それとほとんど同時に、どうして今ここにいるのか、自分は何ものなのかなどを一気に思いだす。
今は10世紀、日本の、平安時代のちょうど中ごろだ。ここのところ、ぼくの"何かを終わらせる"役目は、20世紀とか21世紀あたりで行なうことが多かったから、こんな時代にやってくるのはめずらしいといえる。
痩せているせいもあって、僧の肩は安定感があるとは言いがたかったが、何かと気を遣ってくれるので、悪い乗り心地ではなかった。気を遣ってくれるのは、ぼくが人智を超えた存在だと気づいているからではなく、単に性格がやさしいためで、さっきからたびたび「子猿、腹は減っていないか」と、ぼくの鼻先をつついてご機嫌をうかがってくれるところにも、それはあらわれていた。
かれの横顔は、小さな一匹の猿にすぎないぼくの目から見てもうつくしかった。
品のある優美な目鼻だちながら、直線的にすっと伸びた眉からは男らしい精悍さも漂っている。ここまで旅をしてくるあいだに数えきれないほどの人間、とりわけ女が、かれを振り返った。
これだけの美貌を持っていれば、本来なら幼少時、稚児として今日はこっちの坊さん、明日はあっちの坊さんと引っぱりだこになって、性根もすくなからずネジ曲がったところだったろうが、かれは少年期をだいぶ過ぎてから仏門に入ったため、さいわいそういうこともなかった。いろんなことが清く、正しく、柔和に整っている男で、ぼくはかれがすきだった。
かれの名は安珍という。生まれも育ちも奥州の白河だが、僧となったからには一度は熊野に詣でたいと、その地を発ったのが三月ほど前。途中通った近江の山中で、母猿とはぐれてきぃきぃ鳴いていたぼくを哀れに思って拾ってくれたのが半月前だった。
今回ぼくが"終わらせる"のはかれではない......はずだった。たしか、かれがこれからかかわりあう何かだったはずだが、じつは、思いだせないでいる。
得意フィールドである20、21世紀からあまりにも遠い......それこそ千年以上の時間を経てやってきたものだから、いろんなことが不完全に具現化されてしまった。猿のすがたになったのもそのせいで、ほんとうは人間の老人、それも安珍と同じ僧侶になる予定だった。
やがて、ぼくと安珍は紀伊の国に着いた。ここまで来れば目指す熊野はもう目と鼻の先だった。
街道の通っている村に入ると、畑作業を終わらせて帰る人々がちらほらと野道を歩いていた。空になびいた雲に夕陽が照り映え、六月の風は梅雨の合間とはいえ、さわやかだった。
人々は僧形の安珍に頭を下げ、ときには手を合わせてすれちがったが、笠の下の顔だちに気づくと、誰もがはっと息を止めた。安珍はむさくるしいともいえる形(なり)だったが、逆にそれゆえに神仏が人間を試すべく顕現したように思われたのかもしれない。小さな子どもは安珍よりもぼくに興味を示したが、ぼくは安珍が悪い印象を持たれないように、適当にかわいらしく相手をしておいた。もっとも今のぼくは、だまって座っているだけでも暴力的なまでに愛らしかったのだが。
安珍は村に入ってから、ずっときょろきょろとあたりを見回していた。まだ明るいうちに、今夜泊まれそうなお堂やお寺を探しているのだ。
ふいに、背後から馬が駆けてくる音が聞こえた。振り返ると、風体の卑しからぬ人物が一騎、砂煙を立てながらこちらに向かっていた。きっとこのあたりの豪族に仕えている人物だろう。
安珍は道の端に移動すると、まだ馬がこちらに達していないうちから低頭の姿勢をとった。ぼくも安珍の真似をしてちょこんと頭を下げた。
男はそのままぼくたちの前を通り過ぎるかと思ったが、馬は安珍の少し前あたりから速度を落とし、うつむいたかれの前でぴたりと止まった。
「おもてを上げられい」
馬に乗っていたのは初老の、体格のいい男だった。安珍は命じられるままに顔を上げた。
安珍の笠の下を覗くと、男は目を見開き、ほぅ、とごく小さな溜息を洩らした。安珍の器量への感嘆だというのはすぐにわかった。
「貴僧はどちらからおいでになられた?」
