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特集:インターネットのある暮らし2012
通信と身体の二つの速度 文=村上裕一
私たちの暮らしは、すでにインターネットが欠かせないものとなっています。PCは当然ながら、携帯電話、スマートフォンの通信も常時接続が意識されなくなりつつある昨今、改めて意識しなければ「インターネット」を感じることが少なくなっているのではないでしょうか。かつての夢のような技術を無意識に享受する現在――。2012年WEBスナイパー夏の特集企画では、私たちの暮らしに浸透したインターネットについて、いま一度考える機会を持ちたいと考えます。その第一歩として、まずは私たちを取り巻くネット環境の基本的な形を批評家・村上裕一さんに俯瞰していただきましょう。
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私は今、福島県を通過しつつある東北新幹線「はやて」に乗りながら、この原稿を書いています。スマートフォン「HTC EVO WiMAX」を利用し、Wi-Fiテザリングでネットに接続したMacBook Air(MBA)が旅のお供です。周知の通り、現在の東北新幹線は「やまびこ」「はやて/こまち」「はやぶさ」などが運行しており、後ろに行くほど最近になって登場した、高速の新幹線となっています。たとえば、同じ東京-盛岡間でも、ほぼ各駅に停車する「やまびこ」は所要時間が3時間10分ですが、「はやて」では2時間30分と大幅に速くなっています。最高速度が時速300kmを超えるという、初音ミク似のカラーリングで話題になった「はやぶさ」に至っては、東京ー新青森間を3時間10分で走ってしまいます(「はやて」では3時間40分程度)。かような列車の高速化に伴ってゆったりとした乗車ライフということでもなくなった結果、いわゆる食堂車というものが(一部夜行列車等を除いて)消え去ったことは、一応2000年以後に起きた出来事として、人々の記憶に残っているものと思います。過酷な就労環境や火災事故の危険性など様々な問題がありましたが、何と言っても、速度の高速化と乗車時間の短縮こそが重大だったんですね。
まあ、21世紀にもなって(飛行機ですらなく)新幹線の話をしているというのも何なのですが、先日6月28日にも、北海道・北陸・九州の整備新幹線が増税を受けてか新規着工の認可が下りたわけで、まだまだ新幹線の話題は私たちの生活から消え去りそうにはなさそうです。
そんな新幹線に乗っていると際立たずにはいないのがモバイル環境の進化です。実際、辺りの乗客を眺めてみると、MBAを用いてノマドごっこで調子に乗っているのは私だけだとしても、パナソニックのLet'snoteで車上業務にと洒落込んでいるビジネスマンの姿は一人や二人ではありません(というかまさかこんなにLet'snoteのシェアがあろうとは......)。
もちろん、単に新幹線の折りたたみテーブルにマシンを乗せてローカルでテキストなどを編集するというだけのことなら前世紀からできました。が、そこにもなかなかむずがゆい緊張関係があったのは事実なのではないでしょうか。というのもノートパソコンと言えば、やはりネックになるのは稼働時間だからです。東北新幹線はもののたとえに過ぎませんが、私が東京から盛岡に行くまでの2時間30分、ノートパソコンの電池が保ってくれたかと言えば、ぜんぜん足りなかっただろうというのが思い出されます。まして、インターネットもろくに出来ないのですから、日記でも書いているくらいならいいものを、パソコンに取り込んだテレビ番組でも再生しようものなら、あっという間にバッテリーがなくなってしまったものです。そもそも、ノートパソコン自体まだまだ重苦しく、気軽に出したりしまったりというものではなかったようにも感じます。電池がなくなったらただの重しですからね。
それがいまや、バッテリー持ちのいいパソコンで、充実したネット環境のもとに、調べものをしつつ、いざとなったらyoutubeやニコニコ動画を見ながら、車内販売で購入した300円のコーヒーでも飲んで休憩をすることも可能です。これはなかなか凄い。
これまでも不満足ながらノートパソコンを新幹線に持ち込んで利用できたのと同様に、車内でインターネットを利用することもできなかったわけではありませんでした。たとえば携帯電話をルータ代わりにすることはできたわけです。しかしながら、携帯電話のcdmaOneでネットに繋ごうと思ったら、回線速度は14.4kでしかも実測値ではない、などという時代がありました。ガラケーのネットならまだしも、パソコンで使うにはいくらなんでも心もとなかろうというのは、当時から誰しも思っていたわけですが、今から振り返ればさらにその思いは強まるばかりです。しかも定額コースがないわけで、油断したら大変な費用が請求されてしまう。ちょっと実用に足るものではありませんでした。この感覚は、ガラケーをお持ちの方がフルブラウザをうっかり利用しすぎてしまったときの恐怖と似ているものと思います。スマートフォンになると、そんなものはなくなってしまいますね。というよりも、i-modeやezwebの発達はガラケーのガラパゴス感そのものなわけですが、この限定的ネットの隆盛によって私たちは、むしろある意味、ゆっくりと汎ネット化の世界に順応できていったのかもしれません。ポケベルの延長線上において発達したガラケーの機能は、本当に限定されたものでした。スマートフォン登場の衝撃は、その限定性をありありと知らしめてくれました(ちなみに私がスマートフォンを導入した理由はガラケーではgmailをうまく扱えなかったからです)。
