一緒に島を出てきたほかの9人の仲間、たまきやみぎわやあさひたち、兄弟のかなでまでもが、途中でみんな倒れてしまった。
その病は、ひっそりと暮らしていたしらべたちの一族をとつぜん襲った。あるときとつぜん、何の前ぶれもなく高熱に見舞われ、3日と苦しまないうちに死に至る。老人の中には、消化器官や鼻腔、毛孔などから出血する症状をあらわした者もいた。生命力の盛んな子どもも、生まれたばかりの赤ん坊も次々と死んだ。
しらべたちの一族は、そもそも病というものに罹ったことがなかった。そういうものがあると知ってはいたが、それは何世代も前から受け継がれてきた単なる知識に過ぎず、外の世界にある、こことは無関係な何かという程度の概念しかなかった。それゆえに医療という概念も発達どころか生まれてすらおらず、手の打ちようもなくうろたえているうちに、病の脅威はあっという間に島全体を覆った。もともと200人弱いた人口の9割が、数カ月足らずで犠牲になった。
今までは、体の不調があっても誰かがすぐに気づくので深刻な状態になることもなかった。死といえば一般的な寿命である50年弱生きたのちの老衰か、不運としか言いようのない、たとえば高所からの転落や、狩りの途中で獣に襲われるなどの事故によるものばかりだった。狩りにかんしていえば、体臭がほとんどなく、擬態能力のあるしらべたちにとっては事故になりようがないことがほとんどだった。
しらべたちは種として発生して初めて病の、というよりも死の恐怖と向かい合った。死は必ず訪れるものではあったが、死ぬのは怖くないとずっと思っていた。しらべだけでなく、一族の者は皆そうだ。しらべたちは意識も感情も記憶も一族ですべて共有している。誰かが行動を起こせば、自分がしたのと同じ意味を持って頭の中に飛びこんでくる。一族が発生したときから今までの記憶が、2千年以上のときを経て生きるしらべたちにまで連綿とつながっている。それらは増えることはあっても、減ることはない。生まれたときから、誰もが同じだけの膨大な知恵と経験を持っていた。自分が死んでも、生きていた明らかな証は確実に全体の中に残る。そういう現実が、しらべたちを単純な個体の死による恐怖から解放していた。だが、もしも一族すべてが滅んでしまったら、蓄積してきたものが消えてしまう。それがしらべたちにとっての死だった。
一時は島全体が恐慌状態に陥りかけたが、冷静な誰かの感情がそれを救った。生き残った者たちは、このまま死を甘受せずに済むにはどうしたらいいのか皆で考え始めた。
生まれて間もない子どもまでも病にかかるというのなら、違う種族と交わって子を産むしかない、と誰かが言い出した。純血でなくなったとき体がどう変化するかわからない。蓄積してきた記憶も経験も消えてしまうかもしれない。だが、「かもしれない」に怯えて何もしないよりは、まだ希望はある。生きるために残された道がひとつしかないなら、それを選ぶしかなかった。
しらべたちはずっと知識として伝えられてきた、外の世界へ出ることにした。先祖がやって来た世界だ。先祖はその親に棄てられて、そしてこの島に辿り着いたのだ。そのときの無念は、しらべたちもありありと感じることができる。先祖は何もないこの島で必死に生き延びて、生命をつなげた。このまま滅びることは、先祖の無念が無念のまま朽ち果てることを意味した。それは自分たちの無念でもある。
外の世界は先祖を棄てた親がつくった世界だ。今は先祖の兄弟たちが「神」となって、生や死を司り、人間と呼ばれる種とともに生きているという。
この島を囲む海を渡り、「なづきの磯」と呼ばれるところに至れば、そこにはあちら側の世界に通じる洞穴がある。先祖が通ってきたというその道を、しらべたちは自らの記憶としてありありと思い浮かべた。「知っている」からこそ今までは好奇心も湧かず、あえて思い出すこともなかった。
島を出ると決まった時点で動けるのは、しらべを含めてたった9人しかいなかった。命をつなぐ可能性を得たことをうらやましがったり、妬んだりする者はいなかった。ここではもともと、疑うことも騙し合うことも妬むことも、そのために生じる争いもなかった。すべてのものがすべてを分かり合う環境では、他人と自分の隔たりがなく、他人を出し抜こうという欲望も生じない。会ったこともない他人であっても、その幸福は同時に自分の幸福でもある。しらべたちはただ生きるために狩り、食べ、眠り、排泄し、交尾をしていればよかった。身体能力に応じた役割だけがあって、それは役割以上の何の意味もなかった。
何日もかけて海を渡っている途中で、まず2人死んだ。なづきの磯に着いたところでまた1人死んだ。洞穴の中では死者は出なかったが、長く暗い中での不安に苛まれての前進は、体力と気力を極端に消耗させた。
