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対談:さやわか × 村上裕一
『僕たちのゲーム史(星海社新書)』をめぐって【後編】
昨年、星海社新書より上梓された『僕たちのゲーム史』。膨大な史料と明快な論旨からゲームの歴史を読み解く本書をめぐり、著者であるさやわかさんと批評家の村上裕一さんによって行なわれた対談を前後編でお届けいたします。執筆にあたり著者として臨んだ態度、ゲーム史におけるパチンコの位置づけ、拡大していくゲームの枠組みなど話題は多岐にわたります。大変ボリュームのある対談となっていますので、どうぞゆっくりお楽しみください。
村 今まではゲームには多様な要素があるんだよっていう話をしてきましたが、ちょっとちゃぶ台をひっくり返すようなことを言いますね。ゲームって最初っからそうだったのかという感じもしたんですね。というのは「ゲームって最初からメタゲームだったんだ」ということです。本書にも書いてあったと思うんですが、当時まだインターネットがあまり発達してなかったので、裏技や謎があって、それを探す過程で友達としゃべったり本を頼りにして情報交換をする必要がある。この体験も含めてゲームだというとき、それはメタゲームそのものみたいなものなんですよね。
さ ゲームについて語られるゲームという意味で、たしかにそうなりますね。
村 逆にいえばメタゲームのないゲームの方が、少なくとも対人戦である限り少ないでしょう。たとえばカードゲームの大会なんかでは、「今はこのデッキが席巻してるから逆張りしてこのデッキを持っていこう」みたいな判断が常にあるわけですが、むしろこの事前の攻防のほうがゲームに見えてきたりするわけです。これはもう、歴史のかなり初めの方からメタゲームありき......という印象になりますね。
さ おっしゃるとおりです。さっきも言いましたが、第7章の時点で急にコミュニケーションを主にするゲームが登場したわけではない。僕の本ではポケモンを結構大きく扱ってるんですけど、これはもちろん有名なゲームだというのもあるんですが、あのゲームはかなりゲームというものを再発見という側面が大きいんです。この本では他プレイヤーとの「交換」という部分にとりわけ注目しているんですが、それはつまり「誰かとゲームをする」ということの再発見なんですよね。ファミコンを誰かの家に集まってやるとか、あるいはメンコ遊びとか、そのレベルまで戻して「ゲーム」ということを見つめ直している。そしてゲームボーイという機器を介しているからこそ、そのアーキテクチャの存在によってその行為がまさに機械的に浮かび上がってくる。
逆に言うとゲームボーイによって初めてそういう遊びが成立したわけではない。ポケモンというのはそういうバランスで作られたゲームなんですよね。ポケモンの持つすべての要素を列挙はしなかったんですが、しかしこのゲームはそういう重要さを持っているんだという態度で扱ったつもりです。
村 ポケモンは本当にゲームらしいゲームで、と言っておきながら、僕が小学校6年生のときに出たゲームなんですが、今から振り返ってその当時の状態を客観的に上から見てみると、まるで『電脳コイル』(マッドハウス、2007)のようだなという感じもするんですよ。
さ ああー、はいはい。
村 そうなると、遊びの主体がゲームの中のサトシじゃなくて、やっぱり遊んでる子供が主体に見えてくる。
さ そうですよね。
村 そういう認識の変容の過程としてこの10年があったって感じなんですかね。
さ それは僕の描いたゲーム史的に見ても、全くそうですね。だからこそ『ファイナルファンタジー』がひとつの頂点を迎えたのも、やっぱりⅦとかⅧの時代なんですよね。物語が作品の中にあって、それを鑑賞することがゲームなんだという発想だった。その要素は今も残ってるんだけれども、90年代の後半以降は、プレイヤー自身という存在が前面化してくる。それが97年以降、今日までの流れなんでしょうね。
村 ロールプレイングゲームが、反転して作品の中の役割を演じるんじゃなくて、自分の現実がゲーム化するみたいな感じですかね。
さ そうですね。
村 うまく言葉を変換できないかと思ったんですが、パッと英語が出なかったんですよね。ロール(役割)をプレイング(遊ぶ)しなくなったら何になるんだろう。
さ (笑)。難しいですよね。一応、プレイヤーキャラクターとは誰なのかというのを第2章で扱ってるんです。村上さんも連載で書かれてましたが、プレイヤーの身体とプレイヤーキャラクターが誰なのかというところで二重化が起きちゃうみたいなことが、ゲームが持っている最も重要な要素のひとつだと思うんですよね。村上さんの連載で言うと『臭作』(エルフ、1998年)ってそういう意味では、凄く面白いゲームですよね。
村 その通りですね。まったくおかしなもんですよ。なんであんなゲームできちゃったんだろうって思いますね。
さ 僕の本の流れで言うと、『臭作』は98年に出たゲームなので、そういう極端にメタフィクション的なゲームが成立し、それなりに売れるような状況というのはありえるかなとは思いますが。
村 誰もがメタフィクションだって知らずに買った気もしますけどね。
さ たしかにそうですね(笑)。しかし日本のゲームってちょっとおかしくて、『バイオハザード2』(カプコン、1998)とか、『メタルギアソリッド』(コナミ、1998)とか、全然そういうものを望まれていないゲームでも複雑なザッピングものだったりメタフィクションだったりするんですよね。
村 そうですよね、『メタルギアソリッド2 サンズ オブ リバティー』(コナミコンピュータエンタテインメントジャパン、2001)なんて、ほとんど現実風刺みたいになっていて、昔だったら社会派なんだなの一言で済むかもしれないけど、そうともいえないですよね、もはや。
さ でも日本のゲームって、最初のうちから物語性を追及してしまったので、行き着く先としてメタ物語みたいなものを持ち出さざるを得なくなるんですよね。『僕たちのゲーム史』にも書いてある例では『ハイドライド3』(T&E SOFT、1987年)で、最終的に「1と2も含めて、この世界を作ったのは俺なんだ」みたいな人が出てきちゃうという展開がありますね。だからラスボスを倒すと世界が消えて真っ暗になっちゃうんです。そこで妖精が現われて、貴方が創造/想像すれば世界が再生するみたいなことを言って、全部世界がバーッて復活するみたいな、そういうオチなんですよね。87年の時点でそういうことをやってたし、あるいは『ファイナルファンタジー1』(スクウェア、1987)もそうで、ラスボスと戦闘して負けること自体が物語に組み込まれているんですよね。過去にプレイヤーがラスボスに負けた行為の繰り返しがゲーム内での歴史のループを生んでいる。つぶさに調べていくと、そういうメタ物語性みたいなものが日本人はよくよく好きなんだと思うんです。
村 こういうメタレベルからの世界の再生とでもいう展開って、80年代に顕著だったりするとかっていう事実はないんですかね。僕、なんとなくそういう印象を持っているんですけど。
さ そうですかね。
村 70年代とか90年代にそういう感じとかします?
さ 90年代だったら......ゲームでですか?
