よく見ると、小さな人間の中には、まだ息絶えておらず、苦しそうに体をわななかせている者もありました。助けを求め、か細いマッチ棒のような腕を必死に伸ばしてくる者も、弱々しい高い声で何か必死で訴えてくる者もいました。しかしながら私には、こと切れていくのを黙って見守る以外、何もできませんでした。
私はよろめく足で、ソレがいた部屋に戻りました。惨状の残骸を、どうしたらいいものかわからなかったのですが、戻れば、どうするべきか手がかりを見つけられるような気がしたのです。ようよう辿り着いた部屋は、先ほどまでとは打って変わって、廊下からの光が奥まで差し、床や壁がぼんやりと明るく照らし出されていました。十二畳ほどの、がらんとしたところでした。 肉の腐った臭いがこもっていました。
窓も家具も調度も何もなく、床には畳も敷かれていません。その板敷きの床の上には数えきれないほどの小さな人間が、ひたひたと浅い血の海を泳ぐようにして転がっていました。まだ生きている者もいましたし、もう死体となって腐りかけている者もいました。そう、死屍累々という言葉がぴったりでしたね。やはり男も女も子供も大人も、そして老人もいて、まるで私たちの社会そのものでした。よくは知らないのですが、戦争の後というのは、おそらくあんな光景だったのではないでしょうか。
かすかな羽音に気づいたので耳を澄まし、目も凝らしてみると、小蝿がうなりを上げて低いところを飛び回り、小さな死肉に群がっていました。小さな人間からしてみれば、きっと西瓜ぐらいの大きさに見えることでしょう。黒く不潔で、羽の生えた西瓜です。それに死肉や死にかけの肉を啄ばまれ、卵を産みつけられるのです。
血で滑らないように注意しながら、中に足を踏み入れてみました。小さな人間たちを避けながら進むと、たちどころに死臭で吐き気がしてきました。胃袋をねじ上げられるようで、とうとう我慢ができなくなり、私は小さな人間たちの上に吐いてしまいました。同じ姿かたちをしているだけに申し訳なくはあったのですが、何しろ生理現象でしょう、止められなかったのです。 げぇげぇ吐きました。吐いて、吐いて、涙をこぼしながら顔を上げた拍子に、入り口からは死角になっていた部屋の隅に、何か置かれているのが目に留まりました。
近づいてよく見てみれば、それは50センチほどの小さな鳥居でした。そう、神社の入り口によくある、あれです。とは言うものの、普通の鳥居とは少し様子が違いました。普通、鳥居というのは赤い色をしているでしょう。それは、真っ黒に塗られていたのです。黒い鳥居の奥には、これもまた黒一色で塗りつぶされた、小さなお社が端然と据えられていました。
私は脳天を目には見えない太い釘で打ちつけられて金縛りにあったように、しばらくその鳥居とお社から目が離せませんでした。お社からは今にも何か出てきそうです。その「何か」を待っていてはいけない、見てはいけないと胸が騒ぎはするのですが、なぜか視線を逸らせないのです。
そのとき突然、電話のベルが鳴りました。静まり返っている家の中に響きわたったものですから、驚いて飛び上がり、その拍子に血で足を滑らせ、派手に転びました。こんなときに電話になど出たくはないと思った反面、どうにも嫌な予感がしました。挫いた足を引きずって受話器を取ると、向こうから焦っているような、上ずった声が聞こえてきました。
最初は、その人が何を言っているのかよくわかりませんでした。私が混乱していたのではありません。相手のほうが取り乱していたのです。甲高い声でしばらく喚き散らしていたので、悪戯かと怪しんだほどでした。悪戯にしては嫌なタイミングで掛けてくるものだから、切ってしまおうかとも思ったのですが、よくよく聞いていると、どもる中に父の勤める大学の名前が織り交ぜられている。戦慄が背筋を走りました。さらに聞くと、相手はどうやらその大学の事務員のようでした。私は全神経を耳に集中させました。
