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New Style Heian Erotical Mandara [Ake no kaze fuku]
人の形をしてはいるが、常の人のなりではない。化生(けしょう)か、あるいは魔性か――。今昔物語を題材にとり、人の世から外れた者たちの凄絶な闘いを描く空前の平安エロティカル曼荼羅。話題作「口中の獄」と接続する、妖と美が渦巻く異端の世界とは。作家・上諏訪純と絵師・常春のカップリングでお届けする待望のアブノーマル・ノベル第4弾!!それから何度か、朱猿は狐面たちに見(まみ)えた。若狐と瑠璃の狐に遭遇することはなかったが、二人以外の狐面にも手ごわい相手はおり、朱猿の傷は日に日に増えていった。会うたびに数匹は仕留めることができても、回を追うごとに状況は厳しくなっていく。それは単に肉体的な疲労や手傷に終始する問題ではなかった。刀刃を合わせる回数が増えれば増えるほど、相手は朱猿の動きや戦い方の癖を覚え、それに応じた作戦をとってくる。最初から悪かった分は、さらに悪くなる一方だった。
――あと何回がんばれるかなぁ。
朱猿には、暗黒一色でしかない自分の行く先が容易に想像できた。
――もって三回ぐらいかな。
あまりにも希望がないせいか、まるで他人のことのように冷静に考えられる。清忠が「翡翠は何があっても必ずそよごに渡してやる」と約束してくれて、自分の生命にあまり執着がなくなったせいもあるかもしれない。瑠璃の狐だけは何としてでも叩き伏せたかったが、最近ではそれも難しいかもしれないと感じ始めていた。
そんなある一日の、昼過ぎのことだった。
「ご、ごめんっ!」
玄関の戸を開いたそよごと朱猿の同居人の乙犬丸は、その先の板の間に広がっていた光景を目にしてしばらく呆然としていたが、我に返るや否や叫ぶように謝ると、慌てて戸を閉めた。
乙犬丸が見たのは、朱猿とそよごのあられもない姿だった。大きく開かれたそよごの脚が激しく前後する朱猿の腰になやましく絡みつき、その腕は狂おしげに朱猿の背中を掻きむしっていた。朱猿は人並み外れて大きいしそよごは華奢なほうだから、まるで朱猿がそよごをいじめるような形になっていたが、決して強引にしているわけではないのはそよごの表情と声から察せられた。
二人は乙犬丸が戸を開けたことに気づかなかったようだった。気がつかれたのは乙犬丸が自ら声をあげたからだ。
乙犬丸は耳まで熱くしたまま戸の前に立ちすくんだ。心臓が早鐘を打つように鳴っている。市中を見回る任務の途中で忘れ物を取りに帰ってきたのだが、このまま何事もなかったかのように戻るのは無理だ。少し心を鎮めないといけない。まだ十七歳の乙犬丸にとってはただ男女が睦み合っていたというだけでも十分刺激的なのに、朱猿の巨根と、そよごが傀儡女であるということと、それから今が真っ昼間だということが、その刺激をさらに強烈なものにしていた。
――重遠が言っていたことは本当だったんだ。
彼は胸に手を当てながら、もうひとりの同居人が話していたことを思い出した。
狐面の盗賊の追捕が朱猿だけの仕事になってからというもの、そよごと朱猿は同居人がいない昼の間に家で交歓に耽っているというのだ。
「嘘だと思うんなら、こっそり覗きに行ってみろよ。俺はもう何度か見た」
重遠は得意げに言い、さらにこんなことも付け足した。
「朱猿が明け方に返り血まみれで帰ってきたときにさ、あの二人、この寒いのに外で、家の影に隠れてやってたんだよ。俺たちが出て行くのが待ちきれなかったんだろうな」
重遠は半分は笑いものにするような、半分は嫌悪感を含んだ調子で語っていたが、乙犬丸はそうは捉えたくなかった。彼はまだ女性と肉体の交渉を持ったことはなかったが、それでも、そよごの気持ちも朱猿の気持ちもわかるような気がした。二人がそういう仲だったこと自体は意外だったが、とにかく、突然「死にに行け」と言われるのとほぼ同義語のようなつらい任を下されて、毎夜毎夜、今日こそは死ぬかもしれないと覚悟しながら一方は出て行き、一方は送り出すのだ。そんな中での「あれ」は、お互いが生きていることをより深く確かめ合う切ない行為なのだと思いたかった。二人のその姿を目の当たりにしてしまった今は、なおさらである。
