Special issue for Golden Week in 2010.
2010ゴールデンウィーク特別企画/WEBスナイパー総力特集!
「新しい現実」としての幻想郷
「東方project」の舞台である幻想郷。二重の結界によって現世から隔離されたこの世界には、常に死のイメージが付与されています。そんな幻想郷に集う少女たち、彼女らはすでに死者ではないのか。村上裕一さんのそんな仮説から「幻想郷」についての論考をお届けします。
「東方Project」は同人サークル「上海アリス幻樂団」様の作品です。
しかしこの問題の立て方は果たして正しいのだろうか。なるほど、戦争翼賛まんがと手塚治虫の関係に注目し、傷つかない身体性=記号性が現実における侵略行為の隠蔽装置として機能していたことを指摘する大塚にとって、記号的なものに人間的なものを読み込む作法はとても重要なものである。だがしかし、記号的なものを人間的に読み込むその姿勢は、一周して別なレベルでの物象化を起こしている。
大塚の指摘が一周しているとは、つまり以下のようなことだ。書かれた絵に他ならない記号的な身体は、それ自体としては当然ながら生命や精神などではない。にも関わらずそこに人格的なもの、つまりリアリズムを読んでしまうことが第一の転倒である。ところが記号的な身体、つまりキャラクターは人間ではない。従ってそこには本質的に「現実の死」がありえない。にも関わらずそこに「現実の死」を読み込もうとすること。これが第二の転倒である。この二つの転倒を「一周」と表現した。
ここで、現実の条件が死であるのに対し、人格の条件は死と無関係であるのには注意が必要である。大塚あるいは手塚は、キャラクターの独特の性質がプロパガンダとして利用されているのを危惧して「現実」の「死」を読み込もうとしたが、しかし、キャラクターの本質は、ある物語においていかに説得的にキャラクターの死を描いたところで、決して死ぬことができないということにある。だが、キャラクターはなぜ死ぬことができないのだろうか。
ここで一つの仮説を立ててみたい。キャラクターが死ねないのは、それがすでに死んでいるからではないだろうか。即ち、キャラクターとは死者のことではないだろうか。
このような問いを考えるための格好の材料が「東方project」の世界たる「幻想郷」である。周知の通り、幻想郷とは二重の結界によって現世から隔離された境界の世界であるが、詳しく覗いてみると分かることは、その土地が、圧倒的な死のイメージで埋め尽くされているということだ。といって、これは決してネガティブな物言いではない。そこにある死のイメージは不思議な変容を強いられている。幻想郷と死のイメージの関係はごく簡単に把握できる。なんといっても、幽霊が住まい、三途の川を内包し、冥府へと繋がっているのであるから、この地が明らかに「死後の世界」、控えめに言っても生と死の境界があいまいな世界であることは確かだろう。
このとき、幻想郷とは文字通り幻想の集積所であると同時に、死の集積所でもあるように見える。ここに対応を見出すのならば、幻想とはキャラクターのことであり、死とは死者のことだ。つまり幻想郷は自然にキャラクターと死者の間に等合的な関係性を付与している。だが、一般的に考えてキャラクターは死者ではないし、死者もまたキャラクターではない。もし、それらのものが等しいのだとすれば、そこにはどのような論理があるのか。
たとえば我々は死者をどのように理解しているのだろうか。というよりも、生者と死者にはいかなる違いがあるのか。もしもここに積極的な差異を見出そうとすれば、さしあたり、前者とは異なって後者からは永遠に応答可能性が奪われている、ということが言えるだろう。ゆえに、我々は死者とコミュニケーションを取ろうとするとき、自らの想像力において再構成を行わなければならない。それは過去を想起することに似ている。哲学者の大森荘蔵は、過去とは、論理の挿絵であるということを主張していた。ある命題の挿絵として視覚的なイメージが与えられ、それがいわゆる過去として我々に操作可能なものとなっている。死者もまたそうではないだろうか。というのも死者には過去しかない。我々は死者について考えるとき、あたかもサンプリングを行うかのように過去の情報を検索し、それを再統合する。我々はごく自然に、もしある人が生きていたらこのように言ったのに違いない、といった形式の言葉遣いをする。東浩紀は、キャラクターをデータベースに登録された萌え要素だと看做したが、ここに行われている死者の召喚作業も、データベースの検索と再統合が行われているという点で、キャラクターにおけるそれと変わらない。従ってキャラクターは死者的であり、死者はキャラクター的であると考えることができる。
しかし、ハイデガーが言うように、死は一回的な経験不可能性に浸されている。彼の言い方に従えば、人間がキャラクターでないのは、人間が死に向かって歩み続けている存在だからだ。従って、繰り返しになるが、キャラクターの存在条件に死を見出すのは、ある意味において倒錯である。キャラクターはその種類の自律性からむしろ阻害されている。では、彼女らには何があるのか。
彼女といった。幻想郷のもっとも強力な特徴は、その世界が例外はあるもののほとんど少女のみによって構成されていることにある。だが少女とは何だろうか。これこそがキャラクターと死者を結びつける幻想郷の論理の象徴である。
