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【5】安寧と葛藤

二カ月が過ぎた。

そよごと朱猿、それから絵馬は、朱猿が棲み、そよごが命を失いかけた山で暮らしていた。

「そよご、見て。今日はこんなに採れたの」

川に水を汲みにいったそよごが岩窟に戻ると、秋めいた白っぽい日差しの中、入り口近くで木の実を拾っていた絵馬が嬉しそうに籠の中身を見せてきた。

「だめじゃない、中で寝ていなきゃ」

そよごは怖い顔をしてみせたが、

「でも、今日は具合がいいの。天気もいいし、何だか体を動かしたくなって」

そう言われると、つい叱れなくなってしまった。

京を脱出してこの山に辿り着くまでの間、絵馬は陰部からのひどい出血で、いつ死んでもおかしくない状態だった。そよごは途中、道々の家に絵馬を託していけないものかと何度も見知らぬ家の戸を叩きかけたが、朱猿に背負われた絵馬はそのたびにうつろな目をしながら泣いて嫌がった。

ここに着いてからは、山のきれいな空気がよかったのか、今までの不安から解放されたためか、そこそこ順調に回復していったが、それでもまだ完全ではない。

絵馬は妊娠してから出産に至るまでが普通の女と比べ、極端に短い。男の種を植えつけられてから翡翠を産むまでは、ほんの二カ月足らずである。年に何度も出産を強いられていた体は根底から弱っていたのかなかなか本復に至らず、今もしょっちゅう貧血を起こしていた。

「あまり長い時間はだめだからね」

とは言いつけたが、たしかに絵馬の気持ちも理解できた。暑さの盛りが過ぎ、数日前から急に空が高くなった。日差しに透明感が出てきて、空気がふっと軽くなった。爽やかな秋の気配が、あちこちに生まれつつあるのが肌でわかる。絵馬も狭くて暗い岩窟から出て、その気配を受け止めたくなったのだろう。

「そよごー、絵馬ー」

少し離れた茂みから朱猿が顔を出した。手に兎と雉を抱えている。

「あら、今日は二種類もお肉が食べられるのね」

振り向いた絵馬がにっこり笑った。ここに来てすぐは、殺され、捌かれる動物がかわいそうだと涙をこぼしていたが、今やすっかり慣れてしまったようだ。むしろそよごのほうがまだそういった光景に慣れることができず、今もどちらかというと魚や木の実を好んでいた。

「うん、絵馬がうさぎすきだっていったから、とってきた」
「ありがとう。朱猿はいい子ねぇ」

朱猿は絵馬に、そよごとは違った意味でなついていた。何がきっかけだったかは覚えていないが、朱猿はいつからか絵馬の膝にすり寄って、頭を撫でてもらうのを好むようになった。それはもしかしたら遠い昔の、朱猿自身も覚えていない母への愛慕からなされたものだったかもしれない。絵馬も最初は驚いていたものの、そのうちに子守唄まで歌って聞かせるようになった。産むたびに奪われ、叩き割られる翡翠にかけたくてもかけられなかった愛情を、図体は大きくても幼児のような朱猿をいとおしむことで、無意識に昇華させているのかもしれなかった。

「魚も捕ってきなさいよ」

そよごが口を尖らせると、

「ごめん」

と朱猿は大きな肩をしょんぼりと落とした。 絵馬にもなついたからといって、そよごの影響力が消えたわけではない。本能に直結する部分を握っているせいなのか、そよごが及ぼす力は相変わらず絶対的だった。朱猿は絵馬には駄々をこねることはあっても、そよごには反抗しない。

そよごは絵馬に、朱猿を操る秘密については黙っているつもりだったが、あっさりばれてしまった。ある夜、岩窟の横でしごいているのを見られてしまったのである。絵馬は朱猿が外でおかしな声をあげているので目を覚まして、心配して出てきたのだった。絵馬はしばらく凍りついていたが、すぐに「ごめんなさい......」と謝ると、そそくさと中に戻っていった。翌日そよごがそのことについて話そうとすると、「いいのよ、わかるわ」と、何がよくて何がわかるのかわからなかったが、そっと手を握られた。