村 ゲームみたいな娯楽表現で。
さ たとえば『臭作』だってそうだったわけじゃないですか。
村 そうですねえ。
さ だから、絶えずあったと思うんですけどね。
村 美少女ゲームは僕、ちょっと遅れてる感じがしてるんですよね。メインのゲームより。
さ ああ、なるほど。『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』(エルフ、1996)もそうですけどね。あれは96年の末なので。
村 漫画でSFチックな締め方をするやつに、いかにもそういう展開が多かった印象を持ってるんですが、検証してないので印象だけかもしれません。
さ 僕はどちらかというと、メタ物語みたいな表現を日本人が、とりわけ僕はゲームに関してですが、好むのかなあと感じました。そういう展開に近い洋ゲーもあるんですが、でもやっぱりそれはせいぜい『インセプション』(レジェンダリー・ピクチャーズ/シンコピー・フィルムズ、2010)くらいのレベルを超えないんですよね。最終的には娯楽として完結するみたいな。
村 やっぱりメタレベルには神がいますからね。そこまでは描けない。
さ そうそう。メタレベルに限界を作って、その破綻みたいなものを起こしてしまわないんですよね。
村 メタレベルの問題って、キャラクターの問題と深く関わっているので、いつ喋ろうかいつ喋ろうかと思っていたんですが(笑)、僕のゴースト論で重要な概念に「目的外使用」というのがあります。このキャラクターはこういう奴ですよという設定=目的があります。たとえば西尾維新の小説だったら、いーちゃん=語り部と書かれてるわけですが、こういう役割じゃないことに使いだした時に初めて強度が生まれてキャラ立ちするようになるという発想です。『ゲーム史』におけるメタ化していったゲームの様相は目的外使用の一例だと思います。
さ なるほど。たしかにそう言えると思います。
村 ハードもそうじゃないですか。ゲームもそうだしハードもそう。おそらくそれは、さやわかさんの欲望とはまったく別個に、さやわかさんがこれで書きたかったゲームの進化、これまでにあったものを受け継いで、これまでになかったものを生み出すという発想と同じなので、やはりゲームはキャラクターを生み出したがってるんだなって感じがしてくるんですよね。
さ 今のお話を聞いて思ったのは、当初は開発者の、あるいはハードウェアメーカーの思惑として目的外使用が生まれていたんだけれども、ここ10年ほどの動きではプレイヤーレベルでの目的外使用が顕著になってきたということじゃないかということですね。RTAや、あるいはゲーム実況みたいに、まさにゲームというものを目的外に使用することが増えているわけで。
村 そう思います。ゲーミフィケーションって、ゲームの立場からはゲーム化ですが、現実からしたら目的外使用そのものですよね。現実はゲームじゃねえよみたいな。リセットできないぞみたいな。
さ そうそう。「現実はゲームじゃねえよ」という批判はまさに、「お前は目的外使用をしてる」と言い換えられるわけですよね。
村 そういうことだと思うんですが、それこそが文化を豊かにしていく方法なので、その批判はまったく当たらないと思いますね。
さ うんうん。
村 でもそうなっていった時に、ゲームの立場からしてみたら、守旧派ゲハ板の連中とかが、ビビッドな反応をするのは無理もなくて、ゲームのなんとなくあった、まあそんなものないんですが、イメージが崩れてきますよね(笑)。
さ そうそう。
村 だけどこないだ東京ゲームショーで、ソーシャルゲームの展示が四割だったらしいんですよね。
さ そう。今やソーシャルゲーム全盛という時代が訪れていて、バンダイナムコやセガも今、ソーシャルゲームにめちゃくちゃ力を入れてる。
村 あれって昔の、昔といっても90年代のスーパーファミコンから次世代機が出たくらいのゲームのイメージとはまったくかけ離れてますよね。
さ そうですね。
村 凄い強力なCPUを積んだマシンが、美麗で奥行きのある世界を再現して、それが凄いお金をかけてプロモートされる感じではないですよね。
さ そういうものもゲームの可能性としてはあったはずなんですが、そのリッチさこそがゲームだということではなかったということなんでしょうね。
村 そうならなかった理由というのは、ハードウェアが、まさに目的外使用されまくった結果というか、目的外使用できないハードウェアが淘汰されていった感じがするんですよ。
さ ああ、なるほど。それはその通りだと思います。だからプレイステーション3も「ブルーレイ観れますよ」みたいな感じで、家電みたいな側面を強調していったし、WiiやDSが特殊と言えるようなインターフェースを実装したのかもしれないですね。
村 そうなってくると、ゲームらしくなくなってきますよね。スマートフォンのゲームはゲームっぽくない。ゲームなんだけど、昔の文脈とは違うなという人が出てきてもおかしくない。その問題こそが、この本の最初でさやわかさんが問題として設定した、なんで『スーパーマリオ』みたいなゲームがでてこないのかということの言い換えなんだと思うんですよね。
■『スーパーマリオ』とインディーゲーム
村 というわけで僕、いやらしいことを聞こうと思うんですが、『スーパーマリオ』は出てこないんですか?(笑)。
さ (笑)。『僕たちのゲーム史』の結論だと、『スーパーマリオ』はすでに生まれてるという答えになっています。『スーパーマリオ』みたいなものはもう存在していて、君が知らないだけじゃんみたいな書き方ですよね。実際、『Angry Birds』(Rovio Entertainment、2009年)なんかは累計で10億回以上もダウンロードされていますけど、『スーパーマリオ』の流れにあるものだけがゲームだと思っている人はその事実を知らないし、知ったとしても『スーパーマリオ』とは別物だと思ってしまう。
村 いかに見た目が『スーパーマリオ』っぽくなかろうとも、『スーパーマリオ』的なものはすでにあって、むしろそういうものの連続によって歴史は続いてるんだという話ですよね。
さ そうですね。
村 ではさやわかさんが最も期待するゲームやゲームメーカーはなんなんだろうというの、人は聞きたいんじゃないですか。
さ 「期待する」という話になると、やはり僕が個人的に好きなゲームというよりも、今の日本のゲームが迎えている状況を好転させてくれるような存在ということになりますね。それは作品単体や一制作者よりも、もう少し状況とか環境整備への期待ということになります。『僕たちのゲーム史』に書いたことで言うと、Xbox360が日本では覇権を握るほどの成功を収めず、結果的に欧米のようなネットを通じたインディーゲームの文化がなかなか育たないことになったことが思い出されます。
これはもちろん、Xbox360に勝ってほしかったというような単純な話ではありません。もちろん日本のインディーゲームとか、あるいは同人ゲームの中にも僕の好きな作者やサークルはありますが、僕が望むのはやはりそれが一般に広がっていくことなんですよ。今や欧米ではネットを通じて凄く先進的な、あるいは変わったアイデアを持ったゲームが続々登場していますが、そういったゲーム環境は日本だと、かなり限定的な、マニアックなものに留まり続けている。携帯電話などを中心にゲームの流通がネットに向かっている中で、日本のゲームがこういう状態であるのは非常にマイナスですよね。むしろ日本人はそういうちまちました環境でアイデアに富んだものを作るのがうまいはずだと思うんですね。作れるはずなのに単に環境が整ってないせいで発達していない。
僕の本の中でははっきりとは書いてない部分なのですが、その理由というのはやはり、日本は80年代からゲームの先進国であったがゆえに、従来の環境を守ろうとしてしまっていると思うんです。より正確に言うと、ゲームの流通を守ろうとしている。だから大手メーカー発ではないゲームとか、ネット流通するゲームへの対応が後手後手に回っているわけですね。3DSの『DSiware』みたいなものとか、あるいはバーチャルコンソールとか、PS3のPSNとか、ネット流通も進められてはいるんですが、まだ足りないと思いますね。実はそのステップになり得るものだったのがやはり、90年代末からゼロ年代初頭の同人ゲームの活況だったと思うんですよ。同人ゲームやフリーゲームというものは昔からあったという意見もあると思いますが、あのブームは様子が違った。「吉里吉里」や「NScripter」みたいなゲームエンジンも充実したし、実際ノベルゲームは国内PCゲーム市場ではほとんど例外的と言っていいほど発展した。でも、そこまでだったんです。
