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Criticism series by Sayawaka;Far away from the“Genba”
連載「現場から遠く離れて」
第四章 事件は現場で起こっているのか 【5】

ネット時代の技術を前に我々が現実を認識する手段は変わり続け、現実は仮想世界との差異を狭めていく。日々拡散し続ける状況に対して、人々は特権的な受容体験を希求する――「現場」。だが、それはそもそも何なのか。「現場」は、同じ場所、同じ体験、同じ経験を持つということについて、我々に本質的な問いを突きつける。昨今のポップカルチャーが求めてきたリアリティの変遷を、時代とジャンルを横断しながら検証する、さやわか氏の批評シリーズ連載。
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『THE MOVIE3』はまず、前作までの「現場」と上層部の対立というわかりやすい二項対立が大きく後退して、そこにサーバントリーダーを名乗る鳥飼誠一補佐官が現われる。鳥飼は「現場」と上層部のそれぞれが立場を損なわないようにするための調整役を買って出て、両者の対立を収めたり、判断に迷う室井に最適な選択肢を与えたりする。室井は鳥飼がクレバーに示す妥協案に対して悩むが、それは当然で、本来なら室井こそがこうした立場にあるべき人物だったのである。彼はもはや物語上での役割すら奪われつつある。鳥飼は室井を評して次のように言う。

「あの人はどうなのかなあ。所轄ばっかり信じて動かすっていうのも、ロマンを追いかけてるみたい。利口とは思えない」

この台詞はどこか観客の反感を招くようなものだが、だが作中の誰一人として彼の言うことを否定することはできない。さんざん悩んだ室井も結局は鳥飼の提案に従うことになる。それでも室井は『MOVIE2』までの対立軸に沿った行動を取ることによって自分の立場を示そうとするがごとく、政治性ばかりを重んじて事を運ぼうとする上官たちに意見しようとする。だが、既に作品の論点はそんな場所にはない。彼は上官から逆に「勉強になるだろう。この部屋に正義はないよ。あるのはそれぞれの立場の都合だけだ」と凄まれる。ここでついに、正義とは何なのかという問題が現われる。青島はいつの間にか「現場」が自明的に正義を保持することを疑わないようになったし、物語は正義を問う代わりに「支店」と「本店」の権力関係を善悪に読み替えることで人気を拡大させてきた。だが、室井が直面しなければならないのは、絶対の正義がなく、したがって権力関係を善悪で言い表すことのできる二項対立もなく、「それぞれの立場」しかないという、ごく現代的な世界なのである。そのような世界は、必然的に「現場」の誇る正義すらも――ちょうど『踊る大捜査線』を低く評価する従来の映画業界人と同じように――また日本のヒップホップにおけるレコード会社と同じように――「それぞれの立場」の一つへと格下げする。

鳥飼はこうした世界を既に見通せているからこそ室井を愚かしく思うし、また実際に彼は「現場」と上層部をイニシアチブを奪い合う二項対立のようには扱わない。権力関係にはあるが、まさに組織として円滑に運用するための解法を提示し続けるのである。そのクレバーそうな態度は劇中で鼻につくものとして描かれているが、最終的に鳥飼の考えはくじかれることがないまま『THE MOVIE3』は結末を迎えるのだ。『THE MOVIE3』のみで鳥飼についてのエピソードが完結しなかったのは、『踊る大捜査線』が劇場作品であっても連続ドラマと同様に物語が次作へと引き継がれる形式となっているためだろう。しかし、少なくとも過去の劇場版を貫いてきた精神では鳥飼を否定することができなかったということは作品にとって重要な課題である。

『THE MOVIE3』のクライマックスで、ITによって外部から完全にセキュリティロックされてしまった警察署の扉を、青島は木の杭で何度も打ちつけて壊そうとする。このシーンは実に奇妙である。なぜなら、そんなことをしても扉を開くことができないのは誰にとっても明らかだからだ。青島にもわかっているだろう。かつて科学技術と協調すると言っていた彼は、いつの間にか「現場」のやり方しか手にしておらず、そしてそれだけでは扉を開くことができないのだが、もはやそれしかすることがないのである。扉を開けるには「現場」ならざるものの象徴に変貌した情報技術によって、施されたロックを解除する必要があるのだ。それでも木の杭を打ちつけようとする彼の行動には「無駄だとわかっていてもあえてやる」という日本的なスノビズムしかない。それゆえに観客にとって彼は美しいようでもあり、同時に愚かしくもあるのである。

