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「お絵描き文化」の特異な発達を遂げた国、日本。「人は何のために絵を描くのか」、「人はなぜ描くことが好きに/嫌いになるのか」、「絵を描くとはどういうことなのか」――。さまざまな形で「絵を描く人々」と関わってきた著者が改めて見つめ直す、私たちと「お絵描き」の原点。
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絵を描く人々 第17回 構図と余白

美術を志して絵を学び始めた14歳の頃、構図というものが今ひとつよくわからなかった。
たとえば花瓶に活けた花を描くなら、画用紙の真ん中にそれが入るように描けばいい。左右上下は同じくらいの空間を取る。取り過ぎだと絵が貧弱に見え、ギリギリでは窮屈に見える。......くらいは理解していた。
では、花瓶の周囲にグラスや果物などを置いた場合は? 画集でその手の静物画をいろいろ見て、こんな感じかなと真似をした。雑誌『アトリエ』を読んで、画面に大きな三角形を描くように物の配置を決めると、わりと落ち着いた感じになるということも知った。でも自信はない。

構図に悩んでいた私に、父が『セザンヌの構図』という本を買ってくれた。静物画を図解し、さまざまな方向を向いた矢印が書き込まれていて、一件安定を欠いているようなセザンヌの絵がいかに複雑に構成されているかを論じたものだった。しかし当時の私にはそれはあまりにも専門的で、理解がなかなか追いつかなかった。
絵の構図って難しい。一応の型はあるが、型破りのほうが面白いこともある。こうすればいいという決まりはない。
そういうことを徐々に知っていく中で、いつ、いい構図/悪い構図、面白い構図/つまらない構図の判別が、何となくではあるがつくようになったのか、自分でもわからない。とにかく画集でたくさんの絵を観たことは確かだ。

構図という言葉には、その図が構成されるところの「地」は四角いという、暗黙の前提がある。絵の構図を考える場合、私たちは大抵、横長もしくは縦長の長方形を想定している。
クロッキー帖だってスケッチブックだってお絵描きツールの画面だって長方形。正方形であることは珍しいし、丸や楕円はさらに特殊な感じになる。
そもそも、私たちが普段目にしている映像や画像は、みな四角い。テレビの画面もパソコンの画面も映画のスクリーンも街の広告も、縦横の比率はさまざまだが、横長の長方形という形が一般的だ。

それらが横長なのは、人間に目が二つあり視界が横に広がっていることに対応していると思われるが、もちろん視界が四角なわけではない。視界の輪郭はなんとなく楕円形で隅のほうは、ぼけている。
つまり、曖昧なかたちの私たちの視界と、紙やパソコン画面やキャンバスの四角い形の間には、明らかな断絶がある。写実的な絵画や写真は、特定の視界を四角く切り取り、縁の部分は捨てたものだと言える。
知人のアーティストで、「絵を描いている時にキャンバスの隅がうまく扱えない」と悩み、そこから視界とキャンバスのズレそのものをテーマにしていった人がいた。最初は不思議なことを気にするものだと思ったが、見ることの不定形さ、曖昧さに比べて、確かにキャンバスや画用紙の形はあまりにもはっきりくっきりし過ぎているなぁと気づいた。
もちろん絵を描く人々の中で、そういうことを気にするケースはレアだろう。紙でもキャンバスでも四角いことは所与の条件としてあって、特別意識されていない場合が多いと思われる。

ところで、紙の形はなぜ四角くなったのだろう。
人間には垂直と水平の感覚があり、建築はその感覚に沿って作られる。建築物の壁は総じて四角いので、そこに描かれる絵は四角い絵となる。そこから、紙も四角という形に落ち着いたのかもしれない。それに紙の形が統一されていないと、保管するにも持ち運びにもまとめて綴じるにも不便だ。
四角に区切られた田畑、四角が基本となった建物の四角い扉と窓、四角い家具に四角い本。四隅が直角をなす四角形は、人間の文明にとってもっとも基本的且つ合理的な形だったのだろう。
絵という形式が建築物から独立して、枠の中に描かれた絵画となって以降、絵の基本的な形は四角となり、私たちは四角の中で構図というものを構想するようになったのだ。

