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【3】妖魅夜行

鈴の音が遠くで鳴っている。それに合わせて笙が鳴り、何か祝いの詞の歌を歌う声や、勇ましい掛け声も聞こえた。拍子をとる太鼓や鉦の音もそれに重なる。

――……うるさいな。

重方は目を覚ましたが、いやな気分ではなかった。それどころか、妙なすがすがしさが心身にみなぎっている。眠る前に残っていた疲れも、もうすっかり消えているようだった。

――疲れ……? あぁ、そうか。

意識が眠りの世界からだんだん現実に引き戻されていくにつれて、重方は自分がなぜここで眠っていたのかを少しずつ思い出してきた。今は、播磨の国へ縁者を訪ねていった帰りだ。印南野あたりの野原で日が暮れてしまったから、そこにあった百姓小屋に勝手に入り込んで眠っていたのだった。

それにしても、おかしな夢だった……と、重方は今しがたの夢をぼんやり反芻した。二月初午の稲荷詣でで、妻・千珠をそれとは気づかず誘ってしまい、激怒されて稲荷山を追いかけられた。普段の夢とは比べものにならないくらい生々しかった。張られた頬の痛みや熱さえ、まだ残っているように感じられる。日頃から妻を恐れているからそんな夢を見たのだろうと、重方は苦々しくなった。

――いや、しかし、悪いばかりの夢でもなかったな。

妻を怒らせる前に、名を名乗らぬ美女と一夜の恋に落ちたことも、彼は思い出した。

――いい女だったなぁ……。夢とはいえ、もう一度逢えなかったのはじつに惜しかった。

外の笛の音が一度大きく鳴った。このときになってやっと、重方は表の音を不審に感じた。そういえば今はまだ真夜中ではないか。真夜中にいったい何の騒ぎだろう。   

立ち上がってそっと外を覗いた重方は、「ほぅ」と仰天した。

視線の先には、夢で見たのと同じ行列があった。輿や、櫃、長持といった嫁入り道具のきらびやかさだけでなく、あまりにも赤いたいまつの炎や、夜空に鬱陶しいほど散っている星々のきらめきまでも、眠りの中で見たものと変わらない。

空恐ろしい気がしながらも、いや、空恐ろしい気がしたからこそ、重方はそこから目を離せなかった。だが、じっと眺めているうちに、夢とは違うことが起こった。行列の中からひとつだけたいまつが離れて、こちらに近づいてきたのだ。火は一直線にこちらに向かっていた。

駆けてくる人物は、ずいぶん小柄だった。

――童……か?

やがてその人物の顔が見えたとき、重方は悲鳴をあげそうになった。童であることは間違いなかったが、それは童は童でも、仔牛の頭を持った童だった。

頭の中で誰かが、あいつは危険だと喚いた。逃げるべきか、もしくは小屋の戸を閉めて閉じこもるべきか。思考が麻のように乱れ、焦った。その焦りに足をとられているうちに、仔牛はこちらに達してしまった。若草色の狩衣をきちんと着こなした、大きな瞳が愛らしい黒い仔牛だった。生えかけの角がいじらしい。

「もぅし、このような時間にこのような場所で、何をしておられる」

仔牛は小首を傾けて尋ねてきた。高く澄んだ声をしていた。

「は、はぁ、じつはわたくしは……」

重方は唾を飲み込みながら、とりあえず自分がここにいた委細を説明した。仔牛は童らしく、重方の言うことをいちいち「うん、うん」と頷きながら聞いていた。話が終わると、「旅でお疲れのところを、誠に心苦しゅうはございますが」とまず詫びの文句を述べてから、ここに駆けてきた理由を述べた。

「輿の中のお方さまが貴方を見つけられて、連れてくるようにと仰せられましたので」
「お方さまとは?」
「これからご婚礼の儀に向かうお方さまでございます」
「……それは、どこのどなたさまなのですか」
「それは私からは申し上げられません。お方さまがお呼びした貴方ですから、お方さまにじきじきに伺うがよろしい」

断わりたかったが、こんな異形のものを相手に「否」と答えたらどうなるかわからない。

「わかりました」

重方が承諾すると、仔牛は「それでは」と、先に立って枯草をかき分け歩き出した。

人々の姿がはっきり見えてくると、重方は再び愕然とした。遠くからではわからなかったが、女房のものらしき輿をかつぐ者やそれに従う者、螺鈿(らでん)のちりばめられた重そうな唐櫃を背負う者、笛を吹く者、鼓を打ち鳴らす者……列に参加しているすべての者たちは皆、揃いも揃って、仔牛か仔馬の頭の童だった。

――これは、いったいどういうことだ。

重方を連れてきた仔牛は、小走りで列の後方に向かっていった。重方もその後を追った。恐ろしくはあったが、ほかにどうしたらいいのかわからない。するとすぐに、華々しく飾り立てられ、小さな弓矢や太刀を携えた警備の兵らしい仔牛と仔馬たちに守られた女輿が迫ってきた。物見の窓がつき、袖には紅葉なのか桜なのか判然としない模様が点々と散っている。切妻屋根には大きく「忌」と書かれていた。前方の乗降口に垂らされている御簾(みす)の奥には、人の気配が揺らいでいる。

