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New Style Heian Erotical Mandara [Ake no kaze fuku]
人の形をしてはいるが、常の人のなりではない。化生(けしょう)か、あるいは魔性か――。今昔物語を題材にとり、人の世から外れた者たちの凄絶な闘いを描く空前の平安エロティカル曼荼羅。話題作「口中の獄」と接続する、妖と美が渦巻く異端の世界とは。作家・上諏訪純と絵師・常春のカップリングでお届けする待望のアブノーマル・ノベル第4弾!!翌日、そよごと朱猿が目を覚ましたのは昼近くになってからだった。食欲をそそるいい匂いがしたので、外を覗いてみると、真済が薬草のたっぷり入った穀物粥を作っていた。
「その狐面の女とやらは多分、想念を別の次元に実体化させることができるんだよ。長年の坊主経験から来る勘でしかないけどな」
「..................はぁ?」
粥をすすりながら例の屋形の正体について尋ねたところ、真済はそう答えたのだが、そよごには何が何やらさっぱりわからなかった。
朱猿にはさらに理解できない......というか、聞いてすらいなかった。黙ったまま三杯目の粥をうまそうに流し込んでいる。
「つまり、朱猿がこうだったらいいなぁと思っていた世界を、この世とはちょっと外れた場所に、突貫で作っちまった、ってことだ」
「よくわからないんですが、そんなことができるものなんですか」
「その狐面たちはおそらく、お前の考えるとおり、へんげだったのだろう。年を経たへんげは、人間なんぞには思いもよらないことをするというじゃないか」
「うーん......」
正直、まだよく理解はできなかったが、「朱猿がこうだったらいいなぁと思っていた世界」という部分に関しては何となく納得ができた。あの閑散としたボロ屋形はきっと朱猿の理想郷だったのだ。いつでもそよごを見つけることができる、広くもなく、何も余計なもののない場所。そよごが決して離れていかない、いや、逃げられない世界。
「でも私たちが出てきた場所は、五条堀川のボロっちい屋敷の門前だったんですよ。それって、この世じゃないですか」
「あぁ、あそこは昔から何かといわくのある場所らしいからなぁ。ふとしたきっかけでこの世とそっちの世界がつながったり、重なり合ったりしやすい所なんだよ、多分な」
「うぅーん......」
そよごはまた頭を抱えた。
「その五条堀川の古屋敷だが、その周りで朱猿が人を襲って食物や着物を奪っていくという噂が立ってな、それで俺も行ってみたんだよ。他にも探索に入った奴はいたらしいが」
「げっ!」
そよごは椀を落としそうになった。青くなって、それから赤くなった。朱猿に犯されるあられもない姿を真済以外の者にも見られたということだろうか。すると真済はそよごの心中を察したのか、
「いや、この世から外れた場所にあるものだから、あの屋形に足を踏み入れたところでお前たちがいた世界には誰も入っては行けないし、お前たちを見つけることもできない。自由に行き来できるのは想念の主である朱猿だけだ」
と、すぐに言い足してくれた。やっぱりよくわからなかったが、とにかく見られてはいなかったということだろう。そよごはほっと息を吐いたが、すぐにまた新しい、当然の疑問が湧いた。
「誰も入っていけないし見つけることもできないのに、なんで真済さまは私たちを見ることができたんですか?」
「うーん、なんで見えたのかなぁ。俺にもよくわからねぇんだよ。背中がすっげぇ痛くなったと思ったら、いきなり見えたんだ」
腕を捻って背中に手を当て、真済は唸った。
「お前らと仲がよかったから何か通じ合ったとか? 長いこと坊主やってたからご利益がわりに仏さまが見せてくれたとか? あ、もしかしたら、一度、化物になったことがあるから、そういうのに敏感になってたとかかねぇ」
「やだぁ」
そよごは噴き出した。山を去るときに語ったあのいい加減な話を、ここに来てまだ引っ張るなんて。
「あの話......」
どこで聞いたお話だったんですか?と尋ねかけたが、その声は別の溌剌とした声にかき消された。
「おかわりっ!」
朱猿が腕を伸ばして、空になった椀を真済に突き出した。
「あっ、こら朱猿、こぼしてるわよ!」