「奥州は、白河からにございます」
「やはり熊野詣でに?」
「さようにございます」
「今宵はどこぞ、落ち着くあてはあるのか」
「どことてもございません。今も、一宿をお借りできる寺や堂はないものかと、探し探し歩いておりました」
安珍が答えると、男は顔をほころばせて鷹揚にうなずいた。
「ならばこのあたり一帯の庄司である、我が主のお館へおいでにならぬか。主は諸国から熊野詣でに訪れる僧を手厚くもてなすことで、功徳を積もうとなされておる。今も熊野詣でとおぼしき僧がいると家人からお聞き及びになり、手前を遣わされた次第」
「ほんとうですか。それはかたじけのう存じます」
強面の男と対峙してこわばっていた安珍の四肢から緊張が抜け、表情がぱっと明るくなった。
「子猿、よかったな。ほら、お前からも礼を言いなさい」
耳の後ろを軽く押されたので、ぼくはたどたどしくお辞儀をしてみせた。男はそんなぼくを見て、「かしこい猿じゃ」と笑った。
結論からいうと、この選択は失敗だった。
安珍は与えてもらった離れの屋で、妖艶な美女に迫られて狼狽していた。安珍は絹の夜着で、女のほうは一糸まとわぬ裸体だった。
女は、名を清姫といった。馬に乗った男が言っていた、「このあたり一帯の庄司」というのが彼女だった。もともとは彼女の夫がその地位にあったものの、その夫は数年前に没した。まだ子どももおらず、血統もしっかりしていた彼女は、後家ながら夫の後を継いだのだと、食事のとき挨拶をされ、説明された。
清姫はそのときには御簾に隠れていて、顔かたちははっきりわからなかったものの、さっきこの部屋に案内してくれた下女から、評判の美女だとは聞いていた。ぼくは自分でいうのも何だが、わりと性根がひねくれているので、きっと清姫が客にそう伝えるよう命令したのだろうと斜に構えていたが、目の前の清姫はたしかにうつくしかった。
だが、その美貌はどこか、何かが異質で、得体の知れないまがまがしさや、粘着質なものを感じさせるところがあった。もしかしたら、人には言えないような方法を駆使して手に入れたのではないかと勘繰らせるような......。
そんなふうに感じさせる原因は、もうひとつあった。御簾ごしに対峙したときにはわからなかったけれど、彼女には右足首から下がなく、木で作られた義足を革帯を使ってふくらはぎと膝で固定していた。
何につけ不便そうではあったが、もはやその状態にすっかり慣れているようではあった。しかし、かといって、生まれつきとまでは見えない。いったい何があって彼女のようにうつくしく、身分もある女が右足を失うに至ったのか、まみえた相手は十中八九、そこから妖しく因縁めいたものを受け取るだろうと思われた。
迫る清姫と迫られる安珍を前に、ぼくはどうしたものか迷っていたが、堂々とうろたえているのも何なので、物陰に隠れて様子を窺うことにした。
清姫の両腕が、逃げ腰の安珍を放すまいと首筋に巻きついている。
「淫ら心から分別のない真似をしていると思しめさらないで」
清姫は安珍の耳たぶを食べてしまおうとするように、唇を近づけて囁いた。
「夫を亡くして幾歳も、貴方さまのような方をひたすらお待ちしておりました。貴方さまのようなうつくしく、尊い方を。これも女の身の上で熊野に詣でられないぶん、旅のお坊さまたちをお助け申し上げ、祈祷を託した功徳にちがいございません。先ほどお顔を拝したときに、すぐにわかりました」
ぐだぐだ言っているが、ようするに安珍に一目惚れしたということらしかった。
「なりません、私は仏に仕える身でございます......!」
安珍の声は震えていたが、態度じたいは強固な意志を明白に表わしており、清姫を両手を使ってしっかり押しのけていた。
これが並みの男だったら、清姫のこぼれるような色香と、片足がないゆえにあやうい動きに即座に惑わされたところだろう。それでこそぼくの安珍だぜ! 愛してる!と喝采したくなったが、かわいらしい子猿の身としては、ここでそんなことをするわけにはいかない。とりあえず「さっさと帰っちまえよ」と清姫に向かってひそかに念じたが、清姫はなかなかあきらめなかった。
