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ニュースタイル・平安エロティカル曼荼羅4
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【16】蛇蝎の道

廊を渡って、絵馬を幽閉している壺屋に向かうと、明兼は途中で絵馬の世話を命じている端女に出くわした。女が持つ膳に視線を走らせると、椀の中の粥はほとんど減っていない。「おい」と呼び止めると、端女はぎょっとして平伏した。

「ほとんど食べていないようだが?」
「申し訳ありません。勧めたのですが、食欲がない、無理に食べても吐いてしまうから、と......」

ちっと舌打ちをすると、明兼は端女をそのままにして先を急いだ。

昼でもなお薄暗い壺屋の内で絵馬は、入り口を背にして、古畳(※1)の上に袿(うちぎ)を掛けて横たわっていた。戸の音がしても振り向かないのを見ると、眠っているのかもしれない。だが、近づいて覗き込むと、その双眸はうっすら開かれていた。

「起きていたのか」
「はい......祈っておりました」

絵馬は明兼を振り仰ぐこともなく、けだるそうに答えた。

「祈る? 何をだ」
「いろいろ......範政さまのお体が良くなりますように。それから、明兼さまが狐面の盗賊を捕らえられますように。そうして......そよごと朱猿が無事でいてくれますように、と」
「ずいぶんとたくさんあるな」
「仕方がありません。私には、もう、祈ることしかできませんもの」
「そんなことはないだろう。きちんと飯を食う、ということぐらいはできるはずだ」
「申し訳ありません。どうしても食べられないのです」
「つわりとは違うのか」

それは、これまで何度も訊いた質問だった。だが、

「さぁ......おそらく違うと思います。今まではありませんでしたから」

絵馬の答えも、やはりこれまでと変わらなかった。

「少し外に出てみるか。息が詰まるだろう」
「いいえ、万が一にでも範政さまに見つかるようなことがあったら、明兼さまがお困りになりますでしょう」
「........................」

ふと目を逸らしたらその隙に溶けてしまいそうな淡雪のような、白く薄い頬に触れると、絵馬はその手を弱々しく握り返してきた。仲間の傀儡女と化物が生きて戻ったことを話してやったらさぞ喜ぶだろうという思いが先ほどから胸を過ぎっていたが、その消え入りそうな力を受けると、明兼は口をつぐんでしまった。

「宵前にまた来る」と言い残して、明兼は壺屋を出た。もう昼時だというのに、今日片付けなければならない仕事の四分の一もまだ終わっていない。そよごと朱猿が帰ってきたことで、狐面たちへの対策も練り直さなくてはいけなくなった。だが、仕事に戻ったところで、集中などできないだろう。きっと今日もまた、実利のない焦慮に駆られるうちに一日が過ぎて行くのだ。

――どうしてこんなことになったのだろう。

厳しいまでに澄んだ冬空に吐き出すように、明兼は長くて深い溜息をついた。自分のなすべきことに真正面から精一杯取り組んできただけのはずなのに、どうしてこんな煩悶を抱えなければいけなくなったのか。

彼の人生は、ほんの数カ月前までは順風満帆のはずだった。明法家(※2)の名門・中原家の嫡子である明兼は、ゆくゆくは父の後を継いで検非違使の判官の地位を獲得するのを確かなことと目されていたし、その期待に恥じないだけの努力もしてきたつもりだった。

目下の彼の使命は、父の引退に即して、京を騒がせている狐面の盗賊団追捕を影から指揮することだった。手こずらされるのは覚悟していたが、それでもやりこなす自信はあった。だが、事態は思うようには進展してくれなかった。一撃必殺の最終兵器たる化物と傀儡女はあっさり行方不明になり、放免たちは総崩れになった。元々が罪人で、しぶしぶ勤めている連中も多かったから、脱走者も増えた。頭を痛めていたところに父の病が突然悪化した。

公私ともに進退が窮まって一月以上経ったところへ、殺されたとばかり考えていた化物と傀儡女が帰ってきた。本来なら喜ぶべきであろうが、彼は愁眉を開けなかった。傀儡女の長者がそろそろ京に帰ってくるはずだ。いや、連絡がないだけでもう京に入っているかもしれない。そよごと朱猿が彼女らに見つかるようなことがあれば、検非違使庁の、そして父の権威は地に堕ちる。

どこを取っても八方塞がりのような気がして、明兼はもう、すべてを捨てて逃げ出したくなった。しかし、もちろん逃げるわけにはいかない。敵と、戦わなくてはいけない。

――敵とは、誰だ?