朱猿の膝にこぼれていた粥を叱りながら拭いてやっているうちに、そよごは自分がしようとしていた質問をすっかり忘れてしまった。
さらにまた翌日、そよごは真済に頼んで、明兼の屋敷に文を届けてもらった。「そよごと朱猿の二人の身は無事だが、事情があって今はまだ戻れない。だがあと一月もしないうちに必ず戻るから、どうか絵馬の身を害さないでほしい」、そういう内容を差出人は不明にしてしたためた。直接明兼に通そうとして腹を探られることになっては面倒なので、真済は屋敷で働く下女の子に干し柿を渡して使いを頼んだ。
そよごの予測をいい意味で裏切って、朱猿はたちまちのうちに言葉を取り戻していった。それだけでなく、新たに、落ち着きや思慮深さといったものも身につけ始めた。
「読み書きの練習の成果だよ」
真済は満足げに頷いた。朱猿はそよごに言われて読み書きの練習もするようになった。教えたのは真済だ。学にあまり自信のなかったそよごも一緒に学んだ。
「じっと座ってものを読んだり、書いたりすることは、我慢が必要だからな。我慢を覚えると大人になれるもんだ」
朱猿は十日と経たないうちにほとんど以前どおりの言葉を喋れるようになり、二十日もすると精神的な不安定さもほとんど影を潜めた。読み書きも、ほぼ何もわかっていない状態から始めたにもかかわらず、驚異的ともいえる速さで習得していった。
どうしてそんなに早く覚えられるのかそよごが尋ねると、朱猿はあっけらかんとこう答えた。
「山で猪や熊を狙うような気持ちでやっていると、すぐに覚えられるんだ」
「朱猿は、俺たちとは違う頭の使い方をしているのかもしれんなぁ」
と、真済は感心した。
それからも真済はたびたび京に赴いて、さまざまな噂を拾ってきたが、京すずめのさえずりによると、狐面は以前にも増して野放図な猛威を振るっているらしかった。真済自身が焼け跡を見てきたことも、一度ならずあった。
「ひどいもんだったぜ。逃げ遅れた人も建物も一切合財焼けちまったそうだ」
そよごはそんな報告を聞くたびに、眉根を寄せてじっと目を閉じた。
そうこうしているうちにまた数日が過ぎ、やがて年が明けた。朱猿にもはや狂気の気色はなかった。表情にも動作にも研ぎ澄まされたすがすがしさがあった。ささやかに正月を祝うと、そよごと朱猿はすぐに庵を出る支度を始めた。
明日にはもう出立という日の宵のことである。
「おい、お前ら、大変だ」
真済が、青い顔をして帰ってきた。
「どうやら絵馬がぶっ倒れているらしい」
真済は洛中に出向く折々に、中原範政・明兼親子の屋敷近くを回るようにしていた。文を渡すのを頼んだ下女の子が機転が利く上に口も堅いので、それからもたびたび安い菓子やら果物やらを与えて絵馬の様子を探らせていたのだ。その子によると、絵馬は年末から床に臥せているということだった。
「ただの風邪だったらいいんだけど......」
そよごが額を曇らせると、
「いや、それがな......」
と、真済は小さく頭を振った。
「どうも、腹がでかくなっているらしいんだよ」。
「えっ、また......!?」
二の句が継げなかった。絵馬が妊娠しやすいことは嫌というほど知っているが、まさかこんなときにという、呆れに近い思いも湧き上がった。だが、妊娠しやすいのはべつに絵馬のせいではない。誰の責任かということになれば、それは明らかに孕ませた男のほうだ。孕ませた男とはおそらく明兼だろう。範政である可能性もなくはなかろうが、老い萎びた容貌からは、もう一花咲かせられることが起こったとはとても想像できない。
絵馬は出産に至るまでが常の女とは違って、きわめて短い。孕んだとわかってから一月もしないうちに腹が大きくなり、二月も経てば翡翠を産んでしまう。逆算すれば、絵馬はおそらく、そよごが朱猿と一緒に若狐のつくり出した屋形に閉じ込められていた真っ最中に種を仕込まれたということになる。
――いやな偶然ねぇ。
そよごは覚えず自分の下腹部に触れながら苦笑した。とうに時期を過ぎているにもかかわらず、彼女の月のものはまだ訪れていない。急激に痩せたのが原因で一時的に止まったということもありえるだろうが、何日もかけて繰り返し精を注ぎ込まれたのだから、やはり朱猿の子を孕んだのだと考えるのが自然だろう。
しかし、今そのことについて深く思いを巡らせている余裕はなかった。まずは絵馬を助け出さなければ。