洞窟の壁に人が絵を描いていた頃、描かれるものの大きさの関係や位置関係は気にされても、構図という概念は希薄だった。そこに、四角い板や紙のような明らかな枠がなかったからだ。
それと同じような体験を、子どもの頃にしている人はいると思う。家の壁や塀に落書きしたり、道路にチョークで絵を描いたり。海に行けば、そこらで拾った棒切れで砂浜に何かを描いてみたり。そこに、画用紙のような四角い枠はない。だから絵は左右上下、どこまでも気ままに増殖していったりする。
枠がないということは、構図がない、全体の構想がないということだ。仮に、あらかじめ全体像をイメージして「こうしてやろう」という決めたとしても、枠がないからいくらでも付け足すことができる。とりあえず好きなところから描き出して、飽きたらそこでやめればいい。
枠のないお絵描きは、自由だ。そして少し心もとない。ストリートペインティングは、枠のないところに描く行為ゆえ、描いては消される運命にある。そこでは絵と世界が地続きだから、絵は頑張って自己主張しないと世界に呑み込まれる。

画用紙という一定の面積をもった白い平面を初めて前にし、クレヨンを握ってそこに自由にカラフルな痕跡をつけられるとわかった時、子どもは描きたいものを、描きたい場所に、描きたい大きさで描く。
だが次第に子どもは「枠」を意識し出す。そうしないと時々はみ出してしまうし、逆に、真白な余白がたくさん残ってしまうこともある。「しまった、大き過ぎた」とか「なんか小さく見える、寂しいな」と思っても、相手は紙だから描いた像を縮小したり拡大したりすることはできない。
真白な四つ切り画用紙に、描きたいものを程よい大きさで描くことは、案外難しい。大人はしばしば、画面一杯に描かれた絵が「子どもらしくて元気でいい」と言い、余白が目立つ絵は「萎縮している」「絵に集中できないことでもあるのだろうか」と心配したりする。
確かにそういう心理は絵に反映されやすいが、構図取りは狙いと計画性が必要なだけに、自由気ままに描きたい子どもにとっては一番難しいワークだ。顔など描く場合、最初の線は子どもなりに慎重になるから輪郭がちょっと小さめになってしまい、そのせいで絵全体が妙に縮こまってしまったというケースはよくある。いらない余白を切り取ってしまえばいいのだけど、小学校の図工ではおそらくそういう指導はしていないだろう。

その対策として昔、外側の輪郭ではなく、輪郭の内側から描かせるという池田式という描画法が、児童画で流行したことがあった。たとえば顔を描く場合、普通は顔の輪郭を描いてからその中に目、鼻、口を描き入れていくことが一般的だが、そうではなく、目や鼻など中のパーツから先に描いていくという描き方だ。真ん中から、あまり大きさを気にせず描く。
内側から外側へと、細部から全体へと、絵を広げるように描いていく。
すると、外の輪郭を描いてから内側を描くよりも、伸び伸びした大きな絵になる。画面からはみ出さんばかりの、子どもらしい元気な絵になる。
......ということで教育現場でも一世を風靡したが、このやり方だとみな絵が似通ってくるのだ。児童画コンクールでもこの手の絵ばかりが入賞し、画一的になるということで今はあまり推奨されていないようだ。
だいたいこの描き方だと、全体像の決定が出たとこ勝負になり、構図について考えることができない。