「でしたらせめて、後生ですからお約束下さいまし。熊野詣でのお帰りにもう一度、ここにお立ち寄り下さると」
「そのようなことは......」
「ただお立ち寄りなされるのも、おいやと申されますか」
そのとき、ぼくはキキっと高く鳴いて、二人の前に転がり出た。
ぼくがいることに気づいていなかった清姫は一瞬小さく体を震わせたが、ぼくが安珍に駆け寄ってひたと抱きつくと、すぐに目を細めた。
「まぁ、可愛らしい子猿」
清姫は安珍を放してぼくを抱き上げた。
「よく人に慣れて......。あぁ、ではこうしましょう。お立ち寄り下さるというお約束の証に、この子を私にお預け下さいませ。遊び盛りの子猿に熊野で悪戯でもされたら、お名前にも傷がつきましょう。熊野からお帰りになるまで、私が世話を致しましょう」
清姫は勝手に話を進めてしまった。ほんとうに何もかも強引な女である。だが、ぼくはじつはそれを狙っていた。清姫が言いださなかったら、こちらから清姫に縋りついていただろう。
二人の押し問答の最中に、ぼくは思いだしたのだった。わざわざ千年以上もの時間を遡って、この時代にやってきた目的を。
清姫の気持ちがそれでおさまるのなら、安珍としてはぼくを手放さざるを得なかった。
翌朝、安珍はぼくを置いて熊野に旅立っていった。ぼくには安珍がもう一度ここに帰ってくるとは思えなかった。きっとかれは、一匹の獣にすぎないぼくのことなどすぐに忘れるだろう。......ちょっと、というか、けっこう寂しいが。
やがて夏が過ぎ、風が涼気を帯び始めた。
そのあいだにも何人か熊野を目指す僧が近くを通りかかり、中にはこの館にひと晩の床を提供してくれるよう自分から申し出てきた奴もいたが、清姫は通りかかっただけの奴は無視し、申し出た奴には家人に適当に世話をさせただけで、安珍のときのようなそぶりは見せなかった。安珍への思慕が強く燃え続けているのは明らかだった。
館の裏には、何十本もの曼珠沙華が生えていた。清姫は風が秋を深めていくたびに膨らむそれらの蕾を眺めながら、安珍を待つようになった。
曼珠沙華はほとんどが赤かったが、真ん中にたったひとつだけ白い蕾があった。この群生を清姫と一緒に見ながら、ぼくは寂しい反面、安珍が帰ってこないことに安堵した。もし帰ってきたら、かれの右足も曼珠沙華の球根になってしまうだろうから。
ぼくが終わらせるのは、この曼珠沙華が咲き乱れる光景だった。
清姫の右足は、死んだ夫に切られたのだった。
結婚した当初、清姫は夫を嫌っていた。彼女はまだ十代の若さだったのに夫はすでに四十の坂を越えていたし、うつくしい自分に見合う、うつくしい男が好きな彼女にとってはあまりにも醜かった。だいたい、ほかに好きな相手がいた。
だが、何より嫌ったのは夫の残酷さだった。なかなか心を開かず、若くしてお高くまとまっている清姫に怒りをぶつけるのに、夫は清姫の足の指を一本一本切り落とすようなやり方をした。血筋が申し分ないとはいっても、主だった家族がみんな死んでしまった実家は、頼りにはならなかった。
小指から順々に指を切り落とされていくのにしたがって、清姫の中の「何か」が変わっていったが、それが何なのか、しばらくのあいだはわからなかった。しかし、二年ほどかけて指がすべてなくなり、三年目の半ばについに足まで切り落とされたときに、やっとその正体がわかった。
それは吐気がするほど魅惑的で、怖気立つほど倒錯的な感情だった。
ぼくは今までにいろんな地域、いろんな時代のいろんな人々を見てきたが、たとえば災害などで、これ以上ないというぐらいにひどい目に遭ったときや、人災であっても、どんなに足掻いても逃れられない状況に陥ったとき、人はときどき、それを崇拝してしまう。ある一点で頭のスイッチが切り替わってしまい、ほとんど神に対するように、もしくはほんとうにその中に神を見出して、跪いてしまう。
