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【18】かなしき翡翠

「絵馬の翡翠がほしい......?」

そよごは朱猿の言葉を繰り返した。

翡翠はほとんどどさくさに紛れたような形で明兼が持っていった。そよごも朱猿もしばらくは壺屋で魂が抜けたようになっていたから、そのことには気がつかずにいた。

「うまく言えないけど......翡翠は、絵馬が生きていた証だから」

しん、と夜が一段深まったように感じられた。

そよごは畳に載った絵馬の薄い体をもう一度眺めた。そうして長い睫毛や、頬や、桜貝のような瞼、真珠を練ったような胸元の奥についさっきまでみずみずしく息づいていた、彼女の悲しみや喜びといったものに思いを馳せた。それからしとやかな濃緑色を瞼に浮かべたとき、彼女に愛されて産まれてきた翡翠は、それらがそのまま形になったものだという気がした。

「絵馬が......生きた証......」

そよごは呟いた。

「明兼さまに頼んでみる。狐と戦うから翡翠を下さいって。あの人は断われないだろう」
「だけど......」

それでも、そよごは首を縦に振れなかった。朱猿が言いたいことはわかる。わかるだけに、そよごだってできることなら翡翠がほしい。が、そのために、自分はともかく朱猿の身を危険に晒すことは避けたかった。そんなことをしたら絵馬に申し訳が立たない。

「俺、もう絵馬を誰かの勝手にはさせたくないんだ。翡翠は俺たちが持ってなくちゃいけないと思うんだ」

朱猿はそよごをじっと覗き込んだ。彼は前のめりになってそよごに訴えかけていた。その目はもはや、山で百獣と渡り合う化物の平坦な目ではなかった。小羊のようにか弱く、苦悩し、飢えておろおろする人間の目、だがその弱い人間が必死に強い意志を掲げようとするときの目だった。

「......私、育て方を間違えたかしら」

朱猿のまなざしを真正面から受け止めていたそよごは、しばらくして、細く長い溜息をついた。

「ちょっと反省しているわ。あんたがわざわざ死にに行くようなことを言い出すようになるなんて」
「ごめん、俺は......」

朱猿は俯いた。何か言おうとしてはまたうなだれることを繰り返した。

そよごは肩を落として微笑した。「そよごのいうことは何でもきく」なんて言った癖に、その舌の根も乾かないうちじゃないの、ずいぶん偉くなったものね、そんなふうに言って困らせてやりたかった。

「あんたはもう化物なんかじゃない。人よりもずっと人らしいわ。だから、私が止めても行くんでしょう」
「そよご......」

突然、そよごはすすり泣き始めた。もう涙は枯れ果てたと思っていたのに、どこにこんなに溜まっていたのか、不思議だった。

「私、今、嬉しいのか悲しいのかわからない。あんたの言っていることはわかるし、そんなふうに言えるようになったことは嬉しい。私も本当はそうしたい。でも、絵馬の思いも裏切れない。私......、どうしたらいいのか、わからないの」

そよごは背中を震わせながら、両手で顔を覆った。嗚咽が徐々に大きくなっていく。

「そよごは逃げるか、隠れるかしていてくれ。どこでもいい、安全なところに。そうして、もし俺が死んだら、翡翠はそよごが受け取ってくれ」
「いやよっ!」

今度はそよごが身を乗り出す番だった。

「私はあんたから離れない。あんたと一緒にいる」

冬の真夜中は二人の声のほかにはどんな音もない。ただ、鋭いまでに澄んだ夜気で一切のものを包んでしんと静まり返っているばかりだ。絵馬の胸の上に落ちたそよごの涙もまた、薄紅色の衣にひっそりと吸い込まれていった。

「......私がいなくなったら、誰があんたを育てるのよ!」

そよごはたまらなくなって、横たわる絵馬を越えて、朱猿の首っ玉に抱きついた。

朱猿は困惑した。

が、やがて何か決心して、飛び込んできたそよごを抱きしめた。朱猿は最初はおどおどしていたが、そよごが痛がっていないとわかると、もうほんの少しだけ腕に力を込めた。

朱猿は諭すように、静かに言った。

「......じゃあ、これだけやくそくしてくれ。俺が外で狐を狩っている間は、そよごは家の中でまっててくれるって」
「............いや......」
「おねがいだよ。いっしょにいたら、俺、そよごを守りきれるかどうかわからないんだ」
「........................」
「二人ともどうかなっちゃったら、絵馬も極楽で泣くに泣けないだろう?」
「............わかった......」