とはいえ、ポケベルの通信なりメールなりの存在感は、電話に準じるものであって、常に繋がっている感覚そのものとは言いがたいところがあります。もちろん、電話とメールは本当は違うものです。それ以前と比べれば、ポケベルの登場でより「繋がっている」感覚が強まったのも事実でしょう。しかし、パソコンにおける常時接続環境が提供していたコミュニケーションの感覚とそれは違います。私がネットにハマったのはCGIのウェブチャットに大ハマりしたことがきっかけでした。その後、ICQ, messenger, IRC, skypeと順調にクライアントを変えながら同じ楽しみに興じていました(それどころかビジネスツールとしても手放せなくなってきました)。近年のLINEの大流行なども鑑みると、むしろ技術の発達によって人間の欲望の変わらなさをこそ強く感じるようにも思われます。むしろ、SNSの普及はこの「繋がっている」感覚の問い直しとして現われているとも思います。ずっと会話しているから繋がっているのではなく、いつでも参照できることにおいて「繋がっている」ということですね。ガラケー文化の発露としてのプロフサイトの流れから、グローバルな想像力の発露としてのFacebookに合流していく様には、そういう転換も読み取れます。
閑話休題。本稿をお読みのみなさんのうち、どのくらいの方が東北新幹線の仙台以北まで行く路線を利用したことがあるかは分かりませんが、この新幹線の特徴はとにかく田舎を突き抜けていくということにあります。田んぼや畑がたいへんな広さで線路脇に展開しているんですね。ある意味田畑ならまだ文化的で、単に山を通過している時間も長いです。このためトンネルの通過が長く、また通信電波も薄弱なため、わずか3時間とはいえ、この時間というものはかつては情報から隔絶された時間となっていたわけです。こういう外界と隔絶された状態というのはある意味珍しいものだと言えます。しかし、考えてみれば、外界と隔絶しているというよりも、私たちがそれに乗って高速で移動しているからこそまるで隔絶されているかのように思われてしまうという逆転が起きています。とはいえ、いくら新幹線が非常に「速い」乗り物として登場したとはいえ、情報環境下の通信速度として考えれば、それは極めて「遅い」メディアであることは明らかです。同じ速度といっても、乗り物の速度と通信の速度では、もはや示している価値が違うものと言えるでしょう。
フランスの思想家にポール・ヴィリリオという人がいます。彼はメディアと速度の政治的機能について考えた人間です。その典型は映画。簡単に言えば、たとえばフランスを舞台にした映画を日本で私たちが見るにおいては、その臨場感によって私たちは日本にいながら瞬間的にフランスに移動しているのだ、というようなことが起きます。こういうものはかつてはアナロジーや想像力の問題でしたが、今はテクノロジーの効果ないし問題として現前しています。たとえば、スカイプを利用してフランスの人と日本の自分が会話しているとして、決してそれはバーチャルリアリティではありませんよね。現実です。そしてむしろヴィリリオは、人間から想像力を奪うようなこの即時性・全能性を批判していると言えます。
新幹線の車窓風景は、ネット時代においてはむしろ不思議なものです。なぜなら、その場に居ながら遠くへ飛べるという点では、私室の小部屋も映画館もそう機能は変わらないからです。もちろん、映画が接続されている外部はフィクションですから、ネット状況とは本当は異なっています。いくら乗り物を飛ばしても映画という虚構の中に入ることはできませんが、通信は、速達がそうであるように、凄く速い乗り物の産物であるとして考えることができます。しかし、乗り物が与える経験としては、ネットの速度は速すぎる。それは、距離というものの観念を喪失させます。しかし、加速負荷や制動距離などの限界から時速500kmを超えるような超高速のリニアモーターカーが実現しないということの隠喩的意味を、恐らく忘れてはならないようにも思います。その感覚なしでは、私たちは通信の全能性をあたかも自明であるように思い込んでしまいます。
そのような考え方において、新幹線の中で常時接続のネット環境を楽しむという体験は、速度差を体験できるという非常に面白い事態だと言えるでしょう。日本国内で考えれば、新幹線に乗っている状態というのは、最高速で移動している状態なのに、通信と比べればこんなにも遅い。それは、もう二つのものが同じ速度ではないということを示しているようにしか思われません。しかし、その感覚も、もはや普段の生活ではあまり対象にとって考えることではなくなっているように思えます。いつでもどこからでもGPSで自分の場所を確認することができ、随時更新される最新のデータベースに同じようにアクセスできるわけです。それは認識論的に考えて、私室の小部屋から一歩も出ずとも用が足りるのと同じ状態ではないでしょうか。しかし、ネットによって繋がった社会というものは、決して私室やその延長に存在する家庭といった小さな規模の共同体ではないわけです。
ネット環境はさらに発達し、クラウドサービスやスマートフォンの進化は、より私たちの生活を豊かにするものでしょう。私は基本的にその流れを歓迎しています。しかし、その真価は「部屋から一歩も出ない生活」のためになされるものではないと思っています。もちろん、拡張現実下の世界において、通信速度の世界もまた現実の一部であることは間違いありません。その点では、技術を否定し、古い世界観にしがみつくべきではありません。むしろネットによって構成されつつある領域を、たとえば地理的な延長ではなく隣国の出来事として距離を取るような態度が必要であるかもしれません。ソーシャル疲れなんて基本的にはバカらしいものですが、それも、技術によって急速に変わったものと適切に距離が取れていないならではのことに思われるんですね。それもあってか、技術が世界を変えるのだ、という素朴すぎる信仰を無邪気に述べる気にはなれません。むしろ、何が変わらないのか、そして、変わらないことと変わりうることがいかに調停されるのかこそが、技術とともに考えられるべき倫理的な問題であるように思います。
さて、などと言っていたらもう盛岡についたようです。それではみなさん、今日はこの辺で。またお会いしましょう。
文=村上裕一
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