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【14】育ててあげる

そよごは夢を見ていた。いや、夢なのか、うつつのうちに見ている幻なのか、よくわからない。

夢の中で彼女は朱猿の子を生んでいた。絶望にまみれての出産だった。子供は朱猿と同じ真っ赤な髪と目を持っていた。とても人間の子には見えない。このまま育てばきっと朱猿そっくりになるだろう。

子供が泣いた。いやではあるが、乳を飲ませなければならない。が、腹が空いているためか出が悪かった。何か食べ物を持ってこさせようと朱猿の名を呼んだが、どんなに呼んでも彼は現われなかった。そよごは、もしかしたらこの子は朱猿の子ではなくて、朱猿自身かもしれないと思った。

子供は泣き止まない。泣きたいのはこっちだ、と叩いてやりたくなった。化物の母になったというだけでもいっそ死んでしまいたいぐらいなのに、その上、乳を与えて育てなければいけないなんて。そのとき、そよごの胸にある考えが浮かんだ。そうだ、捨ててしまおう。大きくなる前に。まだ追ってこられないうちに。

そよごは山に入った。姉に殺されかけ、朱猿や絵馬と暮らした山だった。少し登って、眠っている子を木々の間にそっと置いた。よかった、これでまた自由になれる、ほっとして足を踏み出したとき、背後から「お母さぁん」と泣く声が聞こえた。

ぎょっとして振り向くと、子はもはや子ではなく、乞食に手を引かれた幼い日のそよご自身になっていた。

「捨てないで」

幼いそよごはそよごに泣きついた。うろたえていると、幼いそよごはみるみるうちに成長した。彼女はすぐに今のそよごと同様の姿になると、どっと倒れ付して、背中からどくどくと血を流し始めた。

「蜜女姉さん......」

血を流したそよごが、驚いて逃げようとしたそよごの足に縋りついた。

「私、姉さんのこと好きだったのに......」

血まみれの手が、脛を這い、太股をたどる。その腕は次第に太く、黒くなり、いつしか朱猿の巨根になっていた。

「きゃあぁぁぁっ!!」

悲鳴を上げて、そよごは目を覚ました。股の間に違和感を感じたので、見ると、朱猿が迫っていた。

昨日あたりから、そよごは何度も意識を失いかけていた。きっと体が度重なる極度の負担に耐え切れなくなってきたのだろう。おそらくは死も近いであろうと覚悟を決めていたが、そこへ朱猿が挑んできたのである。冥土への道ゆきも致し方なしと腹を括っていたそよごの堪忍袋の緒が、ついにぶち切れた。

「もういい加減にして!!」

そよごは痣だらけの手を振り上げると、朱猿の横っ面を打った。

一度切れるとなんだか気持ちが楽になった。どうせ死ぬのなら、何百回と犯された末に朽ちたように死ぬのも、怒った朱猿にくびり殺されるのも同じだ。

そよごはきょとんとしている朱猿に、もう一発平手を見舞った。一発だけでは朱猿がひるまなかったので、そのまま二発、三発と往復で食らわせた。すっかり体力の失われた体でするのは楽なことではなかったが、やらずには気が済まなかった。

「これ以上やられるぐらいなら、私、舌噛んで死んでやるから! そしたら永遠にさようならね! あー、せいせいするわ!」

パン、パンと乾いた小気味いい音が続く。朱猿は決して強くはないそよごの平手に、なぶられるままになっていた。

「......。............」

ふと気がつくと、朱猿の喉の奥から、何か言葉が湧き上がろうとしていた。そよごは手を止めた。

「そ......よご......」

それは、よくよく聞けば、自分の名だった。まだ喋れたのかと目を見張った刹那、朱猿は火がついたように泣き出した。

「おわぁぁぁあああん! おわぁあぁああああ!!」

声自体は野獣の雄叫びに近かったが、泣き方は幼児そのものだった。朱猿はその場にぺたりと座り込んで、涙を大雨の後の滝のようにぼろぼろと流した。あまりの大音量に、周囲の柱がわずかに振動した。

