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New Style Heian Erotical Mandara [Ake no kaze fuku]
人の形をしてはいるが、常の人のなりではない。化生(けしょう)か、あるいは魔性か――。今昔物語を題材にとり、人の世から外れた者たちの凄絶な闘いを描く空前の平安エロティカル曼荼羅。話題作「口中の獄」と接続する、妖と美が渦巻く異端の世界とは。作家・上諏訪純と絵師・常春のカップリングでお届けする待望のアブノーマル・ノベル第4弾!!
「あったかくならねぇなぁ......」
蓮台野の真済の庵で、朱猿は物いわなくなったそよごをじっと抱いていた。その手には、絵馬が生んだ翡翠が握られている。
そよごが息を引き取ってから、早、三日目の晩である。
「そよごはよく、寒い、寒いって、俺の懐にもぐってきたんだ。しばらくこうやってると、すぐにあったかくなったんだけどなぁ。おかしいなぁ」
さっきから、いや、ここに来た二日前の晩から、同じことばかり朱猿は呟いていたが、傍(かたわ)らに座した真済は何も言えなかった。そっと横たわらせたそよごの顔が眠っているように安らかなのを見ると、朱猿はおもむろに近寄って、まるで生きている者に対するように抱擁したのだった。それからずっと、離れないでいる。一睡もしていなければ何も食べてもいなかった。
朱猿をここまで連れてくるのは、ひと苦労だった。清忠から翡翠を渡されると、朱猿は突然自分を激しく責めだした。
「俺が翡翠がほしいなんて言わなければよかったんだ! 俺がそよごを殺したんだ!」
そのままどこかに駆け出していきそうだった朱猿を、清忠と乙犬丸と三人がかりで止め、絵馬の隣に埋めてやろうと言い聞かせて、何とかここまで連れてきた。
真済は小さく溜息をついた。やりきれなくなって何となく庵の中を見回すと、瑠璃の狐の首が無造作に転がっているのが目についた。朱猿が持っていくといって聞かなかったのだ。
ゆらり、と朱猿が立ち上がった。声を掛けようとして、真済はその息を呑んだ。朱猿はつい今しがたまでの茫然自失から一転して、すさまじい怒りに燃え上がっていた。眦(まなじり)と気迫で、それは手にとるように伝わってきた。
真済の前をふらふらと横切って、朱猿は床に落ちていた瑠璃の狐の首を拾った。髪をむんずと掴み上げ、そのまま外に出て行こうとする。
「何をする気だ」
真済は禍々しい気を発する背中を呼び止めた。
「くしざしにして、戸のまえにかけてくる」
「何だと?」
「これでほかの狐をおびきよせるんだ」
「おびきよせて、どうする」
「きまってるだろ。みなごろし、に......してやる」
「朱猿、お前、大丈夫か!?」
やけにたどたどしい朱猿の口調に、真済はぎくりとして立ち上がった。喉の奥のほうからは、唸りのような音もかすかに聞こえてくる。前に回って眼を覗いてみれば、それはもはや獣性ですっかり塗り潰されていた。
「おい、だめだ! 落ち着け!」
真済は朱猿に掴みかかって止めようとした。このままでは、朱猿はまた悪魔じみた獣に逆戻りすると直感した。このままでは......狐面が来ずに鬱々とした狂気を抱え続けるのでも、朱猿の考える通りにやって来て、みなごろしの爪と牙を振るうことになったとしても、あまりに激しく高ぶる感情に弄(なぶ)られて、一度は手に入れた思慮深い人の性(さが)をすっかり失うことになるだろう、と。
「なんでだよ! 狐をころ、す......ころして、やるんだ!!」
朱猿は真済を振り切ろうと暴れた。
真済とて狐面が憎くないわけではない。しかしそんなことをしても、もうそよごは帰ってこないのだ。その上、それが朱猿とそよごが今まで真珠のように大事に養ってきたものと引き換えになされるというのなら、何としてでも止めなければならなかった。
二体の化物は取っ組み合って殴り合った。どちらかが転倒するたびに庵が根こそぎひっくり返るのではないかというほど地面が重々しく揺れたが、二人はそんなこと気にも留めなかった。
「ころしてやる! ころして、やる、んだ!! そうじゃ、なきゃ、そよごが......!!」
朱猿は大粒の涙で顔じゅうを濡らし、舌を縺れさせながら、殴られ、殴った。瑠璃の狐の首は朱猿の手を離れ、横たわるそよごのすぐ脇にまで転がっていった。
