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【1】傀儡女

「ちくしょう、あのクソ女ども......」

暗くなりつつある山中を今にも倒れそうな足取りでよろよろと歩きながら、そよごは呟いた。

刺された腹の激痛に耐えかねて歯を食いしばると、今度は殴られた頭が痛んだ。ざっくり斬られた背中はもはや麻痺してしまったのか痛みはあまり感じないものの、ぬるぬるした熱いものが衣の中に溜まっているのがわかる。

「わっ」

汗が入って目が霞んでいたために足元に伸びていた木の根に気がつかず、足をとられて転んだ。力んだ瞬間に脇腹の傷から血が噴き出し、あたりの低木や草に赤く飛び散った。

「うぅ......」

呻きながら傷口を押さえてうずくまる。

あたりには人気がまったくない。助けを求めようにも、求められなかった。

「あいつら、ぶっ殺してやる」

そよごは目の前に生えていた雑草を、敵(かたき)かのようにいまいましげにむしり取った。あたりにぱっと短い緑が散る。

「............!」

はっとしたのはそこに覚えず己の姿が重なって見えたからだ。雑草のように這いつくばって必死に生きてきたのに、不快だからとたやすくむしられ、うち捨てられる。

もうすぐ山は夜に包まれる。ずいぶん血を流したから、ねぐらから這い出してくる獣たちは、すぐに自分という餌に気づくだろう。いや、それより早く意識を失って、死の淵に沈んでいくだろうか。

「ぶっ殺してやる」

だが、死の気配を確かなものとして感じようとも、そよごは、苦しい呼吸の隙間に、ありったけの憎しみをこめてそう差し挟まずにはいられなかった。それはもはや、自分を直接こんな目に遭わせた連中だけへの恨み言ではなく、彼女の人生すべてへの呪詛だった。

そよごの思いは、十年前のある夏の日へと遡っていた。


そよごの母は京の鮎鮨売りだった。貴族や豪族の家々を訪ね、使用人や下人たちを相手に売ったり、市に小さな店を出したりして生計を立てていた。父のことは知らない。会ったこともなければ、何処の誰なのかもわからない。ときどき母が漏らす思い出話から、おそらくはどこかの屋敷の雑色(ぞうしき)かと思われた。

母に連れられ京じゅうを回り、何ごとも起こらなければゆくゆくは同じく販女(ひさぎめ)として生きていくはずだった運命が大きく捻じ曲がったのは、十になったばかりの頃、母と山中を歩いていたときのことだった。

どこかの郡に住む親戚のもとに行くのだと言われた記憶がある。

母はやけに急いでいた。自分も十九になってそれなりに男も恋も知ってみれば、親戚に会うとは子供だましの嘘だったのではないかと思う。頬がやけに赤々としているように見えたし、きっと想い男のもとに行こうとしていたのだ。しかし真実が何だったかはさておき、とにかく彼女は急ぐあまり女ふたり、それも一人は子供だというのに、近道ではあるが危険な、人気のない山中の悪路を選んでしまった。

「危ないよ、やめようよ」

そよごは年にしてはかなり分別のあるほうだった。女手ひとつで商いをやりくりする母を見上げて育ったからだろう。

「大丈夫よ」

母は無視した。

道は次第に険しくなっていった。遠くの枝で鳥が羽ばたいたり、風が木の葉を陰鬱に揺らすたびにそよごは泣きたくなった。

だが、脇の低木の影からとつぜん白刃が閃いたときには、もう泣きたいどころの騒ぎではなくなった。

最初は何が起こったのかよくわからなかった。気がついたら母の喉元に切っ先が突きつけられていた。

切っ先をたどっていくと、ぼろぼろの水干を纏った乞食だった。顔が垢と無精髭とで覆われていて若いのか老いているのか判断がつかない。赤黒く淀んだ目と曲がった腰は老人のようだったが、