各々が抱える歪みが奇妙に噛み合って、とにかくも日々は穏やかだった。だが、穏やかであればあるほど、そよごの心境は複雑になっていった。

これからもずっと山で暮らし、朱猿と添い遂げる気があるのではない以上、いつかはここを離れないといけない。朱猿が話してわかってくれるとは思えないから、そのときは逃げるように去ることになるだろうが、それが成功したとき、朱猿はやはり傷つくだろう。もちろん、そよごだって罪悪感に苛まされる。朱猿には負わなくてもいい罪を負わせたのだし、何より自分と絵馬の命の恩人である。

しかし、だからといって朱猿をともに人里に連れていけるかといえば、それはできない相談だった。朱猿のような存在が人に受け入れられるとは到底考えられない。山奥で一生面倒を見るか、恩を忘れ、心を鬼にして置いてゆくか、どちらかしかないのだ。

訪れたばかりだと思っていた秋は、日増しに深まっていった。そよごは朱猿がいない隙を狙って絵馬にそのことを話してみた。

「置いていくなんて、できるわけないじゃない!」

案の定、絵馬は怒りをあらわにした。

絵馬は体力をつけるために、特に体調が悪いとき以外はそよごと行動を共にするようになっていたが、その日、二人は麓近くの細道に向かっていた。たまに生活に必要なものがあると、その道を通る旅人や猟師を待って、山で採った木の実や魚、肉と交換してもらうのだ。京ではお尋ね者とされて人の口の端に上っているかもしれないから、そよごも、一応絵馬も、顔に煤(すす)をたっぷり塗り、髪を乱して男装した。一見、山中に泊り込んでいる猟師の息子たちが、お使いに出てきたといった風体だ。

道とはいっても多くの人に踏み馴らされた道らしい道ではなく、雑草が茫々と茂った獣道のような道だ。だが、隣国へ抜ける知られざる近道であるらしく、待っていれば一日か二日に一人、二人は通りかかった。

二人は藁を求めようとしていた。これからの季節に備えて、寝床に積んだり蓑を作ったりするのに多めに用意しておきたかった。運よく藁を持った旅人が通りかかってくれればいいのだが、人が通らなかったり、通っても目当てのものを持っていなかったりしたら、何日も通わなくてはいけない。里で手に入れてきてもらうよう頼むこともできたが、お尋ね者になっているかもしれない身としてはあまり深く関わりあいになりたくなかった。

道に着くと二人は大きな岩に腰掛けた。そよごは絵馬に日当たりのいい側を譲ってやった。ときどき頬を撫でる秋風の涼しさは、すでに冷たさの気配をも底のほうにひっそりと宿しているような気がする。きっとすぐに、こんなふうに簡単にあたりをうろつくこともできない寒さが押し寄せてくるだろう。蓑を作りたいと言ったとき、絵馬は「まだ早すぎるでしょう」と笑ったが、そよごはどうしてもそんなふうに物事を受け止められなかった。空気にふと肌寒さを感じれば、すぐに吹雪を連想してしまう。

「朱猿を育てられないかしら。人の中でも生きられるように。今だって、ずいぶん人らしくなってきたような気がするわ。そうしたら一緒に連れていけるじゃない」

岩の上で、そよごの顔色を覗き込むようにして絵馬が言った。朱猿を我が子のように可愛がっているからこそ、出てくる発想だろう。

「私だって何とかしてあげたいと思ってるわよ。でもきっと人のほうが朱猿を受け入れないわ」

そよごが言うと絵馬は黙り込んでしまった。異形や畸形にどんなまなざしが向けられるかは、絵馬のほうがよく知っているのだ。翡翠を生むという特性と人に優れた美質があればこそ何とかなっているが、みじめさに流した涙の粒は数え切れない。二人は沈痛な面持ちを並べて黙り込んでいたが、しばらくすると絵馬が、

