読者投稿不定期連載 北陸在住マニア画家の美少女羞恥緊縛図絵
Specially selected abnormal maniac exhibition!
北陸在住のマニア絵師が描く背徳的な鉛筆画と掌篇バックストーリー。責められる肉感美女たちの恥じらいと諦観は、どこまでもあいまいで広大深淵なファンタジーを紡ぎだす――
思春期の頃から緊縛画に取り憑かれていた私は妄想派のマニアで、実際に女を縛った経験はほとんどない。縛りたいという欲求よりも、自分で自由に想像を膨らませたという欲求のほうが強かったからだ。いや、こんな私に縛らせてくれる女などいやしないだろうと初めから諦めていたところもある。
そんな私にも、初めて生身の女を縛った日があった。恋人に絵のモデルを頼んだときである。
妄想と現実はまるで違うのだ、ということをその時に知った。どちらがいい、悪いということではなくて、根本的に違っていた。麻縄を自分の手に持っただけでもう違う。その重み、その肌触り。ましてや後ろに組まれた手首に触れたときの冷たさ。後手に縛って胸に縄を回していく時、どこに向かって息を吐けばいいのかも分からなかった。
そして何より不可解だったのは女そのものだった。縛られてしまえば何をされても耳動きがとれない。恐ろしいことである。私にはそんなふうに人を信用することはできない。よくSMは信頼関係といわれるが、私には彼女が私を信じているのかどうかなど分からなかった。少なくとも、彼女が縛られた理由について「私を信じたから」などと考えることは私にはできない。それがSMの全てだとするなら、私がSMに興味を持つことは最初からなかっただろうと思う。趣味とはいえ今に至るまで絵を描き続けていることも……。
初めて女を縛ったとき、私が味わったのは、連綿たる裏切りの連続だった。妄想とは無関係にある生身、かくあるはずだという約束など考えるのも馬鹿らしいすれ違い、だからこそ驚き、戸惑い、揺れた。男が女を縛るとき、口では愛を囁きながら実際はまったくべつのことを考えていることがあるように、女が陶酔している対象が縛っている相手だとは限らない。絵を描くことは、触れることのできない対象にどこまでも近づいていく行為だ。では縛ったり、犯したりしする行為はどうなのだろう。何か違うのだろうか。
私はSMにおける「信頼関係」という言葉が好きになれない。
作=魚清
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