良平は壁に寄りかかり、テレビゲームをしていた。目は画面を見つめているものの、意識しているのは横に置いた携帯電話のほうだ。今にも二人から連絡が来るのではないかと、気が気ではない。
部屋の中央のテーブルには原稿用紙が重ねて置かれていた。いちばん上の紙が握りつぶされたようによじれている。今、和樹と製作している描きかけの漫画だった。
原稿用紙は3日前からこの状態だった。
中学2年生の3人、良平と和樹とみもざは学校が終わるといつも良平の部屋に集まって、漫画を描いていた。正確にいえば描いているのは良平と和樹で、みもざはアシスタントだ。
良平と和樹は同じ学校だが、みもざはべつの中高一貫の女子校に通っている。みもざと出会ったのは、彼女が春に良平たちの学園祭に来たとき、2人が漫研から出した同人誌を買ってくれたことがきっかけだった。
漫画の内容は、登場人物がだいたいみんな内臓をぶちまけて死ぬブラックギャグだ。それでいて絵は異様にうまい。奥付のメールアドレスに、みもざから「お腹がよじれるぐらい笑いました」とメールをもらったのは、学園祭の翌日だった。
3人は好きなマンガなどの話題で1カ月ほどメールのやりとりをし、それから実際に会った。他愛もない話をした後、みもざは自身も漫画を描くことに興味があるから、アシスタントにしてほしいと切りだしてきた。自分は絵は下手だが、アシスタントとして才能のある人の役に立ちたいと、ずっと考えていたという。
良平も和樹も、驚きはしたもののすぐに承諾した。それほど興味を持ってくれたことが嬉しかった。
初対面でのみもざは、内気とはいかないまでも控えめな印象だった。が、それは上手にかぶっていた猫だったらしい。蓋を開けてみると、かなりわがままで気の強い性格だった。みもざは一応はアシスタントという身分でありながら、いちばん偉そうで、良平や和樹に買い物に行かせたり、気に入らないことがあると難癖をつけ、罰ゲームと称し無茶な筋トレをさせたりした。
「うちの現場はアシスタントがヒエラルキーの頂点だよな」
「そうそう、アシスタントにして女王様」
良平も和樹もしょっちゅう口を尖らせたが、それでも2人ともみもざのことをきらいにはなれなかった。ゴシック風のファッションが似合う美少女だったせいもあるが、みもざはどんな勝手なことをいっても、どこかに愛嬌やかわいげがあった。良平と和樹はいつしか、みもざのことを冗談めかして「アシスタントさま」と呼び始めた。
和樹とみもざが来ない原因は、良平にはわかっていた。
3日前、良平はずっと秘めていたみもざへの思いを口にしてしまった。
みもざのことが好きだった。いつからなのかは思い出せない。気がついたときにはそうだった。
だが、はっきり聞いたわけではないが、和樹もではないかと感じていた。
いや、和樹がみもざを好きなだけでなく、二人はすでに惹かれ合っているのではないか。チビでメガネで小太りの良平より、和樹はずっと格好いい。学校でも女子に何度も告白されているようだった。みもざと和樹が目を合わせるとき、その視線には何かが含まれているような気がした。
焦っていた。知らないところで、取り返しのつかないことが進行しているように思えてならなかった。
その日、良平と和樹は次に出す部誌の下描きをしていた。2人の話題はいつの間にか、学校で誰と誰が付き合っているというような、恋愛絡みの内容になってきた。まだ作業に入れないみもざは、一人でテレビゲームに興じていた。
「うちは女子校だけど、校外の生徒と付き合ってる子も多いよ」
みもざが横から燃料を投じた。話に加わりたかったというよりは、暇だったのだろう。
「うちは一応お嬢様校っていわれてるからさ、付き合うとステータスになると思ってるバカが結構いるんだよね」
「みもざはどうなの? ほかの学校の人から告白されたこととかないの?」
良平は横を向いたままのみもざに尋ねた。質問の内容そのものよりも、もっと深いところにあるものをさりげなく探りたい気持ちが底にはあった。
「ないよ」
「じゃあ僕がいちばん最初に告白するよ」
とつぜん、そんな言葉がさらりと出た。出てしまった、といったほうがいい。
言うつもりなんてなかったし、そもそも告白なんてこと自体、考えたこともなかった。不安が日々少しずつ蓄積し、頭のどこかのネジがその重さに耐えかねてゆるんでいたのだろうか。
和樹が作業の手を止め、猫背のままぎょっとした顔で良平を見上げた。やはり和樹もみもざのことを好きだったのだと、良平は確信した。
