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「お絵描き文化」の特異な発達を遂げた国、日本。「人は何のために絵を描くのか」、「人はなぜ描くことが好きに/嫌いになるのか」、「絵を描くとはどういうことなのか」――。さまざまな形で「絵を描く人々」と関わってきた著者が改めて見つめ直す、私たちと「お絵描き」の原点。「欲しい絵」とは、所有したくなる絵のことではない。「自分が欲しいものを描く絵」のこと。たとえば子どもが車の絵や人形の絵を描く時、それは対象を「所有したい」という欲求を絵に表現することで昇華していると言える。
一方、「なりたい絵」は、「自分がなりたいものを描く絵」。ウルトラマンやプリンセスを描くのはわかりやすい例だ。母親や父親を描く場合、「欲しい」(傍にいてほしい)と同時に「なりたい」欲求もあるかもしれない。
「欲しい絵」「なりたい絵」は、主に子どもの絵をその動機から見て私が勝手に名付けたものだが、大人になってもそうした欲求から絵を描くケースはあるだろう。前回の「日本・お絵描き・女の子」で少し書いたように、「(かわいい)女の子を手に入れたい/になりたい」という潜在的な欲求が描画行為になる場合はありそうだ。
「欲しい絵」「なりたい絵」で最初に思い出すのは、子どもの頃に何度も読み返した『百まいのきもの』(エリノア・エスティーズ著、ルイス・スロボドキン絵、石井桃子訳/岩波書店)という物語である。
アメリカでの初出は1944年で、日本で「岩波こどもの本」の一冊として出版されたのが1954年。ドレスを「きもの」と訳しているのが時代を感じさせる。長らく絶版になっていたが10年ほど前に復刊された。
挿絵入りの子ども向けの本ではあるが、絵を描くことの中に潜む願望をめぐって、こんなに痛切な物語を私は他に知らない。内容を紹介しよう。
お話は、マディーという小学生の少女の目を通して語られる。
マディーの仲良しのペギーは裕福な家の子で、おしゃれで人気者。一方、同じクラスにいるワンダは、いつもおんなじ地味な服を着ていて、友だちもなく口数も少なく、その変わったファミリーネーム「ペトロンスキー」以外には特徴のない女の子だ。淡い色調の水彩の挿絵の中で、ワンダは本当にあっさりと影の薄い感じに描かれている。
そのワンダがある日突然、家に「百まいのきもの」を持っていると口にしたことから、クラスメートたちのからかいが始まる。
「ワンダさん、戸だなの中に何まいのきものをおもちなんでしたかしら?」と、ペギーはわざと気取った言葉遣いで訊ねる。
「百まい。戸だなに百まいずらっとかけてあるの」
「まあ、百まいですって!」
「全部あなた用?」
「そう。全部わたし用」
だいたいこんなやりとりが、毎日繰り返される。
百枚も服を持っているのに、学校に着てくる服はなぜ一枚きりなの? バレバレの嘘を頑につき続けるワンダを、少女たちは囃したてる。
しかしそれは、子ども特有の残酷さからだけではない。「百枚ずらっと戸だなに釣り下がっている色とりどりのお洋服(全部自分用)」というとてつもないファンタジーが、彼女たちの心を虜にしてしまったのだ。
20世紀中頃の貧富の差が拡大していったアメリカ。女の子の欲望を掻き立てる「百まいのきもの」を持つ富豪の暮らしは、庶民の前に現実にあった。
ペギーが率先してしつこくワンダをからかったのは、自分がとっかえひっかえ着てくる服より、「百枚ずらっと......」のイメージの方が圧倒的にインパクトがあったからだ。
一方、マディーのうちは実はそれほど裕福ではなく、彼女の服はペギーのお下がりをお母さんが仕立て直してくれたもの。だから彼女は時々良心が痛むのだが、ペギーに「こういうことはやめましょうよ」と言い出す勇気がない。仲間外れにされるのが怖いから、黙って見てるだけ。そういう自分を誤魔化すだけ。
大人から見ればバカバカしいような小学生の間のいじめの構造は、今も昔も変わらない。
そのうち日常化したいじめも次第に飽きられ、ワンダの「嘘」もすっかり忘れられたお休み明けの日。学校に来た少女たちは、教室のありとあらゆる壁一面に貼り巡らされた、色とりどりの服の見事なスタイル画に度胆を抜かれる。
そして、その「百まいのきもの」の絵を残してワンダが転校したことを、皆は先生から知らされる。いきなり逆転盗塁サヨナラホームランみたいな、劇的な展開である。
百枚もの服の絵は、ワンダの「名誉挽回」のレベルを越えんばかりの存在感だ。しかもその圧倒的な「証拠物件」の前に、当のワンダは存在しない。
「貧乏なワンダ、貧乏じゃないクラスメート」「からかわれていた者、からかっていた者」というこれまでの関係に、「絵を残した者、絵を残された者」という新たな関係が突然加わった。そのことで最初の二つの関係の非対称性は、少女たちにとって俄然重い意味をもってしまった。
嘘つきの変な子をちょっと弄ってただけのつもりだったのに、返ってきたのはその仕返しではなく、あり余るお返し。それが逆に、自分たちはワンダの貧しさをからかっていた、からかいっぱなしで忘れていたという過去の事実を、くっきりと浮かび上がらせた。
もちろんそんなことを、小学生のワンダが計算していたわけではないが、効果としてはそうなった。
マディーとペギーは後悔でいたたまれなくなり、謝りたい一心でその日ワンダの家まで訪ねていくものの、ペトロンスキー一家は引っ越したあと。
その後、マディーは罪悪感に苦しめられ、自分がワンダを助けて活躍する荒唐無稽な妄想までするようになる。でもそんな妄想で自分を慰めたところで、「いじめ」を見ていながら逃げて自分を誤魔化した事実が消えるわけでもない。