村 ゲームの民主化がなされて欲しいという話だという風に聞いていました。そういう点では「iTunes Store」的な市場が重要ですね。そこで思い出したことがあります。それは「WinMX」と「winny」の関係です。少し前の話にもどって恐縮なんですが、片方に対戦ゲームのような凄い暑苦しいゲームがあるのに、片方にはソーシャルゲームみたいな淡白なゲームがある。このとき対戦ゲームは「WinMX」に似ていて、ソーシャルゲームは「winny」に似てるぞと思ったんですよね。なんでかというと、ソーシャルゲームは多様なので一概に言えないところはありますが、匿名的に複数の人やものと絡むところがある。一方で「WinMX」というのは二者間コミュニケーションが決定的に重要でした。
さ そうですね。「WinMX」も「Winny」もPeer to Peerによるファイル共有ソフトですけど、「WinMX」はネット上の二者がファイルを「交換」することに重きを置いている。これに対して「Winny」はファイルをやり取りしている相手を意識せずに「共有」する仕組みになっている。
村 ソーシャルゲームの場合は、いわゆる「mixi」のフレンドリスト的なものが重要な側面もありますが、ちまちま自分でゲームをやってどれだけやりこんだか=お金や時間を費やしたかということを一種の称号として、ある種無作為に誇示することが重要なゲームになってるなあと思ったんです。その時に、ああ、これはゲームスタイルが変わってると感じました。凄く個人の自己顕示欲を強調するけど、そのことによって、二者間とか三者間の小さいコミュニティの関係性みたいなものをむしろ希薄にしてるように思ったんですね。
さ なるほど。一口にソーシャルと言ってもモードが変化している。
村 アナロジーばかりで批判されがちなのは承知の上で言うんですが(笑)、要するに任天堂やスクウェアエニックスなどによる大きなメーカーの大きなブランディングでゲームを売っていた時代があったけど、それが成立しなくなった。そこで流通環境みたいなものをフラットにする民主化が必要で、そこでこそむしろ「スーパーマリオ」が生まれる道であろう、ということです。
さ その指摘は妥当だと思いますよ。アメリカなんかはちゃんとそういうことをやって、いいゲームがさまざまな規模の開発チームによって作られる環境になっているし、そのためのゲームエンジンも発達していっている。ところが日本では、さっきも言いましたが結局ゲームというのは自分たちと遠い立場にある企業が作るものなんですよね。それは作り手にとってそうだというだけでなく、プレイヤーもそういう気分が抜けていない。つまり、彼らはベンダーがゲームを与えるのを待ち構えていて、何か否定できる要素があればどんどん批判してやろうというくらいの気持ちでプレイしている。これは個々のゲームだけでなくハードウェアについて、つまりプラットフォーム戦争についてもそうなっていますよね。 でも最近のゲームはネット対応のものが多いせいもあってマルチプラットフォームで開発されることが多いわけですね。そうするとプラットフォームに縛られた議論というのは意味を失っていく。そして、パソコン用のゲームであればどんどんMODが作られて、プレイヤー自身が開発者のような立場でゲームの世界を拡大していっている。つまり村上さんも書いてらっしゃったDNMLみたいなことがノベルゲーム以外で起きている。そういうことが90年代以降、日本以外のゲームシーンでは起きていた。
村 それは凄いですね。
さ 日本だとそういう文化はノベルゲームばかりで伸びていったから、結果的にネットでのキャラクター文化とか二次創作文化みたいなものが開花しましたし、またノベルゲームも開発者も増えたけれども、もっとゲーム全体に起きてもよかった動きだったと思うんですね。
村 そうですよね。僕、いわゆるシナリオを書く能力がエンジニアリングの能力と比較して低級であるとはまったく思わないんですが、日本はエンジニアリングのカジュアル化みたいなものは多少増えてるという印象がありますよね。
さ そうですね。
村 同人ゲームで言ったら、ちょっと触れられてましたが、前史として『月姫』の前には渡辺製作所があったわけじゃないですか。フランスパンですよ。
さ はいはい。あと当時は『KANOSO』(いつものところ、1999)なんかも人気がありましたよね。僕の本にも書きましたけど、既存のゲームの二次創作として広がった、良質な同人ゲーム文化ですね。
村 そうです。でも渡辺製作所というのは格闘ゲームを作ってるんで、結構レベル高いんですよね。
さ そうですね。
村 それはある意味、その血筋がシューティングゲームをプログラミングするZUNさんにつながってるのかもしれないですが、むしろそのエンジニアリングこそが神の業で、絵とか、シナリオを書く能力は、みんなやってるから余技であると。でもこの三つをやれば神になれるということが明らかになったのかなと思いますね、これは。
さ なるほど。しかし今のお話を逆に考えると、絵とか物語という部分なら一般プレイヤーでも手軽に触れることができる。つまりキャラクターや物語、世界観に関わる部分で二次創作が拡大したのは当然のことだということですね。東方なんかも典型的にそうですよね。みんな東方の世界観を好きになって、イラストを描いたり、音楽を作ったり、動画を作る。だけどゲームの本体、村上さんが神の業と言ったエンジニアリングの部分は、おいそれとはできないということになっている。たとえば東方のキャラクターを使ったゲームがガンガン作られて広がっていくということにはならないんですよね。本当はそういう環境になれば、何かとんでもなく面白いものができると思うんですが。
■日米ゲーム環境事情/虚構と現実の捉え方
村 印象だけで言ったら、エンジニアリングの敷居が高いのは、産業立国としての日本の国力が弱ってるのかなとも思うんですが、必ずしもそうではない気もするんです。そうなってくると、民族性かな......。
さ その線はあると思います。やっぱり日本人はお話が好きで、あるいはキャラクターが大好きなんでしょうね。だから僕が本の中でいま最も新しいソフトの一つとしてチラッと書いたのが『(初音ミク)-Project DIVA-』(セガ、2009)なんですよね。
村 ああ、初音ミクですか。
さ つまりキャラクターや物語のような部分をMOD的に書き換えることのできるソフトならば、日本でもプレイヤーがエンジニアリング的にゲームを改変する可能性を見出すことができるかなと思ったんですよ。
村 『DIVA』もそうですし、ニコ動で広がったゲームには『THE IDOLM@STER』(ナムコ、2005)があります。この固有名自体は古いのであまり胸を張って言えるものではないんですが、さっきから僕が思ってた問題として、ゲームの流通環境がよくなって、iTunes Storeのようなものがさらに広がり、気軽に作り気軽に楽しめる世界があるとして、そうなった時におそらく重要になるのはプラットフォームフリーだと思うんですね。とりあえずマックとウインドウズ両方でやれることは重要だろうし、スマートフォンでもタブレットでもゲームがどこでも手に入る、どこからでもダウンロードできる世界になった時に、それはそれで素晴らしいんだがそれだけではダメなような気がしたんです。その傍証としてやはり現場の体験としてゲームセンターみたいなものが根強く愛好されているというのがあると思うんです。格ゲーもそうですが音ゲーだってそうだし、ファミリーゲームだってある。お年寄りのたまり場になりつつあるようですが、コインゲームだって立派な現場ですよね。そういう体験はやはり捨て置けない。
さ うんうん。それはもう本当にその通りだと思います。
村 これもどんどんUSTREAMや実況配信でなくなっていってる部分があるんですが、でも一応あるんですよね。それら二つが合体したものとして、『アイマス』とか『DIVA』がありそうな気がしたので、これはまだまだ、評価したほうがよさそうな感じがするんですよね。
さ なるほど。そういう話だと日本はゲームセンターもそうですが、ゲーム環境が欧米に比べて特殊なんですよね。というのも、日本はゲームをやる人が「近くにいる」んですよ。だからゲームをやるコミュニティみたいなものが生み易い。
村 近くにいるというのは、誰が、どこの近くにいるんですか?
さ 個々のプレイヤーの距離が物理的に近いということです。
村 僕が自分の家でピコピコ 『DQ』やってたら、隣の家でも『DQ』やってるということですか?
