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【17】傀儡の意志

そよごは絵馬の手をやわらかく握りながら、自分の名を弱々しく呼んだ声に応えた。

「そうよ、私よ。朱猿もいるわ」

そよごは後ろに来ていた朱猿のほうを向いた。朱猿もしゃがんで絵馬を覗き込んだ。

「よかった、二人とも無事で......。行方不明になったと聞いたから」
「ごめんね、心配をさせてしまったのね」
「あやまらないで。あやまるのは私のほうだわ。もともと私がそよごたちについていきたいなんて言わなければ、こんなことにもならなかったんだもの。足手まといになって、本当にごめんなさい。私、のろまだから」
「絵馬、あんまりしゃべっちゃダメだ。苦しいだろう」

朱猿がそよごの手に自分の大きな手を重ねて、絵馬を止めた。その淀みのない口調に、絵馬は、

「朱猿は、何だかずいぶん、お利口になったみたいねぇ」

と、わずかに目を見開いた。

「うん、今、真済さまに読み書きをおしえてもらっているんだ」
「真済さまも、京にいらっしゃるの?」
「そうよ、真済さまも絵馬のことを心配していらっしゃるわ。だから早くここを出て、また、みんなで暮らしましょうね」
「そうね、そうしたいわ......」

絵馬はそよごから目を逸らして、まなざしをそっと、天井の闇のわだかまりへ向けた。

彼女の瞳が闇に凝らされているのではないことは、そよごにもわかった。絵馬は山での日々の思い出を......あおあおと萌える草木のにおい、柔らかな風の肌ざわりや、ふと手にした花のかわいらしさ、流れる雲の清冽さといったものを見ているにちがいなかった。絵馬は、深窓の姫君が螺鈿(らでん)のちりばめられた箱をそっと開けて、大切な人から貰った文を出し、もう何度も読み返したそれをまたも丁寧に読み返すようにひたむきな眼で、闇のはるか向こうにあるものをじっと眺めていた。

「あんなに楽しかったこと、生まれて初めてだったもの」
「じゃあ、次は生まれて二度目になるわね。朱猿は、私たちと一緒に人の中で暮らしていけるように、一生懸命勉強しているのよ。きっと前より楽しくなるわ」
「そうしたいけど......」

絵馬は静かに視線を戻した。その力のない双眸には、今にも泣き出しそうなそよごと朱猿の姿が、うっすらかかった涙の膜にさざめきながら映っていた。絵馬は二人の姿をその奥深くにまでしっかりと留めようとするように、何度かまばたきをした。長い睫毛は、飛ぶことに疲れた蝶の羽のようだった。

「でも、もうだめみたいなの......もう、体が動いてくれないの。きっと私、翡翠を産みすぎたのよ。自分でわかるの」

絵馬の寂しげな微笑を受けて、そよごはその場で泣きだしたくなった。やはり、絵馬の体には負担がかかりすぎていたのだ。そこにはまた常に深い苦しみ、悲しみも重なっていた。そんなことを繰り返して、尋常でいられるはずがないのだ。

「大丈夫よ......!」

堪えきれなくなって、そよごは絵馬の肩に縋りついた。泣き顔を見られたくなかったが、声は、どうあっても隠しようがなかった。

「朱猿が、また猪を獲ってくるから。猪の肉は薬になるのよ。食べればすぐに元気になれるわ」
「お願い、泣かないで......」

絵馬は翡翠から手を離すと、うち伏せるそよごの頭をいとおしげに何度も撫でた。

「私、よかったと思っているのよ。そよごたちが生きていることがわかったし、最後はこうやってちゃんと、翡翠を抱くことができたし」

「最後だなん......て......」言わないで、と言いたかったが、言えなかった。涙で喉が押し潰されてしまって、言葉はすべて、切なくもがく指先に変わった。

「......でもね、まだ思い残しは、あるわ」

背筋に冷えた鉄をのしりと乗せられたような感覚を覚え、そよごははっと、顔を上げた。絵馬の声に突如、重い覚悟が滲んだのが伝わったからだ。

そのときには、絵馬の眼光はぞくりとするような強いものを黒目の奥にしっかと据えて、入り口近くに立つ明兼の姿を捉えていた。

絵馬はそよごごと袿(うちぎ)を跳ね除けて、明兼を目指し飛び出した。「絵馬!」朱猿が止めようとしたが、それも間に合わなかった。

痩せ衰え、喋ることすら大儀そうだった絵馬のどこにこんな力が残っていたのか......そよごにわかったのは、ただ、絵馬は己の命と引き換えに、ほの暗い凪を切り裂く一陣の風になる道を選んだということだけだった。

その風は走った。壊れかけた傀儡が傀儡つかいの手なぐさみに弄ばれているかのような、今にも四肢があちこちに散じてしまいそうな姿で、走った。しかし、壊れかけの傀儡には壊れかけの傀儡なりの意地があったのかもしれない。その風は迅(はや)かった。そして、止まらなかった。彼女が走る距離は見ているだけでも眩暈を覚えるぐらい長かった。果てもないようにすら思われた。それでも、止まらなかった。