「ごめん乙犬丸。何か忘れ物?」
急に後ろの戸が開き、そよごが顔を出したので、乙犬丸は飛び上がりそうになった。
そよごの衣の襟元には、急いで袖を通したのであろう慌しさが残っていた。頬はまだほんのり上気しており、目元も熱っぽく潤んでいる。髪で隠そうとはしているが、よく見れば首すじもところどころ赤く染まり、多少汗ばんでいるようだ。
「い、いやっ、たた、大したものじゃないんだっ!」
鼻をくすぐってくる、女の肌の匂いと男の精の匂いが混ざり合ったものを振り払おうとするかのように、乙犬丸は大袈裟なほど大きく首を振った。
「取ってこようか?」
「い、いいっ! いらないっ!」
乙犬丸はそのまま振り返りもせずに、逃げるように走り去っていった。
「......ごめん」
そよごは土煙を上げながら遠ざかる乙犬丸の、まだ細い肩の線に呟いた。重遠が自分たちのしていることに勘づいているのは知っていた。彼らの家でもあるのだから当たり前だろうが、重遠はあまり快くは思っていないらしく、最近、そよごや朱猿と話すときには、やけに嫌味っぽいことを言ってくる。乙犬丸のほうには気づかれていないことが幸いだと思っていたが、これでご破算になってしまった。
近頃、朱猿はそよごを狂ったように求めるし、そよごもまたそれに応えている。いや、求めているのはそよごで、朱猿が応じているのかもしれない。疲労が激しいときや傷が深いときにはそよごもさすがに止めるが、癒えればすぐに体を重ねた。そもそも最初に情念をあらわに示したのは、どちらだったろうか。だが、どちらがどちらでも、もはやどうでもいいような気がした。
子ができているかどうかは、まだわからないままだ。今もなおそよごに月のものは訪れていない。が、もしもできていたなら生みたいと、今は思っている。
「朱猿......!」
たとえわずかな時間でも朱猿の肌から肌が離れたことに、そよごは息苦しいほどの疼きを感じた。体の芯が朱猿を欲して燃えるようだ。あんなにも苦しく、つらく、一時は死んだほうがましだとさえ忌み嫌っていたことを、今はいつでもしていたい。そよごは急いで部屋に戻ると、半身を起こしていた朱猿の唇に唇を押しつけ、その体を自分から押し倒した。
しかし、今日はどうにも「そういう」運に見放されているらしかった。そよごが朱猿を受け入れようと再び女体を甘くわななかせたとき......それこそ乙犬丸が出て行ってから数分と経たないうちに、またも誰か招かれざる客がやって来て、今度はとん、とんと戸を叩いた。
「もう、何なのよ、今日は」
そよごは怒ったような、呆れたような面持ちでそちらを睨みつけた。乙犬丸が帰ってきたのだとは思えないし、重遠だとしたら戸を叩くなどと他人行儀なことはせずいきなり入ってくるだろう。居留守を使おうかとも考えたが、すぐに、こんなところにわざわざ訪ねてくる相手は誰なのかという好奇心と不安がその計画を打ち消した。
「はぁーい、ただいま参りますー」
そよごはもう一度着物を纏い、腰紐を締めながら戸に向かって返事をした。
「こういうのって何ていうんだっけ......えっと、せんきゃく......?」
「万来っ!」
暢気な質問をしてくる朱猿につい苛だちながら、「ほら、あんたも急いで。誰だかわからないけど、裸で迎えるわけにはいかないんだから」と衣を羽織らせる。
朱猿が人前に出られる格好になったことを確認すると、そよごは玄関に駆け寄って戸に手を掛けた。戸が開き、表の陽光が内に差し込むのに比例して、その表情は驚きを増していった。
「......真済......さま?」
「よう、待たせたな。助けに来たぜ」
それはたしかに、真済に相違なかった。顔は半分以上笠で隠れていたが、少なくともそこから覗く目鼻と声は真済のものだった。だが、その皮膚はそよごたちの知っている彼とは比べ物にならないほど黒く、開いた口は鮮血のしたたりを思い起こさせる真紅をしていた。唇の上下脇からは長く鋭い牙まで覗いている。黒い皮膚の中で、充血しながらも爛々と強い光を放っている目。背丈もひと回り以上でかくなっていた。