あるいは、たとえば醜いものや生理的に嫌悪するようなものをじっと眺めたり、それらに触れたり、またはそういったことを強要され続けていると、やはりある一点でそれがどうしようもない快感になってしまったりする。その快感はそれまで知っていた快感などよりはるかに強烈で、一度覚えてしまったらなかなか忘れることはできない。
たぶん、処理容量を超える量の情報と、それに伴う感情が一気に流れこむことで、脳が半永久的なエラーを起こすのだと、ぼくは解釈している。
とにかく、夫の行為は思春期を過ぎたばかりのひりひりするぐらいに敏感だった清姫の精神を苛み、彼女は時間をかけて少しずつその状態に陥っていった。夫を見上げる清姫の目からは光が消えさって虚ろになり、屍のように力が入らなくなった体には今まで感じたことのない、けだるく中毒性のある愉悦が広がった。
あまりにも後ろ暗い蜜月は、しかし長くは続かなかった。
夫が死んだのだ。
正確にいうのなら、清姫が殺した。靡(なび)き、従順になった清姫に飽きた夫は、侍女や近隣の女に手を出すようになり、清姫を構わなくなった。清姫は責められる苦痛を受け入れることはできても、責められない苦痛を受け入れることはできなかった。
ある夜、彼女は足を引きずって夫の寝所に赴くと、持っていた短刀で躊躇なく眠っていた夫の心臓を貫いた。
絶対者として仰いだ男の血が部屋いっぱいに飛び散り、清姫自身の髪も顔も、胸もとも腰も、何もかもが真っ赤に染まったその夜、館の裏庭には真っ白な曼珠沙華の花が、月光を受けて咲いた。それは夫が清姫の右足を切り落とした後、戯れに投げ捨てた所から生えたものだった。
凄惨な大事件だったにもかかわらず、この件は一家の恥として秘せられ、夫は病死とされて清姫が庄司の身分を継いだ。
清姫は数カ月に渡る錯乱の日々を送ったが、その後突然、絶対者の空座にみずからが就くことを決めた。
彼女はすぐに、かつての自分のような......できるだけ若くて清らかで強い気性を持った"男"を見つけると、ひそかに館に連れ込んで籠絡した。その男はたまたま近くを通りかかった、熊野詣での僧侶だった。
男は館の一室に幽閉されると、清姫によって右足の指を一本ずつ切られたあげく、足を切り落とされた。かれは清姫がそうだったように、最初は彼女を拒否し、彼女に怯えたが、最後には同じように彼女を絶対者として崇め、ひれ伏すようになった。
清姫はやがて僧に飽き、口封じのために殺して、家人に近くの山に死体を捨てさせた。戯れに足を捨てた裏庭には、やはり曼珠沙華が生えた。赤かったその花は、清姫の白い曼珠沙華に寄り添い、慕うように咲いた。
それからも、清姫は生贄を捜し続けた。旅の僧侶は殺しても誰にも怪しまれない絶好の獲物だった。何人もの若くて見目の悪くない僧侶が館に招き入れられ、何年ものあいだに何本もの足が体から離れて、最後にはかれら自身の命も奪われた。
足はすべて赤い曼珠沙華の苗になり、秋になるとたった一本の白い曼珠沙華を女王として囲むようにして開いた。安珍が泊まった離れは、右足のない女と右足のない僧たちが、数えきれないほど妖しく危うげに交わった部屋だった。
「あの方は......曼珠沙華はお好きであろうか」
明日にもつぎつぎ開いていくであろう曼珠沙華の群生を前にし、妖しいまでの狂気を奥にひそかに湛えた目をして、清姫が呟く。空が夕暮の気配をはらみ始めていた。
「私とあの方が同じすがたになったあかつきには、並んで眺めたいもの......」
ぼくはぞっとしたのを気取られないように、無邪気をよそおって曼珠沙華の花園に降りた。
赤い曼珠沙華には、死んだ僧たちの魂が、白い曼珠沙華にあまりにも強く惹きつけられて、行くべきところに行けないまま宿っていた。ぼくはそれらをしかるべき場所に連れていかなければいけない。
だが、かれらの魂は、花開いていない今はまだ地下でふかく眠っていて、どうにもできない。かれらが開花とともに目覚めてくるのを待たなくてはいけない。
もう少し、あともう少しだ。