明兼は反射的に体をこわばらせた。しかし絵馬は明兼を狙っていたのではなかった。彼女の向かうところは、その後ろに立っていた明兼の護衛だった。

絵馬はいたましく骨ばった体で、明兼を守ろうと咄嗟に太刀に手を掛けた護衛の足にしがみついた。それから力を振り絞って、彼の太刀をともに途中まで引き抜くと、呆気にとられている顔を背後に並べて、白い頸を刃に滑らせた。

血の飛沫が散った。あたりが赤い濃霧で覆われたようになった。

そよごは、動くこともできなかった。彼女には、絵馬が微笑みながら、その深い霧の中を、どことも知れない静寂に満ちた世界に去っていくように思われた。

「絵馬、だめだ! 血を出しちゃだめだ!」

立ちすくむそよごの横を抜けて、朱猿が絵馬に駆け寄った。朱猿は、またたく間に血の海となった床にがくりと倒れた絵馬を抱えると、大きな手のひらで傷口を押さえようとした。しかし傷口は失われゆく脈をむなしく手のひらに伝えるばかりで、朱猿の指の隙間からは悲しいぐらいに鮮やかな血がとめどなく流れこぼれていった。

「だめだよぅ......そんなに血を出したら、死んじゃうよ......!」

朱猿は手のひらを離そうとしなかった。離してはだめ、と、そよごも茫と霧がかっているような頭で思った。離したら、血と一緒に絵馬の命がまるごと出てきてしまうような気がした。

「朱猿はいい子ねぇ......」

絵馬の腕が天に導かれる花茎のように震えながらすっと伸びて、朱猿の頬に触れた。花は音もなく開き、絵馬は白い曼珠沙華の指で朱猿の涙を拭った。

「優しい、いい子......あなたのことが大好きよ。これからは私の分も、そよごと仲良くしてね......」
「いやよっ!」と声を響かせたのは、やっと我を取り戻して走り寄ってきたそよごだった。
「どうして......どうしてこんなことしたのよ......! 私、絵馬が一緒じゃなきゃ、絶対にいや!」

そよごはその場に泣き崩れた。膝も、裾も、腕も、髪も、伏せた額も、まだ熱い血でびっしょりと濡れた。

「そよご、ごめんね......でも、これでもう足出まといにはならないから......逃げて」

絵馬はこちらを向いて満足そうに笑っていた。そのとき、やっとそよごは気がついた。

絵馬は放っておけば自然に絶えていくであろう残り少ない命を惜しむことをせずに、わざと、二人の前で命を断ってみせたのだ。もしも自分が死んだことが二人が伝わらなければ、二人は明兼に騙され、普通の放免が晒されるよりずっと酷い危機に晒され続けるかもしれないから。

「そよご、朱猿......今まで、ありがとう......」
「そんな......絵馬......」

絵馬の瞼が、閉じられていく。絵馬が、永遠に失われていこうとしている。そよごは絵馬が行こうとしている場所に彼女を決して行かせまいと、その手にしがみついた。

「絵馬......絵馬ぁ......」

しかし絵馬が、かすれ、空気に溶け込んでいきそうな声で最後に呼んだのは、「彼」の名だった。

「............明兼さま」

明兼はうろたえた。嬉しそうだというにはあまりにも悲しそうな色が、紅潮の上に波紋のように広がった。

が、すぐに意を決すると、そよごと朱猿と並んで、絵馬の元にひざまずいた。

「ひとつだけ、大事なことを......申し上げたいのです......」
「あ、あぁ......何だ......」

明兼は絵馬の唇に耳を寄せた。薄い瞼は、もう、閉じられていた。明兼だけでなく、そよごも朱猿も耳を傾けた。

その言葉は、明兼にとって生涯忘れられぬものになった。今日と同じ寒い冬が巡り来て、風に落ち葉がはかなく舞い落ちるのを眺めたときだけではなく、また、宴を彩る傀儡女や遊女や、心根の優しい田舎娘といった絵馬の姿が重なる存在に偶然見(まみ)えたときだけでもない。今日より後、絵馬を思い起こさせるよすががまるでなかったとしても、あらゆる事に寄せ、人に寄せ、その一言は前ぶれもなく突然やってきては、彼の頭蓋をわし掴むようになった。そして、彼が呪われていることを証明するかのように、その空洞でこだまするのだった。

絵馬は、こう言った。

「死ね」


明兼は自室でひとり、横たわっていた。耳たぶにまだ、絵馬の乾いた唇の感触が残っている。どんなに時間が経っても、この感触はずっと肌に、心に、残り続けるだろう。

絵馬は、何を、どこまで知っていたのだろう。ひょっとして彼女は、明兼が、そよごと朱猿を狐面の盗賊と共倒れにさせようと画策していることをわかっていたのではあるまいか。世話役の端女と自分以外近づけないようにしていたが、その端女がどこかで明兼の企てを聞きつけて漏らしたとも限らないし、絵馬を慕っていた誰かがこっそり壺屋に忍び込んだということもありえなくはない。だからこそ、彼女は明兼を深く憎んだのではないだろうか。