人間というよりも、化物に近い。何ともいえないまがまがしい雰囲気が、今の彼にはあった。
「えっ、真済さまが!? うわっ............!!」
そよごの呟きを聞きつけて奥から出てきた朱猿も、また立ちすくんで絶句した。
「まったく、こんな皮膚の色になっちまったせいか、お前たちの居所を探り当てるのが大変だったぜ。誰に聞いても逃げ出しちまうしな。......って、おいおい、お前たちまでそんな顔をするこたぁねぇだろう。姿かたちがちょっと変わったからって、そんなにあからさまにぽかんとするもんじゃねぇよ」
真済は自らのまがまがしさを吹き飛ばすかのように、カラカラと陽気な声で笑った。
そよごはその笑い声を聞くともなく聞きながら、かつて彼が岩窟で語っていた昔語りを思い出した。二百年以上前に、鬼と化して想いを寄せた后と契り合ったという僧。それはもしかしたら真済の真実だったのではないかと、今さらながら戦慄せざるを得なかった。
何ともおかしな光景だった。
ごくごく普通の、庶民の小さな家に、化物が二体と若い女が一人、向かい合って白湯を飲んでいる。うららかな冬の午後の平和な雑踏が室内にまで切れ切れに届くのが、そのおかしさにさらに色を添えていた。
もしも今、乙犬丸が帰ってきたら、先ほどとは違う意味で仰天するだろう。何かと斜に構えがちな重遠も平静ではいられないに違いない。
「あの......真済さま」
最初に口火を切ったのはそよごだった。だが、呼ぶだけ呼んで、口ごもってしまった。尋ねたいことははっきりしているが、それをどのように遠まわしにしたらいいのか思いつかない。
「なんでそんな化物っぽくなっちゃったんですか?」
「あんたはなんてことをー!」
そよごが疑問に感じてやまなかったことを、朱猿が歯に衣着せずにあっさり尋ねると、そよごは慌てて朱猿の頭をポカリと殴りつけた。真済は彼らしく豪快に笑ってから、
「『なった』わけじゃねぇ。これが俺の本来の姿なんだ。せっかく、しばらくの間、人間の姿で落ち着けていたのによ」
「え......」
そよごも朱猿も真済の顔をまじまじと眺め直した。これが真済の本来の姿? だとしたら今までの人間のなりは、幻だったとでもいうのだろうか。わけがわからず、二人は真済が次に言い出すことを待った。
「どこからどうやって説明すればいいかな。あぁ、そうだ......前に、后に懸想した昔の話をしたことがあっただろう。あれにはじつは、前後があるんだよ」
「前後?」
「むかーし、むかし......そうだな、今からざっと二百五十年以上は前の話だ。紺青鬼と呼ばれた鬼がいてな......」
目の前に覚束なく浮き沈んでいる思い出を引き寄せる糸口を見つけようとするかのように、真済は、遠い目で宙を仰いだ。やがて、彼の口からぽつり、ぽつりと言葉が生まれた。
紺青鬼は、漆のように黒い肌と裂けた口を持つ異形だった。人から生まれて忌まれて捨てられたのか、何かべつの生き物を母としたのか、それすらもわからない。その姿は人の世では受け入れられず、物心づいたときには一人で生活していた。
むろんどこにも定住はできず、山から山、里から里を渡って暮らした。力はあったので、食うのには困らなかった。何かがほしいときには、どこかの里を襲って奪った。人々は彼を災害や獣のように捉え、その襲来に常におののいていた。
紺青鬼が不幸だったのは、彼がたとえ災害のようでも獣のようでも、心は人のものを持って生まれたことだった。紺青鬼はいつしか、己の生きざまに言うに尽くしがたい寂しさと空しさを抱くようになった。里や京で生きる人、山を通り過ぎる人をみれば、皆、肩を寄せ合い、誰かを必要とし、誰かに必要とされながら生きている。彼の爪や牙にかかったときに、誰かの名をいとおしげに叫んで息絶えていく者もいた。
それにひきかえ、自分はどうだろう。まったくの一人ぼっちではないか。
紺青鬼は思った、もう人を殺したくはない。何かを無理に奪いたくもない。自分も誰かに必要とされて、その対価として糧を得て生きていきたい。そこで紺青鬼は何度も人と交わろうと試みたが、人は彼を憎み、恐れて、決して輪の中に入れてくれようとはしなかった。紺青鬼という名は人が彼の青黒いまでの肌の色から勝手につけた名だった。
