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「お絵描き文化」の特異な発達を遂げた国、日本。「人は何のために絵を描くのか」、「人はなぜ描くことが好きに/嫌いになるのか」、「絵を描くとはどういうことなのか」――。さまざまな形で「絵を描く人々」と関わってきた著者が改めて見つめ直す、私たちと「お絵描き」の原点。
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絵を描く人々 第15回 写真を見て描く、実物を見て描く

対象をリアルに描き現わしたいと思っている人が、しばしば試みることの一つは、写真を見てそっくりに描くことだ。
写真なんか見ないで、その物を直に観察して描いたほうがずっとリアルに描ける? たしかにそういうことはよく言われる。描きたいものが目の前にあって動かず、どれだけでもじっくり見つめることができれば、それに越したことはないかもしれない。
でも、モチーフを購入したりモデルさんを雇ったりするお金がないとか、描きたいものが簡単に見られるところにないとか、変化が激しいので写真に撮って描いたほうが効率的とか、環境に左右されない状態でないとしっかり観察できないとか、さまざまな理由で、写真は絵を描く際に使われている。

デザイン分野に関わる人のみならず、写真は資料として欠かせないというマンガ家や画家、イラストレーターは多い。
よく知られているように、アニメの詳細な背景画などは、たくさんの風景写真を撮った上で、それらを組み合わせたりアレンジしたりしながら描かれている。
ジブリは自然の描写に定評があるし、昨年『君の名は。』を観た時も、その背景の絵の緻密な出来映えに感心したものだ。実際にロケをしスケッチもたくさんされているだろうが、細部の質感や影の状況などは写真がなければ表現できないものである。

しかし、この連載で言うところの趣味で絵を描く人々の場合、モチーフが目の前にあって落ち着いて描ける状況なのにそれをせず、わざわざ写真に撮って写真のほうを見て描くということは、普通はしないのではないか。まるでそれは、本人が目の前にいて話せるのに、ラインを通して会話しているような、なんだか倒錯したふるまいに思えませんか? 
絵の中でも、具象画の基本は写生。写生は実物をよく観察して描くことのはず。
ということは、「実物を見て描く」ことがまず何よりも優先的にあって、その補助や代替として「写真に撮ったものを見て描く」ことが位置付けられているのだろうか? 
写真はすべて、人間の目が捉えたリアリティの「後」に、そのリアリティを補足するものとしてのみあるのだろうか? それが逆転してすることは、ないのだろうか?

私事で恐縮だが、自著の映画評論&エッセイ集の冒頭に掲載する女優の顔を、私はすべて写真や画像を元に描いた。
今現在の女優の顔だって、一般の人が直接見て描くのはほぼ不可能だ。ましてそこで描こうとしたのは、作品中の役柄を演じている時の、場合によっては何十年も前の女優の顔である。故人もいる。写真に頼るしかない。
そんな特殊な一枚を描くのに、女優の出演映画を何度も見直したのはもちろんだが、各女優の頭部のいろんな角度、いろんな表情の画像を集めた。顎と後頭部と首の繋がり、眼を見開いた時と細めた時、笑った時の口の形と皺の寄り方など、一つ一つ個性をもった動く立体としての頭部を、複数の画像を通して想像的に把握した上で、その中から一枚を選び描いていった。
最初から一枚の画像だけしかなくても、絵は描ける。それでも情報を集めて頭の中で三次元的に構成してしまうのは、私が彫刻科出身だからかもしれない。
そういう作業の中で、自分にとって映像や画像の中にしか存在しないベティ・デイヴィスやキャサリン・ヘップバーンやヘレン・ミレンが、確かな実在感をもって目の前にいるかのような、妙なリアリティが作られていった。それは写真の作る、独立した特殊なリアリティだった。