そよごは朱猿の肩に額を押しつけたまま、頷いた。

その夜、そよごと朱猿は、絵馬を真ん中にして久しぶりに三人で並んで寝た。だがあくまでも横になっただけで、二人とも一睡もすることはできなかった。二人は明け方まですっかり冷たくなった絵馬の手を両側からじっと握っていた。


翌朝、朱猿が昨夜の決心......絵馬が産んだ翡翠と引き換えに狐面の盗賊と戦うこと、を明兼に話すと、彼は憔悴した顔を心もち上げて、すぐに承諾した。

朱猿はさらに、絵馬のことがあった以上、今回の「人質」は明兼の好き勝手にはできないところに置いておいてほしいとも付け加えた。かなりあけすけな物言いだったので、そよごは明兼が怒るかと思ったが、明兼はあっさり清忠を呼びつけた。

「清忠、これはお前の家の、櫃の中にでもしまっておいてくれ」

約一刻の後に明兼の邸に訪れた清忠は、とつぜん翡翠を渡されて当惑した。それから初めて、絵馬が死んだことを知らされた。

「これでいいのだろう」

明兼がもはや見るのも痛ましげな、最後にようやっと搾り出したような尊大さで朱猿とそよごを振り返ると、二人は黙って頷いた。

昼になる前に三人は明兼の屋形を出た。昨日のちょうど今ぐらいの時刻に、これからやっと絵馬に会えるのだと胸を躍らせて同じ門をくぐったことを、そよごも朱猿もわざわざ口にはしないまでも思い返した。その絵馬は今、朱猿の背で筵に包まれ、二度と開かぬ瞼でとこしえの眠りについている。

明兼は葬儀は自分が行なうと申し出たが、冷たくなった躯とはいえ、いや、冷たくなった躯だからこそ、もう絵馬に触れてほしくなかった。「馴染みだった僧がおりますので、絵馬もその僧に回向してもらったほうが喜びますでしょう」とそよごが断わると、明兼は「そうか」と嘆息したきり、それ以上は食い下がらなかった。彼はそのまま落とした肩を何かに引っ張られるようにして暗い廊の奥に消えていったが、しばらくすると家人がやってきて、「お弔いにお役立て下さいと、主人が」といくばくかの金子を渡してきた。おそらくはそれが、明兼が絵馬と彼自身に対してできる精一杯のことだったのだろう。

清忠は二人と京の出口にほど近い小路で別れるまで、何度「この翡翠を持っていけ」と言い出しそうになったかわからなかった。今の状況で朱猿を失うのはつらいが、明兼のやり方にも大いに反発があった。だが、彼は結局、最後まで話を切り出すことができなかった。清忠には清忠で、守っていかなければならないものがあった。部下の命、京の名もなき民の安寧、明兼だけではない上司からの信頼や己の立場、それによって養っていく家族......それらは己一個の正義感では、どうしようもできないことばかりだった。

「しっかり回向してやれよ」

清忠は蓮台野に行くという二人に向かって合掌したが、その後に、今夜の見回りの時間を伝えるのも忘れなかった。


蓮台野に着くと、真済は留守だった。しかし二人で並んで庵の入り口で待っていると、四半刻も経たないうちに戻ってきた。

「......そりゃあ......絵馬か......?」

真済は朱猿が抱いている、だらりと力の抜けきった、もはや単に白というのでは足りないほどの白となった手足を見るなり、眦(まなじり)をこわばらせて走り寄ってきた。

「何だよ、こりゃあ!」

真済は朱猿から絵馬を奪い取るようにして抱えた。と、そこだけ別の何かのように皮膚が縮まり、覗く赤い肉も干からび始めた首筋の切り傷を、ものすごい眼で睨みつけた。

「......殺されたのか?」
「......いいえ」

そよごは訥々と、絵馬の身にどんな運命が降りかかったかを真済に伝えた。


睦月にしてはずいぶん暖かい日差しを体いっぱいに浴びながら、絵馬は、真済の庵の裏にあった小高い丘にそっと埋められた。

「やっぱり、翡翠を取り戻さないとな」

冬枯れの野には花もなく、仕方なく南天の実の鮮やかな赤で飾ってやると、絵馬の肌はほんのり赤みが差して見えた。そこにひとすくい、ひとすくい、丁寧に土をかけながら、朱猿は自分に言い聞かせるように呟いた。

