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I want to live up to 100 years
「長生きなんてしたくない」という人の気持ちがわからない――。「将来の夢は長生き」と公言する四十路のオナニーマエストロ・遠藤遊佐さんが綴る、"100まで生きたい"気持ちとリアルな"今"。マンガ家・市田さんのイラストも味わい深い、ゆるやかなスタンスで贈るライフコラムです。意外に思われるかもしれないが、私は子供が好きだ。
実を言うと、子供だけじゃなく動物も好きである。そのことに気付いたのはわりと最近だ。ここだけの話、テレビで『天才!志村どうぶつ園』や『はじめてのおつかい』を観ては「かわいいぃぃ~!」と身をよじるのが、ここ数年で覚えたささやかな楽しみだったりする。
先週の土曜日なんて、甥っ子(5歳)の保育園の運動会に往復8時間かけて参戦してしまった。ちょうど台風18号がやってきていて雨と寒さでひどい目にあったが、愛する甥っ子ちゃんのヘタクソなお遊戯や未満児ちゃんたちのおぼつかないかけっこの可愛らしさに比べれば、そんなことは屁でもない。
お母さんにもおばあちゃんにも見えない年齢なのに、チャラい格好で若いママさんたちに混じって応援の旗を振る私は、田舎の運動会ではかなり浮いていたと思う。でも、いいの。だってかわいいんだもん~!(←身悶え中)
40代の、いわゆる"おばちゃんゾーン"に入って数年。良かったと思うことはいくつかあるが、その一つはかわいいものを気負いなく「かわいい」と言えるようになったことだ。
ちなみにこの「かわいいもの」というのは、ひねりあるデザインの雑貨とか、ブランド物の小さなアクセサリーとか、フランスからやってきたばかりのスイーツみたいなセンスがモノを言う"カワイイ"じゃなく、赤ちゃんとか道端に咲いてる花とか子猫の動画のような、どこにでもある平凡きわまりない"カワイイ"のことである。
けっこう大人になるまで、私はそういうものを素直に「かわいい」と言えなかった。
思春期の青少年には、個性的であること=かっこいいと思う時期がある。誰でも身に覚えがある感情だと思うが、御多分に漏れずそういう感覚をこじらせていた。
世の中の景気が良く、サブカルという言葉が根付き始めた80年代後半。クラスメイト達が運動部で青春を謳歌したり、かっこいい先輩にキャーキャー言ったりしている中、私は横道活動に精を出していた。授業が終わると一目散に家に帰って『ドグラ・マグラ』や『家畜人ヤプー』を読み、布団にもぐって深夜ラジオを聞く。レンタルビデオでカルト映画を観たり、『宝島』を定期購読したりしてるのも私だけだった。今考えればどれもたいしたことじゃないが、当時うちの田舎では中高生が青林堂の漫画を読んでるだけで「面白い人、個性的な人」だと思われたのだ。
その頃は自覚していなかったけれど、今考えれば「自分は女の子の王道を行ける人間ではない」という屈折した気持ちもあったんだろう。しかしまあ、何はともあれ「個性的な子」と思われるのは悪い気分じゃなかった。
しかし。何年かするとその化けの皮が剥がれてきた。
サブカルチャーの持つパワーや怪しさが心から好きだという人もいるけれど、私はそうじゃなかったからだ。
サブカルをつきつめていくと必然的に過激なものやグロいものにもぶちあたるものだが、何を隠そう私は本質的に怖がりなのだ。子供の頃は『ウルトラマン』や『仮面ライダー』さえ最後まで観られず、『天才バカボン』で銃を乱射するおまわりさんが怖くて泣いていた。こんな人間がサブカルにどっぷり浸かれるわけがない。
今でもよく覚えているのは、大学に進学して少しした頃、丸尾末広が描く漫画の絵柄に慣れようと、友達から大量に単行本を借りたことだ。
『少女椿』に『DDT』に『丸尾地獄』。一人暮らしの部屋で、繊細かつ猟奇的な絵柄で繰り広げられるエログロナンセンスの世界に浸るのはメチャメチャ怖かった。でも、当時は芸術系の大学に通っていたこともあり「これを面白いと思わなきゃ大学の友達についていけない!と思って何度も何度も読み返した。