さ その「隣の家」の距離が近いんですよね。住宅環境や移動手段のせいもあり、自分以外にゲームをやっている人が、かなり近い距離にいる。ゲームセンターがアメリカで衰退したけど日本で生き残った理由の一つとしても、ゲームセンターが鉄道の駅から5分以内の場所にあるというのが考えられるんですよね。学校や会社への行き帰りのついでに、ゲームセンターへゲームをやりに寄るということが日本だと珍しくない。
村 アメリカは広くて車を使うから、ゲームセンターに溜まることがなんとなくしにくい。
さ そうです。だからわざわざゲームセンターに行くようなやつはマニアか不良だみたいに言い切られても否定しにくい。日本だと通勤経路みたいなところにゲームセンターがあって、一般の人が気軽に遊ぶことが可能なんですよね。あるいは、『モンハン』がアメリカで流行らないというのも同じ理由で、みんなで集まってPSPを持って、ファミレスに行ったりすることにあまりリアリティがないんですよ。
村 ないですよね(笑)。
さ 海外の人にとっては「ゲーム機を持ってわざわざ集まるとか、そんなバカな」みたいな感じなんだと思います(笑)。
村 モータリゼーションの要求した風土のせいかと思ったりしますが、日本だと逆に車で集まってでも『モンハン』しそうな感じしません?
さ (笑)。いや、それはそれで、やっぱり人々が無理して近寄ろうとするわけですよね。今日は『モンハン』オフやろうかって一箇所に集まって、みんなで『モンハン』やって、おつかれって言って帰るみたいなことが気軽にできる。
村 今はJRPGという言い方しますが、日本ってRPGの凄い大きな世界の趨勢を作った国だと思うんです。たぶんそれを支えた前身というか背景として、TRPGが凄く重要視されたというのがあると思うんですが、アメリカでTRPG、この10年、20年はどうなってるんですか?
さ 歴史的な話ですが、アメリカではもちろんTRPGはもっと一般的な娯楽に近いもの、ボードゲームの一種ですよね。私見では、そもそもボードゲーム自体が欧米人にとっては日本人より身近なものなんだと思います。
村 じゃあトランプみたいなものですか?
さ そうですそうです。これは最近の例じゃないですが、何家族か集まってホームパーティをやる時の娯楽の一種として使われることも普通にあったみたいですよ。あとは、近年話題になっているゲーミフィケーションじゃないですが、企業での研修に使われることも古くからありました。日本でTRPGというと、いかにもハイファンタジー世界に興味がある人の趣味とか、マニアックな形が多くなりますが、海外ではそれ以外の受容のされかたも多くあった。それと、日本だと熱心なプレイヤー以外は、ヒーローを演じるものだと考えることが多い気がします。『ロードス島戦記』(角川書店、1988)などの影響もあると思うんですけどね。アメリカみたいに別の人格を演じる遊びとしてはあんまり理解されていないですよね。
村 じゃあ日本では主に虚構を材料とし、欧米では基本的に現実ないし現実の延長を元にやるっていうことですね。
村 (笑)。これはまさに「ゲーム的リアリズム」ですね。現実を写生するんじゃなくて、虚構を写生しだしちゃったぞという。
さ そうですそうです。ここを説明する際には「ゲーム的リアリズム」のことをすごく意識しましたし、やっぱり日本人はそういうものだと思いました。少なくとも当時はそうだった。まあそもそも前史としてボードゲームが受け入れられてないから、コンピュータゲームの時代になっても「ロールプレイングとは何か」みたいなことを考えるための下地が何もないんですよ。だから自分たちなりに理解するしかない。これはコンピュータについての理解もそうで、もともと輸入されてきたものだから、日本人の理解は欧米とはちょっとずつ違う。
■日本的アレンジ/誤解したまま輸入される概念
村 今AR(Augmented Reality/拡張現実)が流行ってるんですが、あれ一般的な概念からすると、現実の側から外に拡張する形で現実を広げようと思うと思うんですけが、凄くアメリカ的なものですよね。
さ そうですね。
村 僕、日本でその文脈がなんの問題もなく繋がるんだとしたらおかしいぞ、と思っていました。
さ 全くおかしいと思います。さっき言ったゲーミフィケーションもそうなんですよね。欧米人がゲーミフィケーションの考える上での「ゲーム」という概念は、すごく欧米的な感覚をベースにしていると思うんですよ。僕らはゲーム大国としてならした日本に育ったから、何となくその「ゲーム」って概念をわかっているように思っちゃうんですが、自分たちが土台にしてる「ゲーム」ってものと、欧米人たちが考えてる「ゲーム」ってものが、どれだけ食い違ってるということも理解しておかなきゃいけないのではないか。そこをきっちり説明したかったんです。この『僕たちのゲーム史』では。
村 そうですね。しかし、あんまり僕、日本を特別視したりしないようにリベラルな教育を受けてきたんですが、大きく言ってやっぱり日本は特殊なんじゃないかって思えますね。
さ (笑)。
村 というのは、よく中国やヨーロッパ、アメリカで、『スターウォーズ』のようなナショナルフィクションって、すごくベタに受け止められるなって感じがあるんですよね、各国では。日本だけはやたらシニカルだなって感じがするんです。
さ 日本だけが特殊かどうかわからないですが、少なくとも欧米とアジアで明らかに違うことをやってるのに、同じ「ゲーム」というものだと思い続けてきた結果が、今のゲームをめぐる状況としてあるんだと思います。僕の本も、全体がそういうストーリーとして読めるようになっていますよね。
村 そうですね。これは余談ですが、たぶん敗戦の経験が凄い効いてるんだなって気がします。特殊な状態で、つまり日本も大日本帝国の体制から、アメリカの要求した日本の姿をシミュレーションして60年きちゃったという感じなので、確かに現実が虚構っぽいよなって思うんですよね、そう考えると。復活の仕方も虚構っぽいですからね、やっぱり。
さ アメリカから与えられた再生シナリオ自体が理想主義的というか虚構だったわけですよね。それを信じて一所懸命やってきたら、なんだか立派な砂上の楼閣ができちゃったというか(笑)。
村 構造は一緒だと思うので、日本は日本として、他の世界なり、他の民主国家たちと同じことをやろうとしたらこうなってしまったのかなという感じがするにはするんですが。
その見地から見て、MMORPGというのはまさにサイバースペース、現実以外の物理空間を発想したものです。セカンドライフなんかもそうですね。だから90年代後半からゼロ年代の初頭までMMORPGは流行るけど、よりインターネットを正確に理解したソーシャルゲームみたいなものに取って代わられる。 こういうゲーム史について、みんな流れとしては知っていると思うんですけど、「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」みたいな本と照らし合わせれば首肯できるような理屈が書ける。そういうで書いた一般書はたぶんないんじゃないかなと自負しているんです。で、話がちょっと逸れましたけど、そのサイバースペースもまた、日本人は結局ちゃんと理解せずに輸入したと思うんですよ。
村 (笑)。
