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New Style Heian Erotical Mandara [Ake no kaze fuku]
人の形をしてはいるが、常の人のなりではない。化生(けしょう)か、あるいは魔性か――。今昔物語を題材にとり、人の世から外れた者たちの凄絶な闘いを描く空前の平安エロティカル曼荼羅。話題作「口中の獄」と接続する、妖と美が渦巻く異端の世界とは。作家・上諏訪純と絵師・常春のカップリングでお届けする待望のアブノーマル・ノベル第4弾!!あたりにすっかり夜の帳が下りた。背高く生い茂った夏草が水気を含んだ夜風に揺れて、さわ、さわと涼しげな音を立てている。西の空に傾いた、柳の葉のように細い三日月だけを眺める限りでは、風流な夜だった。そよごと朱猿は庭の枯れ池に身を潜めて、宴が始まるのを待っていた。
そこから垣間見える、化粧する傀儡女たちの横顔や、ここまで漂ってくる白粉や紅の香りを、そよごは複雑な思いで受け止めていた。
たった数カ月前までは自分もあんなふうに一心に鏡を覗き込こんでいた。傀儡女としての人生なんて嫌だったはずなのに、身を装い、嬌態を競う意気を盛んにする女たちを見ていると、それはもしかしたら幸せな生活だったのかもしれないとも思えてくる。そよごは、ずいぶん荒れてしまった頬に触れてみた。もう「しな」の作り方も忘れてしまったかもしれない。
女たちは身支度を整えると、宴の間に連れだって入っていった。手に手に鼓や木製の人形を持っている。その部屋に別室で待たされていた肥満男と供二人が招き入れられると、下女たちが次々と料理や酒を運んだ。
雉肉に味噌を塗って炙り焼いたものや、鮒の包み焼き、鶉(うずら)の汁物や、あまかずらで煮た芋粥、杏子など、そよごにとっては滅多に食べられないご馳走が通り過ぎていく。
思わずごくりと唾を飲み込んだ。こうした宴の後に客が残したものを絵馬と一緒にこっそりかすめるのが、そよごの数少ない楽しみのひとつだった。
そよごは朱猿が食欲に我を忘れるのではと心配したが、皿に端然と盛りつけられ、匂いも薄くなった肉や魚は、朱猿には食べ物とは映らなかったようだ。ここに来る前に野原で子狸を捕らえて、生のまま丸々頭から食っていたから、単に腹が減っていなかっただけかもしれない。
半刻(約一時間)もすると嬌声や猥歌が飛び交いだした。男女を模した人形が肥満男をこの後の床に誘おうと、ことさらみだりがわしく絡み合っている。下女たちは瓶子を手一杯に抱えて何度も部屋を出入りしていた。
長者はしばらくじっと端に座っていたが、半刻もするとそろそろ頃合よしとみたのか、乱れ騒いでいた傀儡女たちに目配せをしつつ立ち上がった。
「やるか」
肥満男が両腕に絡みついていた傀儡女たちを押しのけて腰を浮かせた。長者は下男の名を呼んだ。すかさず逞しい体つきの中年男が廊を渡ってきて銀の盆を差し出した。
盆の上には絵馬が産んだ翡翠の塊が載っていた。血はすっかり洗い流されて、今はただ清い光ばかりを放っている。翡翠は依頼主と長者で半分ずつ分けることになっていた。
長者は肥満男の前に進んで恭しく低頭した。座でいちばん声の佳(よ)い傀儡女が出て、鼓に合わせ朗々と賀詞を歌い始めると、下男が翡翠に鑿(のみ)を振り下ろした。灯のゆらめきの中に、刃先がぎらり、ぎらりと光る。
絵馬はさすがにこの宴の席にはいない。彼女は出産の後はいつも、困憊した体を別処で休めていた。そよごは隙を見つけて宴を抜け出しては絵馬に水菓子や粥を運んでやったものだったが、寝床の絵馬はこの無残に割り砕かれる翡翠の音を耳にすると、寝間着の袖を目頭に押し当てて泣いた。生きていないとはいっても、腹を痛めて産んだとなれば母の情のような愛着が湧くのだろう。今もきっと、ひっそりと涙を流しているに違いなかった。
「まだか」
場の空気が変わったのを察知した朱猿が尋ねてきた。そろそろ待ちくたびれてきたようだ。
「まだよ、もう少し」
翡翠を分け合う儀が終わり、見るからに重たげな翡翠を手にすると、肥満男は上機嫌で傀儡女の酌を受け直し、彼女たちの肌を無遠慮に撫でまわし始めた。傀儡女たちの頬も、それぞれ濃淡は異なるもののどれこれもが朱に色づき、宴の場に並ぶのはいよいよ酔眼ばかりになった。
「いいわ、行って」
そよごは朱猿の肩を叩いた。
朱猿はあっという間に枯れ池を飛び出した。そして縁に跳ね上ると、同じ呼吸で几帳を蹴倒した。
場が水を打ったように静まり返った。朱猿は静寂をかき分けるようにして山吹色の衣の傀儡女に歩み寄ると、その首をあっけなくへし折った。
ようやく、一人の傀儡女が悲鳴を上げた。
――よかった......
