(たからいきかく)。破調である。若芽の根元の堅い部分を薪に、上部の柔らかい部分を「飢え」とかけて、伯夷叔斉の故事にスムーズにつなげている。続けて子路(孔子の弟子、同じく古代中国の人)を登場させているあたりも其角が教養人であることを思わせる。
其角
狗脊(ぜんまい)の塵にゑらるゝわらびかな
ワラビとゼンマイの区別が厳密でなかった時代に、恐らくゼンマイの類いの若芽を表した言葉に「紫塵(しじん)」がある。これがワラビの別名として残った。「ゼンマイの中にワラビが混じっていたら、塵としてより分けられてしまうだろうか」というほどの意。服部嵐雪(はっとり らんせつ)も蕉門十哲の一人で、其角とは双璧をなすといわれる。
嵐雪
其角、嵐雪ときたからには、最後にはやはり芭蕉に登場していただこう。
先出の弟子二人も参加した連句から。
盗ミ井の月に伯夷が足あらふ
この前の句は、松倉嵐蘭(まつくららんらん)によるもの。
芭蕉
山ン野に飢て餅を貪ル
この流れを見る限り、芭蕉だけは、伯夷叔斉はワラビデンプンで作ったモチを食していた、と考えていたかもしれない。
嵐蘭
この見方は、果たしてうがち過ぎであろうか?
となりのみどり 第8回:ワラビ 了
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15.04.05更新 |
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