Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第八章 美少女ゲームの音楽的テキスト【7】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
日常の言葉を詩の言葉に変えてしまう音楽の魔法があった。では、それに言葉の側が気づいたらどうなるのだろうか。日常言語ではなく、魔法の存在に気づいた言語。そのようなものとして、最後にTYPE-MOONの作品に立ち戻ってみたい。
何度か取り上げてきたように、奈須きのこの世界観では「魔法」「魔術」というものが重要な役割を担っている。これらの概念は、いわば奇跡を意識的に捉えようとする態度として考えられる。奇跡を代名詞とするKEYの作品があくまでも私たちの日常の延長線上の生活を描くのに対して、TYPE-MOONの作品はその先へ一歩踏み出している。
もちろん、単にファンタジーや伝奇作品を描いているだけのことであれば、それは単に、これまでも存在していたいくつかのジャンルのうち一つを選択して描いただけのことに過ぎない。そうではなく、美少女ゲームの枠組の中で、そのメディアが持つテクスト的可能性を押し広げるという観点のもとに、ジャンルの力が引き出されていることが重要である。
では、それは実際にはどういうことなのだろうか。ここでは『Fate/stay night』における「呪文詠唱」に着目してみたい。
魔術による戦いを描く『Fate』においては、古式ゆかしく様々な形式での呪文の詠唱というものが登場する。中でも衛宮士郎/アーチャーによる、固有結界「無限の剣製」を起動するための呪文詠唱は、作品全体を象徴し代表するものとして、多くのユーザーに記憶されているだろう。アーチャーの呪文を見てみよう。
体は剣で出来ている。
血潮は鉄で 心は硝子。
幾たびの戦場を越えて不敗。
ただの一度も敗走はなく、
ただの一度も理解されない。
彼の者は常に独り 剣の丘で勝利に酔う。
故に、生涯に意味はなく。
その体は、きっと剣で出来ていた。
詠唱される時には、この文言の英訳が音読される。さて、この言葉は見ての通り、よくあるファンタジー作品が精霊だの魔物だのを使役するような調子の文言ではなく、どこか哀愁漂う、物語上のものである。それもそのはずで、実はこの内容は士郎/アーチャーの人生を圧縮した言葉として存在しているのである。
血潮は鉄で 心は硝子。
幾たびの戦場を越えて不敗。
ただの一度も敗走はなく、
ただの一度も理解されない。
彼の者は常に独り 剣の丘で勝利に酔う。
故に、生涯に意味はなく。
その体は、きっと剣で出来ていた。
作品は、実はこのような呪文に秘められた哀愁を解き明かしていく過程としても存在している。最初の段階では、英語で詠唱されることもあり、呪文の意味は判然としないのである。ところが、物語が進むうちに、それが他ならぬ術者の強い感情そのものなのだということが明らかになってくる。この点で、呪文はまるで作品のテーマソングにおける「歌詞」のように振る舞っている。
実際、この呪文は「歌詞」に相当するかそれ以上の象徴性を担っている。というのも、この内容は主人公たる士郎と、メインキャラクターであるアーチャーだけではなく、メインヒロインたるセイバーにも当てはまるからだ。
音楽的な比喩を用いれば、ここにはドミナント・モーションがある。これは、(不安定な印象を与える)ドミナントというコードが持つ、(安定した)トニックへ進みたがる強い性質のことを意味している。緊張から解放されるこのような進行は「解決」と呼ばれている。
このことを物語に即していうと、もともとある主題の元に描かれる作品というものは、人物によってバリエーションが生じるにしても、基本的に同じ傾向性を帯びる。喜劇だとか悲劇だとかいうジャンルが、個別に様々な人物を描こうとも、最終的に与える印象において一貫しているのはそういう主題の拘束のせいである。
キャラクターを物語の単位とする美少女ゲームは、ゲームの仕組みが要請する繰り返しによって原初的なループ構造に絡めとられているため、その点で極めて形式的でありながらまるで主題に拘束されたような状態を示してしまう。いわばその透明なシステム的拘束に対して、まるで主題が存在するかのような色彩を与えたのが、KEY的な感動意匠であり、奇跡という(システム自体を対象化する)メタ主題だったと言えるだろう。しかし、これらのものはあくまでもメタ主題でしかない。
それに対して、『Fate』の場合は、主題は形式ではなく物語の水準にある。その主題を表現しているのが前述の呪文詠唱である。
しかし、これだけでは単に印象的な言葉が呪文になっているだけのことに過ぎない。重要なのは、これが音楽と結びついているということだ。
ここまでで確認してきたように、美少女ゲームではBGMこそがシーンの感情を表現する。それゆえに、音楽の同一性が感情の同一性を表現する。従って、ある感動のシーンαでAという曲が流れた場合、Aは感動の感情として登録され、もしシーンβでAが流れた場合、それは、よほどミスマッチでない限り、感動的な場面だと認識されるようになる。
ここで問題なのは、個々人の物語は交換不可能だということだ。ヒロインAとヒロインBの重要なシーンで感動的な曲がかかっていたとして、両者が内面に持つ感動が同一的であるなどとは、本来は言えないはずである。ましてヒロインが5人も6人もいるのであれば、感情もまた十人十色であるはずだろう。とはいえ、全く同一ではなくとも、同傾向であるということは言えるはずである。そうでなければ同じ音楽を使用することの意義が薄れてしまう。従って、音楽は最終的には、同一性を表現するのではなく、統一性を表現するようになっていく。