「......どういうことだよ?」

その呟きにただならぬものを感じ取ったのであろう、すかさず真済が問い質した。朱猿は昨夜の問答を今度は真済との間に交わし、当然、真済は止めた。だが、最後には真済のほうが折れたことも、昨夜と同じだった。

「わからずやめ! もう勝手にしろ!」

真済はついにそう怒鳴った。怒りのあまり、頭頂からは今にも湯気が立ち昇りそうなほどだった。それでもなお、朱猿は考えを曲げなかった。

こうなったらもう、なすすべはなかった。真済が経を読んだ後、三人は後味の悪さを鬱々と抱えたまま別れようとしたが、しかし、傾く日差しを横っ面に受けて洛中へ戻ろうとする二人のうち、真済はそよごだけを呼び止めた。そして、

「あいつがあんなに頑固だとは思わなかった。仕方がねぇ、俺もできるだけ早く手伝いに行くから、それまで踏ん張らせといてくれ」

と耳打ちした。

「真済さまが?」

そよごはきょとんとして真済を見上げた。

「いったい、何をなさるって言うんです?」

そよごの視線には訝しげなものも宿っていないではなかった。真済が朱猿のように戦えるとは思えないし、へんげのような術でも施してくれるとでもいうのだろうか。

「まぁ、いないよりはましっていう程度のことだよ」

とだけ、真済は答えた。


その夜いきなり、朱猿は狐面の盗賊たちに出くわした。

清忠は何人かの方面を連れて、見回りまでは一緒についてきてくれた。それが彼にできるただひとつの正義感の示し方だったようだし、実際、朱猿も助かる部分がないではなかった。自分が狐面たちの中に飛び込んでいって帰ってこなかったときは、すぐにそよごに伝えてもらうことができる。もしかしたら屍も運んでもらえるかもしれない。そよごを無駄に待たせる心配が無用になったことは、ありがたかった。それから、もしも自分が死んだら翡翠を確実にそよごに渡してくれるよう、直接頼んでおけたのもよかった。

「火と油の匂いがするな」

今夜は有明の月のはずだが、時間が早いためまだ上っていない。朱猿はその月のありかを匂いで探り当てようとするかのように、星しか散っていない空に向けて鼻をひくひくさせた。

「近いのか」

清忠が尋ねると、朱猿は「たぶん」と答えて駆け出した。角をいくつか曲がると、そう大きくはないが新しい構えの屋敷から小さな火が上がっているのが見えた。狐面たちの「仕事」は始まったばかりのようだった。

「じゃ、行ってくる」

朱猿は何とか追いついてきた清忠に、まるでちょっとそこに買い物か何かの用を足しに出かけるような口ぶりで言い残すと、清忠が言葉を返すのも待たずにひらりと築地を飛び越えた。

入ってすぐに離れの小さな屋に上がろうとしていた狐を二匹見つけ、一匹は殴り殺し、もう一匹は殺した狐が持っていた大太刀を奪って斬り殺した。彼らの周囲にはすでに宿居の侍の死体がいくつか転がっていた。奥の母屋のほうからは早くも女の悲鳴や野太い断末魔などが聞こえてきている。あたりには黒煙も漂い始めた。朱猿は混乱の気配が濃いほうに走った。

家の者たちはすでに大方が殺されていた。老人、子供、男、女、主人から下仕え、女童に至るまで、誰もが容赦されず斬り捨てられていた。まずは邪魔する者を排除し、それから落ち着いて金品を運び出し、最後に家屋を一斉に燃やしてしまうというのが奴らのやり方のようだった。

朱猿はさらに主人の寝室から唐櫃 (からびつ) を運び出そうとしていた狐面を斬り、そいつがあげた悲鳴で集まってきた狐面を立て続けに三人殺した。最後の一人はそこそこ強かった。そいつは朱猿の太刀をかわすと、ひと槍を朱猿のわき腹に突き入れてきた。幸い深い傷にはならずかすった程度で済んだが、こういう傷が蓄積していくであろうことを考えると、恐ろしい気がした。

――これで六匹......