「お方さま」

仔牛はその気配に向かって話しかけた。

「お連れ申し上げました」
「おぉ、近寄らせてたも」

輿の内からか細い声が返ってきた。何だか懐かしいような声だ。「ささ」と仔牛に促され、重方は輿に近づいた。そばで太鼓を打っていた仔馬が音を兎が跳ねるような調子に変えると、行列がゆっくりと止まった。

「お前さまはいったい、あすこで何をしていらっしゃったのです」

御簾の内の声が問う。重方は先ほど仔牛に答えたのと同じことを話した。

「これはご婚礼の行列と伺いました。お方さまは、どちらの殿のご息女であらせられますか?」

恐怖はあったが、好奇心もあった。じきじきに伺うがよいと言われていたこともあって、少々の憚りは見せながらも今度は重方が質問すると、輿の中の女ははっと息を止めたようだった。数秒、気味の悪いような沈黙が、御簾の向こうの女と重方の間に漂った。やがて、女が静かに溜息をついた。

「……声を聞いても、私だとおわかりにならなかったのですね。奥方さまではあるまいし、そなたを失ったら何を頼りに生きればよいかと涙された相手だというのに」

怒りか、悲しみか……彼女の感情が、声色や音程となって耳の奥にひやりと忍びこんだように感じられた。それに促されるように、重方は思い出した。

――あの女だ。夢の……。

なぜわからなかったのだろう。

何かに追い詰められたような気分になって、重方はいきなり御簾をはね上げた。「あっ」と仔牛が慌てて止めようとしたが、遅かった。

そこには女の姿はなかった。警護の兵や黒い仔牛のたいまつにうっすらと照らされる御簾の奥にあったのは、白木の木肌のすがすがしい、一本の真新しい卒塔婆だった。まるで人の女のように、輝くような白絹の衣を上からかぶせられている。どうやら花嫁衣裳のつもりらしい。木の表面には黒々と鮮やかな墨で、戒名が書き流されていた。

――これは……あの女の卒塔婆だ。

重方はそう、直感した。

混乱するよりも先に、頭の中にまた「逃げろ」という声がとどろいた。重方は今度は素直にそれに従った。彼はたいまつの赤い光の届かない暗闇に向かって駆け出した。

輿中の卒塔婆女の命令が凛と夜空に舞い上がった。

「追いなさい。あれなるは婿どのじゃ」

途端に大河が決壊したかのように、何頭もの仔牛と仔馬が赤い光とともに重方ひとりを目指して襲いかかってきた。追ってくるのは兵だけではなかった。輿や荷をそこに置いていく者もいる。楽器や鈴をそのまま持っている者もいた。獣たちの奔流は、すっかり流れの向きを変えた。





あの女は死んだのか? これは婚礼行列などではなく、あの女の葬式行列だったのか? 卒塔婆が婿とはどういうことだ? 何が何だかまったく理解できなかったが、止まってはいけないことだけはわかった。

「お前たち、決して逃してはなりませぬ。逃したら、立派な地獄の獄卒になれませんよ」

もはやすっかり離れたにもかかわらず、女の声は耳元で聞こえた。仔牛と仔馬は、黒いものも白いものも葦毛もぶち模様も飴牛も斑もどれもこれも、鬼ごっこをするときのようなはしゃぎぶりで重方を追ってきた。

「早く、早く」
「あっちに逃げるよ」
「ぼくが捕まえるんだ!」

――追いつかれたら……死ぬ。

重方は確信して、走る足に力を入れた。

だが、霜がおりた枯草は滑りやすく、踏み分けて疾走するのは容易ではない。その上、圧倒的な数の違いもある。最初はただ駆けていただけの追っ手だったが、すぐに連携して重方の逃げ道を塞ぎ始めた。ある者は右に回りこみ、またある者は左に走って、巧みに退路を断っていく。ついには重方はぐるりとまわりを囲まれてしまった。

どん、と衝撃が胸に走った。いちばん前にいた栗毛の仔馬が、重方に体当たりを食らわせたのだった。仰向けに倒れた重方の目に満天の星空が流れた。

びょうと吹いてきた風に乗って、あの女の笑い声が届いた。童女のように弾んでいる。

「重方さま、つかまえた」

その声を合図に、あどけない仔牛や仔馬が、小さな太刀やおもちゃのような槍を次々と重方の胸に突き刺した。

「ぐわっ!」

重方は叫んだが、ふしぎに痛くはなかった。ただ瞼が重くなって、高熱を出したときのように風景がぐるぐると回り始めた。

「せん……じゅ……?」

意識を失う直前、重方はどこか暗い小路で、彼の行方を白い狩衣の男に尋ねている千珠の後姿を見たような気がした。



重方は目を覚ました。

――ここは、どこだ……。

つかの間混乱したが、すぐに記憶がよみがえってきた。京の夜道で声を掛けた女に連れられて入った小屋だ。あたりにはふしぎな香の匂いが、まだわずかに残っている。
しかし、横にはあの女はいない。そうだ、つい先ほど後朝を惜しみながら別れたのだ。重方は女を先に送り出すと、また急に眠気に襲われて、「少しだけ」と再び横になったのだった。