「××先生の息子さんですか。いいですか、落ち着いて、とにかく落ち着いて、よく聞いて下さい。××先生が、あなたのお父様が......」
彼の言うことをすべて理解したとき、私は背後から何者かに魂を抜き取られたかのように、すぅっと意識を失いました。受話器の向こうで、事務員が呼ぶ声が何度も聞こえてきたのはおぼろげに覚えていますが、もう、何も答えることができませんでした。
それは、父が出先で交通事故に遭って即死したという報せでした。
気がついたときには、自分の部屋で自分の布団に横たわっていました。閉められたカーテンの隙間から漏れた白い日差しが顔にあたり、眩しくて目が覚めたのです。私は普段、そんな布団の敷き方はしません。どうしていつもと違うところに寝ているのだろうと訝しんでいるうちに、眠る前に起こったことを思い出しました。時計を見ると、午前七時半を回ったところでした。ずいぶん長い間眠っていたようです。
あれは夢だったのに違いない、現実にあんなことが起こるはずがない、父だって死んではいない、そう思おうとしたのですが、記憶は妙に生々しく残っています。起こったことを頭の中で順を追って辿っているうちに、やっと、家の中が騒がしいことに気がつきました。お手伝いさんではない女性の声がします。それも一人や二人ではありません。襖をほんの少し開けて様子を覗うと、知らない人が入れ替わり立ち替わり、廊下をあわただしそうに歩き回っていました。
私はその姿勢のまま固まってしまいました。いったい、あの人たちは何をしているのだろう。すると玄関のほうから、慣れ親しんだ顔が廊下を渡ってくるのが見えました。お手伝いさんです。やけに青白い、沈鬱な表情をしていました。彼女が部屋の前を横切ろうとしたとき、小さな声で名前を呼びました。お手伝いさんはこちらに気がつくと、びっくりした様子で襖の前に崩れ落ちました。
彼女に教えられ、父が交通事故で死んだのは夢ではなかったことを知りました。見も知らない人たちは父の遠い親戚で、大学の事務員のかたやお手伝いさんが、手分けして呼んで下さったとのことでした。彼らは、今日から始まる通夜と葬式の準備をしてくれていたのです。
私は立ち上がりました。父が死んだことはもちろんショックでしたが、打ちひしがれる前に確かめなければならないことがあると思いました。そう、あの小さい人間たちや、黒い鳥居やお社はどうなったかということです。
「坊ちゃん、どこへ行くの」
止めようとするお手伝いさんを振り切り、不憫そうな視線を無遠慮に投げつけてくる大人たちの間を縫って、あの部屋に駆けこみました。
そこにはもう、小さな人間たちの死体も、黒い鳥居もお社もありませんでした。血まみれだった板床には血の跡らしいものすら見えません。私はお手伝いさんのところに戻り、「父が入るのを禁じていた部屋にあったものは、どうしたのですか?」と尋ねてみました。お手伝いさんは、こう答えました。父の死の報せを受けてやって来たら、いつもはきちんと閉じられているあの部屋の戸が開いていた。不思議に思って中を覗いてみたが、そこはがらんとしているばかりで、何もなかった......。
「あの部屋にはきっと、研究で使う貴重な資料でも置いていらっしゃったのではないでしょうか。おそらく、お持ちになって出かけられていたのではないかと......」
私は冷たい水を脳天から浴びせられたような気分になって、その場に立ちすくみました。
おや、右のかた、お顔が少し青いようですが、ご気分が優れませんか? きっと幻覚を見たのに違いないとでも言いたそうなお顔......というわけでもなさそうですね。えぇ、確かにあれは幻覚なんかではありませんでした。そのお茶菓子をご覧になっても、信じていただけるかと思いますが。