洞穴を出ると、ここにまで到達できなかった者たちは、むしろ幸せだったかもしれないとしらべは思った。そこにあった世界は、かつて先祖が見たものとはまるで違っていた。
次に「終わらせるもの」を聞いたとき、わたしはそのとき借りていた体の目を大きく見開いた。
わたしに「終わらせるもの」を伝えてくるのは、いつも姉だ。弟からの報告を受け、自身が管理する数字と照らし合わせて、該当者をはじきだす。
「『ひるこ』のことを覚えている?」
待ち合わせに指定された西新宿にあるホテルのラウンジで、1600円という値段には見合わない薄味のコーヒーをこれは場所代だと諦めつつ飲んでいると、時間に少し遅れてやってきた姉が唐突に話しかけてきた。
とはいえ、姉は肉体を持たない。姉も弟も肉体はずいぶん前に放棄してしまった。わたしもまた、彼らのように肉体を手放すことも選べたが、役目の特性からそうはしないで、かわりに自在に変化させるすべを身につけた。わたしの役目は、さまざまな種類の肉体があると圧倒的に果たしやすくなる。用事がないときは伊勢で惰眠を貪っていてもいいのだが、その肉体を使って、国や地域や時代ごとの人々の生活に溶けこむのも嫌いではない。もっとも、生まれついての性格ゆえに、「愛想が悪い」と敬遠されることも多いが。
だから姉には言葉で話しかけられたわけではなかった。深緑色の絨毯が敷かれた、だだっ広いラウンジの一段高い所に置かれたグランドピアノの前にピアニストが座り、ショパンの「雨だれ」を弾き始めると、姉はその音に乗せて意志を伝えてきた。ライトアップされるのを待っていたようだ。
彼女は昔から人が多くて華やかな場所が好きだった。1500年ぐらい前まで、わたしに話しかけてくる場所はもっぱら祭祀の会場だったが、それが宮中の内裏や後宮に変わり、大名のお抱え能舞台に変わり、大奥女中御用達の歌舞伎小屋裏の茶屋に変わり、貴族や華族の舞踏会に変わり、今は高級ホテルのラウンジがお気に入りだ。この国では一応、最高神なんて呼ばれているのに、なんと俗っぽいことか。まちがってもわたしが今住んでいる祖師ヶ谷大蔵のスーパーで、特売のほうれんそうを手に取ったときに話しかけてきたりなどしない。
わたしは目を閉じて、姉との会話に集中する。先ほどからこちらに向けられていたいくつもの視線が、わたしの中では消えた。女にしては背があまりに高く、顔立ちが、というより眉がきりりと整いすぎ、しかし男にしては線の細いわたしに対して、性別がはっきりしないことを訝しむような視線が、ここに来たときから一斉射撃のようにずっと放たれていたのだ。
この体は女性のものだから比較的女らしくは見えるだろうが、わたしは両性もしくは無性っぽく見える体が好きだ。わたしは自分の原型が大嫌いだが、両性を持っていることだけは気に入っている。男性か女性か、選ぼうと思えば選べもするが、選ぶつもりは今もってない。理由はなくて、単に好みの問題だ。神なんだからそれでもいいじゃん、と思う。
――もちろん、覚えてる。
内心の動揺を悟られないように返したが、まぁ無駄なあがきだろう。わたしも神とは呼ばれているが、相手はその大ボス、最高神だ。
「......次に終わらせてほしいのは、その、ひるこ」
姉の声ではない声は、言いにくいことを絞り出すようだった。
――生きていたの?
わたしは驚いて尋ね返す。今度は感情の揺れを隠すつもりはなかった。
ひるこは、わたしたちの兄弟だ。だが、生まれて数年で父母に棄てられた。
「生きていた、というべきか......」
姉は説明してくれた。
ひるこは棄てられた後「なづきの磯」に漂着し、そこにある洞穴を抜けて、別の次元の世界に辿り着いた。さらにその海の向こうにあった島に渡り、そこで進化した、と。
なづきの磯は、迷った魂を追ってわたしも何度か行ったことがあった。この世とあの世の境目にひっそりと広がる場所だ。だが、そこに洞穴があったことは知らなかったし、だからこそその向こうにもうひとつの世界が広がっているなんて考えたこともなかった。
そこでひるこは子を生んだという。ひるこに特殊な能力があったからか、それともべつの次元の世界とやらの力が働いたのか、その記憶や意識や感情は子どもにも受け継がれ、彼らは個にして全、全にして個の一族になった――。
「だから、正確にいえばひるこ自体は生きていないけど、ひるこの記憶を持つ個体たちは生きているわけ。一応は『神』の血を引く子どもたちが」
――ちょっと待って。棄てられたひるこは、一匹......一人だったじゃない。どうやって子供をつくったの?