いったいどうやって後始末をつけたらいいのだろう? 結局、彼女はペギーと相談して手紙を書き、大分経ってからワンダの「百枚の絵はみんなにあげます」といった返事がきて、それらの絵がクラスメートをモデルにしたものだったとわかったところで話は終わる。そこは子ども向けなので、安心できるオチがつけてある。
しかし、この物語の読後感は私にとって、「貧しい子をからかってはいけないよね」とか「ちゃんと仲直りできて良かったね」というものではなかった。何より気になるのは、ワンダという絵を描く無口な女の子の中で、いったい何が起っていたのかということだ。
物語はマディーの視点で描かれているので、ワンダの内面はほとんどわからない。わかっているのは、彼女は毎晩、大きな包み紙の裏に絵を描いていたこと、そして「百まいのきもの」を持っていると言っていたことだけ。それは一見、とてもわかりやすい「欲しい絵」であり、所有欲の現われに見える。
しかし絵のモデルはワンダ自身ではなく全部クラスメートたちであり、描かれた服は彼女たちが実際に学校に着てきたものだった。つまりワンダは、ただ「欲しい絵」を描いていただけではなかった。そういう服を日常的に着られる彼女たちへの強い憧れが、絵を描く動機だったのだ。それは「なりたい絵」だった。
「百枚のきもの」はワンダが毎日学校で見ていた現実であり、乗り越えようにも乗り越えられない階層差の徴である。
私もきれいなドレスを着て、あの子たちの中に混ざりたい。毎日友だちと、洋服の話で盛り上がったりしてみたい。その妄想がワンダを捉えて離さなかったのだろう。
だから彼女は毎日、穴があくほどクラスメートたちのドレスを観察し、脳に焼き付け、家で絵を描き続けた。そしてついに現実と妄想の境目が曖昧になり、「きものを百枚持っている」と言った。そう言えば、みんなの洋服の話に参加できるし、むしろ注目されるだろうし、自分の惨めな境遇もその時だけは忘れられると思ったのかもしれない。
1940年代と言えばジェンダー規範ばりばりの時代。「きれいなドレスを着られることが女の子の幸せ」と固く信じられていた時代である。そうした「信仰」は貧乏な家の子も金持ちの家の子も平等に持たされるから一層、現実の不平等が浮き彫りになってくる。
一人だけ、毎日同じ服を学校に着て行くのは恥ずかしい。だが貧しい移民の子という境遇は、小学生のワンダには如何ともし難い、ただ受け入れるしかない現実である。
それに耐えるには、「百まいのきもの」というファンタジーと、その壮大な「具現化作業」(百枚のきものの絵を描くこと)および「言説化」(百枚のきものを持っていると言うこと)が必要だったのだ。
そうやってせっかく描いた絵をすべて残して、ワンダは去る。
転校に際して先生に宛てたワンダのお父さんの手紙には、大きな街ではもうポーランド人だと陰口を言われることもありません、とある。彼ら東欧系の移民は、当時かなり悲惨な生活を強いられていたが、いずれにしてもワンダのお父さんは、田舎町のスラム街からは出て行くことを決意した。
では、その引っ越しはワンダにとって、学校に着て行く服が一枚しかないこれまでの生活からの、脱出の可能性を意味していたのだろうか。これを機に、「そのうちわたしもホンモノの「百まいのきもの」を持てるような暮らしをするんだ。だから絵なんてもういらないの」と奮起し、その志の証として絵を置いていったのか。
そんな上昇志向や挑戦的な思いが芽生えていたとは、ワンダのぼーっとしたキャラクターからは考え難い。百枚の絵のプレゼントは、彼女にとっては「みんなの仲間に入りたかったよ」という素朴なメッセージ以上のものではないだろう。
ただ、それらの絵には、下の階層の女の子の羨望の眼差しと強烈なビジョン=理想が、拭い難く宿っていた。マディーやペギーにとって忘れ難い思い出となったは、絵の出来映えもさることながら、普段気にも止めない自分たちの社会的位相を、思いがけないかたちで再認識させられたからにほかならない。
描かれているのはたしかに、自分のドレスを着た自分の姿だ。しかし同時にそこには、一人の少女の夢と憧れが炸裂している。絵全体がワンダの眼差しとなって、絵を見ている自分たちをしっかりと捉えている。
「百枚のきもの」を残して去ったワンダが子供心に知っているのは、「きれいなドレスを着られる女の子の幸せ」への道が、自分にはほとんど閉ざされているということだ。
他の女の子が易々と手に入れることを、自分は諦めねばならないだろう。いやもう諦めている。諦めて他に何かあるのか。絵の才能?
そんなものより彼女は、たった一枚のドレスが欲しかっただろう。「また別なきものが百枚、ちゃんと、戸棚の中に並べてある」ので、絵はみんなにあげるというワンダの手紙の文面は、彼女の精一杯の強がりだ。
自分の力では何ともならないギャップを、百枚のファンタジーで埋めようとした少女。だがいつか自分は絵に願望を託すのをやめねばならないかもしれない、「欲しい絵」「なりたい絵」を捨て去らないといけないかもしれない、それがこの世界で「大人」になることなのだ(もちろんそれは一面で寂しいことだけど)と、彼女はうっすら感じていただろう。
一時だけ浸ったその夢を「持ち主」たちに返し、黙って現実に帰っていった幼い諦観に胸が痛くなる。
絵・文=大野左紀子
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『あなたたちはあちら、わたしはこちら』公式サイト
17.05.06更新 |
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