紺青鬼は毎日寝床に帰ってくると、誰にも知られない涙を流した。
そんなある日、彼は一人の少女に会った。
なまめかしい朧月の昇った、匂うような春の夜のことだった。まだ年端もいかぬげに見えたその少女は後で思うに、おそらくは高貴な深窓に囲まれて育ったどこぞの姫君であった。京に迷い込んだ紺青鬼が夜道を武士に追われて逃げ惑っていたとき、どことも知れぬ屋敷の築地を飛び越えると、その西の対で、彼女は一人でぼんやりと月を眺めていた。
「追われているの?」
少女は最初こそ紺青鬼の姿に驚いたようだったが、屋敷の内にまで届いてきた武士たちのざわめきに気がつくと、大人びた声で尋ねた。どこかぼんやりとした風情や目元のわりには、しっかりとした口調だった。
武士たちはこの屋敷に入り、探索させてもらおうと、申し合わせているようだった。
「入ってこられたら見つかっちゃうね。ここに隠れていたらいいわ」
少女は自分が立っている縁の軒下を指差した。紺青鬼は思いも寄らぬ親切を受けて逆に面食らったが、しかし、今は迷っている場合ではないと、そそくさとそこに飛び込んだ。
しばらくすると、武士たちが去っていく足音が聞こえた。あたりはまた、しんと静まり返った。
「もう大丈夫みたい」と少女に促されて、紺青鬼は縁の下からぬっと頭を出した。
「......俺がこわくないのか?」
少女は、人をあまり知らない紺青鬼の目にも十分わかるぐらいに美しかった。その少女の前に醜い姿をすべて晒け出すのが何だか気恥ずかしくて、紺青鬼は縁の下にまだ体を半分突っ込んだ奇妙な体勢で訊いた。
「貴方が? 鬼みたいだから?」
「うん......」
「べつに。私は他の人には見えない、いろんなものが見えるの。形ということでいうなら、あなたより怖い姿のものは、たくさんいるわ。それに、見るからに恐ろしい姿をしているものほど、得てして、優しくて繊細な心根の持ち主ではないかと思うの」
少女はまた目を見張るほど賢くもあった。紺青鬼はおかしな格好のまま彼女と話したが、そのうちに、少女とこうやって向かい合っているのが、何となく楽しくなってきた。もっともっと、この少女が考えていることを知りたかった。
「私がいちばんこわいのは鬼でも物怪でも怨霊でもなくてお父様よ。お父様はときどき、あまりにもお仕事に熱心におなりあそばして、鬼のようなお顔になられるの。それからちがう意味で怖いのは東宮さまね。お会いしたことはないのだけれど、私をかわいがって下さるかどうか、今から怖くてたまらないわ。私も立派にお勤めしたいけれど、東宮さまが私をお嫌いあそばしたら、お話にならないじゃない。もっとお歌やお琴の練習をしないといけないかしら。でも、本当は嫌いなのよね、退屈だから」
雨後の急流のように次々流れてくる言葉は半分以上意味がわからなかったが、その早口は不思議と耳に心地よかった。
「......そ、そうか、まぁ、がんばれよ」
「貴方、私を励ましてくれるの?」
「よくわからないけど、大変そうだからな」
そのうちに向こうから幾人かがやって来る気配が感じられたので、紺青鬼は急いで少女の前から去ろうとした。
「またお前と会いたいなぁ」
「じゃあ、明日、同じ時間に来て。私の女房は『頭が痛い』と言っておけば下がっていてくれるの。私、明日も頭痛になる」
次の日もその次の日も、紺青鬼は少女と会った。少女の笑顔は春の朧な月光の底に真珠のごとくぼんやりと光って、紺青鬼にとっては夢のようだった。だが四日目、鬱陶しい雨雲が月を隠してしまった夜、少女はいつもの場所にいなかった。そして、それきり、二度と会えなくなった。夜闇に黒い体を隠して築地の向こうを覗いても、縁に立つ少女の姿は、もうどこにも見出せなかった。
「家の大人に見つかって叱られたのだろうか。いや、本当は俺が怖かったのかもしれない」
紺青鬼はたった三日でまた孤独になった。彼に残されたものは、明子(あきらけいこ)という少女の名だけだった。
(続く)
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