そよごはひそかに安堵の溜息をついた。朱猿は最初、女を殺すことを嫌がっていた。
あばら家で、二人はこんな問答をした。
「おれ、女はころしたくない」
「女は女でも、悪い女なのよ。悪い奴は女でも殺さなきゃいけないの」
「でも......」
「私はその女たちに殺されそうになったの。朱猿は私が死んだら、どう? もう気持ちいいことしてあげる人がいなくなっちゃうのよ」
「それはやだ。じゃあ、やるよ......」
とは言ったものの、迷いの霧が完全に晴れたようでもなかったからである。枯れ池の底で殺すべき女の衣の色や、顔だちや身体の特徴などを説明したが、朱猿はその時に至ってさえ何かを吹っ切ろうと苦心しているように見えた。
だが、蓋を開けてみれば、杞憂であった。長時間待つ中でその何かを吹っ切ることに成功したのか、それとも単に待たされた苛立ちが爆発したに過ぎないか、何がどう作用したのかわからないが、とにかく朱猿はいまや一本の凶刃と化していた。
朱猿は絹を裂くような悲鳴と、皿や瓶子(へいじ)が割れ、盤が倒れるけたたましい音の先に二人目の傀儡女を見つけ、今度は殴り殺した。頭の骨が粉々に砕け、女は一瞬にして原型を失った。部屋の外に控えていた供の一人が太刀を抜いて斬りかかったが、朱猿は長い腕でその脚を掴み上げると、やすやすと二つに引き割いた。血と腸 (はらわた)の雨が降り、傀儡女の何人かが泡を吹いて倒れた。
返り血を浴びて、髪と双眸だけでなく肌までも真っ赤に濡らした朱猿は仁王や閻魔を彷彿とさせた。誰かを探しているようであることは、その場の誰にもすぐにわかった。傀儡女たちは部屋の隅に身を寄せ合って、自分ではないことを祈りながら震えた。
「いた、おまえだな」
朱猿は最後の標的である女を、人垣の奥のほうに見出した。女たちがぱっと道を開く。朱猿は悠々と近づいて、その細い首に手を掛けた。
「朱猿、待って!」
庭を駆けてきたそよごが止めた。
「そよご!」
傀儡女たちは振り向いて叫んだが、その声の質には二種類あった。ひとつは単純な驚愕の声で、これはその場にいたほとんどの傀儡女の声だった。蜜女たちがそよごを殺そうとしていたとは夢にも知らなかった彼女たちは、そよごはどこかで事故に遭い、行方知れずになったものだと考えていた。
もうひとつは今まさに朱猿に捻り殺されようとしている蜜女のもので、こちらには怯えの色が濃く、深く滲んでいた。
死んだはずではなかったの......? 恐怖に顔面を芯から歪ませた蜜女は、焦点の合わない眼差しでそよごにそう問いかけていた。
「よくも殺そうとしてくれたわね」
縁に上がりながら、そよごは今までした中でおそらくもっとも「どす黒い」顔をして笑ってやった。何も知らないまま、楽に冥土へ渡らせてやる気はなかった。これは復讐なのだということをわかってもらわなくては困る。恐怖と後悔に塗れて、こと切れてもらうのでなければ。
「そよご、違うんだよ、聞いておくれよ」
化物はそよごの意のままに動いているとすぐに気がついたのだろう。蜜女は涙で化粧をぐしゃぐしゃに崩しながら、そよごに訴えかけた。
「私はお前を殺したくなんてなかったんだよ。あいつらがどうしてもっていうからさ。それにもともとは、ぎりぎりのところで助けてあげようと思っていたんだ。お前最近、ちょっと生意気だったから、少し懲らしめるつもりでね。それがあんなことになっちまって......」
「嘘」
と反論しつつ、しかしそよごは一瞬、狼狽した。それが嘘であっても、蜜女が幼いころ面倒を見、一人前になった後も何かと気にかけてくれた人であることには違いないのである。内心ではちがう感情が渦巻いていたのかもしれないが、長者と並ぶ育ての親であることは事実なのだ。売られてきたばかりのときに「菓子でもおあがり」と優しい言葉をかけてもらったことは、事実なのだ。
しかし、だからこそ、自分を殺そうとしたことが許せなかった。
蜜女はまだ何か必死に言葉を搾り出そうとしていた。そよごは「蜜女姉さん、私はね......」と言いかけて、口をつぐんだ。もう何もかも遅いのだ。「私はあなたが好きだったのに」などと、今さら言って何になるだろう。
「嘘」
もう一度力強く否定して、そよごは一抹残っていた迷いを吐き捨てた。
