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「お絵描き文化」の特異な発達を遂げた国、日本。「人は何のために絵を描くのか」、「人はなぜ描くことが好きに/嫌いになるのか」、「絵を描くとはどういうことなのか」――。さまざまな形で「絵を描く人々」と関わってきた著者が改めて見つめ直す、私たちと「お絵描き」の原点。昔、芸大受験のために通っていた予備校のクラスで、一人だけなかなか描き方の習得ができない学生がいた。
他の学生が石膏像を前に構図を決めている時、彼はいきなりその石膏像の顔の中心を描いていた。他の部分はアタリもつけていない。ひたすら、像の鼻の付け根と二重まぶたの周辺を描いている。しばらく経ってふと見ると、顔の半分だけが克明に描き上がっている。しかし他の部分は真白のまま。
当然、全体が出来上がってきた時には形に歪みが生じたり、構図が偏ったりしていた。講師には何度も注意されていたが、彼はどうしても細部から始めるやり方を崩せなかった。私は「なんて不器用な人だろう」と思って見ていた。入試なんだから割り切っちゃえばいいのに。
何年か経ち、今度は予備校生を教える立場になって、同じタイプの受験生に遭遇した。いや、その学生はある意味、もっとユニークだった。
描き始めて30分くらい経った頃に見に行くと、白い木炭紙の真ん中あたりに、細かい点がポツポツと打たれているだけ。怠けているのではない。彼は真剣そのものの眼差しで像に向かっている。
一時間くらい経つと、そのポツポツが増えていて何かの形態を形成しつつある。2時間くらいでブルータスの鼻が、見たこともないくらいのリアルさで紙から浮き上がっていた。
しかしこのペースだと、時間内に描き上がらない。スタンダードな描き方の"強制ギブス"も何度か試みたが、無理っぽい。どうしたもんだろうと講師会議で相談した。その時私たちの中にあったのは、「これじゃあ全然入試に対応できないよ」という危機感より、「あいつ、すげぇな......」という感嘆の思いだった。
確かに入試向きではない。しかし、目の前の対象とやりとりしながら、それを二次元上に、あたかもそこにあって触れられるもののように描き出すという行為への彼の集中力は、学生たちの中で群を抜いていた。主任の講師は「このやり方でペースアップさせるしかない」と言った。
形を描くことなんて、型とコツを覚えれば簡単だ。そう割り切っていた私にとって、「描くこと」に愚直なほど純粋に向かっていたその学生の姿勢は、少なからず脅威に映った。
先生、描くってそんなにスムーズに行くことなんですか? リアルってそんな簡単なものなんですか?と、彼の背中は問うていた。自分が要領でやってきたことに、ズブリと太い杭を打たれたような気がしたものである。
その学生の中にも、「描いたものに承認を得たい」「早く入試クリアレベルに到達したい」という欲求は当然あっただろう。でも彼は、最短距離でその型を習得する方向ではなく、ただひたすら自分の感覚を紙に刻みつけて確認するという、一番険しい山道を一歩一歩登るようなやり方しかできなかった。だから彼は三浪した後、やっと芸術系の大学に入っていった。
描くこととは恐ろしいことだ、と思う。描くことの中には「魔」が潜んでいる。
「これを習得すればいい」といった目標があっても、今目の前にあるものを迫真のレベルで描き切りたいという欲求が、そんな目標などをはるかに超えて膨らみ、描く者を圧する。
「描くこと」に心の芯から捉えられた人にとってはしばしば、「人に認められたい」という欲求をはじめ、世俗的な一切が無意味なものになる。残るのは、「見る」とか「描く」とかって、いったいどういうことなんだ?という根源的な問いだ。描く人は、「描くこと」を通じてそれを問い続ける。
それで思い出されるのは、芥川龍之介の『地獄変』に登場する絵師、良秀である。
大殿から地獄絵屏風を依頼された良秀は、モデルにした弟子を鎖で縛ったり木菟に襲わせたりしながら、身の毛のよだつような絵を描いてゆくが、どうしても完成させることができない。
燃えさかる牛車の中で焼け死ぬ女の姿が描けない、できれば目の前で見たいと大殿に訴えた結果、普段から偏屈で傲慢な良秀を試す気になった大殿は、女御として屋敷に上がっていた良秀の娘をその役に選ぶ。
炎の中で悶え苦しむ愛娘の断末魔を目に焼きつけた良秀は、凄まじい地獄絵屏風を完成させた翌日、首を括って死ぬ。
この作品は、芸術のためにはいかなる犠牲も、人倫にもとることすらも厭わない「芸術至上主義」を描いた作品として、よく高校の教科書に登場する。
「どんなリスクを払ってでもリアルを追求したい」という、絵師を捉えた熱病のような欲望。しかし良秀の中にあるもう一つの大きな願いは、大殿に仕えている娘を手元に取り戻すことだった。
それまでにも、依頼の作品をものした褒美に娘の返還を大殿に要求し、退けられている。だからこの地獄絵で大殿を屈服させ、それをもって娘を取り返すのだという思惑が彼の中にあったであろうと推測される。
それだけに良秀は、最愛の娘が犠牲者になるとわかった時、恐ろしい苦しみに囚われた。絵の完成を優先すれば娘は死ぬ。赦しを請えば大殿に侮蔑され、娘は永久に戻らないかもしれない。
だが、絵師としての欲望と親心との激しい葛藤も束の間、良秀は目前に繰り広げられた文字通りの地獄絵図に恍惚となってしまう。それは、苦痛と快楽に同時に身を浸す、精神分析の言葉で言えば「享楽」を貪っている状態だ。骨の髄まで絵師だった彼に残されたのは、芸術に殉じた上で、娘を追いやった地獄に自分も堕ちるという道のみだった。