わたしは聞いている途中から疑問に感じたことを、姉の話がいったん途切れたところで尋ねた。
「最初は単為生殖で自らと同じ個体を作り出して、次はその個体と交尾して次世代を作ったの。自分と同じ雌雄同体の」
雌雄同体。わたしと同じ。
次の世代を作るなんて考えたことはなかったが、わたしもがんばれば単為生殖ができるのかもしれないと、ふと考える。もともとはわたしとひるこは同じ役割を与えられていた。それだけに雌雄同体であるところも含めて、とても近いつくりをしている。だいたい、生まれたときの容姿も同じだった。
――じゃあ、もう一大ファミリーになってるってことね。それを終わらせるというのはどういうこと?
「彼らは滅びようとしている。気づいているかどうかわからないけど、記憶や感情の許容量がもう限界なのよ。それで神経系に異常が発生、体温の調節機能や血管の拡張機能を制御できなくなる症状がとつぜんあらわれた。体に『もうこれ以上詰め込まれるのはムリ』って拒否されたわけよ。もともと数の少ない個体だったけど、今残っているのは、今日の時点でたった5体」
――5体? なら、放っておけば死ぬでしょう。それは私ではなくて弟の管轄じゃないの? 魂がさまよいだす前に、さっさと黄泉に連れていってしまえばいい。
「そう思うでしょう。でも彼らは、こちらの想像していない行動をとった。なづきの磯を越えて、こちら側にやってきたの。人間と交配して、子を残そうとしている」
子を残す、といわれて、なぜかはっとした。
「本来なら彼らは、父母に棄てられた時点でそれこそ終わるべき存在だった。でも、なづきの磯を越えて別の次元に行ったから、新しい生命が生まれても黙認していたの。あっちまで行ってしまったら、こちら側の輪廻とは関係なくなる。だからあんたにも弟にも言わなかった」
どうやら姉もわたしと同じように、ひるこに対してずっと何らかのひっかかりを感じていたようだ。しかしたぶん、そのひっかかりはわたしとは種類の違うものだろう。何だかんだいって、姉とひるこの間には距離がある。わたしたちほど「近く」はない。それとも、「近い」わたしのことを慮ってくれているのだろうか。
「こちら側に来た瞬間に、彼らは終わらないといけなくなる。万が一、子をつくりでもしたら、その子たちもね。まぁ一応、もともとは神となるべくして生まれてきたものだし、回収しておくのは悪いことじゃないでしょう。そういうわけで、よろしく」
「雨だれ」が終わると同時に、姉は来たときと同じく唐突に消えた。ふいに立ち現われた何かの感情を隠すように、その感情ごとひと息に引き上げたようなあっけなさだった。
あとにはまた、ラウンジの落ち着いた賑やかさだけが残った。
ピアニストが次の曲を弾き始めると、わたしは改めてひるこのことを思い出した。
わたしや姉よりも先に生まれた子どもである、ひるこ。
わたしたちの父母は、この国ではいざなぎといざなみと呼ばれていた。
その父母から生まれて、姉のあまてらすは生物の生を、弟のすさのおは死を管理する役目を、わたしは終わるべきときに終われずに輪廻の輪からはずれた魂を回収し、生命のバックアップとして保存する役目を負った。わたしたちが「神」といわれるようになったゆえんはそこにある。
ひるこはもともと、今のわたしと同様、さまよう魂の回収と保全を役割づけられた神だった。
だけど、ひるこはそのために生まれたくせに、それができなかった。ようするに神の不良品だったのだ。父母は、ひるこのかわりとしてわたしを生んだ。わたしはひるこが不良品だったから、晴れてこの世に現出できたことになる。
姉とわたしと、その後で弟が生まれると、不良品をいつまでも手元に置いておくことはできないからと、父母はひるこを棄てた。
何千年も昔のことだが、今でもよく覚えている。ひるこは葦でつくられた小さな、今にも沈みそうな舟に乗せられて、なんか適当な川に流された。今にも沈みそうだったのは、どこかで目の届かなくなったところで沈むよう願われたからかもしれない。
ひるこの、粘液でぬらぬらと光る「蛭」の体が、舟の上で蠢いていた。そのころはまだ、わたしも同じ蛭の体をしていた。同じ目的で生み出されたのだから、同じ体をしていたのは当然といえば当然かもしれなかった。