「あっ、人が来る」

と、道の向こうにかすむ影を指した。そよごが顔をあげると、わずかに葉を色づかせ始めた木々からこぼれる日差しを縫って、僧形が歩いてくるのが見えた。

「なんだ坊主か。ロクなものを持っていなさそう」

そよごが吐き捨てるように言うと、

「お坊様にそんなことを言うものじゃないわ」

絵馬は眉間に皺を寄せた。

変成男子の法を失敗させられた上、稚児だったとき僧に何度も孕まされた経験もある絵馬のほうが、そよごよりもよっぽど信心深い。そよごにしてみれば、そんな絵馬を間近で見ているからこそ、信心など持てないというところもあった。

僧は、傘を目深にかぶっているので顔立ちまでははっきりわからないが、がっしりした肩の、骨太な体つきをしていた。手には杖を握っている。

「あれっ?」

とそよごが声を上げたのは、その歩き方が妙だったからだ。

「何だかふらふらしているみたいだけど、大丈夫かしら」

絵馬も気がついたようだった。

首を傾げていると、僧は突然その場にぱたりと倒れてしまった。なかなか起き上がらない。風がさっと吹いて、木の葉がその上にはらはらと落ちかかったが、微動だにしなかった。二人は顔を見合わせた。

「行ってみよう」

そよごが岩から飛び下りた。絵馬も後からついてきた。

僧はうつぶせに倒れていた。外傷はないから、獣や人に襲われたということではなさそうだ。長く旅をしてきたのか衣はすっかり擦り切れており、手足も垢だらけだった。

「坊さん」

そよごは木の枝を拾って、背中のあたりをおそるおそるつついてみた。絵馬はそよごの肩を背後からぎゅっと掴み、心配そうに見守っている。

僧は、最初は返事はなかったものの、何度か話しかけるとやっと、「うぅ......」と呻き声をあげた。

「だ、大丈夫?」

さらに尋ねると、彼はようよう苦しげな面(おもて)をあげた。年の頃は五十代半ばだろうか。日に焼けて無精ひげも生えていたが、きちんと身なりを整えれば堂々たる僧ぶりを発揮できそうな、彫りの深い整った目鼻をしていた。

何か言いたそうに、唇がかすかに動く。何があるのかと二人は真剣なまなざしで、口から言葉が音となって発せられるのを待ちうけた。

「............腹が......減った」

それだけ言うと、僧はまた地面に突っ伏した。秋の小さな白い蝶がどこからか飛んできて、その肩のあたりを弱々しげな羽でひらひらと舞った。


どことも知れぬ岩窟の中で目を覚ました時から、彼は「世の中には、よくよく不思議なことがあるものだ」と何度嘆息したかわからなかった。たった一人で諸国を行脚して、もう長いことになる。大抵の不可思議には動じない自信があったが、まだまだ世の中というものを甘く見ていたかもしれない。

まず、自分が生きていたことに驚いた。人が通っているのか通っていないのかわからないような山中の小道に迷い込み、行き倒れたからには、そこで獣の餌になるのが末の姿と覚悟を決めて、彼は目を閉じた。意識を失う寸前、二人の少年に話しかけられたような気もしたが、それはきっと幻であろうと思った。

意識を取り戻した場所が、その山の深くにある岩窟で、人が棲んでいるとわかったときも驚き入った。しかも住人は、まだうら若い二人の女と、赤い髪と赤い目をした七尺あまりの巨大な化物という、一種異様な取り合わせだった。彼は最初、若い女たちは化物にむりやり勾引(かどわ)かされたのだろうと思ったが、逆で、化物は女たちにすっかり飼い馴らされていた。彼はすぐに、幻かと覚えた少年たちはその二人の女で、彼女たちが化物に命じて自分をここに運ばせたと知った。彼は女たちの親切に甘えるまま、数日の間、岩窟の藁の上に横たわり、疲労困憊した身を休ませたが、その間、かいがいしく食物を運んできたのもその化物だった。

「真済さま」

そして今、体調をすっかり回復させ、岩窟のそばで晴れ晴れと高い秋空に向かって深呼吸していた彼は、名を呼ばれて振り返った。そこには、見事に色づいた山葡萄を盛った籠を抱えた絵馬の姿があった。

