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【5】鬼嫁疾駆

重方は真っ白な空間に立っていた。白い部屋、ではない。壁も天井も、床すらもない場所に、立った形でふわりと浮いていた。水中に泳ぐのにも似た感覚だったが、立っているのだから泳いでいるのとは違うのだろう。

あたりには陶器の欠片のようなものが漂っていた。どれも掌よりも一まわりか二まわりほど小さい。重方は手を伸ばしてひとつを取ってみた。それには京の夜空を飛ぶ赤い獣に乗った彼の姿が、その瞬間を凍りつかせたように映っていた。もうひとつ取ってみると、花嫁衣裳を掛けられた卒塔婆と対峙している彼がいた。さらに取ると、今度は「ね」の字が花びらに描かれた椿をもぎ取る彼の手があった。

――これは、俺が見ていた夢ではないか。

欠片を手に取って新たな場面に出会うたびに、重方はその夢の内容をこと細かに思い出した。この欠片はいったい何なのだろう。重方はためつすがめつしたが、見ているだけでは答えは出てこなかった。溜息をついてふと周りを見回すと、欠片は上のほうからきらめきながら、羽のように軽やかに落ちてきているとわかった。上にはいったい何があるのだろうか。そういえば先ほどから、くちゃ、くちゃと何かを噛むような音がうっすら聞こえている。

重方はまた、拾い集めた欠片に視線を戻した。そのうちに咀嚼のような音が少し大きくなったので、もう一度上を向いてみると、いつの間にいたのか、髻に届かんばかりのところに、鼻が長く目の細いへんげ……あの女が浮いていた。

女は、今度は首から下も獣の体になっていた。猪に似た化物の姿である。

逃げようとしたが体が動かなかった。

――お身、妙なものに憑かれているな。

遠い空に光った稲妻のように、はるか向こうのほうに、板敷の部屋に佇む老いた是雄の姿がぼやけて見えた気がした。

――その女に引きずられて、お身は少しずつこの世から離れておるのだよ。

女は満足そうに細い目をさらに細めて、何かを食べていた。ずっと聞こえていたのはこの咀嚼の音だった。ひっきりなしに開閉し、上下の顎が唾液を引く口の中を見るともなく見ると、 彼の周囲に落ちてきて散らばったのと同様の、夢の一場面が覗いていた。落ちてきていたのは、「食べこぼし」だったらしい。

女は噛んでいたものをごくりと飲み込んでしまうと、舐めるような目でものほしそうに重方をじろりと見つめた。体がすくむ。だが女は重方自身には何も手出しはせず、まわりにあった食べこぼしを長い舌で絡め取っただけだった。

――俺の夢を食っている……。

やがて女は、食べこぼしをもきれいに食べ尽くしてしまった。あとに残ったのは重方と、女と、目に染みるほどの白ばかりになった。

「つかまえた」

女は裂けた獣の口の端を引き上げて、ニィっと不気味に笑った。

「つかまえた?」

ぞっとして、重方は尋ね返した。女は答える。

「ここは夢のいちばん深いところ。ここから現世に戻るには今まで見た夢を辿らないといけません。ですが、その夢もこうして、私がすべて食べてしまいました。だからお身さまは、もうどこにも逃げられないのです」
「……………………」
「お身さまは未来永劫、ここで私と一緒に生きるのです。途中で思わぬ邪魔が入りましたが、ここまで来てしまったからには、もう追っては来られますまい」

興奮しているのか、女の背の巻毛は喋るたびに小刻みに揺れた。

「……お前はいったい何者なんだ」

重方の舌は震えていた。どんな答えが飛び出してくるかおそろしかったが、聞かないわけにはいかなかった。

「さて……」

女は見た目に似合わないかわいらしい溜息をつくと、何かを思い起こそうとするような遠い目をした。ほとんど閉じた瞼の中で、黒目が濡れたように深く光った。

「人は獏と呼ぶようですが」
「獏? 夢を食うという、獏か」

伝説上にしか存在しないとばかり思っていたその生き物の名を、重方は口にした。

「さようでございますが、おそらく常の獏とは生まれが違います。私は、お身さまが見返らなくなった女の幾人かの、夢でもいいからお身さまを留め置きたいと願う心が凝り固まって生じたもの」