そよごは泣きわめく朱猿をしばらくぽかんと見つめていた。が、彼が舌をぴくぴくと動かして、さらに何か喋ろうとしているのを察すると、こわごわ尋ねてみた。

「ど、どうしたの? 何か言いたいことがあるの?」

言いたいことがあるのに言葉が出てこないのだろう。根気よく待っていると、朱猿は言葉らしい言葉をようよう口にした。

「な、なん......で......なんで......」
「なんで? 何が、なんでなのよ?」
「なん......で............いっちゃう......おれ、そよごと......いる......いたい......いっぱい、いっしょ......に......」

必死で話そうとするうちにだんだん思い出してきたのだろう。朱猿の言葉は次第に正しい文脈をもってつながっていった。

「......お、おいてっちゃ、やだよぅ。子(やや)は、うまれてこないし............おれ、どうしたら、いいか、わからない」

そよごは動けなくなった。呆けたようになって、朱猿の口からぽろぽろとこぼれ出てくるものに晒された。

「お母さぁん」と泣く子供の声が、どこか遠くからかすかに聞こえてきた気がした。夢の中で聞いた声だ。

――私......この気持ち、知ってる......

思うと同時に、懐かしいとだけいうにはあまりにも寂しすぎる思い出が、次々と、残酷なほど鮮やかに蘇った。

まだ幼かった自分を乞食の手に渡して去っていった母。

情け容赦のない刃で斬りつけてきた、ひそかに慕っていた姉。

先ほどの夢が、そこに薄く、淡く重なっていく。あの赤い髪の赤ん坊は、本当は何を求めて泣いていたのだろう。その泣き声が、血の一滴一滴となって体じゅうを流れていくような感覚に、そよごは捉われた。熱い血の流れは、つらい記憶から己の身を守ろうと皮膚をかたくなに覆っていた薄くて硬い氷を、内側から徐々に溶かしていくように思われた。

「朱猿......っ!」

そよごは気がつくと、朱猿を力いっぱい抱きしめていた。

彼女が抱きしめたのは、朱猿だけではなかった。それは朱猿であると同時に、母に捨てられて泣いていた幼いそよご自身であり、慕っていた姉に殺されかけた数カ月前のそよご自身だった。

朱猿が自分と離れたがっていないのは、わかっていたはずだった。だが、そよごはやっと今、その深いところに埋もれているものまで含めて、理解できたのだった。

朱猿はずいぶん長い間ぐずぐず泣いていた。その姿は、そよごの目にはもはや化物には映っていなかった。弱くて脆くて切ない、一人の小さな子供の魂そのものだった。

「朱猿、一緒にここを出よう」

そよごは朱猿の頭を撫でた。

朱猿は涙と一緒に流れ出る鼻水をすすりながら顔を上げた。

「でて......どうする」
「私、あんたを育ててあげる」

そよごは朱猿の頬を両手で包んで双眸を覗きこんだ。奥には不安げな炎がまたたいていた。

「今のままじゃ、あんたは人間の中で暮らせない。あんたは子供と同じ。心も育っていなければ、人と生きていくための知識もないからね。だから勉強するの。人とちょっと変わった姿でもかまわないってみんなに思ってもらえるように、いろんなことを覚えるの」
「よく、わからないけど......それをやったら、そよごは、いっしょにいてくれる?」
「うん。あんたがちゃんと勉強したら、これからも一緒にいられるわ」

途端に、朱猿の顔がぱっと輝いた。朱猿はいてもたってもいられなくなったように、そよごの肩にしがみついた。「じゃあ、やる!」
「絵馬を助けたら、絵馬もきっと手伝ってくれるわ」
「............えま」

朱猿ははっとしたようにそよごを見つめ返した。何かを訴えかけるように眼を見開いて、そよごを凝視している。表情が何度か、もどかしそうに歪んだ。そよごは絵馬が朱猿に歌っていた子守唄を口ずさんでやった。