さ だからパソコンとかゲーム機の中にあるのが、別世界というより物語世界だというふうに捉えたのではないか。物語が表現される箱があって、その中にプレイヤーは入り込むんだという、物語の再生/体験装置としてゲームを捉えたと思うんですよ。
村 なんとなく分かってきました。さっき80年代に世界がなんたらかんたらの印象あるんですよって言ったと思うんですが、その時代ってまさにそういうものについての漫画が多かった気がするんです。広告もやたら電子的なファミコンのコントローラーとか入ってくイメージあったんですが、あれ凄くニューエイジ的なもので根付かなかったですよね。
さ そうそう。
村 そこまで行って、本質的に豊かにもなったし経済大国2位にもなったので、アメリカに届くぞみたいな感じに行こうと思ったら、バブルなどの限界にぶちあたってなんだかなーという展開でしたよね。
さ 『僕たちのゲーム史』の中で引用していますが、堀井雄二も「RPGというのは別の人生を生きるものなんだ」って言ってるんです。だけど彼が『ドラゴンクエスト』(エニックス、1986)で作ったのは漫画のような世界を描き、プレイヤーがその漫画の世界に入るというゲームだったんです。それは欧米のゲームと似てるようでちょっと違う。
たとえば欧米のゲームというのは一人称視点だし、無駄にマップが広い。彼らにとってはマップが広いのは当然なんですよ。『スカイリム』(ベゼスタソフトワークス、2011)が爆発的にヒットした『The Elder Scrolls』シリーズなんかはイングランドと同じくらいの広さのマップがあったりするんです。そんなにマップいらないじゃんって言っても、それは「世界」だから必要なんですよ。でも日本人は、むしろそんな広いマップは物語にとって不条理なものだとして避けようとする。『ドラゴンクエスト』なんて、町に入ってそのまま上方向にボタンを押し続ければ王様のところに行けるマップを書いちゃう。
村 別なリアリズムですよね。
さ そうですね。まさに物語のためのリアリズム、アニメ的、ゲーム的というか。『僕たちのゲーム史』の中で日本的なアドベンチャーゲームの始祖として挙げた『スターアーサー伝説I 惑星メフィウス』(T&E SOFT、1983)も、『キャプテンハーロック』(1978)とかのアニメを参考にしちゃってるんですよね。アメリカのゲームだと、80年代の半ばくらいまでは、実はSFとファンタジーと映画を主な参照元にしてる。というか、ほとんどが『指輪物語』か『スターウォーズ』(米1977、日1978)か『インディ・ジョーンズ レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981)か、その3本くらいが元ネタのルーツになっちゃう(笑)。自分が遺跡を探掘するとか、あるいは自分がトルーパーになって宇宙船を操作するとか、そういうゲームばっかり作っていた。
だけど日本は『キャプテンハーロック』を元ネタにして、3人称視点の絵を描いてしまう。開発者は自分では『スターウォーズ』が大好きで、僕はSFが大好きなんですよって言ってるんですが、そこにはなぜかアニメが介在するんですね。テレビのように物語が投影される箱としてのコンピューターを考えてしまうんですよ。
■サイバースペースと物語世界
村 僕の寓意だったりすると、むしろたとえば『ひぐらし』の話があって、羽入とか梨花ちゃんがいる世界があってみたいなことだと思うんですが、今の話というのは要するにこういうことですね。僕たちとは違う存在がいる世界があって、それとは没交渉だという日本的な考え方と、僕たちが実際に移動できる三次元......仮想的だが僕たちが実際に干渉できる世界があるという発想の点で、違うということですね。
さ そうですね。サイバースペースは日本人が夢想する「物語の世界」と全く違うわけです。
村 空間じゃないですからね。僕も『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』は面白く読んだんですが、むしろ『動物化するポストモダン』を思い出しましたね。『動ポモ』の1の後半でスーパーフラットの話をしてるじゃないですか。
さ そうですそうです。あれも同じですよね。
村 特にhtmlの話が分かりやすい。
さ 表面に見えない、HTMLコードが裏側に隠されてるってやつですね。
村 そうです、不可視なもの、というか過視的な世界。あれは東さんの発想としては、見えすぎることによって見えないものが出てきたっていうものがあるんだという話ですが、確かに思うのは、何であのhtmlのコードと、アセンブリのコードと、ソースコードと、表示されてるものが一緒なんだというのがとても不思議なことなんですよね。そのリアリティに対応する所作というか作法が日本とは全然違うんですね。
さ そこは日本人のほうがたぶん捉えやすいようには思うんです。欧米人はどうしても空間の比喩に慣れているからバーチャルリアリティとか、ポリゴンの世界観を見せられると、おお凄い、中に世界があるって思うと思うんですが、日本人はこんなものはエスケープキーを押して止めれば中にソースがあるんだみたいなことをわりと簡単に考えられるんじゃないでしょうか。ノベルゲームだって、これはテキストと立ち絵と背景の合成で、つまりは人形劇だというふうに理解しやすいんじゃないかと思いますね。印象に過ぎませんが。
村 そうですよね。『リネージュII』(エヌ・シー・ソフト、2004)の頃には、『スカイリム』ほど豪華じゃなかったけど、かなり3DのMMOなんかもあったのに、みんな『ラグナロクオンライン』(グラビティ、2002)やってましたからね。
さ やっぱり、ああいうもののほうが日本人は好きなんだと思いますね。つまり「キャラになる」ということを楽しもうとする。
村 僕、空間の対義語は関係性だと思うんですが、やっぱり日本人はそっちに惹かれてるんだと思いましたね。
さ それはうまいですね。『僕たちのゲーム史』の中では、空間的な比喩が成り立たなくなったあとでカジュアルゲームとかソーシャルゲームみたいに関係性のゲームが流行ったという話になっています。
村 いやあ、もちろん『ウルティマオンライン』が出てきた当初にカジュアルゲームなんか出てきても捨てられてたと思うんですけど......。
さ そうですよね。でも結局、みんなMMORPGとかやるのはダルくなっていく。
村 ダルくなっていくんですよね(笑)。
さ 要は現実の時間を単純に圧迫してしまう。自分が現実世界にいることは覆せないのに、本来存在しない世界で人生をやらされるのは、やっぱり割と破綻するんですよね。
村 齢27にして僕、老害みたいなこと言うんですが、人間がどんどん弱くなっていって、頭使うゲームをやんなくなっていったという節はないんですかね。
さ いや、ゲームについてそういう見方をするのは簡単なんですが、僕はそれをいかに超えるかというのをテーマに書いたんですよ。
村 そうですよね。いちおうまだ自分は若いのだという建前の上で言ってみました(笑)。
さ というか、83年くらいのゲーム雑誌を読んでも、「最近のゲームはダメだ」みたいなことが書いてあるんですよ(笑)。ファミコンなんかつまらない、みたいな。Apple II用のゲームしか世の中には正しいものはないくらいのことが書いてある。しかしゲームというのはそういうふうに昔のほうがよかったと言われながら今日まで続いてきた。だからその一番末尾にあるソーシャルゲームですら......僕はソーシャルゲームが全然苦手なんですが、しかしそれでも次代の可能性を持っている。