それから通夜も葬式も滞りなく済み、私は家に来ていた遠い親族の一人に引き取られ、何だかんだで大学まで出してもらいました。私もずっと、きっとあれは幻だったのだろうと思っていたのですよ。だがやっぱり幻なんかではなかったことを、やがて身を以って知るようになりました。若いかたはご存知ないかもしれませんが、今から40年ほど前に、都内に住んでいた四人家族が、一夜にして忽然と行方不明になってしまった事件があったでしょう。全員が全員、死体すら見つからなかったという、あの事件です。ちょうどあれが起こった頃ですよ。じつはあの家族、私を引き取ってくれた親戚の家族だったんです。だから悲しくてね、今でもよく覚えているんです。
お茶菓子にお手をつけていらっしゃらないようですね。やはり見慣れないものは食べにくいですか。それは小さな人間の体を上白糖で甘く煮つけ、輪切りにして、ゼラチンで固めたのです。脳や内臓は調理の前にすべて取り出しましたから、苦味はありません。私はあの苦味が好きなのですが、濃くて熱い緑茶には甘いほうがいいでしょう。遠慮なさらずに、お茶が冷めないうちにどうぞ。
私は、小さな人間は生で踊り食いをするのがいちばん美味だと思っています。子供のときに見た、黒い霞で包まれていたあいつは、野蛮なように見えたけれど、いちばん美味い食い方をしていたのだなと、今になって感心しているのですよ。でも、いくら美味いといってもずっと同じ食べ方ばかりしていたらさすがに飽きますからね。たまにはそんなふうに、味つけに凝ってみたりもするのです。
お気に召したようでしたら、まだまだありますよ。今、申し上げたように生でお召し上がりになってみたいのでしたら、そちらもお持ちしましょう。こんがり焼いても、天ぷらにしてもいいし、ちょっと変わったところだと薄く三枚におろして、お寿司みたいに酢飯の上に載せても美味いんです。
あぁ、申し訳ありません、つい話すのに夢中にしまいました。この年になってもまだまだ食欲旺盛で、好きな食べ物について語りだすと我を忘れてしまうのです。
話が逸れてしまいましたが、以上が私が子供のころに遭遇した、ある事件の顛末です。で、刑事さんがた、あなたがたは、誘拐......について、伺いたいとおっしゃっていましたね。私が人をかどわかしてきて、この家で殺人を犯しているとお考えになっていらっしゃるとか。
ねぇ刑事さん、ちょっと庭に出てみてもらえませんか? 私はここで待っていますから。何、逃げやしませんよ。心配でしたら、お一人はここに残っていただいても結構ですし、手錠をかけていただいても構いません。いえね、一度外に出ていただければ、あなたたちが知りたがっていることの答えが、すぐにおわかりになると思うんです。おや、もうだいぶ日が傾いていますね。暗くならないうちに見ていただいたほうがいい。外で仲間が待ち伏せしているかもしれない? そんなものはいませんが、ご心配でしたら、銃でもナイフでもお持ちになられたらどうですか? そのぐらいのものは職業柄お持ちなんでしょう。
......おかえりなさいませ。おや、また一段とお顔の色が青くなりましたね。お掛けになったほうがいいかもしれません。
あなたたちが外で何を見たのか、当ててみせましょうか。きっとこうでしょう。庭に一歩出てみると、そこは、ジャングルのように背の高い草々が鬱蒼と生い茂る場所になっていた。巨大な岩もごろごろと転がっている。いったいどこに迷いこんでしまったというのだろう。不思議に思ってあたりをきょろきょろしているうちに、あなたがたはふと、空を仰いだ。すると、今がさかりの芥子の花が頭上高くに見え、 燃えるような橙色の花びらが夕焼け雲の下に揺れていた。
そこでようやく気づいたのでしょう。自分たちが、すっかり小さくなってしまったことに。それでも、まだ信じたくない気持ちもおありだったでしょう。私があなたたちを騙すために凝らした、 趣味の悪い趣向のひとつに違いないと思われたかもしれません。とにかく、慌てて家の中に戻ろうと振り返ったあなたたちは、もう一度息を飲んだ。なぜなら家の外壁は、黒一色で隙間なく塗り固められていたから。まるで私が先ほど話した、黒いお社のようにね。
どうですか? 当たらずとも遠からず、といったところではありませんか?