美大受験生がデッサンの構図で失敗した時、「描き直せないなら紙を切れ」とアドバイスをすることがあった。
左右の空きのバランスがおかしいと気付いた時はもうやり直しはできない状態で気分が重くなっている受験生に、「余っているこっち端を1センチカッターナイフで切り取って、足りない反対の端に裏からテープでくっつけなさい」と。試験でやったらさすがにまずいだろうけど、このまま描き進めていってもどうせ上手くいかないのだから。
お絵描きツールなら、手軽にいろんな構図を試すことができるし、変更も自由自在だ。一方、アナログで失敗しないためには、あらかじめシミュレーションしておく必要がある。
オーソドックスな具象絵画の場合、デスケールを使うこともよくあるが、それと並行してスケッチブックやクロッキー帖にラフに描きながら構図を考えることが多い。
その時、うっかり紙一杯に描いてしまうとまずい。紙の真ん中にやや小さめに全体を描いてから、枠の線をその上に仮定として描いてみる。そうすると、どう切り取るか自由に考えることができる。
それだけのことが、教えられるまでは案外思いつかなかったりする。

構図取りは、曖昧な視界に四角い窓枠を設けることで、世界を切り取る知的な作業である。どんなに凡庸な風景、見慣れたものを描いていても、構図一つで初めて見るような風景やものになる。
18世紀、山登りをレクリエーションとして始めたヨーロッパの人々は、普段目の高さ(せいぜい馬に乗った時の目線)で見ている街や田畑、遠くの丘や川を、はるか上方から見下ろすという体験を得た。この体験は、おそらく人々のそれまでの世界観に大きな影響を与えたに違いない。それは当時、急速に増えた風景画にも反映されている。
絵画ではさまざまな構図が試されてきた。いろんな角度で窓を切り取ることで提示されてきた、多様な世界観。同じモチーフを描いても、構図の取り方によって主役が脇役に押しやられたり、誰も見ようとしてなかったものがクローズアップされたり、逆にモチーフが大きな空間の中のほんの一部に位置付けられたりする。
図の部分と同等かそれ以上に、余白の部分に多くを語らせる日本の絵画には、西洋とは別の世界観が宿る。構図とは、それを決めた者の視点、考え方そのものだ。

マレーヴィチは1918年、白いキャンバスに白い正方形を描いて、構図のゼロ地帯を目指した。でもその正方形は、地に対して少し斜めに配置されていて図と余白の見分けがつき、構図的思考が完全に消えたわけではなかった。
戦後、画面全体を覆い尽くす絵の具の軌跡で作られた、ポロックのオールオーバーな抽象絵画で、絵画から構図というものが消えたように見えた。そして、何も具体的なものが描かれていない、均質な色面=地だけから成る完全な抽象絵画も登場した。
しかしそれらが美術館やギャラリーの壁に掛けられた時、私たちはつい、大きな四角い白い面(壁)に一定の間隔を置いて配置されているさまざまな色の四角(絵画)という、新たな「構図」を発見してしまう。
人は、図のない均質な地だけを見続けることに耐えられないのではないだろうか。子どもが白い壁や紙に落書きしたくなるように、あらゆるところに何らかのものの配置=構図を求めようとするのではないか。
太古の昔、方向を示すものも目印もない茫漠と広がる地面に、木の枝で徴をつけて自らの痕跡を残し、残すことで他の誰かと出会いたいと思った、そんな心性が、構図を求める私たちの中にずっと息づいているのかもしれない。


構図を考える時、必然的に浮上してくるのが余白です。日本の伝統的絵画は、「余白をいかに語らせるか」を追求しました。大胆な余白の美では、今春京都で見た桃山画壇の巨匠、海北友松の水墨画を思い出します。余白が緊張感に満ちて美しいのは構図もさることながら、描かれたものに力が籠っているからです。というわけで梅干し。ほぼ実寸で描いてます。とても難しかったです。気づいたら一時間半が経過していました。もう一つ描こうかどうしようか迷い、やめました。この余白は、一個の梅干しの小さな存在感を支えてくれているでしょうか。それとも間が抜けているでしょうか。

絵・文=大野左紀子

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『あなたたちはあちら、わたしはこちら』公式サイト

大野左紀子 1959年、名古屋市生まれ。1982年、東京藝術大学美術学部彫刻科卒業。2003年まで美術作家活動を行った後、文筆活動に入る。
著書は『アーティスト症候群』、『「女」が邪魔をする』、『アート・ヒステリー』など
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17.09.02更新 | WEBスナイパー  >  絵を描く人々
大野左紀子 |