「馬鹿野郎!! そのそよごが必死になってお前にくれたものを、無下に捨てることになるってわからねぇのか!! お前は今、怒りに我を忘れてけだものに戻りつつあるんだぞ!? そよごの思いを無駄にするつもりか!」
真済が殴られた鼻を押さえながらも、朱猿の腹に拳をめりこませようとすると、
「そよごが......!」
朱猿ははっとして、引き絞った拳を止めた。
「むだになる......?」
「そうだ」
ようやく平静を取り戻しそうな兆しを見せた朱猿に、真済は息を整えながら畳みかけた。
「んなことになったら、そよごだっておちおち極楽へも行けやしねぇ。だからもう少し落ち着け。頭を冷やせ。わかったか」
嵐が過ぎ去って、庵の中は静まり返った。ときどき届く木枯らしの音に、やがて、その場にへなへなと座り込んだ朱猿のすすり泣きが重なった。
真済はぺっと血を吐き出すと、転がっていった首を拾おうと戸口を離れた。
そのときだった。とん、とんと戸を叩く音が、静けさの中にじわりと不気味に染み込んだ。二人は無言で顔を合わせた。
「お前は出るな」
何かあればまた燃えたちそうな眸(め)に強く言いつけると、真済はそっと戸を開けた。
そうして、叫びだしそうになった。
「夜更けに、ごめんあそばせ」
外にはいつの間に降り始めたのか、一面、はらはらと粉雪が散っていた。風に舞い上げられる雪片を引き連れるようにして佇んでいたのは、若狐の女だった。
朱猿がぎりり、と牙をむき出した。真済は慌てて朱猿を制した。
「さっき言ったことがわからねぇのか! ここは俺がやるからお前は奥に行ってろ」
大きな図体を奥の暗がりに蹴り飛ばす。戻ってくるかと気が気ではなかったが、朱猿はそのまますすり泣き始めた。真済は若狐に向き直った。
若狐の女は一人ではなかった。後ろには、首のない瑠璃の面の狐が無骨な手を曳かれて控えていた。そのさらに後方、少し離れたところには、大小・老幼、そして毛色も大きさも顔もさまざまな、獣としての狐たちが並び、じっとこちらを仰ぎ見ていた。
「何の用だ」
真済は首なし狐に圧倒されながらも苦々しげに尋ねた。若狐の女は、
「私たちは京を出ることに致しました。それで、この者の首をお返しいただきたいと思いまして。ほかの狐たちの体はすべて取り戻して参りましたが、この者の首だけが見当たりませんでしたので、ここに伺ったのです」
と答えて、首のない瑠璃の狐に面を向けた。
首を胴から斬り離されてまだ生きているとは驚きだったが、へんげともあれば、そういうこともあるのだろう。手を曳かれているところを見ると、さすがに満足に動けないようではあるが......
「もちろんただでとは申しません。こちらにも、それなりのものの用意がございます」
と、懐に手を入れた女に、真済は「へぇ」と、嫌味っぽい声をあげてみせた。
「何かくれるっていうのかい?」
金が出てくるやら、宝が出てくるやらとその手が取り出すものを待つと、白い指が掴み上げたのは、彼女の手のひらにちょうど収まるほどの、水晶の珠だった。
「何だ、こりゃ」
真済は首をかしげた。ただの水晶ではない。中には、まるで燐を帯びたみたいにぼんやりと赤っぽく発光している小さな魚のようなものが泳いでいる。いや、魚にしては背びれも尾びれもないし、第一それらしい顔もない。しかし、微妙に細長いころんとした形や動き方は、どこか魚を彷彿とさせた。
「赤髪鬼と、そよごという娘の子(やや)でございます」
とたんに部屋の奥から朱猿が転(まろ)び出てきた。朱猿は若狐の手から珠をひったくり、まじまじと覗き込んだ。
「どういうことだ?」
真済は訝しげに眉を寄せた。
若狐は溜息をひとつ、ついた。
「あの娘を攫ったとき、私は、あの娘が孕んでいることに気がつきました。父のいない子として生まれるなんて哀れなこととは思いましたけれど、父はなくても子は育ちます。けれど、あの娘は赤髪鬼を庇(かば)って死にました。それで急いで胎内から、この子を掬い上げたのでございます」
「........................」
「命となったばかりですので、このような人とも見えぬ形でございますし、母の胎内を離れた今、生き続けられるかどうかもわかりませぬが......」
真済は聞いていて、だんだん怒りを覚えてきた。
「いい加減な話だな。そんな荒唐無稽なことを信じろとでもいうのか。第一、死ぬかもしれないんだろう。ふざけるなよ」