村 そうなんですか。ここに『探検ドリランド』(グリー、2011)のこと書いてあるのに。
さ 『ドリランド』はやりました(笑)。
村 ああ、やったんですか(笑)。
さ でも基本的に集めたり育てたりするゲームは苦手なんですよ、本当に。『おいでよ どうぶつの森』(任天堂、2005)ですらダメなので。だけどああいうソーシャルゲームみたいなもののほうが現代的だという話をしなきゃいけない時に、ゼロ年代批評の議論が役に立ったわけなんです(笑)。具体的に言えば、先日、『氷菓』(角川書店、2001)について「BLACK PAST」にも書いたんですが、90年代的なモードというのは「ここではないどこか」を希求するみたいなものだったと思うんですよね。セカイ系とかもそうだと思うんですが、つまり遠くに世界があって、自分はそこに到達することができない。90年代にはそれは絶望として捉えられて、ポピュラーカルチャーの主題の一つだったわけです。そういう観点からも、MMOPRPG的なもの、つまりサイバースペースという「別世界がある」という発想は90年代までのもの、つまり古いんだなと捉えられたんですよ。
しかしだからこそ『ドラゴンクエストX 目覚めし五つの種族 オンライン』(スクエア・エニックス、2012)が今さらMMORPGを作って、運営としてはうまくいっているのかもしれないけれど、これまでの「ドラクエ」のように数百万人がこぞって遊ぶという状態にはなっていない。人が求めるのは「ここではないどこか」というような距離感ではなくなっている。
そして僕は「BLACK PAST」の議論だと時間的なものが代わりに求められるようになっているのではないかと書いています。だから『僕たちのゲーム史』でも『ラブプラス』とか『モンスターハンター ポータブル』(カプコン、2005)みたいに、現実の時間と重ねるような、あるいは時間の履歴性がある作品が新しいという話にしているわけですね。まあその文脈では『ドラクエX』はダメだよねという話ではあるんですけど。
村 いやあ、だから『ドラクエ』はネットゲームを夢みていたみたいな項があって、まあなんて皮肉な表題だと感じましたよ。
さ そうなんですよ。『ドラクエ』はかなり初期からネットゲームをやりたいと思い続けていたんです。だけど技術的な問題もあってできなかった。でも今ならできるということで『Ⅹ』が発売されたわけだけど、今あれをやるのが妥当かというと、ゲーム史に照らし合わせて見てもやっぱりズレがあるんだということになると思う。むしろソーシャル的な要素を持っている『Ⅸ』なんかがめちゃちくゃ売れたんですよね。あれはまさに、DSのすれ違い通信を使って、「ここではないどこか」を求めない、プレイヤーの日常に寄り添わせるゲームだった。だから「ドラクエ」シリーズでは今のところあれが一番売れたタイトルになっているし、ブームのような動きもあった。『Ⅹ』は、もちろん課金性のゲームとして優秀だと思うんですけど、今のところパッケージのセールス本数は『Ⅸ』と雲泥の差になってるんですよね。10年前、まさにMMORPGの時代に出ていたら、たぶんよかったんですけどね。
村 さっき『ウルティマオンライン』の話をしたじゃないですか。『ウルティマ』って、日本にはあまり根付かなかったですが、ふと振り返って『ウルティマ』のレポートを見ると、みんな目的外消費を楽しんでるなと思うんですね。特にPKやってるじゃないですか。
さ そうですね。
村 TENPAIのブログとか素晴らしいですよ。TENPAIって知ってます? TENPAIという悪徳プレイヤー。あれ最高に面白いですよね。あれを見て、僕、『ウルティマ』一回もやったことないですよ、でも『ウルティマ』について凄い詳しくなりましたよ。あれホントにゲームであるなと思いましたよ。しかも読み返しても面白いので。
さ そういうのが面白いんですよね。ずーっとチートなりハッキングの技術だけをウェブに書いた日記とか僕も読んでいましたよ。『ネットゲーム チートRMTの教科書』(データハウス、2005)みたいな本もありますし。そういう目的外使用はやっぱり面白いですよね。
村 (笑)。ズルいとか、こんなことやっちゃっていいのかな。というところが余計に興味を引くんだなあと思いますね。
■美少女ゲームと文系のイノベーション
さ 村上さんの研究対象であるところの美少女ゲームの現状についての話もさせてください。
村 美少女ゲームは、『ゲーム史』の中でも書かれている通り、衰退の一途をたどってますね。
さ まあ、そうなりますよね。
村 市場規模が240億円でしたっけ、その規模がさらに220億円に下がったというニュースを昨日見ました。この240億自体も、10年前は500億円を超えていたはずなので、半減ですよ。こういう厳しい状況の中で美少女ゲームが今後どういう役割を果たしていくかというと、やはりメディアミックスのための原作配給産業としての役割なのかな、と感じます。実際、そういうコンテンツビジネスの可能性に順応しようと、いくつもの名だたるメーカーがコンシューマー対象の業態にシフトしつつありますね。
さ 僕の本では最終章にも書きましたが、メディアミックスの原作としてノベルゲームは一応機能してるので、そこから何とか伸ばしていくしかないんでしょうかね。日本のPCゲームはかなり長いことノベルゲームが主になってしまったので、なかなか海外に輸出できない。すると、国内でゲームが売れていない今はどんどん先細りするしかない。ただ海外のゲームマニアには、日本型のノベルゲームを作ってる例すらあるんですよ。面白いのは日本風の教室で、日本風の学生服を着た男女が出てきて、英語でしゃべるというよくわかんないゲームが作られている(笑)。
村 僕も『かたわ少女』(Four Leaf Studios、2012)やりました。
さ ああいうゲームが熱心に作られていたり、あるいはもう完全に非合法ですが、日本のノベルゲームを中国語や英語へファンサブ的に訳すためのパッチなんかがTorrentなんかを使って流通している。そういうのは単純にもったいないと思うんですよね。アニメもそうですが、海外のユーザーにもっとお金を落としてもらう方法はあるはずなんです。
村 これはまさにそういう話でもありますし、関係のある余談なんですが、僕、実は、『AIR』がコンシューマーで出た時に、コンシューマーには声がついたじゃないですか。だからコンシューマーの声をパソコンに当てるパッチを作ってましたよ。
さ (笑)。そうなんだ。
村 ひとつのセリフにひとつの音声を対応させるっていうのを自力でやっていくので、すごい膨大なわりに猛烈に単純な作業でしたよ......。やっぱりこれに類するような、DNMLもそうですが、一種のハッカー文化みたいなものが、美少女ゲームとは凄く密着していたので、それが文化的発達のひとつの大きな要因だったんじゃないかなーと思うんです。これはインターネットがメジャー化する寸前のアングラ的沸騰みたいなものと連携していた現象でしょうから、ネットが公共的インフラとなると落ち着くのもまたむべなるかなとは思います。
さ 『僕たちのゲーム史』にも書きましたが、MOD的なものはアメリカではアクションゲームで起こって、うまい具合に拡大していったんですよね。
村 復興したんですか?
