御食沢(みけざわ)がぽつりと漏らしたのに合わせたように、壁に掛けられていた柱時計がボーンと低い音を轟かせた。彼女の膝に載っていたトラ猫はその音を嫌ったのか、起き上がって出て行った。
大家の望月さんによれば戦後すぐから使われていたというこの大きな柱時計は、今や毎時鳴らす鐘が何時であっても1回きりになってしまったが、それを除けば大きな故障もなく、いまだに現役老兵としてこの「猫屋敷」の居間に鎮座ましましている。
今ここには、この築50年になる木造二階建て一軒家に同居するすべての住人たちが集まっていた。すべてといっても、俺を含めて6人という少人数である。加えて大家の望月さんは普段は余所に住んでいて、週に一度程度、掃除や事務処理をするのにやって来るぐらいだ。が、大家なのだから住人として括っても差し支えはないだろう。
家族でもなければもともと友人や知り合いですらない、単なる「同居人」の俺たちがこうやってわざわざ一堂に会するのはそう頻繁にあることではない。ではなぜ今、こんなふうに集まっているかといえば、望月さんから折り入ってみんなに伝えたいことがあるからと数日前に伝えられたからだ。
「そう、この土地をずいぶんな高値で買い取ってくれるという人がいてね。できるだけ早く次の建物を建てたいらしいんだ」
望月さんは申し訳なさそうに、しかしひとりひとりの目をしっかり見据えながら、さっきちづるさんが出したお茶を啜った。ちづるさんの息子で5歳になるちひろは、子どもながらも場に漂っている緊張感をしっかり感じ取っているのか、眉をひそめて母の腕をしっかり掴んでいる。
望月さんが話したことは、要するに住人たちへの退去勧告だった。ものすごく端的にまとめれば、引っ越し費用などの必要経費はある程度出すから、3カ月以内にこの家から出て行ってほしいということだ。
「もちろん、金ですべて解決しようというわけじゃない。次に住むところを探す手伝いもするし、知り合いの大家たちに掛け合って、ここまでとはいわないまでも格安で借りられるところを探すつもりだ」
中年女性にしては少々ぶっきらぼうな口調が特徴的な望月さんだが、今日はさすがにしんみりと沈んだ声色をしていた。
いつもは落ちこんでいる人や元気のなさそうな人を見ると、すかさずポケットから黒飴を取り出して勧める三峰さんも、多少ボケてはいても事の重大さが理解できているようで、さすがに今日は微動だにしない。
自分たちのような人間を住まわせてくれる場所がそう簡単に見つかるだろうか......みんな口には出さないまでも、一様にそんな不安を湛えた表情をしてうつむいていた。
ちづるさんとちひろは母子家庭の親子だ。3年前にちづるさんが起こしてしまったという交通事故の慰謝料を払いながら、親子二人で細々と命をつなぐような質素な生活をしている。
三峰さんはもともとなのか加齢のためなのか、ちょっと痴呆のある爺さんで、生活保護を受けながら暮らしている。家族はいないらしいが、生きているが会えないのか、死んでしまったのかははっきりしない。ボケてはいるが日常生活を送るのに大きな支障があるというほどではなく、暇があれば進んで庭や屋内の掃除をしたり、ちひろと遊んだりしていた。
御食沢はインターネットの通信販売で女性向けのエログッズを扱う会社に勤めているらしい。業務内容の特殊性を除けば普通のOLではあるのだが、ちょっと異常なまでの猫好きで、捨て猫や怪我をした猫を見つけると片っ端から連れて帰ってきてしまう。
猫は大体は手厚い保護を受けた後、彼女が運営する里親探しサイトで探した里親のもとに貰われていくのだが、それでも常時10匹前後がこの家の敷地内をうろついていた。この一軒家が「青月荘」という名がありながら、近所や住人たち自身からも「猫屋敷」と呼ばれるのは、この、いつ敷地内を覗いても必ず数匹は目にする猫たちのためだった。望月さんは細かいことは気にしない性格のようで、近所に迷惑をかけないのであればと、御食沢が猫を飼育することを最初から許容していた。