この物語は、「芸術にすべてを捧げるとは、人間らしさを捨てることだ」という芸術至上主義のダークサイドを浮かび上がらせているだけでなく、芸術家として生きることと市井の人間として生きることの両立の困難を描いている。
リアルさへの飽くなき追求心に突き動かされて絵を描く、その延長線上に、こんな自縄自縛が待ち受けているとは、普通は誰も考えない。
だが「描くこと」の中には、最終的に自らをも滅亡に至らしめるような、人間的なスケールでは測れない闇が潜んでいるのではないか。岡本太郎の言葉を借りれば、それは「黒い道」だ。芸術家はいかなる時も、そのもっともしんどい道を選ばねばならないという。
そこに踏み込んで良秀が完成させた地獄絵屏風は、人々の中に荘厳な感情を喚起した。地獄の苦しみが大きければ大きいほど極楽浄土の安楽はいや増すように、深い闇に身を投じるような絵師の振る舞いによって、その絵は不思議な光を放っていたのだ。
目の前のものを真に迫るように描きたいと願った良秀とは反対のベクトルもある。昨年公開されて話題の映画『この世界の片隅に』の、主人公すずのケースだ。
この作品は、戦時下の日本という国の「片隅」で営まれる庶民の日常を通し、非常に古典的なテーマである「喪失と恢復」を描いている。だがここで何より重要なのは、主人公すずが「絵を描く人」であることだ。
「絵を描くこと」がすずにとってどういう意味をもつものであったか、戦争によってその手段を物理的に奪われた時、現実はどんな様相で彼女に迫ってきたか。この作品の独自性は、絵である漫画及びアニメ表現によって、「描くことの光と闇」を深く問うているところにある。
すずにとって、絵を描くことはまず第一に、現実をファンタジーの世界に変えることだった。彼女の手にかかると、(おそらく想像上の)「人さらい」はユーモラスなマンガに、波立つ瀬戸内の海は兎たちが飛び跳ねる童話の世界に変貌する。
絵は、どこまでも虚構である。だが虚構のオブラートに包むことで、現実がちょっと楽しいものになる。絵を通した世界はすずにとって、不思議の国、ワンダーランドである。
だからすずは、青空をバックに炸裂する着色弾のさまざまな色も、まるでパレットに並ぶ色とりどりの絵の具のように眺めてしまう。ワンダーランドの主役である戦艦「大和」や重巡洋艦「青葉」も 、恰好の絵の対象。
一方ですずは、初めて訪れた広島の街や夫・周作の寝顔をスケッチしたり、覚え書きノートのメモの傍らに身近な人の顔や物や光景のさまざまなイラストを描いたりする。そこにあるのは、生きていることの記録としての「描くこと」だ。徐々に不自由になっていく生活の中に、すずはささやかな楽しみを見つけ出す。
現実の危機に直面しているにも拘わらず、すずがどこかのんびりとしているのは、もともとそうしたキャラクターであるとともに、彼女が「絵を描く人」だったからだ。「描くこと」が、過酷な現実に薄いフィルターをかける役割を果たしていたのだ。
右手を失って、すずは別の角度から現実に直面する。左手で描いたような歪んだ画面は、そのまま、彼女の目に映った現実の歪みそのものだ。もうフィルターは機能しない。描く手を失ったすずは、まったくの丸腰で現実に対峙しなければならない。
終戦となり、日本の植民地から解放された太極旗(朝鮮旗)が翻るのを目撃したすずの中で、信じてきた「日本」は瓦解する。「大日本帝國」そのものが絵に描いた餅、虚構でありファンタジーだったのだという、紛れもない現実が、彼女を打ちのめす。
「絵を描く」ことは、好き嫌いや巧拙は措いておいて、大人から子どもまでどんな人にも開かれている。一方では穏やかな趣味として、時に芸術として賞賛されることすらある。
だが私が注視したいのは、この作品が「そんなささやかな営みを奪ってしまった戦争の恐ろしさ」を訴えているというよりは、そのレベルを超えて、すずが当たり前に信じてきた日常及び国家の信憑構造に「絵を描く」ことが重ね合わされている点である。
ここに、「描くこと」で守られてきたものとは何だったか?「描くこと」で見ないできたものとは何だったのか?という、厳しい問いがせり上がってくる。
そして一筋縄では行かないのは、その問いが、当時の広島と呉を舞台にした物語を、あたかも目前にしているかのように仔細にリアルに「描くこと」によって、もたらされているということだ。
『地獄変』の良秀は、「描くこと」の極北に向かった言わば"向こう側"にいる人だったが、すずは私たちのすぐ隣にいる。
日常が取り戻されるに従って、再び絵を描く右手が画面に現われるが、それは現実には存在しない、すずの頭の中の手だ。空襲で焼けた街、原爆で壊滅した街を前にすずは頭の中で自在に絵を描き、ありえたかもしれない光景を想像し、夢見る。
「描くことの光と闇」を美しく明滅させたこの作品を、絵を描く人々はどのように受け止めているだろうか。
絵・文=大野左紀子
関連リンク
絵を描く人々
第1回 人は物心つく前に描き始める
第2回 「カッコいい」と「かわいい」、そしてエロいvs
第3回 絵が苦手になる子ども
第4回 美大受験狂想曲
第5回 人体デッサンのハードル
第6回 演出と詐術の世界にようこそ
第7回 自画像と似顔絵をめぐって
第8回 ヘタウマの功罪
第9回 絵が描けるといい仕事
『あなたたちはあちら、わたしはこちら』公式サイト
17.02.04更新 |
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