朱猿は殺した狐の数を指を折って数えた。いったいここには何匹の狐がいるのだろう。いや、雑魚なら何匹いてもたいして怖くはないが、もしもあの瑠璃色の狐面が出てきたら......。

なぜかそよごがやけに気にしていた瑠璃の狐、あいつは強かった。蹴りを繰り出されたとき、まったく読めずに真正面から食らったことを朱猿は覚えている。あいつと戦わなければいけなくなったら面倒なことになりそうだ。

「まさか、あそこから戻ってこられたなんて」

不意に背後で響いた玲瓏とした声に、朱猿は振り返った。聞き覚えのある声......そこには忘れもしない、忘れもできないあの若狐の女が立っていた。隣には瑠璃の面の狐もいる。思いを巡らせた途端に出てくるなんて、と、朱猿は己の勘のよさを呪いたくなった。

「久しぶりね、赤髪鬼。私のこと、覚えている?」
「............忘れるわけないだろう」
「あそこから出てきたなんて、ずいぶんがんばったのね。あの娘はどうなったの? ふふ、殺しちゃった?」

朱猿は押し黙って、じりじりと間合いを詰めた。どんなことでも反応を見せたら、そこにつけこまれそうな気がする。

が、あと一歩で踏み込めるところまで間合いを詰めたとき、その間合いを先に生かしたのは瑠璃の狐のほうだった。瑠璃の狐はいきなり、朱猿の足を狙って持っていた太刀を薙いだ。

「ちっ!!」

舌打ちして飛びすさったが、瑠璃の狐の太刀すじは早く、正確だった。脛がすっぱりと斬られ、血が噴き出す。瑠璃の狐はそのまま間髪入れず朱猿に飛びかかってきた。だが今度は朱猿のほうが相手の意表をつくことに成功した。朱猿は太刀を瑠璃の狐に向かって投げつけると、彼が避けた拍子を利用して両手で首を絞め上げた。ぐふっ、と瑠璃の狐が苦しげな声を仮面の下から漏らす。このまま息が絶えるまで締め続けてやろうとしたが、彼がまだ太刀を握っていることに気が付いて、慌てて正面の柱に投げつけた。

朱猿の予測は正しかった。投げる寸前、瑠璃の狐の太刀の切っ先が朱猿の胸をかすめた。もしも行動を起こすのがあとほんの一瞬でも遅れていたら、朱猿の胸は真紅に染まっていただろう。

瑠璃の狐が投げつけられた柱はものすごい音を立ててへし折れ、あたりにばっと木屑が舞った。

――よし、いける!

朱猿はとどめを刺すべく吹っ飛んだ体を追ったが、瑠璃の狐はよろめきながらも素早く起き上がると、振り下ろされた朱猿の爪をすんでのところで太刀で受け流した。

「早ぇよっ!!!」

朱猿は怒鳴って、急いでもう一度体勢を立て直そうとした。するととつぜん、四方から狐の鳴き交わしが聞こえてきた。

こん、けん、こーん......けん、こん。

朱猿も瑠璃の狐もはっと動きを止めた。朱猿には源の窺い知れぬ緊張感が、瑠璃の狐の体に走ったのがわかった。けんけん、けーん、こーん、こん......煙をかいくぐって、それは暗号のように交わされ続けている。

「時間だわ、残念だけど」

若狐は面を上げて耳を澄ましていたが、やがておもむろに水干の袖をひらりと翻し、朱猿に背を向けた。瑠璃の狐も、一瞬気が抜けた朱猿の腹に蹴りを食らわせると、すぐに若狐についていった。

「やっぱり邪魔だわ、お前。何か別の手を考えなければね」

若狐は朱猿に冷たい一瞥を残すと、瑠璃の狐とともに建物の影から影を滑り渡るように消えていった。

(続く)

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常春 2010年より少しずつ活動開始した新米絵描きです。1988年生まれ。和モノ怪奇モノ大好物です、座右の銘は【いやらしければなんでもいいわ!】です、宜しくお願いいたします。
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12.11.27更新 | 小説  >  朱の風吹く
文=上諏訪純 | 絵=常春 |