「金と着物を置いていけ」

と、口元から覗いた歯は他のみすぼらしさからはかけ離れて白く、ほとんど揃っていた。

どこかで刃物を手に入れた乞食が、これ幸いと獲物を待ち伏せていたのだろう。

母はしばらくの間、眼球がこぼれ落ちそうなほど目を見開き、何度も何度も唾を飲み込んでいたが、やがて、声を絞り出すようにゆっくりと喋りだした。

「着物は、置いていきます。金は、ありません。ゆえがありまして、京から無一文で逃げてきたのです」
「えっ」

そよごは「嘘でしょう」という意味を込めて母の手をぎゅっと握った。金ならわずかだが持ってきていたはずだ。いくらもない金を惜しんで疑われて、命を奪われるようなことになってはたまらない。しっかりして、お母さん、言えるものならそう言いたかった。

「ならば服を全部脱いで、本当に持っていないか見せてみろ」
「いいえ、本当です」

絶体絶命だというのに、何を考えているのか母は意外に強く出た。

「ですが、私には、この山を下りたところ住む兄がおります。その兄に頼んで、いくらかお持ちしましょう」

母はさらに嘘をついた。そんな人がいるなんて、聞いたこともない。

「馬鹿を言うな。お前をみすみす逃がせということか」

子供にも容易に理解できる理屈だ。しかし母はそれでも引かなかった。

「そんなことは決してございません。では、私のこの娘をここに置いていきましょう、人質として」
「えっ!?」

そよごは自分の耳を疑った。聞きまちがえたのだろうか、それとも、母は恐怖のあまり乱心したのだろうか。こんな乞食のもとに一人おきざりにされては、何をされるかわかったものではない。

「子供を人質に取られて平気な母がいるものですか。信じて下さい」

どういうことなのだろう。まるで悪い夢を見ているみたいだった。

今まで母一人、子一人、楽ではない生活をしてきたが、決して邪険にはされていなかった、と思う。それどころか、暮らし向きのわりには大事にしてもらったという自覚さえある。この頃とみに荒廃の目立ち始めていた京では、子を捨てたり売ったりする親も多かったが、そんなことは自分には無関係だと思っていた。

「お母さん、そんなのいやだよ、私」

そよごは泣きながら母の袖に縋った。袖の下の腕が小刻みにわなないているのが感じられる。見上げると、泣いているようにも笑っているようにもとれる歪み方をした唇が、紫色になってぶるぶると震えていた。

母はそのままの顔で、そよごをギロリと一瞥した。その瞬間、そよごにはすべてわかってしまった。母の目は、すでに母のそれではなかった。彼女の眼の奥では、彼女が母ではない何か、一人の女といっても人間といってもまだ足りない、どろどろとした業(ごう)そのもののような存在になってしまったことを示すものが、暗くすさまじく燃えていた。

乞食は母とそよごに、交互に汚げな視線を投げかけていたが、やがて、

「わかった。娘を置いていけ」

と、そよごを荒々しく引き剥がした。

「ごめんね、そよご、すぐに戻るからね」

母は顔を袖で隠していた。泣いているのだろうか。息が弾んでいることだけはわかった。

「いやだ! お母さん!」

今、母に追いつかなければ、もう彼女が自分のところに帰ってくることはないと確信して、そよごは身をよじらせながら、小さくなる母の背に向かって必死で泣き叫んだ。

と、そよごを突き放していきなり乞食が走り出した。手には再び剥き出しになった白刃が、木漏れ日を受けてきらめいていた。

甲高い悲鳴が森閑として霧がかった山中に響き渡った。その女の絶叫は、断末魔に達するまで途切れなかった。

「山を下りて、助けを連れてこられてはたまらん」

刃からぼたぼたと血を滴らせたまま、乞食は戻ってきた。いまいましそうにぺっと吐いた唾が、がくがくと震えて動かすこともできなくなったそよごの小さな足に掛かった。

「さて、お前をどうしてくれよう」

こちらを見下ろす乞食は、昔、母とお参りに行った寺にあった、塗りの剥げた古い閻魔像に少しだけ似ていた。額が分厚く、目がぎょろりとしていて、今にも取って食われそうだった。