「お受け取りいただいたところでどうともできぬものをお渡しするのはこちらとしても心苦しゅう存じますし、それ以前に信じられぬと仰るのなら、もはや仕方がありませぬ。この人はこれから首なしで生きていくことになりましょう」
だが、真済の一蹴に対して、朱猿は悠々と泳ぐ小さな魚を凝視しながら、若狐の話すことをじっと噛み締めていた。魚は動くたびにあえかな燐光を振り撒いた。その赤い光は水晶の中に四散して、ゆっくりと溶けるように消えていった。
「なぁ......」
朱猿は、小さな、しかし美しい小さな魚に見入ったまま、若狐に問うた。
「なんで、こいつを助けてくれたんだ? 俺はお前の仲間をいっぱい殺した。お前だって、俺が憎いだろう」
珠からわずかに目を逸らした朱猿の瞳と、面の穴から覗く黒々と深い若狐の瞳が交錯した。
わずかな沈黙のあとに、若狐は言った。
「......さぁ、なぜかしら。自分でもよくわからないの。何だか、やるせなくなったのよ」
それから、おそらく面の下で、困ったような微笑を浮かべたに違いないと思わせるわずかな間を置いて、
「私も、母だからかもしれないわね」
と、呟いた。
「私たちの眷属の女は、十二年に一度、子を生むの」
問われもせずに、若狐は語りだした。けれど朱猿も真済も、それを怪しいとは思わなかった。彼女の告白は春の草木の若芽のように、あるいは、夏の盛りに空に溜まった雲が水気の重みに耐えられず降らせる雨のように、どこか暗くてあたたかいところから自然に生まれてきたもののように感じられた。
「けれど何の因果なのか、その年は、私たちの天敵である犬神が棲むところと私たちの棲むところが、地続きに繋がってしまうの。私たちは出産が終わるとすぐに、犬神たちに喰われないよう、いとけない子を守らなければいけなくなる。でも犬神はずる賢くて、どんなに気を張っていても隙を突いて子狐を喰い殺してしまうのよ。だから子狐を少しでも早く成長させるために、母狐に人の死肉を食べさせる。私たちに怨恨や未練を抱いて死んだ人の肉は、母狐に与えれば、霊狐を健やかに育てるための甘いお乳になるから」
ほぅ、と真済が目を丸くした。
「じゃあお前らは盗みが目的だったわけじゃねぇんだな。ほしいのは死体だったわけだ」
「えぇ。盗賊のふりをしていたのは、そのほうが人の目を眩ませられるから」
「なるほどな......」
真済は深く嘆息した。
「それでお前たちは、分の悪い状況で戦っていたのか。で、いよいよ京を離れるということは、その十二年に一度とやらの出産期はもう終わったんだな」
「いいえ」
若狐は首を横に振った。
「今年、これから始まるのよ。今までは準備を整えていたに過ぎないわ。貴方たちが邪魔をしてくれたおかげで、結局、満足に集められなかったけれど」
「じゃあ......!」
朱猿が、食らいつきそうな顔で若狐に詰め寄った。
「お前たち、これからどうするんだ。生まれた子はどうなるんだ」
「京では目立ちすぎてしまったし、戦える狐の数も減ってしまったし、どこか別のところへ行くわ。京は狩っても狩っても餌の数が減らなくて便利だったのだけれど、しょうがないわね。子は、いつもの年よりもたくさん死なせることになるでしょう。でも私たちも弱いわけではないの。必ず守ってみせる」
朱猿はとつぜん、敢然と部屋の中に取って返した。そうして瑠璃の狐の首を引っ掴んで戻ってくると、「返す!」と、若狐の胸元に押し込んだ。
「こいつ強いから、いなきゃ困るだろう!」
若狐は最初、きょとんとした様子だったが、すぐに、ふふっと忍び笑いを漏らすと、首を瑠璃の狐に手渡した。
瑠璃の狐は手探りで首をあるべき部分に据えた。首は不安定に揺れて何度ももげそうになったが、ぎゅうぎゅうと押しているうちに何とかくっついたようだった。それからもしばらく上下や左右に振ったり回したりしていたが、そのうちにすっかり自然に動くようになった。
「ありがとう」
若狐が言うと、朱猿は「俺もだ」と、水晶を額に押し当てた。赤い魚が、ひらりと体を閃かせた。その赤は朱猿の髪と目と同じ赤だった。
「ありがとう」
若狐と瑠璃の狐は、二匹を待っていた仲間たちの元に去っていった。狐の群れは強くなった夜の雪の中をしずしずと歩幅を揃えて進み、白っぽい闇に少しずつかき消されて、やがて、見えなくなった。
さら、さらと澄んだ音が聞こえてくる。これまでに聞こえてきたことのない音だ。ここ数日の暖かさで積もっていた雪がすっかり溶け、真済が庵にしていた小屋の近くを流れる小川の水嵩が増えたらしい。