だが、それももう、どんなに考えても詮のないことになった。

「絵馬......」

呟いたが、いつも隣で「はい......」と恥ずかしそうに答えていた白芙蓉の婉然たる憂いは、もうそこにはない。

そのかわりに明兼のもとに近づいてきたのは、絵馬の末期の囁きだった。死ね......死ね......。かすれた声は少しずつ音量を増しながら、やがて頭上の闇一面に響き渡った。そしてどこまでも広がったかと思えば、また一点に収縮し、定まらぬ形で明兼を翻弄した。

――お前はそれほどまでに、俺を憎悪していたというのか。

明兼が来たことに気づく一瞬前の横顔、白梅が咲きほころんだような微笑、唇を重ねようとしたときの、震える唇の熱さとやわらかさ、抱かれることを拒めども執念(しゅうね)く絡みついてきた黒髪、それがしどけなく流れた観音像のような肩の線。平らな胸とそれをつつましく飾る桜の蕾のような乳首は、どんなに淫らな寝姿を強制されても決して汚れない彼女の潔癖をあらわしているかのようだった。

そういったものが、「死ね」のこだまに、突き崩され、割れ壊され、その破片が次々と胸に刺さっていく。きっとこの破片は生涯胸の内から抜け落ちることはない、そう思うまでに、鋭く、深く。

明兼は絵馬が産んだ翡翠を握り締めると、声を殺して、泣いた。


同じ頃、そよごと朱猿もまた、その囁きを繰り返し胸に迫らせていた。

二人は明兼の家に留め置かれていた。その間には、もの言わなくなった絵馬が横たわっている。最後ぐらいは明兼の手から離れさせてやりたくて、無理を通して自分たちの部屋に連れてきたのだ。

そよごにも朱猿にも、心の奥にはまだ、絵馬が死んだとはどこか信じられない気持ちがあった。体が丈夫ではない絵馬は、日ごろから血の気のない肌をしていた。朝になれば、今、目の前に横たわる体が「ずいぶんよく寝たわ」などと欠伸をしながらむくりと起き上がるような気もしたし、あるいはこの絵馬は、今夜の空にやっとひっかかった下弦の月のさやかな月光が凝ってできた幻で、こうしているとどこからか本物の絵馬がやってきて、「まぁ、私にそっくりね」と驚くのではないかという気もした。

だが、首すじの深く痛ましい傷が目に入れば、また現実に引き戻される。傷口はすでに黒っぽく固まり、そのあたりの肌はかすかに収斂を始めてさえいる。やはり絵馬はもうこの世のものではなくなったのだという絶望を、もうふさがることのない傷に視線を落とすたびに、二人は無言のうちに分かち合った。

しかし、そんな中でそよごはこうも考えていた。優しいだけに他人の食い物になることばかりだった絵馬が、人生の終焉においてではあるが、やっと己の運命を否定し、攻撃しようとする激しい憎しみのこもった言葉を吐くことができたのは、不幸の中にようやく差したひとすじの光明だったのではないか、と。

悲劇を一方的に演じるばかりだった絵馬が、最後の最後に、誰も揺るがせにできない自らの意気を貫いたのだ。そよごはそこに一抹の爽快感を覚えさえした。

もしも絵馬が誰も恨まず何を憎みもせず、美しくはかないだけの存在としてみまかっていたら、そよごの胸は悲しさだけでなく、より大きな寂しさや空しさで満ちていたかもしれない。

だが朱猿のほうはちがった。

「絵馬が、あんなことまで言うなんて......どれだけつらかったんだろう」

朱猿は放心して同じことばかりを繰り返していた。その姿は、一度覚えた読み書きや理性をまた失ってしまうのではないかとそよごが危惧してしまうほどだった。

だからそよごは、朱猿が最初にこう言い出したとき、純度の高い悲しみに突き動かされて、また狂ったのかもしれないと思った。

「俺は逃げない。このまま狐と戦う」
「どうしてよ!? 絵馬は私たちに逃げるよう、命を賭けて伝えてきたのよ!」

そよごは驚いて詰め寄った。

「たしかに清忠さんや、ほかの放免たちも心配ではあるけれど、あの人たちは少なくとも私たちよりは酷い目には遭わないでしょう。それに......」

そよごは何とか説得をしようとした。そんなことをしたら絵馬の死が無駄になってしまう。

が、朱猿は冷静だったし、狂ってもいなかった。朱猿は、「それもあるけど......」と、落ち着いた声色でそよごを遮った。

「俺は、絵馬の産んだ翡翠がほしいんだ」

(続く)

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常春 2010年より少しずつ活動開始した新米絵描きです。1988年生まれ。和モノ怪奇モノ大好物です、座右の銘は【いやらしければなんでもいいわ!】です、宜しくお願いいたします。
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12.11.20更新 | 小説  >  朱の風吹く
文=上諏訪純 | 絵=常春 |