重方は、唖然とした。世迷言を言うなと一蹴したくなったが、同時に今まで出逢い、遊びのつもりだったと別れてきた女たちの顔が波紋のように次々浮かび上がって、その一言を包み消してしまった。誰がそんなことを思っていたのか見当はつかなかったが、誰かに思われていたとしてもふしぎではなかった。

「お心あたりがおありでございましょう。いいえ、もはや責めるつもりはございませぬ。これから仲良く暮らしていけるのですもの。またお情けをいただけるのですもの。ねぇ」

獏は空中でくるりと体を回転させると、両前脚をにゅっと伸ばして重方の肩を掴んだ。巨大な犬が飼い主の胸にじゃれついたような格好である。獏はうっとりと熱い息を吐くと、重方の胸もとに頭を押しつけた。そうして、長い鼻を器用に使って彼の袴の紐をするすると解き始めた。

「おい、やめろ!」

鳥肌が立った。獏が何をするつもりなのかをすぐに察した重方は慌てて止めようとしたが、獏は聞かなかった。それどころかさらになまめかしく鼻をくねらせながら、長い舌までも出してきた。

ぱさり、と袴が膝まで落ちる。続いて下着も解けて、縮み上がった男根があらわになった。

「まぁ、お懐かしゅうございます」 

獏はくすくす笑いながら舌なめずりをした。その先端がちょっと挨拶をするかのように、わずかに亀頭に触れた。

「ひぁっ」
「あら、そんなに照れていらっしゃっては重方さまらしくありませんわ。もっと大胆でいらしたではありませんか」

その舌が陰茎を舐め上げ、鼻が睾丸に巻きつこうとしたときだった。雷が落ちたような音があたりにとどろいて、白い空間の一角が黒煙を噴き上げて裂けた。その隙間から、ちらりと赤い色が覗いた。

赤は次の刹那には白い空間の中に踊りこんでいた。獏の背に回りこんだ赤は、その首もとに鋭い牙を立てた。獏は大きく呻くと重方から離れて、赤に向き合った。

双方は低い唸り声をあげて睨み合った。獣の眼と獣の眼が燃えている。赤は、いくつか前の夢で千珠が変化した獣だった。ぴんと立った耳は長く、顔は尖って尾はふさふさと太く、真紅という色でさえなければ狐そのものだった。赤い狐の牙が刺さった獏の首からは、水銀のような銀色の血液が流れ落ちていた。血液は緑の体毛を伝って落ちると、しゅっ、とはかなげな音を立ててすぐに蒸発した。

今度は獏のほうが狐に飛びかかった。鋭い爪でその横っ面を払おうとした狐は、逆に前脚を噛みつかれ、「ぎゃっ」と鳴いて飛び退った。毛並みよりも赤い血があたりにぱっと散る。それと同時に、

――もう動けるわ。早く私の背中に乗って!

千珠の声がまた、頭に直接届いた。迷っている暇はなかった。狐が何者であろうとも、ここで獏と置き去りにされるよりははるかにましだった。重方は袴をずり上げると、狐の背に飛び乗った。それから前にしたのと同じように、耳と耳の間の毛をしっかりと握った。

重方がしがみつくと狐はすぐに獏に背を向けて、まだ煙を吐き出している空間の裂け目に頭から突っ込んだ。獏は狐が体勢を整えて戦うと思っていたらしく虚を突かれた形になったが、すぐにその後を追った。

目の前がぱっと開けた。黄昏らしい薄藍の空の下、ゆるやかな山道に、朱の鳥居が飛び散った絵具のように点々と並んでいる。一雨来そうな湿度の中に冴々と朱が映えるその風景に、重方は見覚えがあった。

――ここは……稲荷山ではないか。

山頂である一の峰にほど近い場所だった。狐はそこから、赤い一迅の風のごとく一直線に山道を駆け降りた。空は雲で覆われていたが、西の空だけは燃えるような残照を残して不気味なほどに赤く、柿が腐って潰れて広がったようだった。場所全体が薄い水の膜で覆われているように何となく息苦しく、顔を切る空気はどろりとして重い。重方の知っている稲荷山とは、同じものがあるのにまるで違う世界に思えた。

後ろから甲高い牛のような鳴き声が聞こえてくる。振り返ると、獏が緑のつむじ風となって追ってきていた。野太い胴体からは想像もできない速さだ。長い鼻が揺れるさまは追われる立場でなければ愛らしくも見えそうだったが、細い目に燃え盛る憎しみがそれを台無しにしていた。

――お待ち……お待ちよ!