そして俺は浪川孝之。まぁ、一言でいえばプータローだが、ただのプータローではない。作家という夢があって、そのためにあえて定職に就かず日々小説を書いている。公務員人生しか知らない父親と、その親父に食わせてもらうことしか知らない母親とは当然ながら折り合いが悪く、大学を卒業して3年目の1年半前に、ほとんど家出同然に家を飛び出してきた。
こういう面子だから、俺たちにとって引っ越しとは、普通の人よりもはるかにハードルのバーの位置が高く設定されているものだった。
「みんなには申し訳ないと思っている。でも、私も身寄りもないまま、いい中年になってしまった。ここらで老後のためにもう少し蓄えを作っておきたいんだよ」
俺は何とか食い下がろうとしたが、望月さんにそんなふうに溜息をつかれると無理も言えず、何も返せなくなってしまった。
無理やわがままは、住人側のほうがよほど通してきた。俺は幸いにもそれほどのことはしていないが、たとえばちづるさんは、体のあまり強くないちひろが熱を出すたびにパートを休まなければいけないので、家賃滞納の常連だった。もともと相場よりも圧倒的に安い家賃だったにもかかわらず、だ。御食沢は、躾をしきれなかった猫が室内の壁をボロボロにしていた。
「すまないけれど、わかってもらえないかね」
望月さんが深々と頭を下げる。
「そんな......頭を上げて下さい。望月さんにはずっとお世話になってきたんですから」
ちづるさんが困ったような顔をして、望月さんの肩に触れた。
ネットで調べてみたところ、法律では、退去勧告は最短でも6カ月前には出さなければいけないものらしいとわかった。だが大家側がそれなりの「誠意ある対応」を示した場合は、乗ったほうが利口だという意見もあった。
「退去勧告を無視して、居座ることもできるらしい」
望月さんによる通達があった数日後の週末、ちょうど住人全員が家にいたので、俺はみんなを居間に集めて調べたことを話した。俺は何であれリーダーになるような性格でもなれるような性格でもないが、状況が状況だ。こういうときはみんなで団結しなければならない。
それに俺は今、ちょっと気分がハイになっていた。一昨日、俺の小説がある文学賞の最終選考にまで残ったと電話で連絡を受けたのだ。今だったら普段は絶対しないような多少の無茶でもできる気がした。
俺は、みんなきっと声を合わせて居座ろうと主張するだろうと予想していた。
「まぁ、本当にどうしようもなくなったらそうするかもしれないけど......たしかにこれ以上望月さんの好意にばかり甘えていてはいられないと、正直思っていたんです」
だが、ちづるさんがみんなの顔色を窺うようにした。隣に座っているちひろは、下を向いてじっと畳の一点を凝視している。
「だけど、ちづるさん......」
「わたしも、さいきん体のぐあいが前よりわるくてねぇ」
三峰さんが割りこんだ。
「そろそろここを出て、ちゃんとしたびょういんなり、しせつになり入ったほうがいいんじゃないかと」
おいおい、冗談だろう。俺は呆気にとられて、思わず御食沢のほうを振り返った。が、御食沢も俺の味方にはなってくれなかった。
「私も出て行きたくはないけど、そういうやり方は好きじゃないな」
御食沢は湯呑を置くと、俺をじっとりと睨みつけた。
「きれいごとだけじゃ問題は解決しないぜ。考えてみろよ、他にこんなにたくさんの猫を受け入れてくれる借家があると思うか」
開いていた襖から御食沢がいちばん最近拾ってきたぶち猫が入りこんできたので、俺は味方を得たような心持ちになって、そいつを抱き上げた。みんな、また黙りこんだ。
そのとき、庭のほうから何か木でできたものを叩き壊すような音が聞こえてきた。全員がぎょっとして窓から覗くと、敷地の隅に建てられていた小さな社を解体業者らしき服装の人が壊していた。望月さんが脇に立って、何か指示を出している。