さ オフィシャル側が、もうMODをメインメニューから導入できるように作ってくれたりして、ゲーム文化全体を活性化させるに至りましたね。日本では製品のデータをいじるということに関してかなりタブー意識があるので、そういうことはできない。つまり、基本アングラ扱いされる。日本の著作権の性質のせいもあるんですが、そこをなんとかして発展させられないかなと思うんですけどね。
村 本当にそうですよね。いっぽう日本ではダウンロードの規制とか罰則がついたことがやっぱりすごい向かい風になってますし、あと二次創作に対するさやあても、この潮流を凄く強力に潰すので、ゆえにダメかなという感じがするんですよね。
さ それはそうだと思います。だからいま「発展すればいい」とは言いましたけど、やっぱり無理だろうとは思いますね。少なくとも、法改正が本気で行なわれないと無理でしょうね。
村 ただ逆に言えば、著作隣接権みたいなものは不問に附し、ダウンロードの罰則みたいなものを改正に追い込んで、90年代から2000年前半に生きてた二次創作の形を維持できれば、芽はあると思う。やっぱオフィシャルになじまない気がするんですよね、この文化。日本においては特に。
さ 著作人格権とか、同一性みたいなものを日本は重視するじゃないですか。だから、改変しただけでダメなんですよね。
村 『うみねこ』が試金石になったと思うんですよ。何かというと、たとえば『うみねこ』って途中で偽書の話になるじゃないですか。あれよりも整合的な解釈に基づいたエピソードⅨとかがでてくればその可能性はあると思うんですが、僕が知る限り今のところそれはないので、やっぱ辛いんだなあと。
さ 難しいですよね。『うみねこ』はちょっと極限に近い作品だと思うんですが、そもそも村上さんが美少女ゲームの可能性を担えると考えていた作品はさっき名前を挙げられた『Kanon』なんかまで戻るんですか? あるいは、連載で日本の美少女ゲーム文化みたいなものを眺めてきたわけじゃないですか。その中でピークとして考えているのはどこなんですかね。
村 やはり『AIR』の2000年でしょうか。もう少し幅を持たせて98~00を中興期と見たほうが正確だと思います。この時期に細々と何があったかは連載を見ていただくとして、ひとつ言うとしたらこの頃はコンテンツとコミュニケーションの区別がよくついていたな、ということです。物理的にも精神的にもぜんぜんクラウドじゃなかった、ということですね。
さ ゲームの楽しみの部分が腑分けされていなかったということでしょうか。
村 たとえば『同級生』というコンテンツ。これはテーマがナンパつまりコミュニケーションなわけですが、あくまでもスタティックなコンテンツですよね。仮に「あのヒロインがいいよね」とか「あの子とデートができないんだよ」と友達とゲーム外で雑談するとしても、やっぱりそれはゲームのことなのだ、という認識がしっかりあるんですよね。雑談のようなコミュニケーションも楽しいけど、そっちこそがゲームの本体なのだ、ということはなかったと思うんです。ちょっと未来の例だけど、LINEでゲームをしながら女の子を口説くとかいうのがあるとして、そういう込み入ったものとは違いますよね。
さ なるほど。消費する対象としてゲームの輪郭がはっきりしている。
村 最近はむしろARG(Alternate Reality Game/代替現実ゲーム)みたいなもんで、今までの話の流れそのものですよね。ゲームプレイとゲームに関する解釈みたいなものが不可分になってきている時代なので、ここまで行くと美少女"ゲーム"みたいなものというのは、美少女ゲームがいい悪いとはまったく別個に成立しにくくなってくるんだなと思うんですよね。であれば、文学の方向に引き戻していくほうがいいかなって感じがしてるんです。
さ なるほどね。そうなるとコンテンツとコミュニケーションと分けて考える発想自体が過去のものになるかもしれません。
村 むしろ、美少女ゲームにとって重要なのはゲームであることではないので、そういう意味ではさやわかさんの『ゲーム史』とは枝を分かたっているんですが。
さ そうだろうと思います。僕の本はやはり、ゲーム全般について書いたものなので。
村 でもそれでいいかなと思うんです。僕の連載が「美少女ゲームの哲学」であって歴史でないのは、僕は美少女ゲームの精神について言及しようと思ってるから。
さ なるほど。それは村上さんの連載で『魔法使いの夜』(TYPE-MOON、2012)の解釈を読んでそう思いましたね。村上さんは『まほよ』は結局エンターテインメントを目指したんだ、それは悲願であったというふうに書いている。ところがそれは僕が本の中でゲームについて書いたのとまったく逆のことなんですよね。僕は「エンターテインメントなんて目指す必要ないんだ、ゲームとしてありたければ、ゲームを作ろうと思え」と書いている。しかし『まほよ』って、最初ウェブサイトが公開された時に「ゲーム」って書いてあったんですよね。今どうなってるか分からないですが、当時そう書いてあったので、僕は作者はゲームたろうという意志を込めるんだなと思ったんです。朝日新聞の連載にも書いたんですが、このクオリティの高さをして「私たちはこれをゲームと呼ぶ」というのは、実はアクロバティックなことなんですよね。
村 ある意味、哀切を感じますね。
さ だけどそれでもゲームと呼ぶという意志を見せているのはいいなと思いましたよ。
村 『まほよ』について考える上で好対照をなしているなーと思ったのは、『WHITE ALBUM2』(Leaf, 2011)ですね。とっても面白かったんですが、ここでの文脈で重要なのは、最新のゲームなのに古典芸能みたいなコテコテの美少女ゲームをやっちゃっているというところですね。具体的に何がかっていうと、主に演出面や見せ方でですね。逆に『まほよ』はそこを刷新しようと思って凄いリソースを注いでいて、その結果美少女ゲームのリミットみたいなところに来ていると思いますね。僕は奈須きのこやTYPE-MOONというクリエイターたちを崇拝しているので色眼鏡がかかっているんですけど、ともあれ、こういう対照的な傑作が二本同時期に現われたのは興味深いです。
さ では逆に言うと、さきほど村上さんは美少女ゲームはゲームである必要はないとおっしゃいましたが、『まほよ』は、もはや美少女ゲームですらないということですかね。
村 もはや映画か絵本みたいなものだと思いますね。
さ そして『WHITE ALBUM2』は美少女ゲームであると。
村 美少女ゲームです。
さ なるほど。それが「ゲーム」かどうかは重視しないけれども、ということですね。
村 そうです。これはだから、極めて近代主義者というか神学者的な越権をやると、さっきゲームには複数の要素があって、一個でも満たしてればいいみたいなことを言って、しかしそのうち一個だけ満たしたものがポコポコ出てくると、「これはゲームなの?」という疑問をみんなが持ってきちゃうなっていうのが現状であるという話をしましたが、『まほよ』とかになってくると、その要素がひとつもないんじゃないかということを僕が言わねばならんとか、そういう世界ですよね。
さ (笑)。
村 だから僕は、さやわかさんがこの『ゲーム史』の中でビジュアルノベルという言葉を採用してるのを見て、なるほど、さやわかさんの意見というものがよく分かると思いましたよ。
さ そうそう、僕はあえてビジュアルノベルって書いたんですよ。
村 だから、そこが逆になってるんですよね、ある意味。
さ おっしゃるとおりだと思います。僕はサウンドノベルからの流れとして、つまりゲームの一種として捉えるために『ToHeart』なんかをビジュアルノベルと書いているけど、それは「美少女ゲーム」という概念を重視する村上さんとは立場が違うということですね。
村 僕はむしろ『まほよ』をビジュアルノベルという言葉で言うのは忌避してるところがあって、美少女ゲームと言ってますが、ねじれてますね。それはよく考えて、精神において『まほよ』を捉えてる感じです。一応、ここが歴史の臨界点かなっていう感じがするんですよね。
さ いわゆる美少女ゲームを追ってきて、まさに美少女ゲームの終わりがここだということですね。
村 終わりですよ。2004年に『Fate/stay night』について東浩紀が予見した美少女ゲームの臨界点には、永らく予備期間というか、蓄積というか、待機期間があって、いよいよ本当にそうなったという感じですね。
さ とどめみたいな。
村 とどめですよ、『まほよ』は。まあ2、3ときた時にゲームギミックみたいなものを取り入れて『ひぐらし』の最終章みたいな感じだったらば、すみませんって謝りますけど(笑)。
さ いやあ、ないんじゃないんですかね。
村 いやあ、でも僕やっぱり『ひぐらし』がここに来るだけの価値があったのは、『うみねこ』は、奇跡がこないことによってあえぐ話ですけど、『ひぐらし』はまさに奇跡をかき集めるという素晴らしいギミックを昇華したんで、ホント『ひぐらし』は歴史に残るべきゲームなんですよね。