明兼はふと自問した。

父の立場を守り、自らの安泰を切り拓くという目的においては、敵は狐面の盗賊だけでなく、傀儡女の長者に発見されたら自分や父の立場を貶めることになるそよごと朱猿も同様ではなかろうか。

――敵が二人以上いるのなら、共倒れにさせればよい。

そう思った途端に、明兼の体を鳥肌が覆った。

そんなことをしたら、清忠を始めとする部下はきっと彼を軽蔑するだろう。特に清忠は、そよごと朱猿を大した取調べもなく放免に加えることにもともと反対していた。これで決定的に信頼を失うこともありえる。父はしょせん背に腹は変えられぬと頷きはするだろうが、顔をしかめるに違いない。絵馬は間違いなく絶望する。そして自分も、かつて憎んでいた何かから自分をこちら側に区切っていたぎりぎりの線を、踏み越えてしまいそうな気がする。だが......。

――俺には、守らなければならないものがある。

泥に塗れても構わないと開き直れるぐらいに、強く、あるのだ。

己をどす黒いとは思わない。思ってはいけない。他の暢気に生きている連中よりも、守るべきものがはっきりしているだけだ。

明兼は、幼いころ父が子供にもわかるように簡単にしたためてくれた明法の走り書きを、冊子にして今も大切にとっておいている。父にしてみれば日々の仕事の間の手慰みがわりに書いたものに過ぎなかったかもしれないが、それを受け取ったとき、自分は父から期待をされているのだと嬉しくなった。それから二十数年、明兼は父の背をひたすら追ってきた。

廊から外を見ると、冬の乾いた風が、葉がすっかり落ちて寂しげな風情となった楓の枝に絡んでいた。風は、もうあと数枚しか残っていない枯れ葉を無残に奪っていった。

今日は残りの仕事を始める前に、あのボロボロの冊子を引っ張り出してみようと、明兼は思った。

......それから五日後の朝、絵馬は世話役の端女に抱えられ、壺屋の内でひっそりと翡翠を産んだ。


絵馬の出産と同日、昼。

「どういうことですか、そりゃあ!?」

清忠が唾を飛ばして明兼に迫った。

「それじゃ、こいつらに死んでこいと言っているようなものではありませんか!」

清忠は自分の後ろに並ぶそよごと朱猿を指して、バンと文机を叩いた。上司の前でしていい行為ではなかったが、興奮のあまりそんなことは気にも留められずにいた。

「仕方がないだろう。こいつらが一月ものあいだ姿をくらませている最中に、こちらはそれなりの被害を蒙ったのだ。こいつらにはそれを埋め合わせる義務がある。お前とて大事な部下を何人も失っただろう、清忠」
「ですが、それはこいつらのせいでは......!」

あくまでも冷酷な明兼の前に、清忠は歯ぎしりをするしかなかった。代理とはいえ、判官に逆らうわけにはいかない。

半刻前、明兼は別当の宅に清忠とそよごと朱猿を呼びつけた。狐面の盗賊追捕について打ち合わせるというので行ってみれば、下されたのはとんでもない命令だった。

「今後、狐面の盗賊との戦闘にあたっては、ほかの放免は引かせて朱猿とそよごだけで臨むように。夜警までは放免の協力があってもいいが、突入に際しては彼ら二人以外は罷(まか)りならない」

これについての明兼の言い分は、以下である。

この一月で検非違使庁は甚大な被害を受けた。直接的兵力である放免も多く亡くし、あるいは重傷を負わせている。早急な立て直しが必要だが、それは今日明日に実現できることではない。そこで立て直しを図る間、一月間の失跡の尻拭いをさせるという意味も込めて、精鋭中の精鋭である朱猿にできるだけ敵の数を減じさせる......