「何にしても、心配だわ」
前回の出産の際、つまりそよごが朱猿を連れて三人の傀儡女に復讐を果たした際、絵馬はひどい難産だった。その後の回復にも時間がかかった。おそらく絵馬の体には、今までの出産の負担が溜まりに溜まっている。
祈るように目を閉じると、ひどく痩せ衰えていく一方で腹だけが大きくなる、少年の体を持った絵馬の姿が浮かび上がってきた。その像はなぜか、極彩色の絵具をめちゃくちゃに叩きつけたようなまがまがしさをもって描かれていた。
その晩、三人は少し早めに床に就いた。真済はともかくそよごと朱猿は、明日からはしばらくこんなふうにゆっくり休めることもなくなる。だが、いざ体を横たえてみるとそよごも朱猿もなかなか寝つけず、いちばん最初に寝息を立てたのは真済だった。
「そよご......起きてる?」
何度も寝返りをうった後に、朱猿はぽつんとそよごに話しかけた。
「何?」
「............ごめん。痛かっただろう」
「..................」
そよごは黙っていた。
――俺は、やっぱりばかだ。俺のほうから触れてはいけないことだったのかもしれない。ここにいるうちにちゃんと謝りたかったけれど、考えてみれば、そんなのは俺の勝手にすぎない。
「ごめ......」
今度はそんなことを言ってしまったことを謝ろうと口を開きかけると、そよごは自分の寝藁を出て、朱猿の寝藁に滑り込んできた。そして少し前までは当たり前にそうしていたように、その懐の中に潜った。
朱猿は驚いた。この庵に来てからというもの、そよごは必要以上に朱猿に触れようとしなかった。以前のようにこんな形で眠ろうとするなど、あまりにも思いがけないことだった。
うれしくて、朱猿は思わずそよごを抱きしめようとした。だが、その腕はそよごの背中に至るまでに、戸惑い、うろたえ、まごつき、やがて止まってしまった。
「心配? 私が痛がるんじゃないかって」
そよごが朱猿の胸に顔をうずめたまま尋ねてきた。
「うん......」
朱猿は己の節くれだった手と鋭い爪を、暗がりの中で透かし見た。
「こわい。俺はふつうよりずっと力が強いから」
今は暗くて見えないが、そよごの肌にはまだ至るところに痣や傷跡が残っている。山にいた頃だって運よくそよごや絵馬を傷つけずに済んでいただけで、その危険はきっと幾度もあったに違いなかった。
「じゃあ、私が抱いてあげる」
そよごの腕が伸びて、朱猿は首筋をかき抱かれた。細くしなる腕は、力が込められているのはわかったが、その力は朱猿にとってはあまりにも弱々しく、はかないものに感じられた。そのはかなさをいとおしく、失いたくなく思ううちに、朱猿の目からは涙がこぼれ落ちてきた。
「絵馬を助けたら、ちゃんと教えてあげるからね」
朱猿の耳元でそよごが囁いた。
「何を?」
朱猿は聞き返したが、そよごは何も答えなかった。ただ、抱きしめる腕にさらに力が込められた。
「早く終わらせてこいよ。まだ教えることは山ほど残ってるんだからな」
朝靄にそれぞれの姿が霞む中、そよごと朱猿は真済に見送られて庵を後にした。南に向かう二人は、一度振り返って手を振ったきり、あとはひたすらまっすぐに歩いていった。
洛中に入ると、二人はまず清忠の家に向かった。明兼よりも先に清忠に会うことにしたのは、絵馬の現状を少しでも早く知りたかったからだ。絵馬が孕んだというのが事実なら明兼は口を閉ざすだろうが、何かと実直で情にも厚い清忠なら何か教えてくれるかもしれない。
清忠は留守だった。家の者に聞くと、今日は左の獄(ひとや)に行ったという。油小路を北に抜けて獄を訪れると、清忠は髭面の口をあんぐり開けて飛び出してきた。
「お前ら、生きていたのか!?」
癖なのか、二人の背中を何度もバンバン叩きながら、彼はその無事を喜んでくれた。わずかではあったが、目には涙まで滲ませていた。
清忠はまた、すらすらと淀みなく話すようになった朱猿に瞠目もした。
「お前たちはいったい何をしていたんだ」
何がどんなふうに進展したのかまったくわからず目を白黒させている清忠に、そよごはまず心配をかけたことを謝り、それから朱猿に犯された部分だけは巧妙に避けて、起こったことをかいつまんで話した。
清忠も清忠で変化が見られたが、決して良い変化ではなかった。一月あまりの間に並々ならぬ苦労があったのか、彼の頬はずいぶんこけて、顔色も青黒くなっていた。