さ あれは素晴らしいですよ。
村 まあなんでもギミックがあればいいということではないんですが、『まほよ』も話が進んでいく中で思わぬ仕組みが登場してきたりしたらびっくりだ! なんてことはいちユーザー的には思ったりします。
さ どうかなあ、奈須さんがそれをやるかなあ。
村 奈須さんだけでは無理な気がしますね。
さ TYPE-MOONは奈須さんの物語の強度をさらに全力で伝えていこうという体勢になるとは思うんです。しかしそれでも奈須さん自身が、作品の中でちゃんとゲームとは何かという問題に言及するんですよね。繰り返しプレイするとはどういうことなのかとか、すべてのフラグを立ててゲームをクリアするとはどういうことかとか。そういう意味で『Fate/stay night』とか『Fate/hollow ataraxia』って素晴らしかったって思うんです。でも、奈須さんがそこにこだわりを持たなくなったら、そういう部分はTYPE-MOON作品から失われていくことにはなるわけじゃないですか。これは単純にファンとしての意見ですけど、もしそうなったら僕は個人的にはやっぱり寂しいだろうなと思います。
村 逆に言えば、TYPE-MOONほど蓄積があったわけじゃないですけど07th Expansionの竜騎士07という書き手が、最初からもうゲーム性の複雑さに興味がないよと言っていたにも拘わらず、最も複雑なものを作り出してしまったことを、やっぱりリスペクトするべきですよね。ただそれ以降続いてないということは大変残念なんですが。
さ やっぱりあそこまで複雑になっちゃうと、それこそ臨界点なので、後が続かないですよね。
村 でもあの複雑さって本当に素晴らしいと思うのは、輸入されたものじゃなく......。
さ オリジナルなんですよね。
村 オリジナルなんですけど、美少女ゲームの仕組みを凄く小さくして、バコッと積み込むとあれになるんですよね。だってTIPSを選んでるだけですから。そんなんでいいのか! これがよかったんですよね。
さ (笑)。
村 でもこれは凄いって思うんですよね。
さ 凄いですね。
村 たとえば新しいプログラミングの技術が生み出されて、動画やフラグ管理に新しいソリューションが生まれたんだっていうことじゃないところがいいですよね。
さ 竜騎士さんは最初からオーソドックスにノベルゲーム用のエンジンを使って、しかも選択肢のないゲームを作って、TIPSをたまに読ませるようなシステムを作ったんですよね。ところがそのシステム自体を自分で食い破ったということですね。それはやっぱり凄いと思う。
村 こうしてみると、我々は文系によるイノベーションを求めているのかもしれませんね。まあ文理の区別もここまでくると陳腐ですが、発明や突破を理系の産業や発想ばかりに任せていてはいけないと。
さ うんうん、なるほど。
村 文系のイノベーションなんてほとんど起きないですからね。『ひぐらし』を数えるのはギリギリであって、しいて言うなら......ここで『To Heart』とか出してくると訳がわからなくなるんで言わないですが。
さ (笑)。
村 本当にないですからね、はっきり言って。
さ そうかもしれませんね。ゲームに限らずですけど。
村 文学は、だってそういうレベルでは全然イノベーションないですし。だから、美少女ゲームは、そもそも媒体がテクノロジーの産物だったので、そういうものに肉薄した凄い貴重な文化だったところがあるので、その成果は残していかなければなるまいというのが、僕の着目の意図ですよね。
さ なるほど。今、お話を聞いてもう一つ思ったのは、村上さん、あの連載は80年代のエロゲーというか、アダルトゲームの歴史も追ってはいるけれども、それは主題であるところの美少女ゲームなるものとアダルトゲームを峻別する作業なんですよね。
村 そうですね。あれって凄くアメリカ的なものだと思いますし、あとは要するに同じ材料を使ったのに奇形児生まれちゃった、その奇形児のほうに興味があるということですよね。
さ つまり村上さんの連載は80年代からのアダルトゲームの流れよりも、90年代の美少女ゲームのほうが主題として絶対に重視している。要するに僕の本みたいなことをやっているわけではない。日本のアダルトゲーム史、あるいはギャルゲー史を紡いでいると考えるのは間違いですよね。
村 歴史じゃないですから、哲学ですから(笑)。
さ そうですね。いや、僕がいま思ったのは、たぶん読者はそれでも、歴史を書いてるんだと勘違いしそうだということなんですけどね(笑)。
村 そうなんですよ。僕も、人に叩かれないために包括的な歴史を調べようと思って本とかをやるんですけど、僕は全然不得意なので、あきらめようと思ってるって感じなんですが。
さ いやいや、その辺はクリアに書かれてると思いますけどね。
村 でも、さやわかさんもまったく同じ問題に直面されたと思うんですが、調べれば調べるほど手落ちばかり出てきて、手落ちをどう隠すかかこそが本題になってくる。
さ そうそう(笑)。それは書く前に、一番最初に考えました。今やすべての歴史を記述することは不可能なんだということはわかっている。全部書けるわけがないし、歴史というのは複数化していくから。じゃあどうしようかなって思った結果、そのこと自体、つまり歴史が複数化し、全体像を把握することは誰にも不可能である。それはこの対談の冒頭で話したことに戻っていく感じなんですが、それに加えて、でもその不確かな記述の過程を追った人々だけが一つの歴史を共有できるという本にしたんです。
村 さやわかさん、次はこれで、テストペーパーを作ると、グッと受けるんじゃないですか。
さ (笑)。
村 学校で出されるような試験問題を作れると思います(笑)。
さ 歴史の教科書っぽくなってるから?
村 そうです。星海社のホームページでやるといいと思いますよ。
さ なるほど。しかし、テストとかやるとその答えが「正しい歴史」だと思われそうだから、やるなら結局は「正しさは存在しない」という解答をさせることになると思いますよ(笑)。
村 そんなあ(笑)。
(了)
『僕たちのゲーム史』(星海社新書)
【さやわか氏出演イベントスケジュール】
■いまこそ語ろう『花の詩女ゴティックメード』!!
開催日:1月18日(金)
出演:金田淳子、岡田育、さやわか、矢野健二
場所:リブロ池袋本店
http://www.libro.jp/news/archive/003079.php
■メディア/アイドルミュージアム「アイドルミュージックビデオの制作法」
開催日:2月16日(土)
出演、高橋栄樹、さやわか
場所:SKIPシティ 彩の国ビジュアルプラザ 映像ミュージアム
http://mediaidol.net/?p=337
【村上裕一氏出演イベントスケジュール】
■[genron school]村上裕一 「ノベルゲームの思想」第1回(全3回)
2/15(金)より、毎月1回の連続講座(全3回)「ノベルゲームの思想」を行ないます。
明らかに連載「美少女ゲームの哲学」が下敷きとなった講座です。
チケットの購入やイベント詳細については下記サイトをご覧ください。
[genron school]村上裕一 「ノベルゲームの思想」第1回(全3回)
http://peatix.com/event/9319/
ゲンロンカフェ
http://genron-cafe.jp/
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美少女ゲームの哲学
第一章 恋愛というシステム
第ニ章 地下の風景
第三章 探偵小説的磁場
第四章 動画のエロス
第五章 臨界点の再点検
補遺
第六章 ノベルゲームにとって進化とは何か
第七章 ノベル・ゲーム・未来―― 『魔法使いの夜』から考える
第八章 美少女ゲームの音楽的テキスト
さやわか ライター。『クイック・ジャパン』(太田出版)『ユリイカ』(青土社)などで執筆。小説、漫画、アニメ、音楽、映画、ネットなど幅広いカルチャーを対象に評論活動を行っている。現在、朝日新聞でゲームについてのコラムを連載中。単著に『僕たちのゲーム史』(星海社新書)。共著『西島大介のひらめき☆マンガ学校』(講談社BOX)の第二巻が発売中。今春に大洋図書よりアイドル関連の書籍を上梓予定。TwitterのIDは@someru。
村上裕一 批評家。『ゴーストの条件』(講談社BOX)絶賛発売中!
メールマガジン"めるまがbonet"始めました。http://ch.nicovideo.jp/channel/bonten
ゲンロンカフェにて連続講座「ノベルゲームの思想」やります。
最近の仕事は『P8』(PLANETS編集部)、『ユリイカ』永野護特集/平成ライダー特集などで対談や評論を寄稿。
『Gian-ism DX』(エンターブレイン)のサイコパス特集も取材・執筆しました。
2月には新たに発足する株式会社梵天の代表に就任します。
13.01.14更新 |
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