取って食われなかっただけ、ありがたかったのかもしれない。

そよごが連れて行かれたのは、京に家を借りて逗留していた傀儡女の一座だった。乞食とは知り合いだったらしい。

傀儡女というのは座を組んで各地を遍歴しながら、うたい、人形を使った芸を行なう女たちのことだ。傀儡まわしだとか、傀儡つかいとも呼ばれる。もっとも古めかしい人形芸よりも、宴席で催馬楽(さいばら)や今様をうたったり、 その後、枕席に侍ったりすることのほうを期待されているのが実のところで、売春婦という意味で傀儡女の名が持ち出されることも決して少なくはない。

そよごもその職業は知っていた。市で人形劇を垣間見たこともある。

「どうだ長者、これだけ若ければ、いくらでも好きに育てられるだろう」

「若いというよりは子供じゃないか。うーん、かわいげはあるが、特別器量がいいというわけではないね。ま、こういう狸みたいな顔は、好きな男は好きなものだけれど」
「品評はいい。買うのか、買わないのか」

長者と呼ばれた中年女に顎を掴まれる。長者はそよごの顔を様々な角度に傾け、皮膚の内側を透し見ようとでもするかのような目つきで、しばらく矯(た)めつ眇(すが)めつしていたが、

「ま、ここ数年誰も子供を生んでいないから、貰っておこうかね」

ひとつ頷くと、ぱんぱんと手を叩いた。

すぐに下仕えらしい女がやって来た。入り口に掲げられた布の外から、「お呼びで?」と中を窺う。

「この子をきれいに洗ってやっとくれ。髪も少し切ったほうがいいね。そしたら......そうさな、蜜女にでも面倒を見させようか」
「では」

乞食がぱっと顔を明るくして、布の擦り切れた膝を進めた。

「あぁ、交渉成立だ。支払いは米でいいね」

蜜女というのは二十代半ばほどの傀儡女だった。細面の美人ではあったが、吊り上がった目が神経質そうだったので、そよごは最初警戒した。

が、話してみると存外優しいようで、

「なんだ、まだガキじゃないか。まぁ、こっちに来て菓子でもおあがり。あの婆ぁに怖い目に遭わされなかったかい?」

と、笑いかけてくれた。

ここの女たちはみんな、影で長者のことを婆ぁ、婆ぁ、と荒っぽく呼び捨てていたが、しかし、心底から嫌っているというふうでもなかった。並外れた厳しさが「婆ぁ」にはあって、それが誰しもの口を悪くさせていた。厳しいというのは傀儡女の芸たる歌と人形つかいの技術に対してで、そよごも毎日、喉が枯れる直前まで歌わされた。

それでも性に合っていたのだろうか、そこに関しては嫌と思った記憶はない。

つらかったのは、晴れて一人前になってから、傀儡女本来の芸をした後だった。

最初の日は、何かを失ったという実感が、重たい衝撃としてずっと心にのしかかっていた。かつて市の賑々しい風に乗って甘やかに耳に届いた貴公子と姫君の物語を、自分はもう紡ぐことはできないだろう。客が去ってひとりで床にじっと伏していると、喪失感に手繰りよせられるようにして初恋の人の面影までもが瞼に浮かんだ。あれは母とよく一緒に行った屋敷に仕えていた侍で、そよごよりずいぶん年上だった。

しかしそんなつらさは案外すぐに忘れられた。それからはもっと現実的な不安との戦いになった。

――こんなことをしていたら、いつか孕んでしまう。

いかに子をなさないように努めても、自分で体調を管理したり、薬師から買う怪しげな煎じ薬を服用するのが精一杯のところで、傀儡女たちは年に何人もが孕んでいた。

生まれた子供は女であれば次代の傀儡女として、男であれば下男や芸人として育てることになっており、生むこと自体は問題視されていなかったが、そういう傀儡女の文化とはべつの問題として、そよごには妊娠に恐怖があった。

妊娠というより、母になること、といったほうが正しいかもしれない。

ほかの傀儡女たちが子供を生み育てるのを何度横目で見ても、そよごにとって母というのは、情念の世界で生きることを運命づけられているのだけが薄々わかる程度の、未知の化物でしかなかった。仲間の腹がふくらみ始めると、いつも母のあのときの眼を思い出した。