こういうケースは、他にもあるだろう。例えば、そのアイドルの大ファンで映像や画像を隅から隅まで記憶できるほど眺め、それだけでは足りなくて写真を見ながらそっくりに写しているうちに、そのアイドルを直接見ているような気がしてくる、ということは起こり得る。別にアイドルでなくても、好きな風景でも動物でも構わない。
写真や画像はどこまでも写真や画像であって現実とは微妙に違うはずだが、その時点ではそれが唯一の現実である。対象の写真を見、詳細に描くという行為を通じて、対象をたしかに把握したような感覚が生まれる。
もし実際にその対象を間近に見る機会に恵まれた時、それはこれまで眺め記憶されてきた写真や画像への接近度合いによって、見られることになるだろう。実物は、写真や画像を見て描くことで身体化された特殊なリアリティに照らし合わされる。そこで写真は現実に先行している。

実物を知らず、実物の代わりに写真を見て描く場合、写真のリアリティが唯一の特殊なリアリティとなるということ。では、実物がそこにある場合、「写真を見て描くより、実物を見て描くほうがリアルに描ける」のは本当だろうか。
デザイン専門学校で教えていた時、静物デッサンや人物デッサンなど実際に対象を見て描くのが苦手な学生がいた。「見る度に違って見えてくる」「遠近法がうまく使えない」と悩んでいた。それまでデッサンのトレーニングを受けたことのない人で、こういう学生は時々いる。
ある時、構成課題で、一部写真を見て描いてもいいことにした。資料として持ってきた風景写真を彼はとても丁寧に写し、それは実際に見て描いた部分よりも出来が良かった。形の狂いもほとんどなく、ちゃんと遠近法に則っていた。「写真のほうがわかりやすい。実物描くより楽」と彼は言った。

ピントを絞ったり、明暗を実際よりシャープにしたりして、ビジュアルの印象操作がされている写真。だが、現実のモチーフは写真のようにわかりやすくクリアには見えていない。もっと茫漠としていて、一見つかみどころがない。
だから現実を写実的に描く場合、自分の中でまず絵のイメージを思い描き、どこに見せ場やポイントを置くか考え、時間をかけて描写する中で、その構想を実現させていかねばならない。
ちょっと視点がずれただけでデッサンが狂ってくる。モデルさんは身動きするし、花は萎れてくる。窓から差し込む光はさっきと別の影を作り出す。
決して不変ではない三次元上のものを、紙という二次元上に固定的に表現するのは、実は大変な仕事である。

それに比べると、二次元の写真をそのまま別の二次元上に再現するのは、作業としては単純だ。ひたすら見比べながら、正確に形と明暗を写し取っていけばいい。写真と画用紙双方に方眼を書き、それに沿って同じ場所に同じ色や線を置いていくという方策もある。
もっとも、そうした作業をただ単純にやっていくと、のっぺりした、いかにも写真をそのまま写しただけの、生気のない絵になってしまう。
描き慣れた人は、手前と奥の強弱をつけ加えたり、立体感、空間感のさりげない強調を施したりして、「リアルで生き生きした感じ」を演出する。そこまで行くと、写真を見て描いたのか実物を見て描いたのか、素人には判別がつかなくなる。
そこに、強烈な「個性」はないかもしれない。写真のリアリティをベースにしているという点では、技術的に似通った絵になりやすい。それでも、「現実がつかみどころがなくて描きにくい」という問題は、とりあえず解決する。

写真だと、この世界の見え方は遠近法に則っていることがよくわかる。なのに、実際の風景を見て描こうとするとうまくいかない場合があるのはなぜか。それは、対象をよく見ようとする二つの眼が絶えず細かく動いてしまって、全体像を一気に捉えきれないからだ。
言うまでもなく、カメラと人間の眼は、根本的に違っている。
カメラの眼は一つで写し出す像も一つだが、人間の目は二つなので、右目と左目でそれぞれ少し異なる像を見ている。片目ずつ隠してものを見ると、微妙にズレているのがわかる。それを脳で修正して一つの像として捉えているのだ。眼は「ものの外観を映している」、脳は「ものの実在を知っている」、それが組み合わさって「ものを見ている」ことになる。
カメラは一瞬で全体を正確に写し取るが、人間の眼にそういうことはできない。眼は、ものの状態や位置関係や細部を把握するまでに、時間がかかる。ある一点から一点へとせわしなく視点は動き、その間にふと全体をぼんやり捉えたりもする。動き回る黒目と脳は、眼の前の風景を何度も断片化し、何度も再構成している。
その感じを正直にそのまま描いたら、まるでキュビスムの絵画のようになるだろう。あるいはコラージュのように。もしかしたら、写真のように静的な、遠近法に忠実な絵がスラスラ描けるほうが、人間にとっては不自然なのかもしれないのだ。