「いくら朱猿が強いとは言っても、二人だけなど無茶です。無茶にも程がある!」

清忠はなおも明兼に食ってかかったが、

「清忠さん」

そよごは清忠の肩に手を置いて彼を止めた。

「いいの、そう言われたら私たちはやるしかないわ」
「だが、お前......」

明兼の話を聞きながら、そよごは考えていた。明兼は要するに自分たちを消したいのだろう。理由はさまざま推測できるが、とにかく邪魔になったのだ。しかし、この状況でただ放り出す、あるいは亡き者にするというのでは効率が悪すぎる。得るものはあっても同様に失うものも多い。そこで命を賭して戦わせて、できるだけ敵の数を削らせておこうという腹なのだ。

たしかに朱猿は強い。一人で向かっていっても相当の数は叩き伏せられるに違いない。だが、清忠が憤ったようにそれにも限界はあるだろう。

それでも、絵馬を見捨てることはできない。

絵馬を置いて逃げるのを良しとすることを、朱猿に教えたくない。

しばしの沈黙の後、そよごは顔を上げた。

「明兼さま、私たちはあなたの命令に従います。でもそのかわり、ひとつだけお願いを聞いてくれませんか?」

静かに澄んだひとみが、まっすぐに明兼に向けられる。

「絵馬に会わせて下さい」

明兼の表情が、かちりと凍りついた。しかし彼は動揺を表には出さず、続けるよう促した。

「体勢が立て直されるまでの間に、私たちは死ぬかもしれません。だから絵馬に別れの挨拶をしておきたいんです」

明兼はしばらく無言だったが、やがて、眉ひとつ動かさずに答えた。

「............よかろう」

意外だった。先日の態度からすれば、多少は少し粘らなければいけないだろうと覚悟していたが、こうもあっさり承諾するとは。何かいやな予感もしたが、とにかく今は絵馬と会えることを素直に喜ぼうと、そよごは思った。

「酉の刻(※4)に、二人で俺の屋形に来るがいい」
「ありがとうございます」

別当の屋形を出ると、清忠は聞き込みがあると言って東の市に向かっていった。彼はそよごや朱猿以上に落ち込んでいた。

酉の刻まですることがないので、二人は一旦家に戻ることにした。同居している放免たちはいつものように出かけていて、中はがらんとしていた。

薄い板壁一枚を隔てて届く通りの雑踏の音が、何だかやけに大きく聞こえる。牛飼童が牛を追い立てる声、物売りがそれぞれ商っているものをがなる声、身分の高い人物が通るのか、人払いをする舎人の声、子供の喧嘩、犬の鳴き声......。何ということもなく聞き流していた日々の雑音が、今のそよごには何だかとてもいとおしく、大事なものに感じられた。

知らず知らずのうちに、涙が頬を伝っていた。

「そよご」

そよごが泣いているのに気づいた朱猿が近づいて、隣に座った。赤い髪が壁板の隙間から漏れる日光に透けて輝いている。きれいな色、と、そよごはその色に見とれた。傀儡女たちと旅をしているときによく照らされた、草原に沈んでいく夕陽の雄大な赤を思い出した。

「朱猿、勝手に決めちゃって悪かったわね」

そよごは涙を拭いて、赤い髪に触れた。髪はそよごの手の中でさらさらと流れた。

「......とは言わないわ。あんたは私に育てられているんだからね。私のいうことをきかなきゃいけないの」
「うん、俺は何があってもそよごのいうことをきくよ」

朱猿は不敵ともとれる笑顔をニッと浮かべると、表情を崩さないまま、不自然に腋を上げてみせた。

「何よ、その格好」

何ともいえない滑稽さに、そよごは意味がわからないながらも噴き出した。

「俺からやるのは怖いから、そよごのほうからぎゅーってして」
「......バカね」

そよごは笑って朱猿の背中に腕を回すと、力いっぱい大きな体を抱きしめた。


酉の刻になった。わずかな残照が西の空にほんのり窺えるばかりで、あたりはすっかり暗くなっていた。

明兼の屋形にはすでにあちこち灯がともされて、黒く煙る夜に点々と小さな光の拠点を作り出していた。

明兼は自ら手燭を持ってそよごと朱猿を迎えた。明兼には灯火に映されて廊に伸びた自分の影が、何かもう治りようのない病に冒されているもののように見えた。

そよごに「絵馬に会わせてほしい」と乞われたとき、明兼は最初、「とんでもない」と一蹴しようとした。だが、すぐに考えを変えた。......二人を見れば、絵馬も持ち直すのではないだろうか、と。