「やめてよ、バカなこと言うと腹筋100回させるからね」
みもざはテレビから目を逸らさずに受け流した。悪ふざけだと捉えているに違いなかった。
「冗談なんかじゃないよ。本気なんだ。本当にみもざが好きなんだ。アシスタントさまじゃなくて、一人の女の子として」
口調に熱がこもった。
どうしてこんなことが言えてしまうのか、不思議だった。良平はどちらかといえばどころか相当、奥手なほうだ。ずっとみもざのことを好きだったせいで、頭が少しおかしくなって、体に勝手に指令が出ているのだろうか。
部屋の空気がスプーン曲げのスプーンみたいに、不自然に歪んでいくのがわかった。
負けてはいけない、と息を吸って腹に溜めた。だが、何に勝てばいいのかはわからない。わからないままに、もう一度言った。
「僕、みもざが好きなんだ。みもざと付き合いたい」
3人とも沈黙してしまった中に、ゲームのBGMだけが響いた。みもざは相変わらず画面を見つめていたが、背中に緊張がみなぎっているのがわかった。
和樹の顔が、こわばるというにはあまりにも複雑な、困惑のような怒りのような、おそらく良平がまだ味わったことがないであろう感情で塗りかためられていく。
「良平、お前、いきなりどうしたんだよ」
その口調は怯えているようにも聞こえた。
「ごめん......でも、どうしてかわからないけど、止まらなかった」
「本気で言ったのか?」
「もちろん本気だよ」
和樹は唇を噛み、うつむいた。やがてグシャッと音を立てて、和樹は絵を描いていた原稿用紙を握りつぶした。指先がかすかに震えていた。
「............ごめん、俺、今日は帰るわ」
立ち上がり、鞄を肩にかける。止めようか迷っているうちに、和樹はドアを開けて出て行った。振り返らなかった。
間を置かずして、緊迫した空気の底を縫うように流れていたゲームのBGMが止んだ。
「私も帰る」
みもざも鞄を持つと、足早にドアに進んでいった。長い髪の間から、さっき和樹が握りつぶした原稿用紙のようにしかめられた表情が見えた。
翌日、昨日のことを話そうと、良平は和樹のクラスに向かった。
だが、和樹は良平の姿を見かけるや、教室を出て行ってしまった。午前中と午後の休み時間に二度行ってみたが、どちらも同じ行動をとられたので、仕方なくメールを出した。
【昨日はごめん。でも、みもざのことが好きだったのは本当で、今までずっともやもやしていた。昨日、ああいう話題が出たことで、ヘンに勢いがついてしまって......】
みもざにもメールを送った。「好き」の部分にはあえて触れないようにしたが、撤回する言葉も入れなかった。いやな思いをさせてしまって申し訳なかったとだけ謝った。
どちらからも返事はなかった。
何の進展もないまま、さらに翌日になった。
朝はまだよかったが、昼が過ぎた頃から少しずつ暗い疑念が湧き上がってきた。
もしかしたら和樹とみもざは、もうとっくに「そういう仲」になっていたのではないだろうか。
あるいはこれを機に、逆に二人が意識し合って、内緒でどこかでこっそり会っているのではないだろうか。
そして、今日で3日目だった。
みもざは森の中をひとりで歩いていた。
頭上では木々の枝が、眩暈を生じさせそうなほど複雑に蝕みあっている。どの枝がどの幹を母体にしているのか、まったくわからない。そこから生えるさらに細い枝や葉はそれぞれてんでに勝手な方向に伸び、あらぬ方向を奔放に指していた。細部へ、細部へと志向し、空を真っ黒に塗りつぶしそうなそれは、人を迷わせようとする意志があるようだ。
どこからか変拍子の音楽が聞こえてくる。4拍子、5拍子、7拍子で構成され、何種類もの鈴の音が重なる音楽は、みもざにとってなじみのあるものではない。どこかの民族音楽だろうか。聞いていて落ち着かない気分になった。
人の姿は、あることはある。しかし木々の間を透かして、遠くにしか窺えない。しかも彼らは揃いも揃って黒い影か白い靄にしか見えず、男女なのか、老いているのか若いのか判断することさえできなかった。それでいて、ふと気配を感じて横を見ると、すぐ隣をすれ違った後だったりする。
夢とは感触が違う。しかし現実だとは思えなかった。
きっとここは自分が作り出した空想の世界なのだと、みもざは思った。
だとしたら、どうしてこんなところにいるのか、たぶんわかる。良平に告白されたせいだ。