カメラのもっとも原始的な形はピンホール・カメラだが、その元になったものをカメラ・オブスクラという。暗い部屋の一方の壁に小さな穴を開けると、外にあるものの像が、部屋の反対側の壁に倒立して投影される仕組みだ。
この光学的原理は古代ギリシャから知られていたが、ルネサンス最初の建築家ブルネレスキは、それを使って透視図法(線遠近法)を発見したのではないかと言われている。16世紀になってイタリアの物理学者ポルタが、カメラ・オブスクラを絵を描くのに役に立つ器具として推奨する、ずっと前である。幻灯機はすでにあったので、ピンホール・カメラに似たものをブルネレスキが作っていた可能性はあるらしい。
いずれにしても、芸術において自然の観察が賞揚されたルネサンス期に、カメラという光学機器への道が作られた。その後、長らく絵画の土台となった線遠近法を、初めて人の眼に見えるようにしたのは、カメラの原理だった。

ブルネレスキ以降、膨大な数の遠近法に則った絵画、及び写真を利用した絵画が生産されてきた。
フェルメールの点描で表わされた光の表現は、ピンホール・カメラを使ったものではないかという議論がある。戦後のアメリカでは、写真をそのまま拡大して忠実に描くスーパーリアリズム絵画が流行した。写真を元に描くのは、今では極めてカジュアルな手法だ。アニメ表現にはしばしば、カメラのレンズごしの丸い光の輪が描かれ、それを私たちは違和感なく享受している。
線遠近法も、光の輪も、人間が最初から自然の中に見ていたものではなく、光学の法則の中に発見されたものだ。だがそれらは絵画やその周辺の表現において、「外界を見たままに、リアルに表現するための方法」となった。
写真は、人間の目が捉えたリアリティの「後」に、そのリアリティを補足するものとしてのみあったのではない。写真が見せてくれた光の像を、人間は現実を把握する重要な方法の一つとして学んだのだ。遠近感や大きさのバランスが写実からかけ離れている絵を見て、つい「実際はこんなふうじゃない」「デフォルメしている」と思ってしまう私たちは、カメラという機械の眼を深く内面化している。


テーマに合わせて写真を描いてみようかと思いましたが第9回でやっているので、季節柄、雨。部屋の窓からシトシト雨をドローイングしています。線は空から降ってきてそのまま地面に吸い込まれた雨、点は庭木に当たってから落ちる雨、丸のようなのはもっと手前の庭木の葉から滴る雨粒のつもり。個々の雨粒はすぐ消えるのに対し、描いた痕跡は消えません。描いては消すという作業をしてないので結果、画面は土砂降りに......。歌川広重の「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」は、雨の降りしきる時間を一瞬に凝縮した上で、見事に抽象化してますね。観察しながら描いても写真に撮っても表現できない、リアルな雨です。

絵・文=大野左紀子

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第2回 「カッコいい」と「かわいい」、そしてエロいvs
第3回 絵が苦手になる子ども
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第6回 演出と詐術の世界にようこそ
第7回 自画像と似顔絵をめぐって
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第9回 絵が描けるといい仕事
第10回 描くことの光と闇
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第12回 日本・お絵描き・女の子
第13回 「欲しい絵」と「なりたい絵」
第14回 色についてのいろいろな悩み

『あなたたちはあちら、わたしはこちら』公式サイト

大野左紀子 1959年、名古屋市生まれ。1982年、東京藝術大学美術学部彫刻科卒業。2003年まで美術作家活動を行った後、文筆活動に入る。
著書は『アーティスト症候群』、『「女」が邪魔をする』、『アート・ヒステリー』など
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17.07.01更新 | WEBスナイパー  >  絵を描く人々
大野左紀子 |