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I want to live up to 100 years
「長生きなんてしたくない」という人の気持ちがわからない――。「将来の夢は長生き」と公言する四十路のオナニーマエストロ・遠藤遊佐さんが綴る、"100まで生きたい"気持ちとリアルな"今"。マンガ家・市田さんのイラストも味わい深い、ゆるやかなスタンスで贈るライフコラムです。最近、老後について考えることが多くなった。
私の周りには優しくて礼儀正しい人が多く、飲みの席なんかで老後の話をすると「遠藤さんはまだ若いよ。そんな心配するには早いって!」なんて励ましの言葉をかけてくれる。でもそれを聞くと、私はいつも申し訳ない気分になってしまう。
なぜなら、私にとって老後は"恐れるべきもの"じゃなく"憧れ"だからだ。
老人は働かなくていいし、アクティブに過ごさなくちゃというプレッシャーもない。ひなたぼっこしながらのんびりお茶を飲み、眠くなったら昼寝をし、暇になったら散歩がてらに図書館通い......こんなにすばらしい職業がほかにあるだろうか。
しっかり者の友人には「今の時代にその考え方は甘いっ。私たちが老人になった頃には年金システムなんてとうに崩壊してるよ。我々なんて下流老人まっしぐらだよ!」と喝を入れられるが、そういった不安材料を十分理解していても不思議と怖いって気持ちはわいてこない。大衆酒場のカウンターでアツアツの煮込みをつまみながら独り酒しているおじいちゃんなんか見ると、うっとりと「ストレスなさそうでいいなあ」と思うばかりだ。
老後に思いをめぐらせるとき、私の中に「心配」とか「不安」とかいうネガティブな感覚はあまりない。
それはたぶん、年寄りの多い環境で育ったせいじゃないかと思う。気の利いた老人施設などなかった昭和の田舎町には、くの字型に腰の曲がった(でも元気な)一人暮らしのおばあさんがごろごろしていていた。いわば、老人のケーススタディをたくさん見ることができたのである。
私には「憧れの年寄り」が3人いる。
まず1人目は、父方のひいおばあちゃんだ。
彼女はチヨさんという名で、実家の隣にある古い家に独りで住んでいた。当時は「どうしてすぐそばに家があるのに一人暮らししてるんだろう」と不思議に思っていたのだが、大人になって後妻さんだったと知ってなるほどと思った。結婚前は芸者をしていてチャキチャキの姐御肌だったチヨさんは、気を使いながら血のつながらない息子夫婦と住むよりも独りのほうが気楽だったのだろう。
小学校低学年の頃はよくチヨさんの家に遊びに行っていた。物がごちゃごちゃとたくさんある薄暗い家だったけれど、静かで暖かくて妙に居心地がよかった。私のために酒屋でラムネをケース買いしてくれていて、いつもそれを飲ませてくれるのも嬉しかった。「白いカレーって見たことあるかい?」と得意気に皿に盛って出してくれた夕食がまごうことなきホワイトシチューで、大笑いしたこともある。
今でも覚えているのは、いつもテレビで時代劇の再放送を観ながら内職をしていたことだ。ご祝儀袋につける水引を結ぶ内職は、私の住む町のおばあさんの間ではポピュラーなものだった。
「どうして内職してるの?」
「ほかにすることがないからなあ。それに内職でお金を稼げば、あんたにだってお年玉やラムネをあげられるだろ」
当時、私の周りにはお金を稼ぐ女の人がいなかったので(母親も祖母も専業主婦だった)、かっこいいなと思った。休むことなく水引を結び続けるチヨさんの横でラムネを飲みながら「大江戸捜査網」や「遠山の金さん」を観るのが、私の幸せな時間だった。
私が中学生になる頃、チヨさんはボケがきて近所の病院に入り、80何歳かで亡くなった。たまにお見舞いに行くと、芸者時代に戻った彼女は看護婦さんたちの前で嬉しそうに踊りを披露していた。ベッドの上にちょこんと座り、指先をピンと伸ばして"しな"をつくる仕草は、さすが昔取った杵柄って感じで粋だった。