蔀を開けてみると、地面を舐めるような日が差していた。一瞬、朝なのかと思ったが、ほうぼうから届くざわめきで夕方とわかった。少しだけのつもりだったが、あれからだいぶ時間が経っていたらしい。

それにしても奇妙な夢を見たものだった。朝、別れたばかりの女がなぜか卒塔婆に変わって、数日前に通りすぎた印南野の野原で、仔牛や仔馬たちの主人となっていた。女の命令で重方は彼らに追われ、とどめを刺された。

重方は衣の乱れを直して小屋を出た。悪夢が頭にわだかまって気が重かったが、いつまでもここにいるわけにはいかない。これから、今しがた京に着いたというようなしらばっくれた顔をして家に戻るのだ。

歩いていると、ちょうど昨日女を見つけたあたりで、見知らぬ男に呼び止められた。真っ白い狩衣と、それよりも白いほどの肌が妙に浮世離れした男である。鼻の下に「八」の字に生えている髭のはね具合が何とも胡散臭かった。

男は自分は天文寮に籍を置く官人だと前置きしてから、

「お身、これから難に遭いますぞ」

と不吉なことを口にした。

無視して通り過ぎようと思ったが、先ほどの夢もあって何だか気になった。が、話を聞いてみると、重方はわざわざ立ち止まったことを後悔した。

「女難じゃ。これから身の毛もよだつような思いをなさるに違いあるまい」

ははぁ、と重方は思い当たった。女との逢瀬がばれるのではないにしろ、きっと何かで千珠がまた怒り狂うのであろう。

「ではどうしたら、その女難から逃れられましょう」

焼けばちのつもりで訊いてみると、男は、

「されば、難が起こったら、女の背にお乗りなされ。それからその女の髪を握って、決してそれをお放しあるな」
「……………………」

まったく意味がわからなかった。男は「お気をつけ召されよ」と残すと、さっさと宵闇にかすみゆく道に消えていった。きっと頭がおかしいのだろうと思いながら、重方は後姿を見送った。

家に着くと、重方はすぐに衣に残っていた香の匂いを嗅ぎ取られてしまった。

「白状しなさい! この匂い、どこでどうやってつけてきたの?」

と胸元を掴み上げられたはずみに、懐にしまっておいた女扇までもがぽとりと落ちた。

「あら、これはどちらの女性の扇かしら? 扇を交換するほどの何をなさったのかしらねぇ」
「こ、これはだなぁ……あの、旅の途中で買って、お前に土産にやろうかと……」
「だったら、こんなに隠すようにお持ちになることはないじゃない」

重方はすっかりしどろもどろになった。こうなったらもう千珠はおさまらないだろう。どうか今日の張り手は一発で済みますように……と祈りながら、奥歯を食いしばった。

しかしすぐに彼は、何発であっても張り手のほうがよっぽどよかったと思い直した。

「せ、千珠……?」

重方の目の前で、千珠の髪が不動明王のごとく逆立っていった。その色も燃え上がる焔を思わせる真紅となっていく。拗ねた少女のように尖っていた口は乾いた地面に亀裂が走ったかのように一気に耳まで裂け、上顎からは牙も伸びてきた。双眸は爛と金色に輝き、喉の奥からは唸りも漏れている。

千珠はそのまま四つんばいになると、犬に似た動きで重方に飛びかかった。

「わっ!」

すんでのところでかわしたが、千珠は体勢を変えてまたこちらを睨みつけた。肌からも髪と同じく赤い、針のように細く光る毛が生え始めている。太い尾がぴんと立ち上がった。

「千珠、落ち着けよ……怒ったからってそれはないだろう」

この世のことわりさえ無視した怒りぶりを前にして、重方は千珠をたしなめようとした。だが、すっかり獣となった千珠はもう人の言葉も通じないのか、また襲いかかってきた。

――難が起こったら、女の背にお乗りなされ。

ふいに、怪しげな男の顔がよみがえった。重方はうまく体を傾けて避け、その背にしがみついた。「ぎゃっ」と千珠は短く吼えたが、重方は放さない。そのまま無我夢中で「女の髪を握」った。実際には、両耳の間に生えていた毛だったが。

その刹那、千珠の声が頭に直接届いた。

――貴方、逃げるわよ。そのまま手を放さないで。

何のことかと重方が考える間もなく、千珠は前脚を頭上に掲げて力強く掻いた。二人の体がふわりと浮いた。

(続く)

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11.09.04更新 | WEBスナイパー  >  稲荷山デイドリーム
文=上諏訪純 | 絵=常春 |