そうそう、ここに来る途中の道の脇に、真っ黒な鳥居が立っていたことは覚えていらっしゃらないですか? 決して小さくはなかったと思うのですが。まぁ、車で走り抜けてしまえば、意外と気がつかないのかもしれません。
あぁ、残念ですけどね、一度小さくなった体は、もう二度と大きくはなりません。私もいろんな方法を試してみたのですけど、元に戻れた人は誰一人としていませんでした。特に、私を育ててくれた親戚の人々は、何とかして助けたかったのですけどね。でも結局は食欲に負けてしまったんです。
あの人たちは、私が初めて食べた小さな人間でした。妹のように育った娘がじつにおいしそうでね、ある日、それまで抑えつけていた食欲がついに爆発してしまった。かわいそうなことをしましたが、どうしても止められなかったんです。でも、本当においしかったなぁ。それからは小さな人間を食べて食べて食べまくりましたけど、あれぐらいおいしかった人間はいません。ちょうど株が当たったのもあの頃だったので、金にあかして人種、年齢、性別問わずいろいろ食べましたが、やはり妹にはかないませんでした。えぇ、もう一度食べたいぐらいですよ、あの子を。
今、あなたがたと話しているこの私は何なのかって? そうですね、それこそ趣味の悪い趣向とでも申し上げるべきものかもしれません。そこの窓際のかた、ちょっと外を見てごらんなさい。空の斜め上のほうから大きな黒い目がふたつ、こちらをぎょろりと覗いているのが見えませんか? 今あなたがたの目の前にいる私は、言うなれば、あいつが動かしている人形のようなものかな。魚をおびき寄せるための餌みたいなものだと、考えていただければ。
実際にはあなたたちはもうすでに、私の手のひらほどの大きさもないんです。 逃げても無駄ですよ。小さい人間なんて、犬や猫よりもよっぽどのろまだ。すぐに捕まえられますし、第一小さくなった体ではどこにも行けますまい。私はね、あの黒い靄の化け物よりよっぽど上品に食事をしますし、無駄に腐らせたりもしませんから、その点はご安心下さい。小蝿に体を齧られることはありません。
あの黒い霞の正体ですか。たぶん、たちの悪い守護霊みたいなものだったんじゃないですか。父の研究も、夭逝が各界で悔やまれたほどの成果を残していたようですし、家で飼い馴らし、人身御供を差し出す代わりに福や富を与えてくれる存在だったのではないでしょうか。でも、消えてしまった今となっては、非科学的だと一笑に付したくもなりますがね。父のようにきちんと飼い馴らしていれば、私の資産ももっと増えていたかもしれませんが、いなくなってしまったものは仕方がありません。窓から飛んでいったきり、帰ってこなかったんですよ。
おっと、またべらべらと喋りすぎてしまいましたね。お恥ずかしい限りです。それではまた後ほど、食卓でお会いしましょう。
たちの悪い守護霊だなんて、まったく的を射ていない喩えだと、私は帰りの車の中で苦笑した。
人の肉の味に執着して「終わる」ことができず、何百年も何千年も動物や人間に寄生して、かりそめの生を繰り返してきたモノ。その間に人にとっては不可思議に見える力を得て、「神」と呼ばれた時代もあったようだが、「終わりの神様」と呼ばれることもある私としては、一緒にしないでほしいものだ。
隣では後輩の新米刑事が、ときどきうなされながら寝息を立てている。先輩の私に運転をまかせきりで眠ってしまうなんて、明日から教育のしなおしだ。とは言うものの、私も彼を「利用」するためにここまで連れてきたのだから、あまり厳しいことはしないでおこう。私だけでは、恐怖や驚愕の演技を見破られたかもしれない。
この新米刑事も、今はまだあの黒い家で眠っているであろう老人も、目が覚めたら、不吉な夢を見たと思うことだろう。老人にとっては、あまりにも長く、そしてあまりにも生々しく鮮烈な夢でもあった。現実のところどころに、その爪痕を見出だせるほどに。
新米刑事は怯えた顔をして夢の内容を打ち明けてくるだろう。私はそれを一笑してから、こう声をかけてやるつもりだ。
「そんな夢を見てもおかしくはないぐらい不気味な家だったが、結局誘拐事件の手がかりは何もなかったな。それにしても身寄りのない老人があんなところで一人で暮らすなんて、金を持っているとはいっても寂しいものだ」
老人には......もう会うこともないだろうが、言えるものならこう言いたい。
「悪夢は、終わらせました」、と。
「夜と呼ばれたもの」了
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Abnormal Fantasy Novel 2013 [god of the end]
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底本・今昔物語集
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百鬼女衒とお化け医師
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