獏の声もまた、直接頭に響いた。きっと狐にも聞こえているのだろうが、狐はもちろん振り向いたりはしなかった。狐は駆け下りながら、あらわれる鳥居を次々くぐっていった。そのたびに透明な布が一枚、また一枚とめくり取られていくかのごとく、空気が軽くなっていく。息苦しさも少しずつおさまり、空の色も常の黄昏どきの色に戻っていった。

そのまま二の峰、三の峰を続けて抜ける。普段であれば立ち止まって拍手を打つ場所だが、今日は横目で通り過ぎるばかりだ。

――逃さない! 逃さ……ない……!

重方は獏の異変に気がついた。鳥居をひとつ過ぎるたびに声が細くなり、しわがれていく。もう一度振り返った重方は、その姿を目にして転げ落ちそうになった。獏の緑色の体毛はあちこち抜け落ち、肉も剥がれ落ちて、半分ほど骨が剥き出しになっていた。さらに鳥居をくぐると、残っていた肉がまたひとかたまり、ごそりと落ちた。獏はその拍子に転びかけたが、すぐに脚を踏ん張らせて立ち直ると、よろめきながら狐と重方を追った。





「頼む、止まってくれ」

重方は思わず狐に訴えた。

「あいつは悪くないんだ」

そんなことをしている場合ではないのはわかっていた。今、止まったら、間違いなく命にかかわるだろう。だが、獏の言ったことが正しいのなら、獏は自分が生み出したようなものだ。朽ち果てていくのを黙って見捨てていくのはしのびなかった。

――貴方はどこまでど阿呆なの! 本当に頭にもずくが入ってるんじゃないの!?

狐は一蹴した。

――辿っていく夢が食べられてしまって、貴方を救う手立てがなくなってしまったのを、私、ここの神さまたちにお願いしてまわって、このお山を貴方の夢につなげてもらったのよ。本当はそんなことをしてはいけないのだけれど、貴方は昔から信心だけは篤いからって何とか取り計らって下さったの。でも、それもほんの少しの間だけ。早く下りないと、現世に戻れなくなってしまう。

「だけど……」

――そんなことを言うなら、もう浮気なんてやめなさい!

一喝されると、重方は何も返せなくなってしまった。この啖呵の切り方や、もずくを引き合いに出すところからして、狐はやはり千珠であろうと思われた。

重方は最後にもう一回だけ獏を見た。彼女はすでに骨だけになっていた。白骨の脚は縺れ、牙も折れて、今にも四肢が崩れそうな姿でよたよたと走っている。もはや、追いつくことはできまい。それでも細い目からじっとこちらに注がれる黒いまなざしは、重方から逸れていなかった。せめて一言なりとも詫びの言葉をかけたかったが、それももう無理だろう。重方は心の中でそっと、獏に向かって手を合わせた。

熊鷹社を横切り、こだまヶ池を過ぎてさらに下ると奥社が現われ、やがて、鳥居の向こうに並び立つ奥宮と白狐社が見えてきた。

――ここまで来れば、もう大丈夫。

狐は走る速度を落とした。あたりはすっかり暗くなっていた。月はなかったが、まだ何も見えないほどでもない。社の赤も狐の赤も、かろうじて輪郭を保っていた。

助かったのか……と思った途端、安堵が疲労となって体じゅうに広がり、重方はそのまま狐の背に突っ伏してしまった。また眠ってしまってはいけないと焦ったが、体がいうことをきかなかった。

――まぁ、貴方、こんなところで寝ちゃ駄目だったら! 起きなさい! 起きて……。

薄れていく意識の中、千珠に叱られたような気がしたが、よくわからなかった。


「痛ぇっ!」

頬に鋭い痛みを感じて、重方は目を覚ました。見ると重方の頬を張った手を掲げたまま、枕元で千珠が口を尖らせていた。

「何をするんだ、いきなり!」
「何をするんだじゃないでしょ、いい加減に起きなさいよ! このねぼすけ!」

怒鳴りつける重方にひるむことなく千珠も怒鳴り返した。千珠の声のほうが大きい。
開け放たれた蔀からは夕暮れの日差しが差し込んでいる。烏の鳴き交わしが茜色の空遠くに聞こえた。