「覚えているでしょう、この歌」

朱猿はじっとその歌に聞き入っていたが、やがて、ゆっくりと、今までもやもやしていたものに音で形を与えようとするかようにはっきりと発音した。「えま......」。

「そうだ、えまを、たすけなきゃ」

朱猿はそよごの手をとった。

肉欲にもがく獣の手はもうそこにはなかった。そよごの手の小ささを気づかって力の加減をしているのが、厚い手のひらを通して伝わってきた。

「行こう、朱猿。あんたと一緒だったら、私もきっとここから出られるわ」
そよごが朱猿の手を握り返すと、朱猿は深く頷いた。

ほと、ほと......ほと、ほと......。

そよごは、扉というよりは板きれと言ったほうが近い板戸を叩いた。薄い板と藁を適当に組み合わせた、簡素というにも程がある庵に立てかけられた戸だ。

蓮台野のはずれにある庵といったらここしか見当たらなかったから、真済はまちがいなくここにいるはずだ。こんな寒い夜更けに申し訳ないと心の中で何度も謝りつつもさらに戸を叩き続けると、やっと向こうのほうで人の動く気配がした。

「はいよ、今いくよ」

眠たげな真済の声が聞こえた。よかった、やはりここだった。そよごは安心して、後ろに立っている朱猿に笑いかけた。

「真済さま、夜遅くに申し訳ありません、そよごです。朱猿もいます」

隙間から訴えかけると、とたんにあちら側の動きがあわだたしくなった。板敷を踏み鳴らして駆け寄ってくる音がして、戸が勢いよく開かれた。

「お前ら......無事に出てこられたんだな、よかった」

真済はいかにも寝起きらしいむくんだ顔の目をかっと開いて、そよごと朱猿をまじまじと見つめた。

「ま、まぁとにかく入れ」

手を引くようにして、真済は二人を庵に入れた。屋内は暗かったが、真済が火を熾(おこ)すと、中の様子がありありと照らしだされた。三人も入ればいっぱいになりそうな狭い部屋には、使ったまま洗っていないのか、粥らしいもののこびりついた椀があちこち散乱している。奥のほうには一人分の寝藁が積まれており、脇の小さな文机の上には書きかけの経のようなものが広がっていた。

「こんな夜更けに、申し訳ありません」

小さな火の前に座らされたそよごは、まず深々と頭を下げた。隣では朱猿がじっと膝を抱えている。

「いや、そんなことはいいんだ」

真済は外から薪を持ってきて継ぎ足し、湯を沸かし始めた。いそいそ動いていた真済が腰を下ろすとそよごもやっと落ち着いて、さっきからずっと尋ねたかったことを口にした。

「やはりあのとき、真済さまはいらっしゃっていたんですね」
「あぁ、いた」

真済は額を曇らせて頷いた。

「お前も気づいていたんだな。助けられなくてすまなかった」
「真済さまは、あの場所がどういうところなのか、ご存知なのですか?」

と、そよごは身を乗り出した。

「こうではないかという考えがあるって程度だがな。まぁ、それは後にするとして、いったい何があったんだ。それがわからなければ始まらねぇ」

そうだ、それを最初に話しておかなければいけないだろう。そよごは真済には隠していたことも含め、今まで自分たちの身に起こったことをすべて明らかにした。姉に襲われ、死にかけていたところを朱猿に救われた顛末から始め、傀儡女殺しの罪を背負ったこと、絵馬に泣きつかれて攫ってきたこと。続いて、真済が去ってわずか数日後に捕らえられ、狐面の盗賊の追捕と引き換えに赦免を約束されたが絵馬を人質にとられたこと、彼と東市で会ったときにはすでに放免に与する身になっていたこと、二匹の狐面を追ううちに面妖な屋形に迷い込み、人の心を読む女狐にそそのかされた朱猿に陵辱される十幾日かを送ったことを説明した。そして最後に、その日々の果てに、朱猿を「育てる」決心をしたことで締めくくった。