当時インディーズ映画館の草分けだった中野武蔵野ホールに『追悼のざわめき』という伝説のカルト映画(孤独な男が女性を殺して生殖器を切り取り、愛するマネキンの中に埋めるというすごいストーリー)を観に行き、吐きそうになって途中で出てきてしまったこともある。
『天才バカボン』を怖がっていた少女が、どうしてそこまでしてサブカルに寄り添おうとしたのか今となってはさっぱりわからない。でもその頃は、とにかく必死だった。過激なものが好きじゃないと、自分がものすごくダサくて平凡な人間だと認めてしまうことになる。深夜に一人で血まみれの映画を観るよりも、そのほうがずっと怖かったのだ。
自分は刺激よりも安定した日常を愛するタイプだと本当に自覚できるようになったのは、数年前、弟に子供が生まれてからだと思う。
それまでは「赤ちゃんって超カワイイ!」と口に出すことに、ちょっと抵抗があった。AVライターなんてとんがった仕事をしてる人間が母性を口にするなんて気恥ずかしかったし、「そんなにカワイイなら自分で産めばいいのに」なんて言われて傷つくのも怖かった。まあ、平たく言えば「柄じゃない」と思っていた。
でも、実際に姪っ子が産まれたら、もう一気にメロメロになってしまった。ブサイクでも肉まんみたいに太ってても、そこがたまらなくかわいい。不思議なもので、そうなるとまったく関係ないよその赤ちゃんまでかわいく見えてくる。
名実ともに「おばちゃん」になって、やっと開き直れたのかもしれない。
おばちゃんの醍醐味は、なんといってもずうずうしさだ。
「いいのよ、だって私おばちゃんだもの」
そうつぶやくと、センスがないことも、すぐテレビやネットの情報に左右されることも、取るに足りない平凡な人間であることも、不思議と怖くなくなる。
必要以上に好かれなくても、すごいと思ってもらえなくてもいいの。これがありのままの私なんだから。
「年とってあきらめがついただけだろ」と言われるかもしれない。
でも、私はそう言えるようになったら、肩の力が抜けてバカみたいに生きやすくなった。
よく「30代にもなって自分のこと女子っていう女はイタい」という人がいるが、そういう話を聞くと「まだまだだな!」と思う。
30代なんてまだ甘い。見た目はともあれ、30代よりも40代、40代よりも50代のほうが女は女子化していく。
かわいいものが大好きで、わがままで、あさはかで、自分の世界が一番大事。おばさんこそ究極の乙女、女子なのだ。
トトロのついた旗を振りながら大声で甥っ子ちゃんを応援するとき。小猫や縫いぐるみをみて大袈裟に「かわいい~!」と叫ぶとき。大衆向けの俗っぽいテレビドラマを観て号泣するとき。私はいつも、なんともいえない解放感に包まれる。
かわいいものをかわいいって言うって、なんて楽しいんだろう。
人目を気にせず好きなものを好きと言えるって、なんて自由なんだろう。
運動会観戦を終えた後、スタバでコーヒーを飲みながらバスを待っていたら、一緒に応援に駆けつけた老母が人目もはばからず大声で言った。
「ねえ。みんな可愛かったけど、うちのTくんのダンスが一番キレがあったわよね~」
いやあ、あれはキレがあるというんではなく、一人だけ音がはずれていたと言うのでは......。
そう思ったけれど、ベタベタの方言で飽くことなく喋り続ける老母を見て反論するのをやめた。10代の頃はこのマシンガントークが泣くほど嫌だったのに、自分が現役のおばさんになった今はそれが微笑ましく思える。
「あんたが頼んでくれたこのコーヒー、甘いねえ」と言ってバッグからよくわからない揚げ煎餅の小袋を取り出し、スタバの真ん中で平気でそれを食べ始める彼女。
あまりにしつこく勧めてくるので、恥ずかしいなと思いながらも素早く煎餅を口に放り込む。すると、甘ったるかったカフェモカが何倍もおいしくなった。
うーん、やっぱり、おばさんは無敵である。
文=遠藤遊佐
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14.11.01更新 |
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