それは、望月さんが「屋敷神」と呼んで毎週掃除していた社だった。正確にはその後ろの、樹齢二百年だか三百年だかになる楠を祀っているらしい。もっともその楠ももはや枯れかけているらしく、今も本来なら目に眩しい新緑を枝々に茂らせているはずの時期だというのに、それこそ三峰さんの腕のような黒く節くれだった枝を、痛ましげに剥き出しにしているばかりだった。
それでもその楠は、よく三峰さんとちひろが根元に並んで座ってお菓子を食べていたり、御食沢の猫が枝に乗って昼寝していたりと、何かと穏やかで平和な時間を俺たちに提供してくれた。
「何やってるんだ、望月さん」
「あら、山本さんは回覧板をご覧になっていなかったのですか」
ちづるさんが目を丸くした。
「今日のお昼にあのお社が取り壊されるから騒音が出ますって、回ってきましたよね」
「え、そうだったんですか?」
回覧板といっても、ここの住人のためだけに作られたわりといい加減なものだ。よほど重要な内容ではない限り、全員が確認しないうちに破棄されてしまうこともある。今回もそういうケースのようだった。
「いよいよ、ほんとうにおわりですかねぇ」
三峰さんがとても寂しそうな、大袈裟に表現していいのならこの世の終わりを知らされながら何も手を打てずに絶望するような目をして、窓から離れちゃぶ台に戻った。
「あんな小さなお社が壊されたぐらいで、いきなりそんな弱気にならなくても」
三峰さんを元気づけようと俺はことさら明るく笑ってみせたが、誰も俺に同意してくれなかった。
翌週から住人たちは助け合って、新しい生活のために本格的に動き始めた。
御食沢は仕事を午前中半休にして、生活保護の見直しや受け入れ施設を探すべく役所に行く三峰さんに付き添った。ちづるさんは今やっているスーパーのレジ打ちだけの仕事では収入が心もとないからと、ハローワークに通い始めた。俺はバイトから帰るときに近所の保育園に預けられているちひろを連れて帰った。ちづるさんがみんなのぶんの晩御飯を作ってくれている間、ちひろは三峰さんに遊んでもらっていて(ちひろは普段、ちょっと不気味なぐらいおとなしい子どもだったが、三峰さんにだけはよく懐いていた)、俺は庭を徘徊している御食沢の猫を片っ端から室内に戻した。そうこうしているうちに、午前中半休した分の残業を片づけて御食沢が帰ってきた。
べつに、立ち退きが決まったからわざわざこんなふうにしているわけではなかった。俺たちはずっと前からこうやって暮らしてきた。お互いの足りない部分を補い合うなんて大仰な発想ではなく、ただ空いた時間を、ときには空いていなくても、目の前にいて一緒に生活しているみんなのために使うことが、少なくとも俺はそれほどいやではなかった。
俺は自分のことをまったく理解してくれない家族を捨てて飛び出してきた身だし、他のみんなも詳しくは知らないが、人間関係的に満たされているとはいえない生活を送ってきたようではあった。この環境を、ほどよく突き放して理解してくれる他人と、自分の居場所や役割を提供してくれる家族のいいところ取りと分析してしまってはあまりに味気なくなる気がするが、まぁそれはその通りで、しかし言葉でいうほど味気なくはなかった。
だからこそ、俺はみんなが立ち退きをあっさり受け入れ、それどころか積極的ともみえる態度で次に進もうとしているのを、何だか裏切られたようにも感じていた。「ゆるい」つながりだったからこそ、逆に強い信頼やつながりが生じるのではないかと思っていたからだ。
だが、それもみんなの状況を考えれば仕方のないことだっただろう。何だかんだいっても住人の中では俺がいちばん、お気楽な立場にいるのだ。家を飛び出してきたとはいっても、もう少し実入りのいいバイトを探して執筆時間を減らして働けば、保証人を探すのは少々面倒だとしても、新しい住処は見つからないことはないだろう。みんな、もし望月さんに逆らってこの家に残ったとしても、望月さんに家賃の滞納を認められなかったり、猫を追い出してくれと指示されてしまっては、結局元も子もなくなってしまうのだ。だったら今まで世話になった分、きれいに去りたいという気持ちは理解できる。