――私は絶対、孕みたくない。

そよごはいつからか、男を体内に迎え入れずとも、十本の指だけで官能の高みに導くことができるようになり、その「手技」は、客のあいだでひそかな評判になった。

「清い白滝のような指が陰根を洗うと、男は淫汁を膿のように垂らしながら、法悦のあまりよがり狂うという」
「満月を手のひらでそっといただき隠すかのごとくに亀頭を両手で包まれたら最後、狂喜に悶えずに閨(ねや)を出ることはできないそうだ」

前後も不覚になりそうな陶酔を味わった男たちは、詩的な囁きさえ恥ずかしげもなく口の端に乗せ、竜宮か天界でも見出だすための秘密の呪文か何かのように、彼女の名を耳打ちし合った。

それはやがて他の傀儡女にとって、はっきりとした脅威となっていった。


薄氷をこわごわ踏むような思いで生きてたどり着いた先が、今日のこの瀕死の態(てい)だ。

京に逗留中、蜜女をはじめとする三人の傀儡女に呼び出されたそよごは、「会わせたい人がいる」と連れ出された。

何か裏がありそうではあったが蜜女がいるのだから大丈夫だろうとそよごは黙ってついていった。夜も明けぬ時分から、びょうとした風の吹く道々を、女四人は揃って北に抜けた。

やがて名も見も知らぬ山を登り始めると、

「よくも今までさんざん人の客を寝取ってくれたねぇ」
「ずっとお前が目ざわりだったんだよ!」

と、いきなり背後から棒切れや刃物が襲いかかってきた。女たちは動けなくなったそよごを置いて、誰ひとり振り向いたりせずに逃げるように山を下りていった。

「ちくしょう......」

そよごは意識が遠くなっていくのを感じながらも、また呟いた。ふらついて、そこにあった木の幹に寄り縋ったが、もう触れているという感覚がない。

――どうして私だけ、こんな目に遭わなくてはいけないの......

涙が頬を伝っていた。命の髄が染み出していくかのように、一滴、また一滴と落ちるごとに、瞼が重くなっていく。

と、何処かから。

がさ、ごそ......がささ、がさ......。

こちらに近づくものの気配があった。

黄昏に黒ずみゆく木々や藪の間を縫い、平地を行くような速さで進んでいる。落ちた枝を踏み折る音や、草を踏み倒す音が舞い上がって、夕暮れを惜しむ烏のダミ声に馴染んだ。

突然、そこからさっと焔(ほむら)が立ち上った。掲げた松明にでも火をつけたか、それとも枯草でも燃やしたか。が、よくよく目を凝らせば、それは炎ではない。火のように朱く、鮮やかな、足音の主の毛髪だった。伸び放題に伸ばしたものが進むに従い、燃えるごとくにたなびいているのだ。草木が宵闇に色彩を翳らせていく中で、その髪は明瞭な朱色をとどめたままでいた。

いや、髪だけではない。髪が薄闇に流れるたび、その隙間からときどきぎょろりと覗く眼(まなこ)二つも、髪以上に紅かった。むしろ燃え上がるというのなら、こちらのほうがそう形容するに相応しいだろう。

七尺にも達するかというほどの巨躯。ひょろりとしてはいるが筋ばった長い手脚。腰に布きれのようなものを巻きつけてはいるが、ほぼ全裸に近い。鼻がひくひくとうごめいていた。

人の形をしてはいるが、常の人のなりではない。化生(けしょう)か、あるいは魔性か。山にいるからとて、木霊のように人間を攫ったり騙したりするものではあるまい。どちらかといえば、見つければ頭からばりばりやりそうに獣(けだもの)じみている。つややかなまでに硬そうな皮膚は、藪の密生を潜(くぐ)ったというのに傷ひとつついていない。

がささっ、がさっ!

化物、と呼ぶに似つかわしいそれは、藪を飛び出してそよごの前に立った。
そよごは、しかし、驚愕することも、慄(おのの)くこともなかった。すでに意識を失ってしばらく経っていた。

(続く)

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常春 2010年より少しずつ活動開始した新米絵描きです。1988年生まれ。和モノ怪奇モノ大好物です、座右の銘は【いやらしければなんでもいいわ!】です、宜しくお願いいたします。
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12.07.23更新 | 小説  >  朱の風吹く
文=上諏訪純 | 絵=常春 |