日本的スノビズムとは何か。これはロシアの哲学者コジェーブが提唱し、日本では柄谷行人『終焉をめぐって』(福武書店、1990)の紹介などで有名な概念である。ここで注意すべきなのは「日本的」という言葉ではない。つまりこの概念は日本特有の心性を説明しているという意味で重要なわけではない。それを踏まえた上で簡潔に言えば、日本的スノビズムとはある言動が実質的な意味を全く持たないにもかかわらず「あえて」それを儀礼的/形式的に行なうことを愛でるような心性を指す。青島は無意味であるにもかかわらず、「現場」的な正義の標榜のためだけに儀礼的に扉を壊そうとした。このような態度は、実は室井が直面し、鳥飼が既に理解しているような「それぞれの立場」しかない世界においてしばしば招かれるものである。つまり誰もが絶対的な正義の立場にないとき、人はしばしば本来的には無意味であることを理解しながらも行動を起こすことになり、むしろ無価値であることを「あえて」行なっていると言い募ることによって一つの美学を完結させるというわけである。

これについて具体的な例はいくつも挙げられようが、ここでは社会学者の大澤真幸が『戦後の思想空間』(ちくま新書、1998)で論じた消費社会的シニシズムについて触れることにする。消費社会的シニシズムとは何だろうか。まず「シニシズム」から考えよう。大澤はドイツの思想家スローターダイクを参照しながら、古典的なイデオロギーとシニシズムを比較する。イデオロギーとは、ごく簡単に言えば本質的には虚偽であるにもかかわらず社会的な構造によってそれが真実であると信じられてしまう観念のことだ。それは例えば国教としての宗教や、国策的に導入される政治思想のようなものを例として思い浮かべるとわかりやすいだろう。これに対してシニシズムとはどのようなものか。大澤の言葉では次のようになる(※42)

それに対して、シニシズムは、いわば一段前に進んだイデオロギーです。メタ的な視点にたったイデオロギーだと言ってもよい。シニシズムというのは、自己自身の虚偽性を自覚した虚偽意識なんです。啓蒙された虚偽意識だと言ってもよい。それは、「そんなこと嘘だとわかっているけれども、わざとそうしているんだよ」という態度をとるのです。

『戦後の思想空間』著=大澤真幸(ちくま新書、1998)209 頁より引用

この説明は、我々がここまでに考えた無価値であることを「あえて」やるという態度と全く似通ったものだ。そして大澤は、消費経済が発展した現代に見られるシニシズムとして、例えば広告を挙げる。広告が描いていることがすべて事実ではないと我々は知っている。広告がしばしば言うように、芳香剤を買うだけで家庭が円満になるわけではないことは明らかだ。しかし、私たちはそのような広告を見て、実際に芳香剤を買ってしまう。特にヒットする広告の場合、皆がその広告を見て商品を買っているという気持ちが、私たちを消費に走らせたりする。無価値である広告をあえて信じてしまうこと、ここにつまり消費社会的シニシズムがあるというわけである。

ただし、厳密に言えばこれは日本的スノビズムとは別のものである。どこが違うのか。日本的スノビズムにあった「あえて」行なうことを愛でるというあり方が、消費社会的シニシズムには存在しないのである。どういうことだろうか。大澤は消費社会的シニシズムの究極的な例として95年に地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教を例に語っている(※43)。オウム真理教の教義とは簡単に言うと我欲を捨てて利己的な信念への執着をなくし、自己という軛から解き放たれようということだった。しかしそのためには教祖である麻原彰晃への絶対的な帰依が求められる。つまり自らの行動を「あえて」他者の判断に委ねることが必要となるのだ。だがそこには「あえて」行なうことを愛でるという享楽的な判断は存在しない。オウム真理教というコミュニティがイデオロギーとして強要するものに「あえて」従っているだけなのである。

つまり消費社会的シニシズムにおいて「あえて」行なうということは、いわば自己の行動を「あえて」他者の意志に委ねてしまうということが強迫的に起こるような事態である。「あえて」広告を信じたり、「あえて」麻原に服従することは、もはや抗いがたいこととして自己の行動を規定するのである。したがって、「THE MOVIE3」における青島の行動への解釈を、私たちは次のように訂正することができるかもしれない。青島が杭で扉を破ろうとする行為は彼自身にとって無意味とわかりながらもそうするしかない行動、すなわちシニシズムに則った行動である。そして周囲の登場人物が、あるいは映画を眺めている私たちが、彼の行動を見てそれを美しいと感じたとしたら、そこには日本的スノビズムが働いている。