翡翠を産んでから、絵馬の衰弱はいよいよ度を増していった。何も食べないどころかほとんど口もきかなくなり、うずくまって眠ってばかりいるようになった。ひそかに医者にも診せたが、はかばかしい答えは返ってこなかった。

悩み悶えた日々の果てに、そよごの願いかけがあった。そよごと朱猿に会わせることで、絵馬を孕ませたことを知られるのは避けたかったが、こうなってしまってはもうそんなことは言っていられまい。実際、昼に、絵馬に二人が生きていることを知らせると、彼女の頬はうっすらとだが赤みを取り戻し、体全体にごくわずかながらも生気が蘇ったように感じられた。涙もはらはらとこぼした。

酉の刻で、と時間を改めたのは、清忠が確実に勤務に就いている時間を選んだためだ。清忠に立ち会われるのは何としても避けたかった。そよごと朱猿の二人だけなら、明兼が下した惨い命(めい)について絵馬の前で触れることもなかろうが、正義感の強い清忠は、絵馬に止めさせようとわざわざ口にするかもしれない。

「こっちだ」

明兼はそよごと朱猿を引き連れて、氷のように冷たい廊をひたひたと進んだ。


二人の後ろには、明兼の護衛役となっている放免の姿があった。日常から帯刀してはいるが、今日は特に二人におかしな気を起こさせないようにするためだろう、腰の太刀をいつもよりも大きなものに変えていた。

壺屋に着くと、明兼は戸の外側に掛けていた鎖をじゃらり、じゃらりと鳴らしながら外した。

中にはまず明兼が入った。屋内にはごくごく小さな灯がたった一つだけ、心もとなげに点されていた。無造作に置かれている家具や調度品の影が、ゆらゆら揺めきながら四方の壁ににじり伸びている。心配していたほど冷え込んではおらず、黴臭くもなかったことにそよごは安心したが、それでもこんな物置部屋に押し込まれた絵馬が不憫でならなかった。

部屋の中ほどには畳が敷かれており、その上にも小さな影がひとつ、これもまるで置物のように横たわっていた。

「絵馬、そよごと朱猿を連れてきたぞ」

明兼はそこに声を投げかけたが、反応はなかった。まさか、とそよごは明兼を追い越し、その影に走り寄った。

「絵馬......!?」

絵馬は反対側を向き、かすかな息を立てて眠っていた。

その面は、表情自体は穏やかだったが、あと一歩のところで死相にまで踏み込みそうな衰え方をしていた。いや、もしかしたらもう踏み込んでいるのかもしれない。かつて泣きつかれ、攫うようにして連れて行った時よりもずっとその窶れはひどく、いたましかった。薄くなりすぎた頬、くっきりと青い目の下の隈、乾いた唇......それでも本来の美しさはまだ損なわれてはいないのが、逆に哀れなようだった。

「絵馬......」

絵馬の頬のくぼみに、そよごの涙がぽたぽたとこぼれた。こんな狭いところに閉じ込められて、どれだけ心細かっただろう。いや、心細いだけではなかったはずだ。彼女はまた不埒な辱めを受け、望まぬ出産を余儀なくされたのだ。悔しさ、かなしさ、恥ずかしさ、そういったものも、溢れて止まぬほどに抱いただろう。

絵馬は本物の赤ん坊のように翡翠を抱きしめて眠っていたが、空気が変わったのに夢のうちで気づいたのか、

「そよご......?」

靄(もや)のような夢と現実の境界を越えて、うっすらと目を開いた。

(続く)

※1  古畳 : この時代は畳が敷布団がわりに使われた。
※2  明法家 : 法律家

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上諏訪純 フェティシズムと日本史と妖怪・人外と幻想文学をこよなく愛しすぎて、 全部足さずにはいられなくなった水瓶座・A型。 好きな歴史上の人物は世阿弥。
上諏訪純公式ブログ「上諏訪山→」
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常春 2010年より少しずつ活動開始した新米絵描きです。1988年生まれ。和モノ怪奇モノ大好物です、座右の銘は【いやらしければなんでもいいわ!】です、宜しくお願いいたします。
常春公式サイト=「我蛾」
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12.11.13更新 | 小説  >  朱の風吹く
文=上諏訪純 | 絵=常春 |