太陽は真綿のような光をやわらかく地上に投げかけていた。何だか体がむずむずするような陽気がそこらじゅうに満ちて、土の匂いがかすかにあたりに漂っている。
「そろそろ行こうか」
小さな丘の上、二つ、土が盛り上がったところに紅白の椿の花を添えていた朱猿は、下から掛けられた声に振り向いた。と同時に、覚えず頭に触れた。
「頭、まだ慣れねぇのか」
真済はその動作を見逃さずに、真似して自分の頭を撫でてみせた。
「だって、こんなの、初めてだから」
朱猿は肩をすくめて苦笑いした。
そこには伸ばし放題にしていた赤い髪はなかった。朱猿は、髪をすべて剃り落としてしまっていた。こんなふうにしたのは一月以上前になるが、いまだに空気が妙に冷たく感じられて、ことあるごとに落ち着かない気分になる。
「でも、まぁ様にはなってるぜ」
真済はつぎはぎだらけの法師の衣を窮屈そうに身に着けている朱猿を遠巻きに眺めながら、満足げに頷いた。
「あとは経の二つ、三つも覚えれば完璧だな、しゅえん」
朱猿は真済について、仏の道に入ることにした。諸国を行脚する真済に従うべく彼もまた頭を丸め、法師の姿をとった。名は朱猿の読み方だけ変えて、「しゅえん」とした。
二人は昨日、洛中で世話になった向きに挨拶を済ませ、今日、今、ここから歩き出そうとしていた。
朱猿が椿の花を置いていたのは、そよごと絵馬を並んで埋葬した場所だった。そこは冬の間はわからなかったが、春には咲きほころぶ花もあるらしく、あちこちに気の早い芽が小さな頭を覗かせている。
――――よかった、これならきっと二人とも寂しくない。
いずれ春になったとき、名もない花々がその色鮮やかさで小さな丘を慈しむように彩ってくれる様を、朱猿は想像した。
「今、行きます」
朱猿は丘を小走りに駆け下りながら懐に手を入れて、大事なものがきちんと入っているかどうかを確認した。指先に翡翠のつややかな感触と優美な形が伝わってくる。観音の形だった。
狐面たちの襲撃から逃がした者の中に仏師がいたのだが、後日、彼がわざわざ清忠のところに礼を述べに来た際、朱猿の話を聞いて、ならば自分がその娘を模した観音の姿を翡翠に彫りつけましょうと申し出てくれたのである。朱猿は毎日その仏師のところに通って、彫り進める様子を横で眺めながら、ああでもない、こうでもないと、細かく説明した。仏師は真摯に耳を傾けてくれ、結果、できあがった観音像は、注文をつけた朱猿も驚いたほどそよごの特徴をよく捉えていた。
翡翠といえばこれも一月以上前、朱猿は傀儡女の長者と傀儡女数人の姿を洛中で見かけた。向こうもこちらに気がついたようで、一人が「あっ」と声をあげた。朱猿は長者に翡翠をよこせと迫られるのではないかと不安になったが、長者は朱猿を睨みつけただけで去っていった。
朱猿は知らなかったが、長者は明兼から、そよごと絵馬が検非違使側の手落ちで亡くなり、朱猿に関しては何もわからぬままにそよごに従っていたため責任はないと見做し、釈放したのだと伝えられていた。明兼はそよごと絵馬とを死なせてしまったことに対して相応の額の金を渡していたが、絵馬が翡翠を産んだことについては触れなかった。
朱猿は不安になった反面、 長者は無理だとしても傀儡女の誰かに、そよごや絵馬のことを教えたいと思った。蜜女たちを殺したとき、傀儡女はたくさんいた。きっと一人や二人は真実を知ったら悲しんでくれるだろう。だが逡巡しているうちに見失い、それきり彼女たちには二度と会えなかった。
間接的に朱猿の危機を救った明兼は、五年後に正六位・検非違使の少志(しょうさかん)となった。彼は中年期には父と同じ判官の地位に就くことになる。父の範政は、この年の夏を待たずに逝去した。
「ん? どうしたんですか?」
真済に歩み寄った朱猿は、真済が驚いた顔で空の一点を差しているのを見て、そちらを振り仰いだ。
「あ............」
そこにはぼんやりと霞む春めいた雲に見え隠れしながら、そよごと絵馬が手をつないで、朱猿が育ったあの懐かしい山のほうに向かって歩いていく姿があった。
「そよご......絵馬......」
朱猿の呟きが届いたのか......二人は足を止めると振り返って、空の高いところで微笑みながら、何か言った。
――――先に行ってるね。ゆっくり帰っておいで。
声は聞こえなかったが、たしかに、そう言った気がした。
(了)
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