「あれ……俺はいったい……」

重方はあたりを見回した。まごうことなき我が家である。しかしなぜ今、家にいて、しかも寝ていたのか咄嗟に思い出せなかった。同僚たちと初午詣でに行って、間違えて妻に誘いの声をかけ、逆上されて稲荷山を追いかけられたところまでは覚えているのだが……。

千珠はすぐに、重方が記憶を辿れないでいるのを察したらしい。

「覚えていないの? 貴方、稲荷山の山道をちょっと外れたところで寝ていたのよ。いい陽気だったし、お酒が入っていたからって、いきなり山の中で寝ちゃうなんて信じられない。しかも私に追いかけられていた最中だったのに、神経が図太いのか阿呆なのか……」
「寝ていた?」
「そう。それで、貴方のお友達に頼んで、貴方をここまで運んでいただいたの。私、もう恥ずかしくって。だからお酒はほどほどにしなさいっていつも言ってるのよ」
「そうなのか……」

うなずきはしたが、まったく身に覚えがなかった。眠っていたときの記憶がないのは当然だろうが、どうやって眠ってしまったかまでわからないのは妙な気がする。大体、それほど飲んでもいなかった。

「俺は山の中で寝ていたのか……」

重方は自分に言い聞かせるようにもう一度繰り返した。頭の中に白く濃い靄が漂っていて、大事なことがそこに全部吸い込まれてしまったような感覚がある。何ともいえない不快感を抱えたまま、重方はゆっくりと体を起こした。

そのとき、千珠の右手の甲に大きな切り傷がついているのが目に入った。

瞬く間に、靄が吹き飛んだ。重方はこれまでの夢をすべて思い出した。仮名文字の浮かんだ椿を、牛頭と馬頭の童たちを、卒塔婆を、胡散臭い天文博士を、赤い狐と緑の獏の夜空での追いかけっこを、板敷の間の老いた弓削是雄を、獏の体についた自分の死に顔を、夢の欠片を食っていた獏を、そして狐と獏の対決を思い出し、その世界から戻るべく狐の背に乗って稲荷山を下りたことを。

「……お前、その傷どうしたんだ」

重方はおそるおそる尋ねた。

千珠はわざとらしいほど大きな溜息をつくと、 

「もう夕方だから起こそうとしたら、うるさいって貴方が引っ掻いたのよ! だから私も慌ててひっぱたいたの!」

と、重方を睨みつけながら立ち上がった。

「何だと……」

重方は愕然としたが、千珠はそんな彼を気にするふうもない。

「じゃ、夕餉の支度をしてきますから。お着替えはそこに置いておきましたからね」

と言い残して、そのまま部屋を出て行こうとした。

「おい」

重方は思わずその後姿を呼び止めた。

「……今、思い出した。俺が初めてお前を見つけたのは、たしか稲荷詣での帰りのことだった」
「はぁ……?」

突然何を言い出すのかとばかり、千珠はきょとんとした。

「そうなると、お前が俺のところに来たのは、霊験だったのかもしれんなぁ」

千珠は重方の真意を測りかねているかのように、何度か大きな瞳をしばたかせたが、すぐにぷっと吹き出すと、「はいはい、信心も結構ですけど、早くお支度なさってね」と、今度こそ部屋を出て行ってしまった。

重方はしばらく座ったままで考え込んでいたが、寝床を抜け出すと、廊下に首だけ出して呼びかけた。

「おぉい。明日は俺、早く帰ってくるわ。一緒に梅でも見に行かないか」
すぐにぱたぱたと駆け戻ってくる音がして、曲がり角から千珠が満面の笑顔を覗かせた。
「本当?」
「うん、約束する」
「嬉しい。じゃあ、わかめ料理をたくさん入れたお弁当を作っちゃう」

跳ねるように去っていく千珠の足音を聞きながら、重方は、あいつも意外に抜けているところがあるなと苦笑した。千珠の姿が曲がり角の向こうに見えなくなっても、夕日に伸びた影だけは、ほんのわずかな間ではあったがまだこちら側に残っていた。その影には尖った耳と、太い尻尾があった。

(了)

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常春 2010年より少しずつ活動開始した新米絵描きです。1988年生まれ。和モノ怪奇モノ大好物です、座右の銘は【いやらしければなんでもいいわ!】です、宜しくお願いいたします。
常春公式サイト=「我蛾」
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11.09.18更新 | WEBスナイパー  >  稲荷山デイドリーム
文=上諏訪純 | 絵=常春 |