しかし、このような統一性が問題になるのは、物語に何らかのリニアな構造がある場合だ。個々のヒロインが単純にパラレルな関係であるタイプの美少女ゲームでは、統一性はさほど問題にはならない。『Fate』は『AIR』ほど露骨なグランドルートがあるわけではないが、しかし、物語は明らかにルートを経るごとにより事件の核心へと進行していくような作りになっている。そのような物語進行過程で、感動的な音楽が主題反映する詩と出会う、という構造を持っていることが、恐らく『Fate』が実現した音楽的テキストの最も美しい体現である。
具体的に述べると、『Fate』には感動的でノスタルジックな楽曲として「消えない想い」という曲が存在している(※156)。この楽曲は多用される。なぜなら、作品に悲劇的な逸話を持つ神話・伝説の英雄が多数登場するため、彼ら彼女らの感情表現のために必要だからだ。もちろん英雄だけではなく、現世に生きる主要人物たちの過去の傷を表現するためにも使われる。
この楽曲が、本編の第二部に当たる物語後半のあるシーンでかかる。それは、アーチャーのマスターである凛の独白シーンである。そのシーンでは、契約したマスターであるがゆえに、サーヴァントであるアーチャーの過去の記憶が流れ込んでしまうということが描かれた。そのせいで、アーチャーの呪文詠唱に秘められた悲劇が読み解けてしまったのである。
ふつう、感動的なBGMというものが存在するにしても、それはキャラクターソングではないのだから、あたかも抽象的な存在であるかのように振る舞わざるを得ない。実際「消えない想い」も途中まではそのような感じで万能なノスタルジー曲として振る舞っている。ところが、上記のシーンにおいて、まるで曲が自分の起源を見いだしたかのように定位をする印象が筆者には感じられる。それはまさに「解決」である。なぜなら、楽曲に対応する詩の言葉が存在し、その解釈によって音楽の持つ感情と結びつけられるからだ。音楽を呼び寄せるこのような言葉は、まさに「呪文」と呼ぶのがふさわしい。
これが筆者の牽強付会ではない理由、そして統一性と関係がある理由は、『Fate』という作品の持つ物語構造にある。この作品は確かに群像劇調ではあるのだが、しかし、やはり士郎という人物を基軸とする一貫した物語である。ゆえに、他の登場人物の感情というものは、基本的に、士郎が代表する物語の感情を言わば借り受けることによって成立しているものだと言える(※157)。
このように、『Fate』は音楽の感情表現の力を、ゲームの繰り返し構造に当てはめて単純に強調するばかりでなく、作劇構造に当てはめることで独特のものにしている。そこでは、伝奇バトルならではの「呪文」という要素が、BGMに対する歌詞のように振る舞い(といっても節が合っているわけではない)、楽曲に顕在的な意味を与えることで、「解決」をもたらす。それは、アニメでも小説でもかなり実現が難しい、まさに美少女ゲーム的な表現としてなされたものだった(※158)。
文=村上裕一
※156 「消えない想い」『Fate/stay night ORIGINAL SOUNDTRACK』(TYPE-MOON、2004)
さらにこの曲は、同じような印象を持つ、テーマ曲「THIS ILLUSION」のピアノバージョンと併用されることによって、個別のシナリオの中でも進行的に緩やかに連携している。その点からもこれは全体の統一性に奉仕していると言えよう。
「THIS ILLUSION」(piano ver.) 『Fate/stay night ORIGINAL SOUNDTRACK』(TYPE-MOON、2004)
さらに言うならば、そこからクライマックス曲である「エミヤ」へ繋がる形で、まさに物語的なコード進行を作りだしている。
「エミヤ」『Fate/stay night ORIGINAL SOUNDTRACK』(TYPE-MOON、2004)
※157 逆に、そのせいで士郎自体の感情表現がほとんどエンディングまで奪われてしまっているとも言えるだろう。というのも彼は代理のしたがりで、「正義の味方」になることを目標としているが、それすらも親の夢の肩代わりである。
代理以外にも、そもそもの各人物における主題的同一性は随所で強調されている。たとえば第一章におけるセイバーの問題と士郎の問題の近似性は、たとえば二人とも同じように自己犠牲的に振る舞うななどと攻撃される点で明らかである。そもそもマスターとサーヴァントの関係は同質性に由来しているところがあるので、その設定からもこの関係性はすでにほのめかされている。まして第二章の重要人物であるアーチャーにいたっては未来の士郎であるから、同質以外の何者でもない。この代理的一貫性については拙論「逆接の倫理」(『東浩紀のゼロアカ道場 伝説の文学フリマ決戦』講談社BOX、2008)で詳しく論じている。
※158 最新作となる『魔法使いの夜』には「Five」という楽曲が存在している。これは第五魔法に対応する楽曲として存在している。というのは、奈須きのこの世界観においては世界に五つしか存在しない「魔法」とはまさに奇跡であり、いわゆる一般的に戦闘などで用いられる超能力的なものは「魔術」として厳密に区別されている。そのような特別な「魔法」を表現する楽曲として一個「Five」が存在しているわけである。このような様子には、言葉と魔法と音楽の結びつきに対する強い意識を感じないわけにはいかないだろう。
「Five」/収録作品『魔法使いの夜』(TYPE-MOON、2012)
第一章 恋愛というシステム
第ニ章 地下の風景
第三章 探偵小説的磁場
第四章 動画のエロス
第五章 臨界点の再点検
補遺
第六章 ノベルゲームにとって進化とは何か
第七章 ノベル・ゲーム・未来―― 『魔法使いの夜』から考える
第八章 美少女ゲームの音楽的テキスト
12.08.19更新 |
WEBスナイパー
>
美少女ゲームの哲学
|
|