2人目は、親友のおばあちゃん。
この人には直接会ったことがないのだが、106歳で天寿を全うしたと聞いて憧れずにはいられなくなった。さすがに最後の何年かは介護施設に入ったけれど、それまではボケることもなく一人暮らしをしていたそうだ。読書が一番の趣味で、100歳過ぎても毎日虫めがねを使って本を読んでいたというからすごい。
気丈で、何歳になっても好奇心があって、独りに強い。私が思う「ご長寿さん」というのはまさにこういうタイプである。まあ、たぶん私には真似できないだろうけど......。
ちなみに彼女の孫である友人は、20年前にフランスに渡り向こうに居ついてしまった。合理的で独立心旺盛で「車は維持費がかかるから」と5キロや10キロなら歩いて移動してしまうような人。たぶん、彼女も100歳くらいまでは生きるんじゃないかとふんでいる。
そして3人目は、4年前、97歳で亡くなった祖母だ。
彼女は先のチヨさんとは正反対、お嬢様育ちの華やかなタイプである。
実家の仏壇に線香をあげるとき、遺影を見ると毎回驚いてしまう。従姉妹の結婚式で撮った写真だから確か93歳か94歳にはなっているはずなのだが、栗色に染めた髪を結いあげ、ピンク系の口紅を塗り、エメラルドグリーンのツーピースを着て笑っている姿はどう見ても70代にしか見えない。ヒールを履いていたせいか、背筋もピンと伸びている。
なぜこの人と私の血がつながっているのか、我ながら不思議でたまらない。
なんてったって、80歳過ぎてからも紫の補正下着を着ていたとか、90歳目前でベルギー旅行に行ったとか、90歳過ぎて目を整形手術したとか、この手の逸話には事欠かない人なのだ。
正直子供の頃は、派手で祖母が参観日に来るのが恥ずかしかったけれど、今は素直に「たいしたもんだ」と思うようになった。
若くて華やかなのはもちろん羨ましいが、私が憧れているのはその死に方だ。
90歳過ぎても社交ダンスをし、化粧をし、好きなものを食べて、深夜番組を観ていた祖母。そのうち徐々に体が弱り始め、家族に見守られながら綺麗に人生を終えていった。
できるなら私も、あんなふうに死にたい。
お金に困ることも孤独にさいなまれることもない、今の世には珍しいくらい運のいい人だった。でも、今思い返してみると、あんなふうに死ねたのは幸運だけじゃなかった気がする。
恵まれた人というのは「自分だけは大丈夫」と思いがちなものだが、祖母はそうじゃなく、むしろ心配症なくらいだった。少しでも体調が悪ければ病院へ行き、足が痛ければリハビリをし、気分がふさいだらショッピングをする。できることは面倒くさがらずになんでもしていた。
考えてみれば、90歳過ぎたらスキンケアや化粧をちゃんとするんだって大変なことだ。でも毎日当たり前のようにやっていた。
きっと祖母は祖母なりに、97年の人生をコントロールしてきたんだと思う。
しっかり者の友人が言う通り、年金も貰えないかもしれない世代の私は祖母のような華やかな老後を送るのは無理だろう。いくら能天気でもそれくらいはわかってる。
でも、自分の人生をコントロールするために、ほんの少し神経と労力を使うことくらいなら真似できるんじゃないかと思うのだ。
そういえば幼稚園の頃、実家の庭に平屋の小さな小屋があって、90歳くらいの知らないおばあさんが2人で住んでいた。
あれは誰だったのか今でも謎だが、もし私が90歳になったとき気のおけない女友達がいたら、そこらへんに小さな小屋を立てて2人暮らしするのもなかなか楽しいかもしれない。
文=遠藤遊佐
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15.12.26更新 |
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