だから俺は、その怒りというにはあまりにも身勝手な感情を、望月さんにぶつけてしまった。
立ち退きを宣告した後も、望月さんは週に一度は猫屋敷を訪れていた。その日は御食沢は会社、ちづるさんはレジ打ちの仕事、ちひろは保育園、三峰さんは散歩か何かに出かけたらしく留守で、猫屋敷にはバイトが昼からの俺だけが残っていた。
「望月さん」
俺は、楠の大きく広がって伸びた枝を仰いでいた望月さんに話しかけた。社を壊したときに出た木屑はすべて片づけた後だったから、掃除をしていたわけではないようだった。
「あぁ、浪川くん」
望月さんは誰かとの会話を打ちきったような振り向き方をした。
「話を聞いてもらえませんか?」
「ここでいいかな?」
俺はうなずいた。望月さんは俺が話そうとしていることを、俺の顔つきから何となく察したように見受けられた。
「どうしても立ち退かなければいけないんでしょうか。たとえば新しい建物を建てたときに、そこにまたみんなで住むようなことはできないでしょうか」
「難しいね」
望月さんはあからさまに困惑した微笑を浮かべた。
「この土地自体、私のものではなくなるからね。次に何を建てるか、そこをどう使うかは、私は何も決められないんだよ」
「どうして......」
俺は言葉を詰まらせた。そして、自分がこれからする質問があまりにも筋の通らないものであることをきっちり自覚しながら尋ねた。
「みんな、ここを出て行くことになったら路頭に迷うかもしれない。かわいそうだとは思わなかったんですか」
「そりゃ思ったよ。でも老後の蓄えがなくなる私のことは、かわいそうだとは思ってくれないんだね」
「........................」
「それに、もし本当にみんなのことを可哀想だというんだったら、浪川くん自身がもっといい仕事を見つけて一日じゅう働いて、みんなを援助するという手もあるだろう。自分のことは棚に上げて私を責めるというのは、おかしくないかな」
正論だった。じつはそんな考えも何度か胸をよぎったことがあった。しかしそれは作家になる夢を手放すとはいわないまでも、遠ざけることだった。もしも文学賞を受賞して作家デビューできたとしても、いきなりみんなの面倒を見るほどの額を稼ぐのは難しいだろう。いったいどれぐらいの時間、意に添わない仕事をしないといけなくなるだろうか。
「意地悪を言ってすまなかったね」
唇を噛んでいると、望月さんは彼女のほうが申し訳なさそうに軽く頭を掻いた。
「でも、もし浪川くんがそれを決意したとしても、どちらにしてももうだめなんだ」
「えっ」
意味がわからず、俺は顔を上げた。
「......君だけまだ気がついていなかったんだな。正確にいえば、終わらせないといけないのは猫屋敷や君たちの生活ではない。もっと根本的なものだ。だから私は猫屋敷を手放すことにした。いや、せざるを得なかったというべきかな」
望月さんは楠をもう一度見上げた。楠の枝からこぼれた日光が望月さんの白く痩せた頬に差したとき、皮膚の内側に数えきれないほどの蛭のような生物が蠢いているのがほの見えたような気がして、俺ははっと息を呑んだ。
「この木の命は本来ならもう終わらないといけないんだ。優しいんだよ、こいつは。頼られるとつい助けてしまう。すっかり老いて、ずいぶん長いあいだ苦しんでいたにもかかわらず」
「......あなたは、いったい何者なんですか?」
何だかばかばかしい質問だという気がした。それも、きわめつけの。
「ここの大家だよ」
「あの、そういうことじゃなくて。たとえばですけど、その......死神とか」
「わからないならわからないままでいい。固有名詞が必要なら、終わりの神様とでも呼びな」
(続く)
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