いずれにせよ日本的スノビズムと消費社会的シニシズムは、これまでに説明した素朴な反体制的志向と交互に援用されながら、「現場」の論理に対して見かけ上の正当性を捏造し続ける(※44)。その傾向は、昨今に「現場」を重視するサブカルチャーの大半で見ることが可能だろう。先に挙げた日本のヒップホップを例に考えてみよう。ヒップホップコミュニティはまず物理的な場所としての「現場」を重視し、「ストリート」などの自称によってメジャーな音楽市場を仮想敵として捉えようとする。しかしだからといって、彼らがみな「現場」の価値観によって将来的には日本の音楽市場を覆そうと考えているかといえば、そうではない。なぜなら「現場」はメジャーな音楽市場から距離を置いた場所として想定されることにこそ意味があるからである。つまり「現場」で起こっていることこそが重要だと言うことで、市場やメディアで産業として営まれているヒップホップに対する距離を確保するのである。かくして自分たちが下層的な存在であることを前提としつつ、メジャーな音楽市場を打倒する姿勢を見せ続けることが美学として結実する。このような態度は、日本のヒップホップだけでなく、たとえば従来的なロックやパンクに当てはめて考えることも容易だろうし、あるいはオタク産業において一部の同人的なコミュニティが取るスタンスにも類似している。言うまでもないことだがこのようなアジテーションは、奇妙なことに、しばしば自身がメジャーな市場に商品を流通すらさせながら行なわれる。

『THE MOVIE3』において、青島が杭を打ちつけた扉は最後に開かれるが、それは彼の力によってではないし、彼の行動にほだされた誰かが協力したためですらない。つまりこの作品は扉を破ろうとする青島を、美しいようでもあるがしかし決定的に愚かな人物として描くのだ。なぜなら、青島を超人的な能力をもって扉を破ることができる万能のキャラクターに格上げすることがあってはならないからだ。あくまでも組織の一員にすぎない彼がヒーローたりえないことは、そもそも連続ドラマ版の冒頭で明らかだった。にもかかわらず、青島はいつしか上層部を仮想敵にすることであたかも絶対的な「正義」として振る舞えるかのような立場を得ていたのだ。それは欺瞞である。だからこそ彼は、セキュリティのかかった扉を自身の肉体で破るような超越的な能力を持っていないという限界に達するし、作品はそれを正確に描くのである。その姿には、鳥飼の存在と共に、反体制的なあり方としての「現場」主義の限界が表現されているのである。


ここまでの我々の議論を整理しよう。「現場」という概念は90年代以降、しばしば反体制的な姿勢を形作るために援用されていると言うことができる。それはしばしば所属する組織全体の運用、あるいは「日本」などの大きな背景に影響力を及ぼせず、課題の解決にも至らないという状況を招くが、それでも物理的な場所としての「現場」をヒエラルキーの頂点に「あえて」据え続ける日本的スノビズムとシニシズムによって正当化される。90年代初頭の『パトレイバー』から「現場」という概念を引き継いだ『踊る大捜査線』は、その理想を描き、そして劇場版以降に安易な体制批判としての「現場」主義へと流れつつ、10年代になって自らその限界を指摘した。そこにはたしかに、本格的なネット時代と、価値の相対化した時代を迎えて「現場」の扱いに惑わざるを得ない我々自身のリアリズムがある。
文=さやわか

※当連載は約一カ月休載いたします。再開は8月末の予定です。ご期待下さい。

【註釈】
『戦後の思想空間』著=大澤真幸(ちくま新書、1998)
※42 『戦後の思想空間』著=大澤真幸(ちくま新書、1998)209 頁より

※43 前掲書228頁。

※44 なお、柄谷行人は『終焉をめぐって』の中で「日本的スノビズム」の「日本」という部分について「消費社会」と言い換え可能であることを示唆している。

第一章 ゼロ年代は「現場」の時代だった
第二章 ネット環境を黙殺するゼロ年代史
第三章 旧オタク的リアリズムと「状況」
第四章 事件は現場で起こっているのか

さやわか ライター、編集者。漫画・アニメ・音楽・文学・ゲームなどジャンルに限らず批評活動を行なっている。2010年に西島大介との共著『西島大介のひらめき☆マンガ 学校』(講談社)を刊行。『ユリイカ』(青土社)、『ニュータイプ』(角川書店)、『BARFOUT!』(ブラウンズブックス)などで執筆。『クイック・ジャパン』(太田出版)ほかで連載中。
「Hang Reviewers High」
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11.07.24更新 | WEBスナイパー  >  現場から遠く離れて
文=さやわか |