人間は強い精神的衝撃を受けると、自らが作った空想の中に逃げこむことがあるのだと、昔、心理学の本で読んだ記憶があった。みもざは良平も和樹も好きだったから、いつまでも3人で友達として気楽につるんでいたかった。あの瞬間は気まずいだけだったが、おそらくあの「事件」は自分で思った以上にショックだったのだろう。だからこんな幻覚を作り出して、そこに逃げこんだに違いない。
ふと違和感を覚えて、自分の姿を見下ろした。黒いレースとフリルで飾られた服がひどい皺になっている。土や木くずで汚れたのならわかるが、皺というのは解せなかった。靴も汚れてはいない。だが、ここが幻覚の世界ならば、いちいち引っかかっていてはいけないのかもしれない。
黒い影が前方から歩いてくるのが見えた。どうせまた遠いままで、気がつくと通り過ぎているのだろうと、あまり関心は持たなかった。
しかし、その影は他とは違った。明らかに、こちらに近づいている。
奇妙ないでたちをしていた。まず目についたのは茶筒のようなシルクハットだ。服装はシルクハットに釣りあうきちんとした燕尾服で、手にはステッキまで持っている。ファッションどころかメイクまでゴシック風で隙なくきめているみもざが言える筋合いはないが、どう見ても森を散策する格好ではない。
だが、何より奇妙だったのはその顔だ。頭というべきか。
黄色くて大きく、そして真ん丸なその形状は、満月そのものといってもよかった。ところどころうっすらと、クレーターのように窪んでさえいる。シルクハットはその上に貼りつけられたように載っていた。
ぎょっとしたが、みもざも足を止めなかった。逃げたり隠れたりするにはもう遅い。
「こんにちは」
そのまますれ違うかと思ったが、満月男は立ち止まってみもざに話しかけてきた。
「森の中で出会うのはくまさんだと相場が決まっている、とでも言いたげな顔だね」
満月男は言った。いったい自分は今、どんな顔をしているのだろう。それに言いたいことがあるとしたら、あなたは口もないのにいったいどうやって喋っているのですか、ということだった。
「残念ながらぼくはくまさんではなく、まんげつ氏という」
彼は続けた。その名前が見た目どおり「満月」をあらわしたものだったことには、何とはなしに爽快さを覚えたが、自分で「氏」をつけるところには、面倒くさそうなナルシシズムが隠れていそうだった。
「そしてきみはみもざ君」
唐突に名を当てられた。驚くより先に眉をひそめて、不信感をあらわにする。しかし、みもざの精神世界の住人なのだとしたら、知っているのは当たり前だ。
「きみのことをいろいろ調べさせてもらったよ。きみをずっと待っていた」
まんげつ氏は、ステッキを持っていないほうの手をすっと差し出した。
「さぁ、終わりにしようか」
意味がわからなかったが、その瞬間、森がざわめいた気がした。すべての音楽の、木々や土のにおいの、枝や葉や蔓の影の輪郭が張りつめるほどにきわだったように感じられた。
スマートフォンが震えた。手にとって見てみると、良平からのメールだった。
題名は、「今日は来る?」、本文は「みもざは来ないみたいだけど、そろそろ作業を再開しないか」。
和樹はスマートフォンを投げつけるように脇に置いて、机につっぷした。おとといのことが頭から離れない。
和樹もたしかにみもざのことは好きだ。だがそれは、良平が言っていた「好き」とは違う。アシスタントらしくはないが、あくまでもアシスタントとして好きだった。何だかんだいっても有能だから好きなのだと言ってもいい。
適度な距離があったほうが、漫画を描くという作業を効率的に行なうことができる。あまりに近づきすぎると、冷静な目で作品や技術を見られなくなる。それもあって、今まではのめりこみすぎることもなく、どちらかといえばクールな付き合い方をしていたと思っていた。しかし、それは和樹が勝手に思いこんでいただけかもしれない。良平は違ったのだ。これまでの付き合いで、良平には熱しやすく、しかも一度思いこんだら揺るがない性質があるとは感じていた。わかっていながら何もせずにいた自分を責めたかった。
みもざは良平を受け入れないだろう。良平のことを嫌っているわけではないが、そういう目では見ていないのだ。良平にはそれがわからなかったのだろうか。
みもざと付き合えないとなったら、良平はどうなるだろう。傷ついて、漫画を描くことを投げ出すだろうか。