少女とは人間にとっては過ぎ去るべき一つの時代に他ならない。ところが、幻想郷においてはそれがずっと続いている。それどころか少女であることが条件となって人物たちが存在しているとすら言える。ここには幻想郷の無時間的な性質が現れている。キャロルやナボコフといった作家たちは少女の純粋性を探求したが、むしろここでは純粋に抽象的な存在として少女が先行しており、その他の設定がほぼそれに追随するかのようである。例えば永遠亭を代表とする不死のモチーフはもちろんその典型的な答えだろう。不死でなくとも、幻想郷の存在たちは概ね莫大な寿命を持っており、我々人間とは比較にならない。それは設定上の問題ではあるが、しかし、キャラクターの真実を内面化した設定であることは間違いない。あるいは「弾幕ごっこ」という設定を取り上げてもよい。幻想郷内での争いを平和的に解決するために設定されたスペルカードルールは、どんなに激しい戦いであったとしても最終的には決して致命的な事態に陥らないようなセーフティネットである。このことによって、幻想郷からは極端な変化が生まれないようになっている。それは「ごっこ」なのだ。
幻想郷は、我々の住まう現実と異なった時間構造において在る。それは従来の語彙では上手く捉えることができない。キャラクター的な死者、あるいは死者的なキャラクターとは言っても、それらはどこか中心を欠いている。幻想郷の人物たちは、データベースによって自動生成された演算結果を超えた実質を持っているし、死者とは異なって我々が一度も出会ったことがないような、出会うはずがなかったような他者である。さしあたり幻想郷が「少女」というラベルを用いてこれを捉えているのは興味深い。たとえば、大塚英志風の批判を書き換えて、幻想郷の人物は時間経過しない=「少女」であるからけしからん、などと言えばこれがいささか特殊な物言いであることは明らかだろう。もちろん大塚が批判するのは少女性ではなくて隠蔽性だが、しかし、その両者ともに単一の現実を侵略していることは間違いない。ただ、かつてのそれと幻想郷の事例が異なっているのは、過去の記号的存在はそのものとして切られても血が出ず撃たれても死なない不気味なもの――つまり「化け物」だが、幻想郷の人物たちは異なったリズムにおいて生きる別種の存在――つまり少女――だということにある。化け物はそれ自体として合意なくルールを侵犯するが、幻想郷の人物を支えているのは「ごっこ」の精神である。化け物は帰属先のない異物だが、幻想郷は明らかに一つの世界であり、我々の恣意的な物象化が許される対象ではない。それは、言い換えれば、幻想郷は自分たちを人間的な論理によって読むことを否定しているということだ。
データベース論において、キャラクターはメタ物語的に、つまり、想像力の狭間に存在する。キャラクターは一つの可能世界の結節点となるということだ。ところが幻想郷の人物の性質はそれと異なっている。ここにおいて、メタ物語的に存在するのは幻想郷そのものである。従って、逆説的に、幻想郷の内部に住まう少女たちは、非=メタ物語的になる。しかしこれはまんが・アニメ的リアリズムにおける記号性への回帰を意味しない。むしろ、それよりも遥かに確固たる人権的なものをすら感じられるだろう。我々はメタ物語的に存在する幻想郷を覗き込むことで、少女たちの実生活に僅かにアクセスすることができる。しかし、それはほんの僅かなものにすぎない。幻想郷の少女たちは、我々とまったく無関係に存在している。
このとき、我々はニコニコ動画上で人気を博している「幻想入り」という言葉(タグ)を思い出してもよい。幻想郷には様々な器物が「幻想入り」するが、中でも、読者たる自分が幻想郷に迷い込んでしまったという体で書かれる多くの二次創作を示した言葉だ。このタイプの作品の隆盛はぜひ実際に検索して試して頂きたいが、ここで確認したいのはそれではない。確認したいのは、「幻想入り」が現実における「神隠し」と対応しているということだ。我々は二次創作の技法によって「幻想入り」した人物の去就を追いかけることができるが、しばしば、作品そのものが未完になってしまうことをしてそのもの「幻想入り」と呼ばれる。それはつまり、作者がこちらの現実との関連性を失って「神隠し」されたということを意味する。もちろん、少女たちはこの現実と無関連に存在している。「神隠し」された作者もまた、そのような抽象的な状態に至ったと考えるべきだろう。
このような「幻想入り」の論理は、まんが・アニメ的リアリズムでは捉えることができない。なぜなら、そこでしばしば抹消されるのは他ならぬ「私」だからだ。記号的な生のプロパガンダによって現実を正当化するのではなく、記号的な生の条件に主体の形を合わせること。それはときおり、観測が途絶えて消滅する。それは卑俗には、自らが描く物語を完結させることができない、ということでしかない。しかし、こと幻想郷を舞台にする限り、それはチャンネルを合わせるということであり、我々に可能な唯一の通信手段なのである。
我々は「神隠し」された作者を、死んだものとして考えてよいだろう。だが、それは前述した決定的で一回的なあの経験不可能性ではない。それは常に、再び現れる可能性に開かれている。その意味で、幻想郷に死はない。ただ、観測しようとしない限りにおいて幻想郷は常に死んでいる。しかしそれは明らかに従来の死生観とは異なっている。もちろん、我々はここで元長柾木風の他者概念をすぐに想起することができる。自らの内面において在る他者。我々はそのようなものとしてキャラクターを捉える中で、このタイプの感性を磨いてきた。幻想郷を観測できることは、この感性の十分な発達に拠って立っているのである。
文=村上裕一
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