「不思議でした。それまでは私一人で出ようとしても門がどんどん遠ざかっていったのに、朱猿に手を曳かれたら、今までのことが嘘だったみたいに、あっさり外に出られたんです」
「そうか......」

真済が頷いた。想像もしていなかった告白だったに違いない。神妙な顔つきが炭火で赤く火照ったようになっている。

二人はしばらく黙り込んだ。真済は俯きつつも、ときどき、そよごの体についた傷や痣をいたましげな眼でちらちら窺っていた。

やがて彼は額を上げた。

「絵馬が心配だな。看督長(かどのおさ)のところには戻らなくていいのか?」
「はい、本当はすぐに戻りたかったのですが、今の朱猿は元の通りには動けません。朱猿は、ずいぶん言葉を忘れてしまったんです。心も完全には落ち着いていないようで、まだ時おり、獣が怯えるような声をあげることもあります」

そよごは横に座る朱猿にそっと睫毛を向けた。

「だから、少しの間だけ、ここで朱猿を休ませてくれませんか。そう長くはならないと思うんです」

そよごはもう一度頭を下げた。それから、朝を待たずこんな夜更けにやって来たのは、昼間出歩いて放免たちに見つかって、厄介なことにならないようにしたかったためだと言い添えた。

「わかった。そういうことならたしかに朱猿を元に戻すのが先決だな。こんなあばら家でよければじっくり養生させてやれ」
「......ありがとうございます」

全身から緊張が抜けていく。表情に安堵が広がっていくのが自分でもわかった。が、真済はさらに眉をひそめた。。

「そよご、お前だって......その、なんだ、ずいぶん体が弱っているだろう。お前こそゆっくり休めよ」

真済は言いづらそうに言葉を濁した。そよごは改めて、精液がたっぷり溜まっているであろう子宮や、まだ痛みの残る膣口を意識した。屋形を出てくる前に井戸で体を洗ってきたものの、鼻がばかになったのか、精液や唾液、血液の匂いがまだ体にこびりついているような気もする。

「真済さま......」

覚えず、喉の奥から熱いものがこみ上げてきた。そよごは真済に飛びついて、泣き出した。突然のことに真済は少し戸惑ったものの、すぐに、そよごの背中を優しくぽんぽんと叩いた。

「よしよし、お前もよくがんばったな」

痩せて、数日で骨ばってしまったような気さえする背中に、真済の温かい手が心地よかった。

そよごはしばらく泣きじゃくっていたが、

「真済さま......真済さまじゃ、ないですよねぇ......!?」

こらえていたものを抑えきれなくなって、真済の胸にしがみついたまま、喉をしゃくり上げらせつつ訊いた。

「ん? 何がだよ」
「あの......わ、私たちのことを密告したのは、真済さまじゃないですよね?」

最初、真済はきょとんとしていたが、すぐに腑に落ちたらしく「あぁ、そういうことか」と笑い飛ばして、

「はは、時期からすれば疑われるのもしょうがねぇが、そりゃ、とんだとばっちりだなぁ。俺はそんなこと知らなかったし、だいたい恩を仇で返すような男じゃねぇよ」

と、安心させるようにまたそよごの背中をさすった。

あちこち破れてはいるがきれいに洗濯されているボロ布を出してくると、真済はそよごの涙を拭いてくれた。朱猿にも頬に涙の跡があったので、これも続けて拭いた。彼は二人に白湯を飲ませ、寝藁を三つに分けると、二人を押し込むようにその中に入れた。

「とにかく今日はもう寝ろ。明日の朝になったら、何か食べるものを作ってやる」
「......真済さま、疑って、ごめんなさい」

炭の匂いがゆるく漂う中、あたたかな寝藁に潜り込んで、そよごは何日かぶりに深い深い眠りについた。

(続く)

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常春 2010年より少しずつ活動開始した新米絵描きです。1988年生まれ。和モノ怪奇モノ大好物です、座右の銘は【いやらしければなんでもいいわ!】です、宜しくお願いいたします。
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12.10.30更新 | 小説  >  朱の風吹く
文=上諏訪純 | 絵=常春 |