わたしは同じ姿で、わたしが持つ能力を持つはずだったひるこがなすすべもなく流されていくのを、茫然と見つめた。いろんな感情が渦を巻いて、わたしの中に巣食った。どことも知れないところに流されていくのを自分のものとして想像すると怖くなった。兄弟で、しかも同じ姿のひるこが棄てられるのが悲しかった。不具合を持って生まれ、そのために見捨てられるのがかわいそうだった。兄弟が一人いなくなって、おそらくはもう二度と会えなくなる寂しさがあった。醜い蛭の体で蠢く姿への、自分を棚に上げての嫌悪感があった。わたしは不良品ではなくてよかったという優越感があった......。
それは、今も変わらない。
回収した魂が持っていた姿を「借りる」ことで、容姿をすっかり変えられるようになった今も、わたしはそれら感情のどれをよりどころにしてひるこを捉えればいいのか、わからないでいる。
輪の足が生えた鉄のなめくじや、四角が豪快に歪んだような不格好な形の鉄の馬に忍びこんだり、それらに轢かれそうになったりして、しらべはかなめ、いのり、まさごとともに人間が多く生息する場所に着いた。
そこは、驚くを軽く通り越して呆気にとられることで満ちていた。今まで聞いたことのない、頭を割られるようなけたたましい音がひっきりなしに鳴り響いていて、見上げるほど高い鉄の建物が並び、そこかしこに目を射るような色とりどりの光がまたたいている。嗅いだことのない匂いがあたりに充満して、息を大きく吸うとそれだけで頭が痛くなった。鉄のなめくじや鉄の馬はここでは人間より偉いらしく、大きな音を立てて始終人間たちを追い払っては、道をわが物顔で駆けていた。鉄のなめくじは人間を一旦取りこみ、また吐き出すことで養分を吸収しているらしく、細長い餌場にやってくると腹部に並ぶ口を開けて、次々人間を吸いこんでいた。
しらべたちの体は人間たちとはあまりにも異なり、そのままでは目立ちすぎたが、擬態の能力が役に立った。肉食の獣から身を守るために先祖が身につけた技術に、しらべたちは感謝せずにはいられなかった。壁や建物などに擬態してしまえば表面が少し光って見える程度で、夜、人間があまりいないところや特に暗いところを選んで動けば、見破られることはほとんどなかった。「こんびに」と呼ばれるところにうまく忍び込めば、食べ物にも困ることはなかった。ただ、どれもこれも二度と食べたくないと思うようなひどい味のものばかりで、かなめとまさごは腹を壊した。
人間たちには意識や感情を共有する能力はないようだった。だが、全員ではないがこちらから一方的に送ったり、吸い上げたりすることはできた。かつて先祖がいた場所で生まれた相手だから、共通する部分は多少はあったようだ。しらべたちはそういう人間を探しだし、まずは人間の基本的な考え方、生活様式、技術などの情報を調べた。共感することで情報はすばやく理解され、鉄のなめくじや馬の正体が何なのかもわかった。けたたましい音楽は、人間たちが生きていくのになくてはならないものらしく、「のーみゅーじっく・のーらいふ」という言葉を覚えた。
何日もかかったその作業のうちに、かなめといのりが死んだ。
しらべたちの意志を受け取ることのできる人間を、しらべとまさごは廃家屋に呼び出した。若い男だった。彼にとっては聞いたことのない古語として受け取った言葉と、しらべたちの姿のイメージを、彼は啓示のようなものだと勘違いしたらしい。
廃家屋は死んだ2人と一緒にあらかじめ調べをつけておいた場所だった。彼が着いてすぐ、狩りをするときのように噛みついて毒液を注入すると、相手はすぐに気を失った。
しらべもまさごも、男というのは知識としては知っていたが、触れるのは初めてだった。しらべたちの体とちがい、硬くて乾いた皮膚をしていた。骨も肉も重くて、2人がかりでも動かすのにはずいぶん頭を使った。
この男は、この国の人間らしからぬ金色の髪をして、耳たぶに開けた穴に金属の輪をいくつも通していた。なぜそんなことをしているのかはわからないが、何にしろ、まだ若いのだから精子の質は悪くないだろう。
さぁ、交尾を始めよう。しらべもまさごも、いつ病に倒れるかわからない。そもそも、もう手遅れかもしれない。いや、その可能性のほうがよっぽど高いだろう。何しろ受胎してから出産までは、7日もかかるのだ。でもやれることはやっておかなければ、先に逝った先祖や仲間たちに申し開きができない。
しらべとまさごは手分けして男の服を脱がせた。そうして両側から横に寝そべってすぐに、二人は色を失った。
(続く)
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