「あいつらの動きが激しくなってきたんだよ。正直、手がつけられん状態なのだ」
と、清忠は嘆息したが、問題はそれだけはないようだった。
「範政様と明兼様がな......」
聞けば、もともと胸の病に悩んでいた範政が、年末にひどく病状を悪化させたのだという。明兼は気丈に父の代わりを勤めてはいるが、尊敬して止まない父であるために、心が千々に乱れていることは傍目にも手に取るように伝わった。いや、伝わっただけならいいが、下への命令にはっきりと手落ちや疎漏が生じ始めた。ただでさえ戦々恐々としている現場は、そのためにさらに混乱をきたしている。
「あの、絵馬は......」
そよごは清忠の話が終わるのを待って尋ねてみた。範政や明兼も大変だとは思うが、やはりまず親友のことを知りたかった。
清忠は眦(まなじり)を険しくさせた。やすやすと教えるわけにはいかないと表情が語っている。そよごは、絵馬が孕んでいるかもしれないという話をすでに聞いていることを、最初に明らかにした。こうすれば清忠も喋りやすくなるに違いないという算段だった。
必死なまなざしを寄せられたこともあって、「もう知っているのなら......」と、清忠はようよう口を開いた。彼は「自分の目で確かめたわけではないのだが」と前置きしてから、知っている限りのことを教えてくれた。
「絵馬は範政様に知られないよう壺屋(※1)に閉じ込められているらしいが、こちらも体調がはかばかしくないらしい。何を食べさせても吐いてしまう、このままでは翡翠とはいえ無事に産むどころか本人の体さえ危うくなると、世話役の端女が憂いていると聞いた」
やっぱり、と暗澹とした気持ちになりながら、そよごは、
「絵馬に会えないかしら」
と、清忠の赤い狩衣の袖を掴んだ。
「絵馬に会えるかどうかはわからんが、明兼様や範政様には目通りはできるだろう。いや、むしろ会ってやってくれ。お前らが無事だったとわかれば、きっとお心も晴れるだろうから」
明兼は今日は自宅で執務しているはずだと聞いた二人は、さっそく彼の屋形に向かうことにした。清忠はまだ獄での仕事が残っているということで同行はできなかったが、二人を知らない使用人と玄関先でつまらぬ問答が起こらぬようにと簡単な文を書いてくれた。
いざ対面した明兼は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。まるで自分たちが生きていたのが気に食わなかったかのようである。もともと白い顔は安物の白粉をぶ厚く塗ったようなさらに不自然な白になっていた。疲労からきたとおぼしき小皺が、かさかさした肌のあちこちに目立っている。
「今さら何をおめおめと帰ってきた」
じろりと藪にらみする姿には鬼気と一重のものすら漂っている。
そよごは清忠にしたのと同じ説明をし、無沙汰をしたことの謝罪も付け加えた。明兼は黙って聞いていたが、話が終わると、さしたる感慨も示さないまま、
「そうか、わかった。とにかく今夜からまた放免たちに加わるように」
とだけ事務的に言い放ち、その場を去ろうとした。
「あ、あの......!」
そよごは慌てて、その背中を呼び止めた。
「絵馬は......絵馬はどうしているの? 絵馬に会わせてもらえませんか!?」
一瞬、怖いぐらいの静寂があたりを支配した。次の瞬間、戦慄や怒りや、恐れや苛立ちなどいったものが綯(な)い交ぜになって燃え上がったような凄まじい眼がそよごに向けられ、「馬鹿なことを抜かすな!」と落雷のような怒号が響き渡った。明兼はそよごに掴みかかろうとさえとしたが、朱猿がとっさにそよごをかばったことで我を取り戻したようだった。
「約束したはずだ。絵馬に見(まみ)えたくば、狐面の盗賊を壊滅させるか、首領の首を引っ提げて来い」
「そんな......会って無事を確認するぐらい、いいでしょう!」
そよごも負けずに吠えかかった。なぜここまで怒るのかわからない、という顔もしてみせる。しかし、明兼はもう聞く耳を持たなかった。
部屋を去っていった明兼は戻ってこなかった。仕方なく二人は屋形を後にした。
(続く)
※1 壺屋 : 物置に使われた離れの建物
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