「朱猿」
そよごは化物の名を呼んだ。呼びながら、自分が名づけたのは、山奥でひっそりと獣を捕らえて血肉にし、清流で喉を潤していた異形の生きものではなく、幼いころからずっと燻っていて、今もまた蜜女に言えなかった一言なのだという気がした。
「いいよ、殺しても」
朱猿の爪が蜜女の首に喰いこむ。
たとえひとときでも慕った女が、はからずも手に入れた獰猛の餌食となり、血まみれの肉塊に変わっていくのを、そよごはまじろぎもせずにじっと見つめた。
「お前、何ということを......」
聞き覚えのあるしゃがれ声を耳にして、そよごは我に返った。三人の女と一人の男の血で浅い池のようになった床の先に視線を滑らせると、そこにはわなわなと震える長者の姿があった。恐怖と驚きで顔の皮がひきつって、渇きで苦しむ蛙のような表情になっている。
「この、人殺し......」
「違うんです!」
そよごは叫んだ。「最初に私を殺そうとしたのは蜜女姉さんたちなんです。私、騙されて山に連れていかれて、殺されそうになったんです!」
そよごは最初、三人を殺したらすぐに逃げるつもりでいた。だが、長者を目の前にすると、「何とか弁解したい」という迷いが頭をもたげてきた。
何人かの傀儡女たちが、そうだったのか、と見張った眼(まなこ)を交わし合った。しかし、そよごがもっともその反応を望んだ長者自身は額の皺ひとつ動かさず、そよごをじっと睨(ね)めつけたままだった。
「そんな話は、検非違使にするといいよ」
そよごは長者の視線から背後の殺気に気づいた。振り返ると、そこには座に雇われている下男たちや、残り一人になったとはいえ物々しい武器を持った肥満男の部下が居並んでいた。
「朱猿、だめよ、殺しては」
そよごは上体を低くして構えていた朱猿を制した。これ以上事を大きくして長者にさらに恨まれたくはなかったし、下男の中の見知った顔を無残に散らせたくもなかった。傀儡女たちの中にも傷つく者が出るかもしれない。
「お願い、話を聞いてください......」
「知ったことか! この恩知らずが!」
男たちはじりじりとそよごと朱猿ににじり寄ってきた。朱猿の鼻息が荒くなる。
「......朱猿、逃げるわよ!」
もう、ほかにどうすることもできなかった。そよごは手近にあった燈台を倒すと、男たちとは反対側の廊に駆け出した。床にこぼれた脂に火が燃えうつって、部屋がぱっと明るくなった。
朱猿は炎を踊り越えてすぐについてきた。そよごは行く先にあった燈台を片っ端から倒して走った。
「あんたも火があったら全部倒しなさい。足止めになるわ」
「うん、いいよ」
こういうことになると、朱猿の理解は早いようだった。朱猿はそよごと並んで駆けながら、燈台があれば少し遠くのものでも倒しに行った。
「追えっ! 追えっ!」
長者と肥満男のがなりが、もうもうと上がり始めた黒煙の向こうから重なって聞こえてくる。二人は築地の崩れから外に逃れようと庭に下りた。
そのとき、そよごは後ろからとつぜん袖を掴まれた。
「わぁっ!」
驚いて相手を突き放す。少し前を走っていた朱猿も振り返って身構えた。
だが、朱猿が出るには及ばなかった。そいつはそよごの力だけで呆気なくふっ飛んでしまった。そしてその刹那「きゃっ」とあがった声は、女のものであった。
「絵馬!?」
そよごは倒れた人物に駆け寄った。それは紛れもなく、先ほど翡翠を産んだばかりの絵馬だった。
なぜこんなところにいるのかと訊いている暇はない。「だめじゃない、寝ていなくては」と、焦りながら、そよごは絵馬を叱りつけた。しかし絵馬は、
「よかった、間に合って......」
と、そよごの話など聞いていないかのように、そよごの首筋にしがみついてきた。
「聞こえていたの。逃げるんでしょう? 私も連れていって」
「な......!?」
そよごは絶句した。
「私ももうここにいたくない。そよごと一緒にいたい。お願い、連れていって」
冗談じゃない、とそよごは舌打ちしたくなった。こんな体では足手まとい以外の何ものにもならない。大体ただでさえ絵馬は俊敏とはいいがたいのだ。
「ダメよ、わかって」
宥めようとしたが、首に巻きついた絵馬の手は緩まない。それどころか「お願い、お願い」とすすり泣きまで始めた。