良平に一緒に漫画を描こうと持ちかけたのは和樹だった。1年のとき、2人は同じクラスだった。良平はいじめられっ子とまではいかないものの、人と付き合うことがあまり得意ではないようで、休み時間はいつも一人で机に向かっていた。良平と同じ小学校だった奴は、「あいつは昔からああなんだ」と馬鹿にしたように言っていた。喋り方に独特の妙な抑揚があって、「気持ち悪い」と陰口を叩く生徒もいた。
快活で、気の利いた話題で人を惹きつけることが得意な和樹にとって、良平は違う世界の存在だった。親しくなるどころか喋ることもないのだろうと思っていた。
しかし、良平が一人で机に向かってしていることを見て、その考えは変わった。
良平は腕で隠して周りに見えないようにしながら、ひたすら絵を描いていた。そうとわかったのは、席のそばを通りかかったとき、たまたま良平が頭を掻いたからだ。
視界の隅にその絵が入りこんだとき、飛び上がるほどの衝撃を受けた。べらぼうにうまい。今まで見たどんな漫画やイラストよりも上手だった。
「オタクっぽい」といわれるのがいやで友人には明かしていなかったが、和樹は漫画家を夢見て、家でこっそりノートに漫画を描きためていた。だが、自作に対する評価は高くはなかった。我ながらネタは面白いが、それを表現しきる画力がないのだ。
数日後の放課後、警戒されないように教室に人が少なくなった頃を見計らって、和樹は良平に話しかけた。この間、偶然良平の絵を見た。覗いたわけじゃない、ほんと偶然。ものすごくうまくてびっくりした。俺、じつは漫画家を目指してるんだ。もしよければ、俺がネタを考えるから、一緒に漫画を描いてほしい......。
良平は最初は渋っていたが、ちょっと押すと意外なほどあっさり落ちた。「イラストばっかりで、ギャグ漫画は描いたことないんだけど」と少々引け腰ではあったが、クラスで人気の和樹が絵を手放しで褒めてくれたことが嬉しいようだった。
2人は勢いで漫研にも入った。和樹は似合わないと笑われ、友達も何人か失ったが、その程度で離れていくうわべだけの友人など、べつに未練もなかった。
1ページ、1ページと仕上げていくごとに、未来への足場が積み重ねられていく実感があった。良平にはまだ言っていなかったが、そう遠くないうちに、漫画の賞に応募しようと持ちかけようとも思っていた。
その日々が自分たちを蝕んで、未知の世界に導いていくことになるなんて考えもしなかった。
和樹は伏せたまま呻いた。
「どうしてこんなことになっちまったんだよ」
「終わりにするって、どういうこと?」
みもざはまんげつ氏に尋ねた。まんげつ氏の声は明瞭だったのに、みもざのほうは水中にいるようにくぐもっている。やはりこの森は尋常な場所ではないのだろう。
まんげつ氏は、この森はみもざが生まれたところであり、帰ってくる場所なのだと話した。そして、ここに帰ってきたからには、みもざ自体を終わりにしなければならないのだとも。
意味がわからなかった。
――帰ってくる場所、ね......。
この男はやはりかなり面倒くさい部分を持っていそうだった。いわゆる中二病というやつだ。それとも彼は、みもざ自身の面倒くさい部分の投影なのだろうか。
だが、そんなことを考えながら、同時に「終わる」という単語に不吉なものを感じもした。
「終わるって、死ぬってこと?」
「いや、死ぬわけじゃない。そもそもきみは最初から存在しないんだから」
「存在しない?」
ぞくっ、とした。内臓に急に冷たさのある電流を流されたようだった。
存在しない。口の中で、その言葉をもう一度繰り返す。何かの喩えだろうか。あるいは幻覚の世界に生身の体は存在し得ないということだろうか。
だが、この感覚は何だろう。どうしようもなく、「思い当たる」ものがある。
「じゃあ、わたしは何だっていうの? もう死んでいるとか?」
みもざの問いかけに応えるように、変拍子の音楽の速度が少しずつ緩やかになっていった。人の呼吸や脈動のリズムとはまったくかけ離れているのに、どういうわけか体が反応する。眠気が押し寄せてきた。いや、これは意識が遠のきかけているのだろうか。
「それを、これから教えてあげよう。きみは忘れているみたいだから」
「......あなたのほうは、何なの?」
「まんげつ氏というのは、呼びやすいようにつけた仮の名前で......」
意識がはっきりとあったのは、そこまでだった。後は、夢の中で囁かれるように聞いた。
「いつもは終わりの神様と呼ばれているよ」
(続く)
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