「おぉっ、うまそうな山葡萄だなぁ」
「はい、後でみんなで食べましょうね」

この絵馬もまた、彼......名を真済という僧、を驚倒させた存在だった。

自分を助けてくれた若い女のうちの一人である絵馬を一目見るや否や、真済は絶句した。絵馬はあまりにも美しかった。気高さと優しさがひとつの顔に同居して、不思議な清らかさを醸し出している。たおやかながらもすらりとした肢体は、みずみずしい柳の木のようだ。彼女の白い手足が遠慮がちに動くたびに、あたりに光が振り撒かれるようですらあった。

真済は熱いものが胸の内に鋭く差し込んだのを感じた。こんな感覚は何年ぶりだろうか。彼は覚えず身をこわばらせた。が、しかし、その情熱は思いも寄らない形ですぐに氷解した。

ある夜、皆で食事を終えて寝ようとすると、もう一人の若い女・そよごと朱猿という化物は、何をするつもりなのか連れ立って外に出ていった。岩窟には真済と絵馬だけが残った。胸の高鳴りを押さえながら無造作に並べられた藁の床に就こうとすると、とつぜん絵馬が足元にひれ伏して泣き出した。

「真済さま、私には、生まれてすぐに手放し、死なせてしまった子が幾人かいるのです。どうぞその子らを哀れと思し召して、経のひとつだけでも、唱えてやっては下さいませんか」
「ほう、子が?」

意外だった。とても幾人も子を産んだというほどの年には見えない。若く見えるだけで、実際には意外に年を重ねているのだろうか。それとも、ずいぶん若い頃から孕んだ経験があるのか......。

「幾人かというのは、幾人なのだ?」

好奇心もあって尋ねると、絵馬は俯いてしまった。訊いてはいけないことだったのかもしれないが、供養をするのなら人数ははっきりさせておいたほうがいいという建前で、彼は自分を許した。絵馬は言い渋る様子で長い睫を何度もしばたかせていたが、やがて意を決したのか、

「おそらく......あの......二十人は下らないかと......」
「二十人!?」

真済は声を裏返えらせてのけぞった。

「どういうことなのだ?」

まさかこの娘も、姿かたちこそ麗しいが、化物の類なのだろうか。

「あの、じつは......」

絵馬は亡くした「子」の回向を望む一心で、己の数奇を隠さずに話した。変成男子の法の失敗で、女の心を持ちながら男の体で生まれてきたこと、男と交わると翡翠を妊娠する特異体質であること、その体質のために傀儡女の一座に売られ、翡翠を産まされたこと......。真済は終始、口をぽかんと開けて聞いていた。黄金を生む稚児の伝説は彼も知っていたが、まさか本当にそういう体質の人間がいるとは考えもしなかった。

「決して冗談や酔狂で申し上げた話ではございませぬ。証拠に......」

語り終わると、絵馬は真済の手を取り、頬を赤らめながら自らの股間に導いた。そこには確かに女にはありえない感触があった。真済は今度は口ばかりでなく、目も大きく開いた。

「......わ、わかった」

真済はようよう、頷いた。まさか、男だったとは。肩の力が抜けていく。彼は美形が相手でも男色を好まなかった。

「明日か明後日にでも、略式になるが、唱えてやろう」

翡翠を供養するなど、短くはない出家生活でも初めてのことだったが、それすらも些細な問題に感じられた。

「ありがとうございます」

そう言って目頭を押さえる姿は、やはり可憐な乙女そのものだった。

今も今とて、山葡萄の籠を手に秋風に玲瓏たる目鼻だちを輝かせる絵馬は、彼の目には美少女にしか映らなかった。絵馬は真済の隣に立ったが、その肌や髪からは女人のそれのようなかすかに甘い匂いさえ漂っていた。

(続く)

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常春 2010年より少しずつ活動開始した新米絵描きです。1988年生まれ。和モノ怪奇モノ大好物です、座右の銘は【いやらしければなんでもいいわ!】です、宜しくお願いいたします。
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12.08.20更新 | 小説  >  朱の風吹く
文=上諏訪純 | 絵=常春 |