「そよご、何してる」
朱猿も焦れていた。
いつまでも付き合っているわけにはいかない。振り払おうと、そよごは乱暴に腕を引き剥がそうとした。
だがその瞬間、彼女はすさまじいほどに窪んだ絵馬の頬を見た。見てしまった、といってもいい。それは朝が来ればあえなく溶けて消えてしまいそうな薄い霜のように、沈みゆく月の光にはかなげに照らし出されていた。
......その頬に、取り残される絵馬の運命を重ねてしまったことが、そよごの甘さだった。
「............おいで!」
逡巡している余裕はなかった。そよごは立ち上がって絵馬の手を曳いた。
「苦しいだろうけど、ちゃんとついてくるのよ」
絵馬は涙を拭きながら頷いた。朱猿は「その男もつれていくのか」と、目を丸くした。
屋敷の外に脱出するのには難はなかった。しかし、そこから離れようとして、そよごは背筋を凍りつかせた。行こうとする先に、一つ二つではあるが、松明の灯が揺らいでいた。白刃らしきものも時々火に反射して閃いていた。
座の下男たちに、この短時間のうちにこうした反応をみせる才覚はあるまい。肥満男の供がいち早く近隣に加勢を求めたか、外にも供の者が待っていたのだろう。
そよごは必死で頭を働かせた。この道がだめなら、どこに行けばいい? ただでさえ土地勘の薄い西ノ京の地図を咄嗟に頭に浮かべるのは、容易なことではなかった。追っ手がつかぬ間に、闇に紛れて京を出るつもりだったが、そうそううまくいかせてはもらえないかもしれない。思案しているうちに、反対側の道にも火影が霞み始めた。そよごは自分の読みの拙さを思い知らされた気がした。
「朱猿!」
そよごは鋭く呼びつける否や、朱猿をしゃがませると、絵馬をその首の右側にしがみつかせ、自分は左側にしがみついた。
「私たちを抱えたままあの中を突っ切りなさい。戦わないで、突き抜けることだけ考えて」
自分が走ったとしても追いつかれる恐れがあるのみならず、今は絵馬というお荷物も連れている。いちかばちか、朱猿に賭けるしかなかった。
「どこへ行けばいいんだ」
「走りながら教えるわ。とにかく今はまず、あいつらを振り切るの」
「わかった」
朱猿が立ち上がると二人の足が地面から離れた。絵馬が小さな悲鳴をあげる。
「絶対に手を離さないで」
そよごが絵馬に囁き終わらないうちに、朱猿は走り始めた。
普段の朱猿からすればかなり遅いほうだが、それでもそよごの、ましてや絵馬の足よりはずっと早い。見る見るうちに炎が近づいてくる。
「なぁ、そよご」
「何よッ!?」
「このままじゃやりにくい。手も、足にしていいか?」
意味がわからないとそよごが悩む間もなく、朱猿は四つん這いになって、その疾駆は獣のごとき姿になった。振り落とされそうになった絵馬の手が、勢い、朱猿の頭に巻きついていた麻布を剥ぎ取った。けざやかな赤い髪が夜を切り裂くようにぱっと四散したとき、朱猿は男たちの中に突っ込んだ。
彼らにしかと見えたのは、夜の闇のほかには、その赤の残像だけだった。ひとりは朱猿になぎ倒されて転倒したことにもしばらく気がつかずにいた。
数秒の後に「いたぞ!」という勇ましい声と、「化物だ!」というおののきの声が後方から同時にあがった。怖じずに後を追ってくる者もいる。手には弓矢を持っているようだ。早く十分な距離をとる必要があった。
追っ手はそよごたちの進む先を周囲に知らせるべく叫んだ。荒々しい声はあちこちで呼応し合い、少しずつ太く大きくなっていく。
「痛い、そよご......」
隣で絵馬が呻いた。
「お腹が......痛い......」
「我慢しなさい!!」
そよごは怒鳴った。
「朱猿、もっと早く!」
朱猿は返事もなかった。彼はいつしか疾走に酔ったようになっていた。その姿を遠くから望んだ者は、今の時期、南の空に輝く蠍の星座の赤星が落ちてきて、地上近くを尾を引きながら非常な速さで滑空しているようだとも思ったかもしれない。
朱猿の脚力に、男たちの罵声は次第に遠のいていった。やがて三人は、獣が複雑に絡み合ったような奇っ怪な形のまま、京を抜けた。
(続く)
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