「お戻りはいつになるのであろう。のぅ子猿、いくら何でも時間がかかりすぎているとは思わぬか」
肩に戻ったぼくの頭を撫でたので、ぼくもその手に額をすりつけて甘えた声を出してやる。手のひらに蛞蝓が這った後のような粘液がわずかに付着したが、清姫は気がつかない。何かひとつ気になることがあると、そのほかに対しては度を越して鈍感になれる女なのだ。ぼくは清姫の気持ちを鎮めるために、安珍が去ったときからちっとも大きくなっていないが、家人たちが不気味だと囁き交わしているにもかかわらず、清姫はとくに不思議に感じていないようだった。
「お方さま」
背後から声がかかって、清姫が振り向いた。そこには彼女の気に入りの侍女が、うやうやしく頭を下げていた。
「先達(せんだ)っていらっしゃったお坊さまが......」
「安珍さまのことかえ」
清姫の顔が強い光で正面から照らされたように輝いた。
「はい。ただ今、お戻りになりましてございます」
清姫の輝きを畏れたように、侍女はさらに深く頭を下げた。その額は床にすりつけられていた。
安珍はぼくが考えていた以上にいい奴だった。
かれは清姫じたいに気はなかったし、むしろ避けたく考えていたものの、してしまった約束を破るのは仏に仕える身の道理にもとると、重い足取りながらわざわざやって来たのだ。
清姫は安珍を例の離れで待たせ、家人たちに食事や着替えなどの用意をさせているあいだ、自分も身を清めて化粧をなおそうとした。
ぼくはその隙に、安珍のいる離れに忍び込んだ。
久しぶりに会った安珍は、厳しい修行を終わらせてきたのか別れたときよりも逞しくなって、鋭く尖ったような雰囲気を全身に纏っていた。
「おお、子猿。達者にしていたか」
ぼくが近づくと安珍は相好を崩して抱き上げてくれたが、すぐに何かがおかしいと察した。
「三月以上経ったのにまったく大きくなっておらぬな。お前はほんとうに私が置いていった子猿であろうか」
「まちがいなく、その子猿だ。久しぶりだな、安珍。お前ともう一度会えるとは思っていなかった」
ぼくが喋ると、安珍は飛び退って腰を抜かした。でありながら、その原因となったぼくを落としたり、遠くへ投げつけなかったりしなかったのはさすがというべきだろう。
驚かせてしまったのは申し訳なかったが、ぼくは口早に続けた。
「詳しいことは後で説明する。とにかく今はここを出ろ」
安珍は口をぽかんと開けて目を白黒させた。そんな表情をしてもなお美男子ぶりは崩れていないのが、かれのせいでないのはわかっているが、無性に腹立たしくなった。
「どういうことだ、それは。それに子猿、お前はいったい何もの......」
「それも後だ。早くしなければお前の命が危ない。ぼくが逃げるふりをして飛び出すから、お前はぼくを追いかけるんだ。怪しまれるといけないから荷物は置いて、金だけ懐にしまえ」
暴力的なまでにかわいらしい姿で、今にもケツをひっぱたきそうな勢いでまくしたてるぼくを、安珍はまさしく得体の知れないものに対する目つきでまじまじと凝視していたが、ほどなくして大きくうなずいた。
「これも熊野権現のお導きであろう。わかった、お前のいうことに従う」
ぼくが部屋を飛び出すと、安珍もぼくを追った。ぼくは廊下を駆け、庭を抜け、正門ではないあまり人目についていない門を選んで屋根を飛び越えた。安珍は誰にも見られていないことを確認すると、その門の閂をはずしてわずかな隙間を開け、外にさっと躍り出た。
扉は閂こそかけられなかったものの、もとの通りに閉めたから、そこが開いて誰かが出入りしたとはしばらく勘づかれなかった。ぼくは逃げながら安珍に、清姫のこれまでと自分の"役目"を説明した。
「では、お前は熊野権現のお使いというわけではないのか」
「熊野権現の使いは烏だろう。ぼくは......そうだな、終わりの神様とでも呼んでくれ」
ぼくたちは、ひたすら駆けた。
(続く)
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